EXエピソード
第34話 それから
「いただきまーす」
午前六時三十分。いつも生徒たちに教えているように綺麗に両手を合わせて食事前の挨拶をする。私の目の前には程よく色づいたトーストと、鮮やかな黄身がぷるぷると震えているハムエッグ、そして彩り豊かなサラダが美しく盛り付けられていた。
おひさまのような卵に箸を突き刺すと、ツプリと音がしてトロトロの黄身が流れてくる。ピンク色のハムと一緒に口に運べば、幸せの味が口いっぱいに広がった。
「ん〜美味しいです! 雅臣さん、料理も上手なんですね」
掛け値なしの感想を口にすると、私の目の前に座っている雅臣さんがコーヒーを飲みながら嬉しそうに笑った。
「練習したんですよ、あかりさんと一緒にご飯を食べるようになるので、恥ずかしい所は見せられないなと思いまして」
「もう、またそういうことを言って。これは昔からちゃんと作っていた人のご飯ですよ。私は騙されませんからね」
どう見てもこれは子供の頃からちゃんとお手伝いをしてきた人の手料理だ。でもそうやって私を喜ばせようとしてくれる言葉に素直に嬉しくなってしまう気持ちも否定できない。
照れくさい気持ちを隠すようにサラダにフォークを突き立てると、私の言葉を受けて雅臣さんが顔を綻ばせた。
「でもこんなにしっかりとした朝食を用意するのはあかりさんと一緒に食べるようになってからなのは本当ですよ。一人だけだと朝食もコーヒーだけですますことも多いですし、夜も出来合いの物を買ってくることが多いですから」
「えへへ、私もですよ。駅前の牛丼屋なんて何回お世話になったか。でもこうやって誰かと一緒に食べるのは楽しいですね。今度の晩ご飯は私が作る番ですけど、何か食べたいものはありますか?」
「そうですね、肉じゃがが良いかな。あかりさんの味付け、好きなんですよ」
「本当ですか? うわぁ嬉しい。じゃあ作って待ってますね」
ウキウキしながら返事をすると、雅臣さんが嬉しそうに頷きながらコーヒーを口にした。黒い半袖のシャツの袖口から覗く腕が目に眩しい。ほんのりと髪が湿っているのはきっと早朝にランニングをしてシャワーを浴びたからなのだろう。なんだかそんな些細な部分にまで色気を感じてしまって、私は慌てて目の前の目玉焼きに意識を集中させた。全く私ってば朝から何を考えているのやら。
雅臣さんとお付き合いを初めてから三ヶ月。私達は順調に交際を続けていた。だけど警察官と小学校の教師という職業柄、勤務日を合わせることはとても難しい。休みを合わせることなどもっての外だ。考えた末、私達は朝の時間だけでも一緒に過ごすことに決めたのだ。
雅臣さんがお休みの日は彼の部屋で、私がお休みの日は私の部屋で一緒に朝食をとる。私がご飯を作る番の時は、雅臣さんはたまに早く来て一緒に朝ごはんを作ってくれるが、私はどうしてもギリギリまで布団にいてしまうので彼に甘えてしまうことも多い。今朝も私が雅臣さんの部屋を訪ねた時には、もう朝食が完璧に用意されていた。部屋も綺麗に片付いており、モノクロの家具が置かれたリビングは清潔感があって居心地も良い。一部の隙もなく完璧な彼にどきどきしながら私はチラリと視線をあげた。
(こんなに優しくてかっこいい人とお付き合いしてるなんていまだに信じられないなぁ……)
目の前の彼を見ながら内心でホウとため息をつく。こんなに幸せな時間はもっとゆっくり過ごしたい所だけど、残念ながら朝の時間は限られている。そろそろ学校に行かなければいけない時間なので私はご馳走様の挨拶をして席を立った。
食器をさげ、台所に立つ。洗い物をしようとスポンジを手に持つ雅臣さんの隣に並ぶと、ふわりと仄かに石鹸の香りがした。
「洗い物は俺がやりますよ。あかりさんはこれからお仕事なんですから、支度もあるでしょう」
「いえ、ご馳走になったんだからこれくらいはやらないと。雅臣さんだって私の家でも自分の食べた食器は洗ってくれるじゃないですか。それにこうやって二人で並んで立っているとなんだか新婚さんみたいで嬉しいんです。なんて」
ちょっと照れながら言うと、雅臣さんが軽く微笑んだ。その優しい笑みの中に喜びの感情があることを感じ取り、私の胸もくすぐったくなる。でも私が言ったことも本当。会える時間が少ないからこそなるべく近くにいて彼の匂いや体温を感じていたいし、新婚ごっこを楽しみたい気持ちもあった。
他愛のない会話をしながら朝のひとときを過ごす。職場に向かうまでのこの時間が私は最高に好きだった。
「じゃあ私はそろそろ学校に行きますね。ご馳走様でした。姿見をお借りしてもいいですか?」
片付けも終わったので雅臣さんに挨拶をする。時刻は午前七時十分。ここから学校までは十五分くらいだ。身だしなみのチェックの為に鏡を借りたいと伝えると、雅臣さんが頷いて部屋の隅に置いてある姿見を指差した。シンプルな作りの鏡は結構大きい。こういう些細な所で将臣さんの背の高さや体格の良さを感じてしまって、私はまたもやドキドキしてしまった。
姿見の前で立ち、手でブラウスを伸ばしてスカートの裾を直す。乱れた所はないだろうかと念入りにチェックをしていると、雅臣さんが私の後ろに立った。姿見に彼の端正な顔が映ってドキリとする。同時に長い指でスルッと首の後ろを撫でられて、私は「ひゃ!」と情けない悲鳴をあげた。
「ままま雅臣さん! ど、どうしたんですか!」
顔の熱さを感じながら慌てて振り向くと、雅臣さんがパッと手を離した。
「すみません。背中のリボンが解けていたので結び直そうと思いまして」
「えっ! わ、すみません。やだ私ったら恥ずかしい……」
そういえば今日着ているブラウスは細いリボンを首の後ろで結ぶ仕様になっていたことを思い出す。盛大な勘違いが恥ずかしくて、私は慌てて首の後ろに手を回した。
リボンの端と端を持って蝶結びにしようとするが、手元が見えない為かどうしてもうまくいかない。これは一度脱いで結んでから着直そうかと思っていると、雅臣さんがおかしそうに笑った。
「よければ俺がやりましょうか?」
「本当ですか? じゃあ申し訳ないんですけどお願いします」
彼の申し出に素直にお願いすると、雅臣さんが頷いてリボンの端を手に取った。一瞬だけ引っ張られる感覚があり、シュルリシュルリと微かな音と共にリボンが結ばれていく。ただリボンを結んでもらっているだけのはずなのに、首の後ろで彼の指が動いている気配にゾクリと背筋が甘美に震えた。やだ私ったら何を想像しているんだろう。ただリボンを結んでもらっているだけなのに……。
そっと視線をあげて鏡越しに彼を見ると、雅臣さんと目がバチッと合った。ふっと微かに笑った彼の表情にドキドキして私は慌てて視線をそらす。最後にキュッと微かに締められる感覚があり、雅臣さんの手が離れていくのがわかった。
「はい、できましたよ」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、私はそろそろ行きますね」
ほんの少し照れながら鞄を肩にかけると、雅臣さんが玄関まで見送ってくれる。とびきりの嬉しさと幸せを胸に抱きながら、私は彼の部屋を後にした。
「あんたそれ、同棲って言うんじゃないの?」
休み時間。コンビニで買ったコーヒーを飲みながら真木先生がズバリと突っ込んだ。まるで断罪するかのような真木先生の迫力に、私も水筒のお茶を持ったまま目をしばたかせる。
「同棲じゃないですよ。一緒に住んでないですもん」
「でも時間が合う時は毎日一緒に朝と夜ご飯を食べてるんでしょ? それってほぼ一緒に暮らしてるのと同じじゃない」
「確かに朝と夜は一緒にご飯を食べるってことになってますし、作るのも日替わりで交代ですけど、寝る時はお互いの家に帰るのでお家デートが正解ですかね」
自分で言っておきながら「お家デート」の言葉ににへらっと顔が崩れてしまう。そんな私の腑抜けた顔を見て真木先生が呆れ顔でため息をついた。
「なんじゃあそりゃあ。今どき高校生の方がもっと大人の恋愛してるわよ。なんだってあんた達はそうガキくさいのさ。もうここは大人のお付き合いらしく、同棲に持ち込みなさい」
「私も一緒に暮らしてみたい気持ちはあるんですけど、雅臣さんがちゃんと両親の許可を取ってからって」
「ああそう、うん、まぁ確かにあの人はそういうことを言いそうタイプね」
「それに、最近は雅臣さんが忙しくて朝だけしか会えない日が多いんですよね。なのでそういう話をする機会がなくて」
「ん? 朝だけ?」
得意気に答えた私の言葉に、真木先生が眉をひそめる。
「ちょっと聞くけど、あんた達最近家以外でデートしたのはいつよ」
「えっと、二ヶ月くらい前ですかね」
「休日がかぶることは?」
「最近は公休でも呼び出されることが多いですね。夏休み開けだからやんちゃする学生が多いみたいで」
「てことは何、ここ最近まともに一緒にいるのは朝の時間だけってこと?」
「そういうことになりますね」
「……まさかだけどあんた達、まだヤッてないってことはないわよね」
「ちょ、ちょっとなんてことを聞くんですか! わ、私朝からそんなふしだらなことはしません!」
まったく、こういう時の真木先生は遠慮がない。慌てて否定する私を見て、今度こそ真木先生が観念したように天を仰いだ。
「会うのは朝だけ、デートもなし、おまけに体の関係もなし。色々のんびりしているだろうとは思ったけど予想以上だったわね。あんたはこれで満足なの?」
「そりゃ本当のことを言うともっと会いたい気持ちはありますよ。でも無理にそんなことを言っても雅臣さんを困らせるだけですし……」
「あーー! もう、じれったいわね! だから同棲って言う手があるんじゃない。物理的な距離は心の距離。会う時間が少なければ少ないほど愛も冷めやすくなるわよ。二人共忙しくてなかなか一緒にいる時間がないからこそ結婚を前提に同棲してみるのもありだと思うわ。うん、ていうか今すぐやりなさい」
「けけけけ結婚!? それはまだ早すぎませんかね!? だって私達、まだ付き合い始めたばかりですよ!」
「何言ってんのよ。一ノ瀬さんだってそう思っている証がその指にあるでしょう。あんたはもっと自信を持ちなさい」
バシッと告げる真木先生の言葉に思わず手元に視線を落とす。右手の薬指に光る銀色の指輪が日の光を受けてキラリと光った。まだお揃いのものは身につけられていないけど、結婚するまで繋ぎ止めておきたいと言って渡されたもの。忙しい彼の迷惑になってはいけないと思って遠慮をしていたが、私だって雅臣さんともっと一緒にいたい気持ちは本当だ。彼の言うことを信じて、私ももう少し踏み込んでみてもいいのかもしれない。
「わ、わかりました。真木先生、ありがとうございます。私、もうちょっと積極的になって距離を縮めてみます!」
「そうよ。あんた達、放っておいたら永久に朝ご飯友達のままなんでしょ。精々頑張んなさい」
そう言って真木先生がヒラヒラと片手を振る。私は彼女にお礼を言いながら、今度会った時に同棲の話をしてみようかなとぼんやりと思った。
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