第16話 ハリエット
§
「わたしが、王女……?」
「左様でございます。貴女は当代オルテミア国王バートランド陛下のご息女、ハリエット王女です。私は陛下より命を受け、貴女のことをお探ししておりました」
なんの冗談だと笑い飛ばす隙もないほどに、ギデオンの表情も、声も真剣そのものだった。
痣のことは誰にも言ってはいけないと、幼い頃から繰り返し、両親に言い聞かされてきた。
その痣は特別なもので、悪い人に見つかったら恐ろしい目に遭わされてしまうからと。
妹のチェルシーにすら知らせてはいけないと言われ、エリーゼは幼いながらに両親の必死さを感じ取り、素直に言いつけを守ってきた。
――だが、ある時偶然、耳にしてしまったのだ。
それは三年ほど前。エリーゼが十五歳の、夏の深夜のことだった。
暑苦しさにどうしても寝付けず、飲み物でも飲もうと階下の台所へ向かおうとしたエリーゼは、食堂からぼそぼそと声が聞こえてくることに気付いて足を止めた。
普段なら皆、眠っているような時間帯だ。
もしや侵入者かもしれない。そう考え、警戒しつつ物陰から食堂の様子を窺った。
果たしてそこにいたのは、父と母だった。
侵入者でなかったことに安堵しつつ声をかけようとしたエリーゼだったが、ふと漏れ聞こえてきた声に、言葉を失った。
『――だが、エリーゼももう年頃だ。そろそろ、本当のことを告げなければならない』
『わかっているわ。だけど――痣の真実を知ったら、あの子は――。いっそのこと、痣なんてあの子が小さな頃に焼いてしまえば――』
『君の気持ちはわかるが、滅多なことを言うものじゃない――』
母のすすり泣く声と父の叱責に、気付けば、口元を押さえたまま足音を立てないよう後ずさりしていた。自分がこの話を聞いていたことが両親に知られれば、今の平和な生活が崩れてしまう気がして、聞かなかったふりをしたのだ。
(本当のこと? 痣の真実? どうしてお母さまは、痣を焼くなんて恐ろしいことを……)
だけど本当は、気になって気になって仕方なかった。
普段穏やかで虫も殺せないような母の口から出た発言とはとても思えず、こっそりと部屋に戻ってからも、ずっと動悸が収まらなかったのを覚えている。
今思えばあれは、エリーゼの痣について何か知っていたからこその発言だったのだとわかる。
(お父さまとお母さまは、わたしが王族の娘だと知っていた……? でも、だったらどうして、わたしはエルドラン男爵家の前に捨てられていたの?)
もし本当に自分が王女だというのなら、赤子の頃に王城から放り出された理由が分からない。それに、今頃になって国王が捜索し始めた意図は一体なんだというのか。
そんなエリーゼの疑問ひとつひとつに答えるように、ギデオンは事情を説明し始める。
「ことの発端は、国王陛下が一時の癒やしを求めて、ひとりの女官に手を付けたことでした――」
王は王妃を配偶者として尊敬し、大切に思っていたが、愛してはいなかった。折り目正しく完璧な貴婦人である彼女との生活は気詰まりなばかりで、少しも心安まる時がなかったからだ。
一方、その女官は実に明るく奔放で、王妃との生活に疲れ切った王にとってとても魅力的に見えた。
ふたりは王妃の目を盗んで逢瀬を続け、その結果、女官は身ごもってしまう。
女官の妊娠を知り、王は慌てた。もし王妃にこのことが知られれば、お腹の子ともども女官が殺されてしまうことは目に見えていたからだ。
女官は王妃に知られぬよう離宮へ移され、そこで秘密裏に女児を出産した。
そうして産まれた赤子は、王によってハリエットと名付けられた。彼の祖母の名だ。
王は娘の誕生をとても喜んだが、いつ王妃が不義の子の存在に気付くとも知れない。古くから友であった信頼できる貴族に頼み、女官と娘を匿ってくれるようにと頼んだ。
そうしてまだ首も座らぬうちに、母や乳母、少数の使用人と共に、王妃の目の届かぬ辺境――グレイフィールドへ逃げ延びることとなったハリエットだったが、ここでひとつ誤算が生じた。
王妃はとうに、夫の不義にも、その結果として子が産まれたことにも気付いていたのだ。
「王妃は、貴女たちの乗った馬車へ密かに追っ手を差し向けました。まだ赤子だった貴女を含め、全員を抹殺する気だったのでしょう」
だが、王妃の計画は失敗に終わる。追っ手に襲われた際、乳母が赤子を連れて命からがら逃げ出したのだ。すぐに行方を探らせたが、結局どこへ逃げたのかは分からず仕舞いだったと言う。
王妃は、女官たちが世話になる予定だった貴族を脅し、国王へ嘘の報告をするよう強要した。
女官と赤子は無事到着し、自分たちの元で安全に生活している――と。
そうして何年も何年も、ハリエットは無事に育っているのだと国王を欺き続けた。
「ですが王妃が死の直前になって真実を打ち明けたことにより、陛下は貴女が行方不明であることを知りました。――ハリエット王女」
改めて、ギデオンがエリーゼを見る。
礼儀正しく、恭しく、どこか他人行儀な目で。
「王妃はもう亡くなり、貴女を害そうとする者は誰もいません。陛下は、あなたを王女として正式に、王城へお迎えになるつもりです」
「そんな――」
そんなことをいきなり言われても、了承できるはずがない。
エリーゼの両親は、プリムローズの父と母だ。血が繋がっていなくとも、エリーゼを大切に慈しみ、育ててくれた。
それなのに、これまで一度も娘に会おうともせず、行方不明になっていることすら最近知ったような人を、父と思えだなんて――。
「わたしは、王女なんかじゃありません」
「混乱するのはわかります。ですが、その太股の痣こそが王族の証――」
「違う! 違うわ! こんなのただの痣よ!」
突然明らかになった事実によって頭の中が混乱し、気付けばエリーゼは甲高い声で叫んでいた。
気が遠のきそうだ――そう思った時にはもう遅かった。足下が大きく揺らぐような感覚と共に、身体が大きく傾ぐ。
「ハリエット王女……!」
切羽詰まった叫び声と共に、逞しい腕がエリーゼの身体を支える。
(違う……。ハリエットなんて知らない……わたしはエリーゼよ……)
閉ざされていく意識の中、エリーゼはこの状況がただの夢であればいいのにと願った。
§
目覚めた時、目の前には父がいた。
「――大丈夫かい、エリーゼ」
父はエリーゼが目を開けたのに気付くと、心配そうな表情で顔を覗き込んでくる。
何度かまたたきを繰り返したエリーゼは、慌てて上半身を起こす。周囲の様子を窺い、目の前に広がる光景を見て落胆した。
何度も清掃に入ったことがあるから、見間違えるはずもない。そこは、グレイフィールド館の客間のひとつだった。
「ノースフォード公爵から聞いたよ。急に……倒れたそうだね。具合は? どこか痛いところはないかい?」
その気遣わしげな声と視線とで、父がギデオンからあらかたの事情を聞いているのだと悟る。
室内には、父とエリーゼの他に誰もいなかった。
きっと、ギデオンが気を遣ってくれたのだろうと思う。
だが、そのことに感謝するほどの心の余裕を、今エリーゼは持ち合わせていなかった。
少しだけ、期待していたのだ。
目覚めたらエリーゼは自分の部屋にいて、ギデオンとの会話は全て悪い夢だったと気付く。
朝の支度を終えていつも通り母の部屋へ行き、父やチェルシーに「おかしな夢を見たの」と笑いながら告げることを――。
だが、現実はどこまでも容赦がなかった。
「……お父さま。わたしは、ただの捨て子じゃなかったの?」
驚くほど低い声が、唇から零れ落ちた。
父がはっと息を呑む。どこか気まずそうに、そして悲しそうに視線を落とすと、ぽつりぽつりと当時のことを話し始める。
十八年前、まだ名も無き赤子だったエリーゼが、エルドラン男爵家に迎えられた顛末を。
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