第39話 同棲開始【前編】
夕方四時。私は雅臣さんの部屋でカチンコチンになりながらソファに座っていた。雅臣さんはニコニコしながらキッチンでコーヒーを淹れている。普段のおうちデートと何にも変わりないのに、なんだかいつもより緊張してしまうのは、今日はもう帰らなくていいとわかっているからだろうか。
「はい、あかりさんはミルクと砂糖を入れるのが好きでしたよね」
雅臣さんの声がして、目の前にコーヒーとミルク、そしてスティックの砂糖が置かれる。温かい湯気とともにホワンと漂う深みのある香りは彼の好きなブレンドだ。
雅臣さんが私の隣に座ってマグに口をつけた。先程まで着ていたジャケットを脱いでシャツ一枚のラフな格好になっていてもイケメンはやっぱり様になる。腕時計をつけた逞しい腕と、マグを持ったときにうすく浮かぶ手の筋が眩しくて、ついつい視線がそちらに行ってしまう。
「あっつ……!」
よそ見をしながらマグに口をつけたせいか、熱々のコーヒーが口の中に流れ込んできて私は小さく悲鳴をあげた。
「大丈夫ですか? すみません、少し熱めにいれてしまいましたね」
「い、いえ大丈夫です! 私の不注意ですから」
「今冷やすものを持ってきますから待っていてください」
そう言って雅臣さんがキッチンへ向かう。かと思いきや、すぐさま氷をたっぷり入れてキンキンに冷えたアイスティーを持ってきてくれた。
熱で痺れた舌をアイスティーで癒しながら、私は恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。
(どうしよう、思ったよりも緊張するよう!)
今どきお泊りデートなんて高校生でも珍しくないことなのに、ちょっと関係が進んだだけでこのダメダメぶりは恥ずかしすぎる。
だけど照れているだけではだめだ。この同棲は、ワタル君を預かることが目的なんだから。当初の目的を思い出した私は気を取り直して心の中で小さく咳払いをする。
「雅臣さん、ワタル君の荷物って届いていますか?」
「環から送られてきた荷物ならその段ボールですよ」
雅臣さんが指差す方を見ると、リビングの隅に大きな段ボールが一つ置いてあった。ひとこと断りを入れて中を開けると、服や私物のおもちゃに混じって今学校で使っているであろう教科書やノート、ドリルが入っていた。
パラパラとドリルをめくって学習状況を確認する。思ったよりも学習状況は芳しくなく、字は汚いし問題も途中までやりっぱなしのものが多かった。彼の家庭状況を考えると仕方ないことだが、これでは転校してもついていけないだろう。
幸いなことに、今はそこまで多忙ではなく、遅くとも午後七時か八時までには帰宅できる。雅臣さんがいない日は私が、彼が休みの日は雅臣さんにワタル君を任せれば十分に二人だけで面倒を見られるだろう。どうしても難しい日があれば環さんも来てくれるそうだ。小学五年生ともなれば身の回りのことはひとりでできる。だから問題はそこではなかった。
(あんまり勉強に身が入っていないのは、やっぱり家庭環境の影響が大きいからだろうな)
大事なのは宿題をさせることや面倒を見ることではなく、彼の心のケアだ。母親が失踪しているということは、まだ子供の彼にとっては大きなストレスになっているはずだ。教職に就く者として、なるべくワタル君の気持ちに寄り添ってやれる時間がほしかった。
ワタル君の荷物を眺めながらそんなことを考えているうちに私は自分の世界に入っていたのだろう。トントンと肩を叩かれて私はハッと顔を上げた。
「あかりさん、そろそろご飯にしませんか? ちょうど出来上がったところですので」
「えっ? 嘘、作ってくださったんですか⁉ やだ、私ったら全然気づかなかった」
見ると、いつの間にか食卓には彩りの良いパスタとサラダ、そして飲み物まで置いてあり、ホカホカと白い湯気を立たせていた。せっかく雅臣さんと一緒に生活できるようになったのに、ここに来てからの私はだめすぎる。だけど慌ててドリルをダンボール箱に戻して立ち上がったとたん、ガツンと音がして私は思い切りテーブルの縁に膝を打ち付けた。
「痛った〜〜〜〜っっ!」
きーんと割れそうな痛みを感じて私は膝を抱えた。しかも弾みでテーブルが揺れて飲みかけのアイスティーまでこぼれて私の服にかかる始末。幸い床を濡らすほどではなかったけれど、私の胸元に結構な染みができてしまった。
「きゃー! もう、重ね重ね本当にすみません!」
「俺は大丈夫ですが、そのシャツ、染みになるかもしれませんね。俺のを貸しますよ」
「うう……本当に申し訳ないです」
そう言うと雅臣さんがパッと自室に行き、黒いTシャツを持ってきてくれた。石鹸の香りがするシャツを受け取りながら、私は自分のだめさ加減にため息をついた。
手洗い場と洗剤を借り、今しがた着ていたシャツを脱いで染みになった部分を軽くすすぐ。ちょっとだけ漬け置きをさせてもらった後は雅臣さんから借りたTシャツをかぶった。
(わ……結構大きい)
雅臣さんのシャツは思ったよりもダボダボだった。すっぽりかぶるとちょうど裾が太ももの位置にくるくらい。彼が着ていると全然わからなかったけれど、こうやって見ると改めて雅臣さんの体格の良さを感じて胸のうちがほんのりとくすぐったくなる。いつも感じている石鹸の香りに包まれてドキドキしながら私はスカートを履いてドアを開けた。
「お待たせしてしまってすみません。ご飯、用意してくださってありがとうございます」
ご飯の並べられたテーブルに向かうと、雅臣さんが微かに目を細めた。その瞳がいたずらっぽく輝いている。
「これはなかなかいい眺めですね。今日はご飯がおいしく食べられそうです」
「ん? 眺め? 眺めってどういうことですか?」
「いえすみません。そのシャツ、あかりさんには少し大きかったようですね」
「へ?」
雅臣さんが笑いをこらえながら私の胸元を指差す。慌てて部屋の隅に置いてある姿見の前で自分の格好を確認して、私は内心で悲鳴をあげた。
鏡の前には雅臣さんのシャツにすっぽりと着られた私が映っていた。下はスカートを履いているものの、Vネックの襟ぐりは私が着ると思ったよりも深くて胸元が心もとない……というか完全に見えていた。胸を隠そうとシャツを引き上げると襟元がたわんでどちらか片方の肩がペロンと出てしまう。
(な、なんて破廉恥すぎる格好なの〜〜〜〜‼)
こんなどこもかしこも丸見えの状態で雅臣さんの前に出ていたなんて恥ずかしすぎる。私は慌てて両手でかばうように胸の前を隠した。
「ご、ごめんなさい! 私、全然気がつかなくって。ちょっと着替えて来ます!」
「ハハ、確かに男の家でするには防犯上よろしくない格好ですね。羽織物なら俺のを使ってください。男物で申し訳ありませんが」
雅臣さんが笑いながら立ち上がり、すぐにグレーのパーカーを持ってきてくれた。羞恥であわあわしながらもお礼を言って受け取り、すぐに身につける。ジーッとチャックを引き上げて胸元を隠し、私はやっと安堵の息を吐いた。真っ赤になって下を向いている私を見て雅臣さんがクツクツと笑う。
「あかりさんは可愛いですね。俺もつい、自分が警官であることを忘れてしまいそうになりす」
「も、もう、どういうことですか! でも雅臣さんは警察官だから大丈夫ですよね? よろしくないことなんてしませんよね?」
「さぁどうでしょうか。ここでは俺もただの男ですよ」
彼の言葉の意味を理解するより前に雅臣さんが朗らかに笑い、席に促す。とりあえず今の言葉の意味を深く考えないようにしながら私もすぐに食卓についた。
雅臣さんの作ったご飯はもちろんいつもどおり最高においしかった。食べ終わって一緒に洗い物をしたあとはリビングに移動して並んでコーヒーを飲む。ここまではいつもどおりの日常だけど、いつもと違うのは今日はもうこのまま家に帰らないということだ。男の人と一晩過ごすのは初めてのことだから緊張する。まあ、とは言ってもあとはお風呂に入って寝るだけなんだけど。
そこまで考えて私は何か引っかかるものを感じて「ん?」と首を傾げた。
お風呂……お風呂……お風呂⁉
今からお風呂に入るということは男の人の家で裸になるということだ。あろうことか雅臣さんの家で。当たり前だけど当たり前じゃない事実に私の胸がドキドキと鼓動を打ち始める。
ちょうどそのとき、キッチンの方からお風呂が沸いたことを知らせる音楽が聞こえてきた。
「ああ、お湯が沸いたようですね。今タオルを用意しますのであかりさんが先に入ってください」
「あっそ、そうですよね! お風呂、入らないといけませんもんね!」
ガバッと勢いよくソファから立ち上がった私を雅臣さんが不思議そうな目で見ている。私はなるべく平常心を装いながら、タオルを借りて浴室へ向かった。
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