第40話 同棲開始【後編】
雅臣さんの家のお風呂場はよくあるタイプの見慣れた浴室だった。同じマンションに住んでいるのだから当たり前なのだけど、置いてあるシャンプーや石鹸が違うだけで全く別の空間に見えるのだから不思議だ。石鹸の横にひげ剃りが置いてあるのを見て、いやがおうにも男性の家にいるのだということを意識してしまう。服を脱いだはずなのにどうにも体が熱かった。
(雅臣さんもお髭生えたりするのかな……するよね、だって男の人だもん)
一緒に暮らすということは、こういう些細な部分で彼の日常を知っていくのだ。嬉しくもあり、なんだか深淵を覗き込んでいるようでドキドキもする。シャワーのヘッドが一番高い場所にかけられているところでも彼の背の高さを実感することになり、私はふわふわした空気のまま湯浴みを終えた。
「雅臣さん、お風呂ありがとうございました。気持ちよかったです」
タオルで髪を拭きながらリビングに戻ると、雅臣さんが顔をほころばせた。いつも着ているシャツとショートパンツの部屋着だったけどちょっと子供っぽかったかな。雅臣さんの日常を覗くのもドキドキするけど、自分の日常を見られるのも恥ずかしい。私がお風呂に入っている間に雅臣さんがあったかいハーブティーを淹れてくれていたみたいで、私はマグを受け取ってソファに座った。
雅臣さんがお風呂に入っている間、私はマグを口につけながら待っていた。なるべく意識しないようにしているのだが、浴室の方から水音が聞こえてきて私の心臓がどきりと鳴る。壁一枚隔てた向こうにシャワーを浴びている雅臣さんがいると思うと緊張してしまうのはなぜだろうか。
警察官という職業柄鍛えているのか、雅臣さんは結構筋肉質だ。服を着ていてもわかる腕の太さや背中のガッチリ具合に色気を感じて見るたびにいつもドキドキしてしまう。脱いだらもっとすごいのかな……というところまで考えて私はぶんぶんと首を振っていかがわしい想像を頭の外に追いやった。
(やだ私ったら変なこと考えすぎ! もっと自然にならないと!)
それでも恋仲になった以上、もっともっと彼のことを知りたいし、深い関係になっていきたい気持ちはある。大人の関係だって興味がないわけではない。だがまだまだ彼の裸を見るのには勇気がいりそうだ。男性経験のないおこちゃまな自分に情けなさを感じながら私ははぁ、とため息をついた。
(私ももうちょっと大人っぽくならないとなぁ)
大人の余裕がある雅臣さんに比べると自分の子供っぽさが悲しくなる。一緒に暮らし始めて幻滅されないようにしなきゃな、と思ったところで私はなんだか胸元がスースーする気がして胸に手をやった。
(あっ! 下着を脱衣所に忘れてきちゃった!)
一緒に暮らすのだから洗濯物も一緒に洗うべきなのだろうけど、いきなり雅臣さんに私の下着をお披露目する勇気はさすがにない。耳をすますと、浴室からはまだシャワーの音が聞こえている。
今ならサッと行ってパッと回収すれば鉢合わせすることもないだろう。私は意を決して立ち上がり、そーっと脱衣所の扉を開けた。
シャワーの音が大きくなる。浴室のすりガラスの向こうの人影をなるべく見ないようにしながら、私は脱衣所のかごを覗き込んだ。
かごの上にはふわりと目隠しのタオルがかけてあった。雅臣さんの配慮だろう。もちろん彼の衣服は別の場所に置いたのか見当たらない。細やかな気遣いに感謝しながらも、私は目隠しのタオルをそっと取った。脱いで畳んだ私の衣服がそのまま置いてある。もちろん下着は目に見えないように服の間にいれて隠しているけれど、やっぱり脱いだものをそのまま置いておくのは恥ずかしい。目隠しのタオルごと洗濯物を包んでヨイショと持ち上げると、ガラリと音がして浴室の扉が開いた。
「…………」
「…………」
一瞬時間が停止する。だけど私にとって見ればそれは永遠にも長い時間のように思えた。パッと見ただけだったが、雅臣さんは腰にタオルを巻いていた。でもガッチリした肩まわりや意外と厚めの胸板、あとしっかり割れた腹筋が目に飛び込んできて、私の体温が急上昇する。
「きゃーー! ごめんなさい‼ 私、そんなつもりじゃなかったんです‼」
タオルにくるんだ洗濯物に顔を隠しながら叫び声をあげる。さすがの雅臣さんもこの事態は想定していなかったようで、この状況に戸惑っている様子だったが、私の慌てぶりを見て状況を察したようだ。開かれた口がいたずらっぽく弧を描く。
「現役の警察官に対して覗き行為とは、あかりさんは思ったよりも大胆なことをするんですね」
「ちちちち違うんです! 覗こうとしたんじゃなくて、洗濯物を取ろうと思っただけなんです! もう本当にごめんなさいー!」
「ハハ、俺は別に構いませんけどね。着替えたら布団の準備をしてきますのであかりさんはリビングで待っていてください」
「は、はい! それではお邪魔しました‼」
洗濯物で顔を隠したまま慌てて脱衣所を飛び出る。裸を見られた雅臣さんより裸を見た私の方が動揺しているのはやっぱり経験値の差なのだろうか。脱衣所の扉を閉めた私はズルズルと壁沿いに床にへたりこんだ。
(雅臣さん、やっぱりいろいろ眩しすぎるよぅ)
同棲生活初日からこれでは先が思いやられる。先程見てしまった光景をなるべく記憶の片隅に追いやりながら私は一人反省会をしていた。
好きな人と夜も一緒にいられる喜びと、初めて男の人の家に泊まるという緊張でふわふわした気持ちで私は寝支度を整えた。ちょうど歯を磨き終えたところで雅臣さんに呼ばれる。ドキドキしながら彼の寝室に入ると、雅臣さんがベッドを整えてくれていた。
「ベッドをもう一つ用意するまではあかりさんはここで寝てください。俺はソファで寝ますので、何か用があれば起こしてくださいね」
「はい、ありがとうございます……て、雅臣さんは一緒に寝ないんですか?」
「男の部屋は緊張するでしょうから、あかりさんが慣れるまで当分は別々に寝ましょう。一緒に寝るのは結婚してからでもいいですから」
サラリととんでもないことを言われた気もするが、それよりも今は寝る場所問題だ。最近特に多忙を極めている彼こそきちんとベッドで寝てもらわなければ。
「そんな、ソファで寝るなんてだめですよ。疲れも取れないですし。雅臣さんこそベッドで寝てください」
「お気遣いありがとうございます。ですが可愛い恋人を寒いリビングで寝かせるわけにはいきませんからね。寝づらい場所で睡眠をとるのは慣れていますから」
そう言って雅臣さんがシーツのたわみを直してくれる。きっと全部洗ったものに変えてくれたのだろう。彼の気遣いの細やかさに感謝すると同時に、私の胸がキュッと詰まる。
確かに雅臣さんの隣で寝るのは緊張する。だけど別々に寝ると聞いて残念に思うということは、本心では彼と一緒にいたいのだ。それに、ただでさえ疲れているのに私のせいで雅臣さんに迷惑はかけられない。私は意を決すると雅臣さんの顔を見上げた。
「わ、私はできたら雅臣さんと一緒に寝たいです。あの、変な意味ではないんですけど、恋人同士なんですから別に変なことでもないですよね?」
「俺はもちろん構いませんが、いいんですか?」
「はい。緊張しないと言ったら嘘になるんですけど、私だって雅臣さんと一緒にいたい気持ちはあるんです」
最後の方はちょっとだけ尻すぼみになってしまったが、ちゃんと思っていることは伝えておきたかった。雅臣さんが一瞬驚いたように目を丸くするが、すぐに表情を和らげる。
「そうですか。それは……俺も嬉しいです。ではこのまま今日は寝てしまいましょうか」
「はい、じゃあお邪魔しますね」
少しだけ照れながら雅臣さんの布団に入る。彼もその横に入ってきて私たちは並んでベッドに横になった。
ベッドの中で体と体が密着して心臓がドキドキと脈打つ。恋人同士なんだからキスくらいはしているけれど、やっぱり一時的なふれあいと一晩中くっついているのではぜんぜん違う。触れている肌と肌が熱くて私は真っ赤になりながらくるりと雅臣さんに背を向けた。とてもじゃないけど、顔を見ている余裕はない。
「同棲って思っていたよりも緊張するんですね。私、今日ダメダメで本当にすみません。情けないところをいっぱい見せちゃって恥ずかしいんですけど」
「そんなことありませんよ。あかりさんはいつでも元気いっぱいなところが可愛いんです。見ていて元気をもらえますよ」
「そんな風に言ってもらうと嬉しくなっちゃうんですけど、でももっとしっかりしないといけませんね。これからワタル君も一緒に暮らすんだから」
ポツリとこぼすと、衣擦れの音とともに背後で雅臣さんが体勢を変えたのがわかった。私の背中に雅臣さんの体が触れる。
「……あかりさんには申し訳ないことをしてしまいましたね。俺の家の事情に巻き込んでしまって。あなたに負担をかけるのが俺は心苦しい」
「そ、そんなことはないですよ! だってワタル君を預かるって決めたのは私なんですから。雅臣さんやワタル君の力になりたい気持ちは本当です」
力強く言い切ると、背後からするりと腕が伸びてきて私の胸の前で交差する。ギュッと抱きしめられたと同時に体を引き寄せられて、私の心臓が大きく跳ねた。逞しい腕の力強さと背中に触れるガッチリした体の感触、濃密な彼の気配に、まるで外に聞こえてしまいそうなほどに心臓がドキドキ騒いでいる。
「俺が好きなのはあなたのこういうところです、あかりさん。誰かのために頑張れるところ、いつでも子供たちのために一生懸命なあなたが俺は好きです」
優しくかけられる言葉がじんわりと私の胸中を満たしていく。温かい腕のぬくもりが私の緊張をゆっくりと解かしてくれた。
「私も好きです。雅臣さんのこと。同棲は緊張するんですけど、こうやってずっと一緒にいられるのはやっぱりすごく嬉しいです」
彼の腕の中でモゾモゾと動いてくるりと向かい合わせになる。照れながらも自分の正直な気持ちを伝えると頭上で低く笑う声が聞こえた。そのままギュッと抱きしめられ、雅臣さんが私の髪に鼻を埋める。
「不思議ですね。同じ石鹸を使っているはずなのに、あかりさんからは甘い香りがする」
「そうですか? でもきっとこれから同じ匂いになっていくんですね、きっと」
私も彼の胸に顔を埋めながらギュッと腰に手を回す。恋人と過ごす初めての夜は優しい匂いと温かさに包まれていた。
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