第46話 一ノ瀬本家
車の中で環さんから聞いた事情はこういうことだった。
あのあと、ワタル君とお母さんは環さんの家へ身を寄せた。香さんが見つかったことを本家に伝えたところ、今日の明け方に急に本家から人がやってきてワタル君を無理やり連れて行ってしまったらしい。聞けばワタル君は一ノ瀬の正当な後継ぎであり、香さんのような出来損ないの母親に育てさせるわけにはいかないから彼は本家で預かる、香さんはどこへでも好きな場所で暮らせという話だった。
あまりにも身勝手な話に憤りを感じていると、環さんもハンドルを握りながら唇を噛む。
「これに関しては私の誤算だったわ。実の娘が帰ってきて喜ぶだろうと思った私が馬鹿だったの。こんなことになるなら、父には知らせずに二人で知らない場所で暮らしてもらえばよかった」
「そうですね……せっかくお母さんに会えたのに、また離れ離れになってしまうのは可哀想です。大事なのはワタル君本人の気持ちなのに。でも私みたいな部外者が行っても大丈夫なんでしょうか」
「雅臣の結婚相手なんだからゆくゆくは部外者じゃなくなるでしょう。いいのよ、顔合わせも兼ねると思っておけば」
なんとも殺伐とした顔合わせだ。それでも初対面のときとは違って、環さんも私の存在を認めてくれているのは素直に嬉しい。なんとかワタル君の力になれますようにと祈るような気持ちで私は一ノ瀬家へと向かった。
本家へは車で二十分くらいで到着した。車から降りた私は目の前の光景に目を丸くした。
話には聞いていたが、一ノ瀬家はとてつもなく大きなお屋敷だった。瓦屋根の純日本家屋は個人の邸宅とは思えないほどに大きく、広い庭園には石造りの道が敷かれ、周囲には松が植えられている。庭園の池には見事な黄金の鯉が優雅に泳いでいて、私は今更ながらにとんでもない人とお付き合いをしていたのだと知って緊張で身を固くした。
環さんが肩を怒らせながらずんずんと屋敷の中に入っていく。私も雅臣さんに連れられながら広い邸宅の中へと入っていった。
中に入ると使用人と思われる人たちが出迎えてくれたが、環さんが来たことに戸惑っている様子だった。ご当主さまの許可が、という言葉が聞こえたが、環さんが一喝して中に入っていく。前掛けをつけた女性たちは困惑した表情でおろおろしていたが、雅臣さんの姿を見て観念したようだった。当主の身内が二人も揃って来たのであれば追い返すわけにはいかないのだろう。
通されたのは広い和室だった。まるで旅館に来たくらいの広さなのに、これが一個人の家の部屋だというのだから驚きだ。環さんは「お父さんを引きずり出してやる」と勇みながら雅臣さんと一緒にどこかへ行ってしまった。
敷かれた座布団の上に正座してカチコチになっていると、カタンと微かな音が聞こえた。音がした方を見ると、少しだけ開けた襖の影からワタル君が顔を覗かせていた。
「ワタル君! 無事だったのね!」
声をかけると、ワタル君があたりをキョロキョロ見回しながら部屋に入ってくる。
「あかりちゃん、来てくれたんだ」
「うん、ワタル君のこと迎えに来たんだ。今ワタル君のお祖父様とお話するから待っててね」
小声で優しく伝えると、ワタル君の顔が少しだけ明るくなる。だけど淡い期待はすぐに不安の色に書き換えられてしまった。
「うん……嬉しいけど、でもおじい様はきっとあかりちゃんにも酷いことを言うよ。オレ、あかりちゃんが嫌な気持ちにならないか心配だよ」
「私なら大丈夫よ。ありがとう。ワタル君は優しい子だね」
手を伸ばして頭を撫でてやると、ワタル君が少しだけ表情を和らげる。だけどすぐにドタドタと複数人が廊下を歩く音がして、部屋の襖がスパンと勢いよく開かれた。
「だからワシが話すことは何もない! 勝手に家を出ていった親不孝者のくせにワシの言うことに逆らうとは、この不届き者め!」
「お父さんこそワタルと姉さんの気持ちを考えたことがあるの? いつもいつもそうやって頭ごなしに否定するだけで、私たちの言い分を聞いてくれたことなんてないじゃない!」
お互いに激しく舌戦を交わしながら入ってきたのは環さんと年配の男性だった。雅臣さんがその後ろからおじいさんを支えるようについてきて、二人をたしなめている。おそらくこの人が一ノ瀬本家の当主であり、ワタル君のお祖父さんなのだろう。
部屋に入ってきた当主は私を見るなり鋭い目で睨みつけた。
「なんじゃ、知らん女がいるな。部外者はとっとと出ていけ」
「伯父さん、彼女は部外者ではありません。俺の婚約者でワタルの学校の先生です。香さんがいない間ずっとワタルの面倒を見てくれていた恩人ですよ」
「なに? 婚約者だと?」
雷のような大声を轟かせながら当主が私を一瞥する。私はすかさず畳に両手をついて頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。わたくし、岡野第一小学校の教師で浅雛あかりと申します。雅臣さんとは以前よりお付き合いを……」
「なんじゃなんじゃ、お前が選んだのは学校の先生か。顔が良くて乳がでかいだけの女を選ぶとは、お前も浅はかになったもんだな雅臣」
「伯父さん、いくら身内といえども俺の大事な人を侮辱するのはやめてください。今の発言は撤回していただきたい」
「黙れ、本家の嫡子ではない者がワシに意見するなど言語道断じゃ! お前は黙っておれ」
「じゃあお父さん、私は本家の嫡子だから言いたいことを言ってもいいわよね。今回の件はワタルが可哀想だわ。早く姉さんのところに返してあげて!」
「ワシからすればお前も一ノ瀬の人間ではないわ! ブンヤになぞなりやがって、この恥晒しが!」
当主の言葉に環さんが一瞬傷ついたような顔をする。だが当主はその手を振り切ってどかりと座布団の上にあぐらをかいた。
「お前たちの言い分はわかっておる。ワタルと香を一緒に住まわせろということじゃな。じゃが香はもうだめだ。ワシが反対した男と結婚したあげくに離婚する。おまけに次に選んだ男も犯罪者ときた。あやつにワタルを任せてはおれん。あそこまでの出来損ないを一ノ瀬から出したことはワシの人生の汚点じゃ。ワタルはこの家で立派に育てる」
実の娘へのあまりのいいように私は絶句した。反射的にワタル君の体を抱きしめると、ワタル君が顔をしかめてぐっと拳を握る。
「おじい様、オレは母さんが好きです。母さんのことを悪く言わないでください」
「お前の意見は聞いておらぬ。黙っていなさい」
「ちょっとお父さん、一番大事なのはワタルの気持ちでしょう? あの子の意見を聞いたことがある? 姉さんと暮らしたいかどうかワタルに聞いてみなさいよ」
「いい加減にしろ環! あまりにもしつこいならばワシが圧力をかけてお前の書いたものをすべて差し止めてやるぞ! そういえば先日お前がスクープして書いた記事があるらしいな。数ヶ月も張り込んで書き上げた記事を、ワシの鶴の一声でこの世から葬り去ることができるんじゃよ」
吐き捨てた当主の言葉に環さんがサッと青ざめる。
「そんな……お父さん。それはあまりにも横暴だわ。そんなことをするのはやめて」
「伯父さん、環の仕事とこの件は関係ないはずです。もう少し冷静になって考えてください」
「雅臣、お前もお前じゃ。お前は特に優秀で小さい頃からワシがよく目をかけてやったのに、刑事にならずに父の後を追って交番のお巡りになるとは。近々妻帯するんだろう? ワシが上層部に圧をかけて上へあがれなくなったら困るのはお前じゃろう」
当主の言葉に雅臣さんがちらりと私を見て口をつぐむ。これは彼にとってあまりにも強い殺し文句だ。雅臣さん個人は出世や名誉など気にならないだろうが、私が関わるなら話は別だ。身内だからこそ熟知している弱点。そして彼はおそらく単なる脅しては終わらせず、それを実行する権力も行動力もある。
あまりにも酷い言い様に胸の内からふつふつと怒りが湧いてくる。だけど私は彼の言う通り部外者だ。私はぐっと歯を食いしばって口から出そうになる言葉を飲みこんだ。
だが当主の怒りは収まらない。
「ワタル、お前は勉強も運動もパッとしない成績らしいな。今まで教育を香に任せていたのが失敗だった。だから息子のお前も出来損ないになる。どこの馬の骨ともわからぬ男の血が入ってしまったお前はワシが根底から叩き直してやらないといかんようだな」
出来損ない。その言葉が私の耳に強く響いた。それは日々愛情を持って生徒たちと接している私にはとうてい許せる言葉ではなかった。ぐっと拳を握り、座布団から勢いよく立ち上がる。
「お言葉を返すようですが、ワタル君はとても優秀な生徒です。学校でもすぐに友達と打ち解け、思い遣りもあって優しい子です。そんなことを言わないでください」
「黙れ黙れ! 関係のないお前が口を挟むことではない! 雅臣の婚約者だからといって早くも妻気取りか? これだから最近の女は図々しくなるのじゃ」
「私は雅臣さんの婚約者としてではなく学校の教師としての立場で申し上げております!」
一度口を開けば、まるで決壊したダムのようにするすると言葉が流れ出てくる。雅臣さんが驚いた表情で私を見ているが、そんなことはもう気にならなかった。
「ワタル君は国語は少し苦手ですが、その代わり算数が得意です。最近は苦手なにんじんを克服しました。やんちゃでいたずら好きなところもありますが、私や雅臣さんのことをよく考えてくれる優しい心を持った男の子です。ワタル君の好きなものを見たことがありますか? ワタル君が何を頑張っているのか聞いたことはありますか? あなたはワタル君のことを考えているようで全く考えられていないわ!」
「黙れ黙れ黙れ‼ なんだこの礼儀のない不愉快な女は! 今すぐここから出ていけ! 誰か! この女を屋敷から追い出せ!」
当主が怒りで顔を真っ赤にしながら怒鳴り散らす。廊下に控えていたであろう使用人の男たちが慌てて部屋に入ってきて私の腕を掴んだ。
「その手を離せ、俺の婚約者だ」
雅臣さんが声に怒りをにじませながら私の手を取って引き寄せる。珍しく雅臣さんも怒っているようだった。だけど今ここで何を言っても埒が明かない。観念して大人しく部屋を出ようとしたとたん、私の服の裾をワタル君が引っ張った。
「あかりちゃん! 待って、行かないで!」
「ワタル! お前はこっちだ! 今すぐ自分の部屋に戻りなさい!」
すぐに怒鳴り声とともにワタル君が引き剥がされ、男たちに囲まれながら部屋の外に連れて行かれる。ワタル君! と叫ぶも、その姿はすぐに襖の向こうへ消えていった。
※※※
「ほんっとうに腹が立つわあのクソジジイ! いっぺん地獄に落としてやろうか!」
屋敷を追い出され、車に戻ったところで環さんがハンドルに拳を叩きつける。雅臣さんも私の隣で腕組みをしながら難しい顔をしていた。私も今更ながらに自分のしたことを思い出し、車の中で小さくなる。
「あの……すみません、私、雅臣さんのご親戚の方に失礼な態度をとってしまって……本当に申し訳ございませんでした」
「そんなの! むしろもっと言ってやってよかったくらいだわ。少なくとも聞いていて私はすっきりしたけどね」
「ええ、怯まずに啖呵を切るあかりさんはカッコよかったですよ。惚れ直しました」
そう言って雅臣さんが軽く微笑んだ。だがすぐに難しい顔をして口をつぐむ。
「ひとまず今日のところは退散するしかないな。あの人なら怒りのあまり、権力に任せて横暴なことをやりかねない。ワタルは辛いだろうが……せめて香さんと一緒にいさせてあげられればいいのだが」
「自分だって子育て失敗してるくせによく言うわ! て、こういうとなんだか虚しくなるわね……あんなクソ親父とはいえ、自分が選んだ道を実の親に真っ向から否定されるのはキッツイわ」
ハハハ……と力なく笑いながら環さんが座席にもたれかかる。私はそんな二人を見ながら静かに自分の気持ちと向き合っていた。
ワタル君のことはもちろん助けたい。でも、あの当主を相手にすればするほど環さんと雅臣さんが疲弊してしまう。
この一大事を打開するには──部外者である私が出るしかない。
「雅臣さん、お話があるんですけどいいですか?」
「お話? はい、なんでしょうか」
「もしワタル君をあのおうちから連れ出すことができたらそのあとはどうなりますか?」
「そうですね……あの家にいてもワタルにとっては良いことがないでしょうから、ほとぼりが冷めるまでは本家から離れた場所で二人で暮らしてもらいましょう。その間に俺と環でなんとか説得するしかないでしょうね。時間がたてばいずれは和解できる日も来るでしょうから」
「わかりました。話し合いを付ける前にワタル君を連れ出せばいいんですね」
「ええ……なにか解決方法があるんですか?」
怪訝そうに私の顔を見る雅臣さんをしっかりと真正面から見つめる。
「雅臣さん、私、もう一度怪盗になります──子供の寂しい時間を盗む女怪盗に」
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