第35話 募る思いと新たなハプニング

 仕事を終えて学校を出ると、私は迷わず雅臣さんの家のチャイムを鳴らした。インターホン越しに「はい」という返事が聞こえてきてホッとする。最近多忙な彼はお休みの日でも呼び出しがかかることが多い。今日は雅臣さんに会えるぞとウキウキしながら帰ってみたら、招集されて不在だったなんてザラだ。久しぶりに一緒に夜も過ごせるのが嬉しくて、私はニコニコしながら部屋に入った。

 部屋に入ると、ホワホワと暖かい香りが私を出迎えてくれた。今日の晩ご飯はビーフシチュー。何時間も煮込んで作ってくれたビーフシチューは、お肉もトロトロで野菜にも味がしっかり染みていて、疲れた体にじんわりと効く美味しさだった。


「ん〜〜! すごく美味しいです。雅臣さんって料理も本当に上手ですね。最高です」


 舌に乗せた途端にホロリと崩れるお肉が私の心まで溶かしていく。お肉と野菜の旨味がルーにぎゅっと閉じ込められていてとっても濃厚だ。一口食べるごとに美味しい美味しいと連呼していると雅臣さんが声を上げて笑った。


「そんなに言ってもらえるとなんだか照れてしまいますね。でもこうやって美味しそうに食べてくれる人に振る舞えるなら作りがいがありますよ」

「雅臣さんって多分子供の頃からよくお手伝いをしていた人ですよね? なんでもできちゃうし、お家も綺麗だし。すごいです」

「そんなに大したものではありませんよ。父が警察官で家を留守にすることが多かったので、必然的に家のことをやるようになっただけです」

「お父様も警察官だったんですか? じゃあ雅臣さんが警察官になったのはお父様の影響なんですね」

「そうですね。父だけでなく、我が家は親戚も皆警察関係の職に就いていますから、この仕事を選ぶことに何の迷いもありませんでした」

「わぁすごい、警察官一家なんですね! 立派なお家だなぁ。一般人のうちとは大違いです、えへへ」


 素直に感心しながら言うと雅臣さんが控えめに微笑んだ。だけどその笑みに少しだけ苦笑のような諦観を感じ取って私は内心で首を傾げた。


(そう言えば雅臣さんのお家のことをあんまり聞いたことがないなぁ)


 遠くにお姉さんが暮らしているというのは聞いたことがあるけど、逆に言うとそれくらいしか知識がない。朝の数時間しか一緒にいられないのだから二人の仲を深めるにはきっとまだまだ時間が足りないのだろう。自分達のペースで進めていけば良いのだろうけど、それでももう少しだけ彼に近づきたいなと私はぼんやりと思った。


 夜ご飯を一緒に食べ終えると、二人でリビングのソファに移動した。雅臣さんが食後のコーヒーが入ったマグを渡してくれる。マグからじんわり伝わるホットコーヒーの熱が少し涼しくなりかけた夜の空気に暖を与えた。


「雅臣さん明日は当直ですか? そうなると、ええと明日のお昼までの勤務ですよね」

「ええ、そうなんですけど実は最近多忙で。もしかすると色々と変動があるかもしれません。最近あまり予定が合わなくて申し訳ないのですが」

「い、いえ、私の方こそ呑気なことを聞いてしまってごめんなさい。忙しいのにこうやって時間を作ってもらえるだけで嬉しいですし」


 雅臣さんの申し訳無さそうな声に、慌ててぶんぶんと首を横に振る。いけない、恋に恋しすぎて呑気なことを聞いてしまった。

 今日はたまたま朝と夜に会えたが、実はこんな日は最近では珍しいことだった。休日であっても急な呼び出しが入ることが多い。どうやら最近、深夜に補導される子が増えているらしく、勤務時間を過ぎても帰ってこないことが多かった。今は九月。新学期が始まって少し経ち、ヤンチャをする青少年達が増えているのだろうか。

 ふと昼間の真木先生の言葉が頭をよぎった。やっぱり親密な関係にならないまますれ違い生活を送っているのはまずいのだろうか。


(全然会えないなら、会えている時間を大事にしなきゃだめよね……)


 コーヒーのマグを両手で持ちながらチラリと雅臣さんの顔を仰ぎ見る。すっと通った鼻筋と長いまつ毛。もう何回も見ているはずなのに、彼の顔を見るだけで未だに胸が心地良い甘さに包まれてしまう。私だって雅臣さんと先に進みたいし、もっと関係を深めたいと思っているのは事実だ。

 私は意を決すると、エイっと腰をあげて雅臣さんの膝の上に乗った。向かい合わせになって彼の両肩に手を置くと、驚いた表情の雅臣さんの顔が目と鼻の先に現れる。その端正な顔立ちを目の当たりにした瞬間、私の頬がカッと熱くなった。


(このままなし崩し的にそういう流れにしてやろうと思ったけど、やっぱり無理──!)


 両手に触れている肩は意外とがっちりしていて逞しい。こうやって密着するといやがおうにも彼の体を想像してしまって私は所在なげにうつむいた。世の中のカップル達はどうやってそういう雰囲気に持っていくのだろうか。

 雅臣さんは驚いた表情で私を見ていたが、私がやろうとしたことを察知したのだろう。大きな手が伸びてきてスルリと私の後頭部の髪をすく。


「雅臣さん……」

「あかりさんが良いなら、俺は止めませんよ」

「すみません、まだちょっと心の準備ができてないかもしれません」

「はは、無理はしなくて良いですよ。交際は始まったばかりですしね」


 雅臣さんの言葉にホッとして私は彼の膝から降りた。笑っている雅臣さんからは残念そうな表情は読み取れなかったけど、やはり彼も先に進めたいと思っているのだろうか。

 気恥ずかしくなった私がうつむいてモジモジしていると、雅臣さんが腰をあげてソファから立ち上がった。


「そろそろ夜も遅い時間ですし、あかりさんもそろそろお休みになった方がいいですよ。隣まで送っていきます。最近あまり会う時間が取れなくて寂しい思いをさせていなければいいんですけど」

「いえ、そんな! だって市民を守る大事なお仕事なんですから。私だって雅臣さんのことを応援したいですし」


 ぶんぶんと両手を振りながら慌てて否定すると、雅臣さんが微かに目を細めた。大きな手が伸びてきて優しく私の体を抱き寄せる。頭の上に落とされたキスは唇にしてもらうよりも甘く優しくて、私は彼の腕の中で縮こまりながら胸の高鳴りに身を任せていた。

 一瞬の睦み合いの後雅臣さんが玄関へと向かっていく。その広い背中を見て私はなんだか寂しくなってしまった。


(やっぱりもうちょっと一緒にいたいって言えば良かったな)


 そんなことを思いながら、私も腰を上げて帰り支度を始めたのだった。



※※※


 だけど、そんなすれ違いの日々が一転したのはそのすぐ後のことだった。

 その日も私は一人分の夕食の材料を買って帰路についていた。雅臣さんはより多忙になってしまったらしく、最近では夕ご飯を共にできることが滅多にない。少しだけ寂しさを感じながらも、今日は雅臣さんの好きなおかずを作って持っていってあげようとマンションの階段を上がると、いつもと違う光景が目に飛び込んできた。


「お帰りー遅かったじゃん」


 私の家の隣、雅臣さんの家の玄関前にいたのは、黒いランドセルを背負った男の子だった。ツンツンした短い髪とわんぱくそうな大きな目。見た所年齢は小学四、五年生くらいだろうか。

 私の部屋の前に見知らぬ小学生がいるという事実に困惑しながらも慌てて腕時計に目を落とす。時刻は午後六時半。ランドセルを背負ったままの小学生が一人で出歩くには遅い時間だ。


「お、お帰り? ちょっと待って、あなたは誰? そもそも小学生がこんな時間まで出歩いちゃだめでしょう」

「あれ? だっておねーさん、マサの彼女でしょ? マサから聞いてないの?」 

「マサっていうのは雅臣さんのこと? 私は何も聞いていないわ。そもそもどうしてあなたは私のことを知っているの? 私はあなたのことを知らないわよ」

「あれ? そーだっけ。まぁそんなことどうだっていーじゃん。とりあえずオレ、お腹減ったんだけど、家にいれてもらってもいい?」

「い、家に入るの? 待って、どういうことなのか本当にわからないわ。とりあえずあなたの名前を教えてくれる?」


 困惑しながら問うと、ワタル君は勝ち気そうな目を光らせてふふんと鼻を鳴らした。


「オレ、一ノ瀬ワタル。今日からここの家の子になるから。よろしくね、おねーさん」

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