第37話 ワタルの事情
部屋の中に案内し、リビングのローテーブルの前に座ってもらう。私と雅臣さんが隣に座り、真向かいにワタル君と環さんが座った。ワタル君はさっきまでのお調子者の様子を潜めて険しい顔でぐっと口を結んでいる。大人たちもなんとなく口が重いようで気まずい空気が流れていた。
そんな中大きなため息をついて沈黙を破ったのは環さんだった。
「そうねぇ、どっから話したらいいのかわからないけど……まずはこの子のことから説明するわね。ワタルは私の姉の子なの。私にとっては甥っ子ね。で、今この子の母親は失踪中」
「え」
いきなり重たい話だ。予想もしていなかった展開に私も息を呑む。そんな私の反応を気遣うように一瞥をくれた環さんが小さくため息をついた。
「ワタルがいるから詳しいことはまた別の機会に話すけど……うちの姉はね、駆け落ちしたのよ。もともと一ノ瀬家ってこのあたりではちょっとした名士だからいまだに結婚とか厳しいのよね」
「ちょ、ちょっと待ってください。名士? ええええ⁉ そうなんですか?」
「あらそうよ。一ノ瀬って言ったら代々警察に勤めてる家系で、このあたりじゃ逆らえる家なんてないんだから。むしろあなたは雅臣の恋人なのに逆になにも知らなかったの? 私、最初あなたが玉の輿目的で雅臣とつきあってるのかと思って警戒しちゃったんだけど」
「ぜ、全然知りませんでした……」
驚いて隣の雅臣さんを見やると、彼はちょっと困ったように笑った。
「名士と言われているのは環がいる本家の方ですよ。俺の実家は普通の公務員です」
「雅臣のお父さんは次男だから。私の父が本家を継いでるんだけど、まぁ娘の私もこうやって警官にならずに好き勝手やってる親不孝者だからあんまり実家には帰りたくないのよねー。まぁそんなことはどうでもいいや」
コホンと咳払いをして環さんは話を戻す。
彼女の話をまとめるとこうだ。
雅臣さんの従妹であり、一ノ瀬の本家の娘である環さんの実家はかなり躾やしきたりに厳しい家だ。学校やスポーツで優秀な成績を収めることは当たり前、交際する友人や恋人にまで口を出され、常に恥じない行動をとるよう口すっぱく言われる。そんな実家に嫌気がさした環さんは新聞記者になって早々に家を出てしまったが、お姉さんはずっと実家で花嫁修行をしていたらしい。
だけどあるとき、どこで知り合ったかわからない男と恋に落ち、実家の反対を押し切って駆け落ちした。一ノ瀬本家の当主──雅臣さんの伯父はカンカンで親子の縁を切るほどの勢いだったが、なんと駆け落ちしてから数年後、離婚したからとお姉さんは実家に戻ってきたのだ。まだ小さなワタル君を連れて。
もちろん当主は反対したが、お母さんや環さんの説得もあってその後お姉さんはワタル君とともに実家に身を寄せていた。だけどやっぱりお姉さんはどうしても実家から出たかったようで、最近できた新しい恋人とともにまたもや新生活を送る準備をしていたらしい。
だけどその矢先に恋人が失踪してしまった。家に帰らない日が数ヶ月続いたかと思うと、ぱったり連絡が取れなくなってしまったそうだ。恋人の行方を探すために家を出たお姉さんも、同様に連絡が取れなくなっている。
「もちろん二人の捜索願も出しているし、警察にも届けているわ。身内は皆警察官だしね……でも多分身内だからこそ公にしたくないと思って捜査は難航しているの。雅臣にも協力してもらってるんだけど、正直いつまで続くかわからないし、私も困っているのよね」
そう言って環さんがはぁとため息をついた。話を聞き終えた私も、あまりにも予想外の話に頭の整理ができていなかった。ちょっといたずら好きのやんちゃな男の子だと思っていたワタル君に、まさかこんな辛い事情があったなんて。
「もともと姉さんのせいでワタルも本家では肩身の狭い生活をしていたのよ。今回姉さんもいなくなってしまって、あの頑固ジジイのもとにワタルを一人残しておくのは可哀想だからって私が一時的に預かったんだけど、帰ったらワタルの姿が見えなくて心臓が止まるかと思ったわよ」
「だから、勝手に出ていったのは悪かったと思ってるって」
環さんの言葉を受けてワタル君がブスッとしながら返事をする。環さんもワタル君のことを軽くにらんだが、この二人の間には気心の知れた空気があった。年の離れたお姉さんと弟のような関係。これだけでも環さんがワタル君のことを可愛がっているのが伝わってくる。
「多分、ワタルは寂しいのよね。私も仕事がこんな感じでしょう? なるべく早く帰るようにはしてるんだけど、ワタルを夜まで一人にさせることも多くて悩んでるのよ。雅臣のところに行ったのは、多分構ってくれる誰かに会いたかったからだと思うわ。そうでしょ、ワタル」
「…………」
環さんの言葉にワタル君は返事をせずプイとそっぽを向いた。だけど何かを我慢するかのようにキュッと固く結ばれた唇が彼女の言葉を肯定していた。
環さんが大きなため息をつき、雅臣さんにちらりと意味深な視線を送る。
「ねえ、一週間のうち数日だけでもいいから雅臣の方で預かってもらえたりできないかな。このままだとワタルが可哀想で……」
「事情はわかるがかなり難しい話だな。最近どうも急な呼び出しがかかることが多くて、俺も急に家を開けることになるかもしれない。夜中にワタルを家に一人置いて行くわけにもいかないしな」
「そうよね。うん、この話をここでしていても埒があかないし、今日は遅いから一旦帰るわ。さ、帰るわよワタル」
そう言って環さんが立ち上がる。だけどワタル君はぐっと口を結んで黙ったままだった。机の上をにらみつけるその目はどこか悲しそうで、なんだか泣くのを我慢しているように見える。悲しそうな彼の顔を見て、私の胸もギュッと締めつけられた。
(そうだよね、お母さんがいなくなって不安な上に甘えられる大人がいないんだもんね)
なんとかしてあげたいと思ってしまうのはエゴだ。それにこれは他人の家の話であって私が首を突っ込むことではない。だけど意識した瞬間、私はもういても立ってもいられなくなってしまった。
「あの、もしよかったら私が預かるというのはどうでしょうか……」
環さんと雅臣さんの目がいっせいに私に向けられる。言ってからしまったと思ったが、口に出してしまった以上撤回する気はない。
「わ、私なら基本的に土日はお休みだし、毎日夜は家にいるので面倒を見ることはできます。ワタル君は一時的にうちの学校に転校することになると思いますが、普段からワタル君の様子も見ることができるしいいかなって思ったんですけど……」
「お気持ちは大変ありがたいのですが、これは俺の家の問題ですから、あかりさん一人に背負わすことはできません。もとはと言えば俺の身内の不始末から出た問題ですからね」
一ノ瀬さんが優しく、それでもきっぱりと告げる。さすがに差し出がましいことを言ってしまったかなと思ったが、ふと前を見ると私を見つめているワタル君の目と視線があった。その目に微かな期待の色があるのを見て、私は机の下で拳を握って決意をかためる。
「でもやっぱり大人の事情に子供を巻き込むのは可哀想だと思うんです。ただでさえお母さんが行方不明なんですから、ワタル君も不安や寂しい気持ちは大きいはず。私にできることは少ないかもしれませんが、このまま黙って見ているわけにはいきません。お願いします、ワタル君を預からせてください!」
机に額をぶつけそうな勢いで環さんに向かって頭を下げると、環さんがぽかんと口を開けた。まさかこんな展開になるとは予想していなかったという顔だ。私自身も予想していなかったことなので当たり前なんだけど。
私の急な発言に戸惑いながらも環さんがおずおずと口を開く。
「私としては願ったり叶ったりなんだけど……でもいいの? こういう言い方は失礼だけどあなたは部外者でしょう。雅臣の恋人だからと言ってあなたが負担を抱える必要はないのよ」
「いえ、私、以前に怪盗……いや放課後に生徒たちの面倒を見ていたことがあって、こういうことには慣れているんです。一教職員として子供の抱えている問題は見過ごせないというか……や、やっぱり難しいですかね?」
もじもじしながらチラリと隣に視線を向ける。雅臣さんは顎に手をあてて何かを考え込んでいる様子だったが、私と視線が合うとふっと相好を崩した。
「まったくあなたは突拍子もないことを言う……でも、俺があなたのことを好きなのは、こういうところかもしれませんね」
「えっす、好きって……」
まっすぐな好意の言葉を告げられて私の体温が急上昇する。環さんも雅臣さんの突然の告白に驚いたのか目を丸くしていた。でも彼は特に気にした様子もなく、涼しい顔で微笑んでいた。
「でもあかりさん一人にすべてを背負わすわけにはいきませんから、俺もワタルの面倒を見ます。あかりさんには負担をかけてしまって申し訳ありませんがよろしくお願いします」
「あ、はい。それは大丈夫です。子供の相手をするのは好きですから! でもどうやって二人で面倒を見ればいいんでしょうか。日替わり?」
「そうですね、それでもいいのですが……あかりさんが良ければ、せっかくですからこのまま一緒に暮らしましょうか」
サラリと告げられた言葉に一瞬「はい」と笑顔で即答しそうになるが、同時に「ん?」と違和感が仕事する。あれ? 幻聴かな。今一緒に暮らすって言葉が聞こえたみたいだけど……
「えええええ⁉ い、一緒に住むって、私と雅臣さんがですか? ど、同棲するってことですか⁉」
「ええ、実は前々からずっと提案しようと思っていたんですよ。落ち着いてからお話をしようと思っていたのですが、ちょうどいい機会です。あかりさんはお嫌ですか?」
「い、嫌だなんてそんなことはありませんし私もお願いしたいですが、こ、心の準備が」
「良かった。それでは今度ご両親に挨拶をさせてくださいね。そういうわけだから環、落ち着いたら連絡をするから、ワタルの転校手続きを頼めるか?」
「そんなのお安い御用だけど、驚いたわ。この子に本気なのね。恋愛ごとについてはあんまり積極的じゃないあなたがこんなにハッキリ好意を出すなんて見たことがないもの」
環さんが、雅臣さんによく似た切れ長の目をしばたかせてあんぐりと口を開ける。だけど次の瞬間には形の良い唇をあげてにやりと笑った。
「まぁでも、あなたがこの子にお熱になるのがちょっとわかった気がするわね。じゃあ手続きが済んだらまた連絡するわ。今日のところは帰るわよ、ワタル」
環さんが立ち上がると、黙って座っていたワタル君も頷いて席を立つ。玄関に向かうワタル君が振り向いてちらりと私を見た。
「……ありがとう」
ボソボソと告げられた一言に彼の思いがたくさん詰まっている気がして、私はぐっと拳を握ってもう一度覚悟を決めた。
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