第47話 怪盗ふたたび
空がオレンジ色に染まり始める午後五時。放課後の時間は私の独壇場だ。私はかつて相棒だった黒のニットシャツと黒のスキニーパンツを着て一ノ瀬本家の庭に立った。いつもとちょっと違うのは、腰に太い縄が巻き付けてあるところだけ。慣れ親しんだ怪盗の衣装に私の気持ちも微かに高揚する。
夕食時なのか、屋敷の中からはざわざわと人が動き回る物音や声が聞こえる。私は屈んで身を隠しながらそっと屋敷の窓を見上げた。環さんの情報によると、ここがワタル君の自室らしい。庭に植えてある植え込みの影に身を潜めながら、私はじっくりと建物の状況を観察した。
屋敷は瓦葺屋根の日本家屋だ。ワタル君の部屋は二階。地上からの高さはあるが、ワタル君の部屋の窓のすぐ下には一階の屋根がある。あそこを足場にすればワタル君の部屋には簡単にたどり着けるだろう。問題は一階の屋根に上る方法だが、これは雅臣さんの力を借りるしかない。
ワタル君の部屋までのルートを目視で確認し、背後を振り返る。私のもっと後ろの植え込みに身をひそめている雅臣さんが、私の無言の合図を受けてこちらへやってきた。
「すみません、警察官なのに雅臣さんも巻き込むことになってしまって……でもとっても心強いです」
「ハハ、幼い頃にここで隠れんぼをしたことを思い出しますよ。ワタルのこと、よろしくお願いします」
「はい、もちろんです。無事にワタル君を盗み出してきますね」
人差し指を立てていたずらっぽく笑うと、隣の雅臣さんが目を細めた。そのままゆっくりと身をかがめて額に優しくキスをしてくれる。
無言の激励を受け取った私は、百円ショップで買った安物の仮面をつけると植え込みの影から勢いよく立ち上がった。
私につられるように雅臣さんも立ち上がる。向かい合わせになって彼の肩に両手をかけると、雅臣さんが腰を持って高く抱き上げてくれた。
彼の肩を支えにしながら瓦屋根の端に手を伸ばす。背の高い彼のおかげで、屋根にはあっさりと手が届いた。そのまま体を大きくひねって屋根の縁に足をかけ、身軽に屋根の上に飛び乗る。怪盗をやめてからずいぶんたつが、身のこなし方はまだ体が覚えていた。こういうときは体操選手だった自分の父に感謝だ。
屋根の上にあがり、腰に巻いていた縄を解いてすぐ側の窓枠にしっかりと巻き付ける。これで準備は完了だ。屋根の下にいる雅臣さんに向かってぐっと拳を握ると私は屋根の上を走り出した。
たたっと軽やかに駆けて二階のワタル君の部屋の窓へたどり着く。コンコンと窓をノックすると、一拍おいてカラカラと窓が開いた。
「え? あかりちゃん? どうしてここに?」
「ふふ、今は浅雛あかりじゃなくて女怪盗ぴよぴよ仮面よ。あなたの寂しい時間を盗みに来たの。さ、時間がないから早く来て」
「う、うん。今行くよ」
困惑しながらもワタル君が頷いて窓の縁に足をかける。手を引いてあげると、ワタル君も勢いよく瓦屋根の上に飛び降りた。だが物事はそう簡単にうまくいかない。
「きゃーー! 泥棒! 誰か! 早く来て‼」
突然空気を破るような悲鳴が聞こえて私はハッとして振り向いた。屋根から見下ろすと、使用人であろう和服を着た女性が驚愕の表情で私たちを見ている。しまった、屋根の上からは人の姿が見えづらいが下からは屋根に乗っている私たちの姿が丸見えなのだ。女性の金切り声とともに、ドタドタバタバタと屋敷の中で複数人が走ってくる音がする。
「あちゃー見つかっちゃった。でも大丈夫、逃げれば私たちの勝ちだから」
使用人に目撃されて固まっているワタル君の腕を引っ張って構わずに屋根の上を走る。先程雅臣さんの肩を借りて登った場所──窓枠に縄を結んだ場所にたどり着くとワタル君の背中を押して促した。
「この下に雅臣さんがいるから、縄をつたって降りたらすぐに走って屋敷の外に出て。外の車で環さんが待ってるから」
耳元で囁くと、ワタル君が無言で頷く。そのまま縄を掴んでスルスルと下に降りると、脇目も振らずに駆け出した。
私も後に続こうと縄を掴んだとたん、ダダダダッと走ってくる足音が間近に聞こえた。誰かが屋根の上を走っている。おそらく開け放した二階のワタル君の部屋の窓から誰かが追いかけて来たのだろう。私はクスッと笑うと縄の結び目を解いてポイと地面に投げ捨てた。
「雅臣さん!」
植え込みに向かって呼ぶと、雅臣さんが出てきて立ち上がる。ひと目で状況を察したらしい彼が笑いながら両手を広げた。
屋根の上で軽く屈伸をし、彼めがけて勢いよく飛び降りる。私を受け止めたのは硬い石畳ではなく力強い腕の感触だった。
「ふふ、なんだか前にもこんなことありましたよね」
「そうですね。あの時はまさか噂になっている怪盗がこんなにお転婆な女の子だとは知りませんでした」
「私のこと、捕まえますか?」
「いえ、今回ばかりは俺も共犯ですよ」
笑いながら抱きとめてくれた雅臣さんが、地面におろす前にギュッと抱きしめてくれる。と同時に建物の陰から大勢の使用人を引き連れた当主が現れた。
「な、な、何をやっているんじゃ! お前たち! 早くあの女を捕まえろ!」
ワラワラと追ってくる使用人たちを一瞥して私は軽やかに駆け出した。私を捕まえるのはこの世でたった一人だけ。全速力で走って屋敷を出ると、ワタル君が車の扉を開けたまま待っていてくれた。運転席に乗った環さんが窓を開ける。
「早く乗って! 今出すわ!」
言われる前にひらりと車に飛び乗って扉を閉める。ほとんど同時に発車した車はみるみるうちに屋敷から離れていく。窓を開け、どんどん遠ざかっていく屋敷を見ながら私は満足気に髪をかき上げた。
猛スピードで走り去っていく車を眺めながら一ノ瀬は微笑んだ。あれこそが自分が愛した女怪盗、そして結婚を決意した決め手でもある。いつも子供を守るために一生懸命な心優しい彼女を自分は心から愛している。
ぜえぜえと大きく息を切らしながら追いついた伯父が憤慨しながら持っていた家紋入りの印籠を地面に叩きつける。粉々になった家紋を一ノ瀬は涼しげに見下ろしていた。伯父が顔を真っ赤にしながら一ノ瀬に詰め寄る。
「雅臣! 一体なんなんだあの女は! 顔を隠していたがお前の知り合いじゃないだろうな? 警察ともあろうお前が犯罪者の仲間だとは言わせん。答えろ雅臣!」
「ほかの誰でもない、俺の自慢の婚約者ですよ」
笑いをこらえながらサラリと告げる。まさか伯父とて先程の怪盗が今しがた紹介した彼女だとは思ってもみなかったようだ。唖然とする伯父を尻目に、一ノ瀬はゆっくりと本家の屋敷を後にした。
そこからあとのことはトントン拍子に進んでいった。無事にお母さんと再会したワタル君は、一時的に環さんの家に身を寄せた。香さんも仕事と家を探し、ワタル君のために頑張ってくれているそうだ。一ノ瀬本家の人に見つからない場所で生活を始めるために学校も転校することになってしまったが、ワタル君は雅臣さんの親戚だ。今後も顔を合わせる機会はたくさんあるだろう。最近来た手紙では転校した小学校の運動会で一等賞をとったと言うことで、お母さんと一緒にピースサインをしたワタル君の写真が送られてきた。
一ノ瀬本家とは環さんが交渉している。ワタル君と香さんの選んだ道に口を出さないこと。その条件を守ってくれるなら、時たま顔を見せに行くということ。二度も裏切られたとご当主の怒りはなかなか冷めない様子だが、ワタル君が一等をとった話を聞いた時は少しだけ態度を和らげたらしい。その話を聞いたワタル君は、立派な男になれば、いずれお祖父ちゃんも認めてくれるだろうということで勉強も運動も頑張っているみたいだ。
私も定期的に手紙を書いてワタル君に励ましの言葉を送る。そんな生活を送っていくうちに、季節がまた一つ巡った。
そしてそこから半年後──私たちは結婚した。
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