第42話 SIDE 一ノ瀬

 結局諸々の事務処理が終わって帰宅ができたのは翌日の朝だった。公休日がパアになったということで今日一日非番扱いで休暇をもらえたが、連日の勤務がたたって体が鉛のように重たい。家に帰ると二人はもうとっくに学校に行っており、部屋には少しだけ朝の慌ただしさが残されていた。 

 朝食の食器は洗われて水切りかごに伏せられていたが、家を出る直前にワタルが飲んだ専用のマグがテーブルの上に置かれている。マグをシンクに持っていこうとした一ノ瀬は、テーブルの上にメモが置いてあることに気がついてそれを手に取った。


 ──雅臣さん、お仕事お疲れ様でした。冷蔵庫に昨日の残り物が入っているのでよかったら食べてくださいね。あとおやつにプリンが入っています。今日は遅くなるかもしれませんので、ワタル君をよろしくお願いします。

 

 メモには当たり障りのない連絡事項が書かれているだけだったが、それでもこうやって彼女が自分のことを想っていてくれるのが伝わってくる。最後まで目を通し、名前の横にある小さな文字を見て一ノ瀬は目を細めた。


 ──早く雅臣さんに会いたいです。


 目立たないように控えめに書かれたその文字を愛おしげになぞる。早く愛らしい彼女の顔を見たくてたまらなかった。



 少し仮眠をとっているうちに、あっという間に時間が過ぎていく。ガチャガチャと鍵を回す音がして一ノ瀬は目を開けた。慌てて起き上がり、急いで玄関に向かう。入ってきたのはランドセルを背負ったワタルだった。


「あ……マサ、ただいま」

「あ、ああ。ワタルか。お帰り」


 一瞬彼女が帰ってきたのかと錯覚したが、時刻はまだ午後四時前。彼女が帰ってくるのはまだまだ先だ。内心で彼女に会うことを心待ちにしている自分に気付き、一ノ瀬は自嘲気味に笑った。


「ほら、あかりさんがおやつを用意しておいてくれているぞ。早く手を洗ってこい」

「うん」


 ワタルが短く返事をして手を洗いに行く。一ノ瀬は冷蔵庫から出したプリンを皿に盛り、小さなスプーンを出す。戻ってきたワタルが席についたところで一ノ瀬も向かい側に腰をおろした。


「学校はどうだ、慣れたか?」

「うん」

「勉強はついていけているか?」

「うん」 

 

 どことなくぎこちない空気が漂うこの空間に一ノ瀬は吹き出しそうになった。血が繋がっているというのにこのよそよそしさ。顔を合わせる時間がないのだから仕方のないことなのかもしれないが、まったく男親というのは情けないものだ。


「あかりさんとは仲良くやっているか?」

「うん、ボチボチ。あ、そういえば今日あかりちゃんと廊下で会ったよ。持ってたプリントを落として床にばら撒いてた。真木先生が、あんたバカねーって言いながら拾ってたよ。あの人、ちょっと抜けてるところがあるよね」


 もぐもぐと口を動かしながらワタルがくっくっと笑う。


「昨日は帰ってからハンバーグを作ってくれたよ。あかりちゃん、ご飯を炊くのを忘れてたからオレが教えてやったんだ。お風呂の栓も、毎回オレが確認しないとあかりちゃんすぐ忘れるからさぁ」


 それまで短く返事をしていただけだったワタルが楽しそうに話し始める。彼女のことを話す彼の顔は生き生きとしていて、それだけでも彼女がワタルと良好な関係を築いていることが手に取るようにわかった。楽しそうなワタルの顔を見て一ノ瀬の顔も自然とほころぶ。本家で肩身の狭い思いをしていた彼が自由に子供らしく、のびのびと過ごせていることが嬉しかった。

 プリンを食べ終えたワタルがスプーンを置き、何事か考えこむように口をつぐむ。


「母さんには会いたいけど、オレ、この家を離れるのも寂しいな」


 ポツリとつぶやかれた言葉に一ノ瀬の胸も締め付けられた。

 確かに伯父のいる本家はいつもビリビリとした緊張感が漂っていて、子供心にも窮屈さを感じていたのをよく覚えている。先代であった祖父も容赦なく厳しく、勉強でもスポーツでも成績が振るわなければ口酸っぱく小言を言われる。警察官になるためのレールを敷かれ、それ以外の選択肢は許されないといわんばかりの圧力を常に感じていた。

 本家の次男であった一ノ瀬の父も警察官僚になる道を強いられていたようだが、結局父は自分の希望で地域に密接に関わる交番のお巡りさんを選んだ。一ノ瀬自身もそんな父を見て育ったために同じ道を選択したが、父の兄である伯父は官僚になって出世コースを順調に歩んでいった。

 おそらく伯父の長女の息子であるワタルは本家の跡取りとしての圧力をかけられ、抑圧されてきたに違いない。時たま顔を出すだけで居心地の悪さを感じるほどなのだから、あそこで育ったワタルの苦労を考えると一ノ瀬の胸が痛んだ。


「ワタル、おじいちゃんは厳しいか?」

「……うん、厳しい。オレは一ノ瀬の中でも出来損ないなんだって。そんなんじゃ立派な警察官になれないぞっていつも言われる」

「別に無理やり警察官になる必要はないぞ。お前の叔母さんだって新聞記者になったんだ。自分のやりたいことは、自分で選んでいい」

「……本当はオレ、警察官になんて興味ない。もっと違うものになりたい」

「じゃあワタルは将来何になりたいんだ?」

 一ノ瀬が優しく問うと、ワタルが少しだけ考え込む素振りを見せる。だがやがておずおずと口を開いた。

「学校の先生はちょっといいかも」

「そうか。いい夢だな」


 きっと彼が頭の中に思い描いているであろう彼女の姿を思い浮かべながら一ノ瀬は微笑んだ。子供たちを優しく導いてくれる彼女の存在は一ノ瀬にとっても大きい。


「よし、今度剣道でもしに行こうか。見てやるぞ」

「うん」

「じゃあ夕ご飯の買い物に行こう。あかりさんが好きなものを教えてくれるか」

「うん!」


 元気よく返事をしてワタルが立ち上がる。帰宅した時の喜んだ彼女の顔を思い浮かべながら一ノ瀬も立ち上がった。




 午後七時。ワタルと一緒に夕ご飯を作っていると、ガチャリと音がしてリビングの扉が開いた。慌ただしく帰っていた彼女が一ノ瀬を見てパッと顔を輝かせる。 


「あ、雅臣さんも帰っていたんですね。おかえりなさい。お仕事大変でしたね」

「ええ、今朝入れ違いで戻りました。あかりさんもおかえりなさい。さきほどご飯もできましたから一緒に食べましょう」

「本当ですか? 嬉しい。今日のご飯は何かなあ。雅臣さんのご飯、すっごくおいしいので楽しみです。すぐ着替えてきますね」 

 

 声を弾ませながら彼女が答える。喜びの感情をすぐに顔に出してくれる彼女はとても可愛い。彼女の顔を見るとなんだか安心したような、ホッとした気持ちになるのだ。

 リビングで宿題をやっていたワタルも顔を上げる。


「今日はあかりちゃんが好きだっていうからムニエルにしてやったんだぞ。オレも作ったんだからな、心して食べたまえ」

「ワタル君もお手伝いしたの? 偉いね。ってああ! 雅臣さんと一緒だとしっかり宿題をやるのね! 私のときは何回言っても寝る直前までやろうとしないのに!」

「う、うるせー! だってマサと一緒だとなんかちゃんとやらないとっていう気持ちになるんだもん。あかりちゃんはさ、なんか別にいっかなーって」

「なんなんですかそれは! コラ、私といるときもちゃんとやりなさい!」


 ぎゃあぎゃあと言い合いをしながら自室へと消えていく二人を温かい目で見守る。彼女が帰ってきただけで家がぱっと明るくなるのを一ノ瀬は感じていた。仕事柄どうしても見るものは綺麗なものだけではないことが多い。だからこそ彼女の笑顔は自分にとっての癒しなのだ。 

 白と黒だけのモノクロの部屋にピンクや赤の華やかな色をした彼女の私物が置かれているのも嬉しくて。

 視界に映る幸せな光景を噛み締めながら、一ノ瀬は食事の支度を始めるのだった。

 


 久しぶりに三人で食べる夕食はとてもおいしかった。皆で片付けをして風呂に入り、寝る支度をする。単身用の一LDKに三人が暮らすのは少し手狭だが、お互いの家をうまく使いながらなんとか生活していた。

 基本的に三人でいるときは自分の家で、当直などで一ノ瀬自身が不在にしているときはワタルとあかりさんは彼女の家で過ごしている。ワタルには来客用の布団を使ってもらっており、ベッドの下に布団を敷いて寝起きしてもらっていた。



 午後十時。ワタルが寝たことを確認し、残った家事や翌日の支度を終えてリビングへ行くと、あかりさんはローテーブルの前に座って書類を書いていた。学校でやり終えられなかった残業を持ち帰ってきているのだろう。彼女も忙しいのに、こうやってワタルのために仕事を切り上げて毎日過ごしてくれているのだ。不在にすることが多い自分に不甲斐なさを感じるが、頑張ってくれている彼女には感謝しかなかった。


「あかりさん、もう遅い時間ですが大丈夫ですか? ホットミルクでもいれましょうか」

「ひゃ! え、もう十時ですか? やだ、全然気づかなかった……そろそろ寝ないといけませんよね。私、もう少しだけやることがあるので今日は自分の家で寝ます」


 そう言ってあかりさんが慌てて机の上に広げた書類をかき集める。その残業の多さに一ノ瀬はひたすらに申し訳ない気持ちになった。 


「あかりさんすみません。俺がいないばかりにあなたにばかり負担をかけてしまって」

「そんな、私もワタル君との生活はすごく楽しいんです。ちょっとやんちゃな部分はあるんですけど、でもなんだかんだ素直なところが可愛くて。あ、そういえば最近テストの点数が上がったんですよ。雅臣さんからも褒めてあげてくださいね」

「そうですね、今度休みが取れたらどこかに遊びに行きましょうか。最近招集が多いのであまり遠出できないのが申し訳ないのですが」

「あ、それでしたら遊園地はどうですか? ワタル君、一度も行ったことがないんですって。きっと連れて行ってあげたら喜ぶと思うんですけど」

「遊園地ですか。隣町の中央公園のところに小さな遊園地がありましたね。ではそこに行きましょう」


 そう言うと彼女が嬉しそうに顔をほころばせた。これはきっとワタルのために喜んでいるのだろう。そのいじらしさにまたもや胸がじわりと熱くなる。


「じゃあ私はそろそろ行きますね。おやすみなさい。雅臣さんもゆっくり休んでくださいね」


 そう言いながらあかりさんが束ねた書類を持って席を立つ。玄関に向かう後ろ姿を見たとたん、一ノ瀬の体は自然と動いていた。腕を伸ばして彼女の小柄な体を抱きしめる。ふわりとほのかに香る髪の匂いはすっかり自分と同じになっていた。 


「ま、雅臣さん……?」


 自分の腕の中で彼女が困惑の声をあげる。構わず首筋に顔を寄せると、小さな肩がふるりと震えた。おずおずと振り向いて自分を見上げる赤い顔も可愛くて。


「あなたが好きです、あかりさん。いつも誰かのために一生懸命で、思いやりがある。俺はそんなあなたが愛しくてたまらない」

「そんな、私なんて特別なことをしているわけじゃないんです。大勢の人を守っている雅臣さんの方がうんと立派ですよ」

「俺が頑張れるのはあなたのおかげですよ。誰かのために頑張る人は自分のことを顧みないことが多い。そういう人を守れるようになりたくて俺は警察官になったんです。あなたを見ていると、いつもその気持ちを思い出す」


 彼女を腕に閉じ込めたまま耳元で囁くと、おずおずと手が伸びてきて腕に触れる。


「……雅臣さんはもう十分になっていると思います。会えない時間は寂しいですけど、でもきっと今もどこかで誰かのために動いているんだろうなと思うとすごく誇らしい気持ちになるんです」


 彼女が振り向いてはにかんだ顔で告げる。言ってから恥ずかしくなったのか、頬を赤らめながらうつむく姿も可愛くて。理性の裏に秘めていた自分自身の想いを受け止めてほしい衝動に駆られた。

 顎をすくって唇を重ね、いつもよりほんの少しだけ深く繋がる。男性経験に不慣れな彼女が驚いてしまわないように優しく。それでもその口先に自分の思いを重ねて。


「……っ」


 思わずふらついた体を抱きとめて唇を重ねたまま彼女の腰に手を回す。先程まで手に持っていた書類がバサバサと床に落ちる音が聞こえた。甘い熱を逃したくなくて、彼女の頭の後ろに手を回してまるで逃げられなくするかのようにさらに唇を押し付けた。


「……っま、雅臣さん。ワタル君がいるのに」

「今は俺だけを見てください」


 正面から真っ直ぐに見つめると、大きな丸い瞳が見返してくる。会えない寂しさを感じているのは一ノ瀬とて同じだ。その肌に触れたいことも、一歩進んだ関係になりたいことも。


「あかりさん、ワタルの件が片付いたら……お話したいことがあります。それまで待っていてください」

「お話……ですか? はい、わかりました」


 コクリと小さく頷く彼女の額にもう一度口づけを落として体を離す。その潤んだ大きな瞳を見て、一ノ瀬は心の中で決意を固めるのだった。

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