【番外編①】江坂と真木(前編)

「真木先生大丈夫ですか? 酔っちゃいましたか?」

 

 落ち着いた、気遣うような響きを伴った声に呼ばれて私はハッと我に返った。途端にガチャガチャと食器が触れ合う音や人の話し声など店内の喧騒が耳に戻ってくる。

 知らないうちにボーッと虚空を眺めていたらしい。オレンジ色の蛍光灯に照らされて、真向かいの席に座っている後輩が大きな瞳で心配そうにこちらを見ていた。   

 茶色のふわっとしたボブヘアとその中で光る白くて丸いイヤリング。グラスを持つ右手の薬指には銀色の輪っかが静かに煌めいている。

 居酒屋の蛍光灯を反射しているそれを見ながらなんでもないようにヒラヒラと手を振ると、私はテーブルに置かれたハイボールのグラスを手に取った。目の前の後輩が微かに眉をひそめる。


「真木先生、明日はお休みだからって飲み過ぎはダメですよ」

「ハイハイ大丈夫だってーの! こう見えて私結構強いんだから」

「そんなこと言って、先日泥酔してうちに転がり込んで来たじゃないですか! もう、二日酔いになっても知らないですよ」


 頬をぷっと膨らませながら注意する後輩はリスみたいだ。そんなことを言いつつも、毎回わざわざ部屋に私専用の寝間着を準備していてくれているのも知っている。面倒見が良くてお人好し。そう、浅雛あかりはそういうやつなのだ。

 ハイボールを一気飲みしてグラスを置くと、喉を通ったアルコールが瞬間的に体温をあげる。ふぅっと息を吐くと、横から太い腕が伸びてきて正面に水の入ったグラスがコトリと置かれた。


「真木さん、お水。ここに置いておきますね」


 低くて落ち着いた声が響く。私は礼を言いながらお冷を受け取り、グラス越しにちらりと声の主に目を向けた。

 短く切られた髪と凛々しい切れ長の目。服を着ていてもわかる逞しい体は警察官という職業に恥じない見た目だ。

 端正な顔立ちで優しくこちらを見ているのは、先日浅雛あかりの恋人になった一ノ瀬という男だった。少し前まで自分が勤める小学校にもパトロールで来ていてくれたので、私とも顔なじみでもある。

 その男――なぜ一ノ瀬さんがここにいるのか一瞬戸惑ったが、そういえば自分が彼を呼びつけたことを思い出して苦笑する。可愛い後輩の言う通り、自分はもしかするとだいぶ酔っているのかもしれない。


「あかりさんの分もありますよ。どうぞ」

「あ、はい。えと、ありがとうございます……」


 一ノ瀬さんが差し出すグラスを、もじもじしながらあかり先生が受け取る。その際に手が一瞬重なり合い、ウブな後輩の顔がサッと赤くなった。まるで高校生のようにわかりやすい反応を横目で見ながら私はグラスの水を飲み干す。


(あーこりゃあかり先生には荷が重いわ……)


 カチコチになりながらお冷に口をつけるあかり先生と、彼女を嬉しそうに見守る一ノ瀬さんを交互に見比べながら私は内心でひとりごちた。

 実は今日二人を居酒屋に呼びつけたのは、カワイイ後輩にできた初めての恋人を見定める為だった。恋愛に耐性のないあかり先生が変な男に引っかかっていないか見てやろうと思ったのだが、一ノ瀬雅臣という人物は変な男どころか合コンにいれば間違いなく女子が群がりそうな好青年だった。

 人前でベタベタするようなことはしないものの、あかり先生を見る瞳は慈愛に満ちていて、それだけで恋人のことを大切に想っていることがよくわかる。さっきからも、お冷をしっかり飲ませたり、冷房が当たる場所を避けて座らせたりと配慮も完璧だ。

 あかり先生と比べると恋愛偏差値の差は歴然だが、きっとこういう男は無理強いせずに彼女のペースに合わせて関係を進めてくれるのだろう。こういうタイプの男は多分夜もうまい。

 そこまで考えた所で私は自嘲気味に笑った。他人の彼氏の選定をするなんて随分と私は偉くなったものだ。そんなことをする資格なんてないのに。

 

 ――理沙子、ごめんな。でも別れよう。


 ふっと思い出された声が楽しい気持ちに水をさす。ああもう、やめてよ。折角美味しく飲んでたのに。ふるふると首を振って靄を追い払おうとするも、心に蓋をしようとすればするほど声は強く響いてくる。私を否定する言葉がねっとりと絡みついてきて離れない。

 気がつくと私はグラスを掴んでいた。そのまま苦い記憶を押し込めるようにお酒を呷ろうとした時だった。


「すみませーん一ノ瀬さん。遅刻しましたっ!」


 店内に響くやけに明るい声が一瞬で心の靄をかき消す。何? と顔をあげると若い男性が大きく息を吐きながら私の隣に腰をおろした。え、待って。誰この人。


「江坂、遅刻するなら一言くらい連絡を入れろ」

「へへっスンマセン。午後から非番だったから仮眠取ったら寝過ごしました」


 ポリポリと頬をかきながら両手を合わせて拝む彼の名前を聞いて合点がいった。そういえば私が二人を誘った際に、あかり先生が気を利かせてもう一人一ノ瀬さん側の知り合いに声をかけたと言っていたことを思い出す。彼は多分一ノ瀬さんの後輩なのだろう。

 少し長めの黒髪に人懐っこそうなクリクリとした大きな目は、なんとなく実家の犬を連想させる。軽そうな男だが顔立ちはなかなかに整っているな、などとぼんやり思っていると、彼がこちらを向いてニッと笑った。


「真木ちゃん、だよね? オレ江坂。遅れてごめんね」

「いえ。あまりにも遅いのであなたが来ること自体忘れてましたけど」

「わ。オレ気の強い子大好き」


 嬉しそうに声を弾ませる彼を無視してハイボールを注文する。見た目が派手な自覚はあるから、こうやってすぐに距離を詰めてこようとする男の交わし方は会得済みだ。

 それでも彼は特に気分を害した様子はなく、私の隣でビールを注文していた。ちょっとお調子者だけど年上に可愛がられるタイプ、あとチャラそう。それが私が彼に抱いた第一印象だ。  


 その後も当たり障りのない会話をして、本日の飲み会はお開きになった。

 




「真木先生、大丈夫ですか? 一人で帰れますか?」

「何言ってんのよ。これくらいで酔う私じゃないわ。なんならあと一軒くらい行ってもいいのよ」


 フフンと鼻を鳴らして偉そうに腰に手を当てる。冷たい冬の風が酒で火照った体に心地良い。大丈夫、私は。後輩の前でくらい、カッコいい私でいなければ。

 こめかみがズキズキするのに気づかないフリをして、ヒールで地面を串刺すように踏ん張って立っていると、キッと音がして目の前にタクシーが停まった。


「真木さん、タクシー呼んでおきましたから。気をつけて帰ってくださいね」


 一ノ瀬さんがスマホのライトを切りながら微笑む。知らない間に帰りのタクシーを呼んでおいてくれたみたいだ。やだこんなことされたらちょっとキュンとしちゃうじゃない。でも私は良識ある大人の女。人の男に手を出す節操なしではない。

 丁寧にお礼を言ってタクシーに乗り込むと、ドサッと音がして隣の席に江坂さんが乗り込んできた。


「すんません、オレも一緒にお願いしまーす」

「は? あんたなんで乗ってんの?」

「あ、オレもこっち方面なんで。一ノ瀬さん、真木ちゃんはオレが誠意を持って送っていきますので安心してくださいね」

「その方が安全だな、じゃあ江坂、頼むぞ」

「ラジャーっす!」


 え? ちょっと待ってよ。なんで知り合ったばかりの男に送ってもらわないといけないのよ。慌てて彼を押し出そうとするも、反論する余裕もないまま無情にもドアが閉まり、タクシーは夜の街へと走り出した。


 窓枠に頬杖をつきながらぼんやりした表情で景色を眺める。隣で江坂さんが話しかけてくるが、適当な返事でいなしてその気がないように振る舞った。

 でもやっぱり飲みすぎたのか、話していくうちにどんどんと虚しい感情が胸の内を支配していく。


 ――私はどうしてまともな男と付き合えないんだろう。


 私は昔から男を見る目がなかった。浮気をする男、借金をする男、おまけに先日まで好きだった男は犯罪者だ。ここまで来るともう苦笑いしか出てこない。

 自分の隣でニコニコと話しかけてくるこの青年も、きっと一時的な触れ合いしか求めていないのだろう。そう思った途端、情けなさに気持ちがどんどん泥沼に落ちていくのがわかった。


 頭が痛い。こめかみがズキズキする。

 

 脳裏に先程の後輩カップルの睦まじい姿が蘇る。浅雛あかりは良い子だ。生徒思いで責任感もある。そんな彼女に素敵な恋人ができたことは素直に嬉しい。だけど、きっと私にはああいう恋人は一生できない。

 

「真木ちゃん、着いたよ。降りられる?」


 現実の声が、私を思考の海から引き上げる。ハッとして顔をあげると、タクシーは既に私のマンションの前に停まっていた。

 ドアを開けて出ようとした途端、くらりと目眩がして私はタクシーのドアに手をついた。時間が経ってだいぶアルコールが回ってしまったようだ。思わず痛む頭に手をやると、江坂さんが私の体を抱きとめるかのように支えてくれる。


「だいぶ酔っちゃったみたいだね〜大丈夫? 部屋まで送っていくよ」

「いえ、そこまでしてもらわなくて結構です。自分で立てますから」


 腕を伸ばして自分から引き離すように江坂さんの体を押す。だけど手のひらに伝わる固い体の感触に、胸の奥で何かが揺らぐのを感じた。

 久しぶりに触る男性の身体。もう何年この感触を味わっていないだろう。そう思った途端、この虚しさを埋めるものがほしいと思ってしまった。


「ねぇ、あなた明日お休みなんでしょう? 今晩泊まっていきなさいよ」


 江坂さんの腕の中から、まるで挑むかのように上目遣いで挑発すると、江坂さんがふーんと呟いて口角をあげた。


「真木ちゃん意外と寂しがり屋さんなんだ」

「うるさい。来るのか、来ないのかすぐに決めなさいよ」

「そりゃまぁ美人のお誘いを断らない男はいないでしょ」


 その言葉と共に、江坂さんが私を地面に立たせてくれる。私は彼の腕を振りほどくと、マンションの入り口までの道を歩いて行った。


 虚しいほどにぽっかりと空いた、胸の穴に気付かないフリをしながら。

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