第29話 誘拐

 男の背を追って私は全速力で走っていた。赤ちゃんを抱えているというのに、前を走る男は結構速い。やはり男と女では筋力や体力が違う為、女の私では追いつくのに時間がかかってしまうようだ。

 だけど私だって身体能力や持久力には自信がある。追いつけはしないものの、男に大幅に引き離されないよう速度を保ちながら食らいついていた。勿論、雅臣さんに居場所を知らせるために、走りながらGPSのボタンを押すのも忘れない。


 走り始めて数分経ったが、男は疲れる様子もなく走り続けていた。私も追いかけながら、どこのタイミングで彼を捕まえればいいか必死で考える。

 恐ろしいことに、男はごく当たり前のような振る舞いで赤ちゃんを連れ去っていった。下手をすると保護者かと思うくらいに躊躇いのない自然な動作だ。たまたま私が眺めていたから気がついたものの、周囲に誰もいなかったと思うとゾッとする。

 彼の動きから察するに、赤ちゃんの誘拐は元々狙っていたものなのだろう。そうなると、きっと彼は逃げるための手段を用意しているはずだ。捕まえるとしたらそこしかない。


 男を追ううちに公園の出口が見えてきた。この先にあるのは大型の駐車場だ。どうやら彼は車で逃げるつもりらしい。私は見失わないように男の背中を睨みつけながら、一気に速度をあげた。

 男が白い軽自動車の前で止まり、運転席を開ける。そのまま赤ちゃんを連れこむ為に後ろ姿を見せた隙に、私は彼の背中めがけて勢いよく車内へ飛び込んだ。


「うわっ!」


 まさか私がこんなに早く追いつくとは思っていなかったのだろう。男が驚いて手足を振り回す。だけど男の背中に張り付いた私はそのまま彼の体をおさえつけ、踏み台にするかのように前のめりになりながら車内を見回した。

 赤ちゃんは後部座席で泣き声をあげている。急いで後ろに移動しようとするも、男が体勢を変えて私と向き合うかのように正面を向いた。


「くそっ誰だお前離れ……へぶっ!」


 咄嗟に男に抱きつくかのように全体重をかける。運悪く男の顔面に私の胸があたり、私の体に押しつぶされた男が踏みつけられたカエルのような声を上げた。真木先生がよく「乳は女の武器」と言っていたが、まさにその役割を果たしてくれたみたいだ。多分彼女が言う意味とは違うだろうけど。

 男の顔面に張り付いたまま、車のハンドルに足をかけてするりと後部座席へ移動する。そして座席で泣いている赤ちゃんを抱っこすると、扉を蹴るようにして車の外へと飛び出した。


「てめぇ誰だ! 赤子を返せ!」


 背後で叫び声が聞こえた。私は脇目も振らずに走るが、赤ちゃんというものは意外と重い。機動力が落ちた私はあっという間に男に追いつかれ正面に回られてしまった。


「それは俺のだ……俺から奪うやつは……皆殺す……」


 ぶつぶつと独り言を呟きながら男がポケットに手を入れる。次の瞬間には、男の手にカッターナイフが握られていた。

 視界にちらつく鈍い光に私はヒッと息を飲む。逃げることも戦うこともできない状況に、私が思わず赤子を抱きしめた時だった。

 背後から足音が聞こえたと同時に目の前に雅臣さんが飛び出し、男の両腕を掴む。彼は瞬時に手の甲をはたいてカッターを叩き落とすと、男の腕をひねり上げて地面にねじ伏せた。


「ああああああああああ!!!」


 激痛に喘ぐ男の両腕を後ろに回し、馬乗りになる。男が身動きが取れなくなったのを確認すると、雅臣さんはスマホを取り出してどこかへ連絡をしていた。


「ああ、駿! 駿! すみませんすみません本当に申し訳ございません」


 叫ぶ声がする方を見ると、小さい男の子の手を引いたお母さんが泣きながらこちらへ走ってくる姿が見えた。

 同時にサイレンの音が聞こえ、パトカーが数台到着する。雅臣さんは、パトカーから降りてきた警察官に指示を出しながら男に手錠をかけて連行していた。


 赤ちゃんをお母さんに返しながら、私は雅臣さんの姿を見ていた。男を捉えてから雅臣さんは一瞬私を見たきり後は現場の対応に注力していた。多分恋人としてより、市民を守る警察官としての顔を優先させているのだろう。そのことを誇らしく思いながら見ていると、雅臣さんがこちらに近づいてきて私の前で安堵の息を吐いた。


「あかりさん、怪我はありませんか?」

「は、はい。雅臣さんが助けてくれたので私は無事です」

「良かった。今から事情聴取を行って、俺はそのまま応援の為に署へ向かいます。折角のデートを切り上げることになって申し訳ないのですが、この埋め合わせはどこかでさせてください」

「そんな、埋め合わせなんてとんでもないです。今日は十分楽しかったですよ」


 そう答えると、雅臣さんが少しだけ表情を和らげた。手を伸ばして私の頭を優しく撫でる。

 その後私は警察の聴取を受け、雅臣さんと分かれて帰路についた。



※※※


 誘拐未遂で逮捕された男は誘拐未遂の罪状を認めた。仕事も人生も何もかもうまくいかない彼は、幸せそうな家庭を見ると壊してしまいたくなるそうだ。それだけではなく、少し精神が錯乱している所もあり、赤子については本気で自分の子供だと思っているような言動も見られた。なんにせよ、野放しにはしておけない人物だ。彼を逮捕できたのは、彼女の功績が大きい。 


 そこまで考えて、一ノ瀬はふっと顔をあげた。目の前に交番の入り口が映る。署で様々な手続きを済ませた後、折角だからもう仕事の続きでもしてしまおうかと思い交番に戻ってきたのだった。

 時刻は夜の九時。さすがに今からデートの続きをするわけにはいかない。埋め合わせの為のデートプランを考えながら、一ノ瀬はあの明るい笑顔を思い出していた。

 最近交際を始めた恋人。くりっとした愛らしい表情と小柄だが元気いっぱいの彼女は小動物みたいで、一緒にいると明るい気持ちになれる。

 甘いものを食べて嬉しそうにしている顔も、落ち込んでしょげている顔も、感情が素直に出てしまうところがとても好ましい。子供が好きで、子供が関わることになると途端に凛々しい表情を見せるところも。

 そこまで考えた所で、一ノ瀬の胸がざわりと波打った。教師という職業に就いているからか、子供を助ける為であれば、時に彼女はかなりの無茶をする。虐待されていた相模正太郎を救った時もそうだし、今回の一件でもそうだ。 

 GPSの信号に気付き、急いで現場に向かった一ノ瀬が見たのは、彼女が臆することなく車内へ飛び込み、赤子を連れて車の外へ転がり出る姿だった。見事なまでの身のこなしと軽やかさ。身体能力に自信があるのは知っている。だが、その光景を見た瞬間、自分は違和感を覚えた。


 ――あまりにも躊躇ためらいがなさすぎる。


 彼女は自分達のような訓練を受けていない、一般市民だ。普通の精神であれば赤子を誘拐した犯人に立ち向かうことなんてできるはずがない。あの身のこなしと動きは、普段から度胸のあることをしているのではないか。

 そう思った途端、脳裏をかすめるのはやはり女怪盗の存在だった。

 彼女を怪盗と結びつけるのは早計だが、どうしても彼女にまとわりつく違和感は拭えない。だが、もしも仮に彼女がなんらかの犯罪に関わっていた場合、自分はどうするのだろうか。


 逮捕するのか、しないのか。


 そこまで考えて、一ノ瀬はデスクの引き出しから一枚の書類を取り出した。随分前に提出された、ぴよぴよ仮面という人物による住居侵入の被害届だ。

 住居侵入罪というのは、家主の許可なく勝手に住居内に立ち入る行為のことを言う。もちろん刑罰の対象だし、場合によっては罰金刑や懲役が課される場合もある。

 提出された被害届は一件だけ、且つ犯行内容は軽微なものだが、他にも同様のことをしているか余罪を洗い出す為にも彼女を捕まえる必要があった。

 堅苦しい文面の中に踊る「ぴよぴよ仮面」の文字をそっとなぞる。被害届という言葉に似つかわしくない、子供向けのアニメに出てきそうな名前が否応なしに彼女を想起させた。

 あの優しい女の子が私利私欲の為に罪を犯しているとは考えられなかった。もし彼女が犯罪に手を染めるとすればきっと誰かの為だろう。善意の為に法を飛び越えた優しい人を、自分は捕まえることができるのだろうか。


「あれ一ノ瀬さん、また休日出勤してるんですか?」


 そこまで考えた所で背後から元気な声が聞こえ、一ノ瀬は一気に現実に引き戻された。振り向くと、江坂がきょとんとした顔をしながら自分を見ている。


「さっき別件で手続きをしたからな。ついでに他の雑務を片付けて置こうと思って」

「そんなにワーカホリックだと最近できた彼女に愛想つかされちゃいますよ〜! 彼女って先日言ってたお隣さんのことでしょ? まああの子ならそんな心配いらないかもしれませんけど。優しそうだし可愛いし」


 一人で勝手に納得したのか、江坂がニコニコしながらうんうんと頷いている。そんな江坂の後頭部にいきなり背後から拳固が叩き込まれた。いって! と飛び上がる江坂の後ろから、警部補であるわたりが現れる。


「おい、一番仕事ができねぇやつが何一番サボってんだ。しっかりやれ」

「ヒッ! すんません渡さん〜ノルマ増加は勘弁してください」

「ならさっさと仕事に取りかかれ。公休のはずの一ノ瀬の方が仕事してんじゃねぇか」


 そう言って江坂の尻を叩いた渡が、何かを思い出したようにふっとこちらを向く。


「そういや一ノ瀬、以前渡した被害届は受理したのか。逮捕状は請求したか?」

「いえ、まだです。まだ確証がとれなくて」

「なんだ? お前にしてはやけに腰が重いじゃねぇか」


 渡が何かを勘ぐるように眉をひそめる。


「そういや一ノ瀬、お前最近恋人ができたらしいな。前に言っていた隣に住んでる女だとか……そいつは怪しいから気をつけろって忠告したよな? お前、まさか女の口車にのせられて交際を承諾したんじゃねぇよな」

「彼女が勤務する小学校の児童が巻き込まれた事件に、自分が何度か対応しました。のちに同小学校の見廻りに自分が配属になり、そこでやり取りをするうちに交際に発展したまでです」

「はぁ? 家が隣同士で何度か事件にもかかわった? そんな偶然あるわけないだろ」


 渡が椅子を引き、一ノ瀬の前にどかりと座る。


「なぁ一ノ瀬。その女、何か別の目的があるんじゃねぇか? お前に近付いて、お前を牽制しようとしてる可能性がある。前にも言っただろ、お前が彼女を監視しろって」

「……監視が必要だと思ったことは特にないかと」

「女の行動に怪しいと思う所はないのか? 一度も? こういう仕事をやってる以上、勘ってもんは結構当たるんだ。もしかするとその女、その被害届の件に関わってる可能性も」

「彼女は関係ありません」


 自分でも思ったより棘のある声が出た。そのことにハッと驚きながら、一ノ瀬は頭を下げる。


「すみません、でも彼女を悪く言われなくて。不躾な態度をとって申し訳ありませんでした」

「いや……確かに自分の女を悪く言われるのはいい気持ちがしねぇな。悪かった。被害届の受理と手続きはお前に任せる」


 そう言うと渡はねぎらうように一ノ瀬の肩を叩く。そして彼はそのまま交番を出ていった。


「一ノ瀬さん……大丈夫すか」


 江坂が気遣わしげに声をかけてくる。だが、一ノ瀬はそれに答える余裕がなかった。

 脳裏にこちらを見上げる愛らしい表情が浮かぶ。

 自分の名前を呼ぶ、嬉しそうな声も。


 ――雅臣さん、私はあなたが好きです。


 ただ、今は無性に彼女に会いたかった。

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