第30話 交わり、そして

 自然公園での一件から数日後、今度は雅臣さんからデートのお誘いがあった。夜景が綺麗に見えるちょっと高級そうなレストラン。

 食事が終わって、私はマンションまでの道を雅臣さんと歩いていた。張り切っておしゃれをして、耳元にはもらったイヤリングをつけている。

 少しお酒が入ってふわふわと心地良い気分になりながら、私はうきうきした気持ちで他愛のない話をしていた。

 雅臣さんと恋人同士であるという事実にもだいぶ慣れてきたみたいで、今は緊張せずに彼の顔を見て話せるようになってきた。いつもより饒舌になってはしゃいでいる私を見て、雅臣さんが微笑む。その優しい眼差しに、私もえへへと照れ笑いで返した。


「今日はありがとうございました。ご飯もご馳走になってしまって……」

「先日のデートを途中で切り上げてしまいましたからね。せめてものお詫びです」

「そんな、だって雅臣さんは悪くないじゃないですか。むしろ守ってくれて感謝しています」


 あの時、カッターナイフを構えた男に、彼は怯むことなく立ち向かっていった。日常ではそうそうお目にかからない非常事態に恐怖を覚えると共に、自分を守る大きな背中に頼もしさと安堵感を覚えたのも事実だ。

 歩きながらちらっと目線を上げると、雅臣さんの横顔が目に入った。その端正な顔にドキドキして胸がきゅっと詰まると同時に、もっと触れ合いたいという気持ちがじわじわと胸中を満たす。


(もっと近づきたいな……)


 そっと手を伸ばして彼の手に触れ、ゆっくりと掴んでみる。雅臣さんの手が一瞬ピクッと反応したが、そのまま無言で握り返してくれた。手のひらから伝わってくる体温に、また私の顔も熱を帯びる。

 あの時は心の準備ができていなくて踏み越えることができなかったけれど、今の私は多分踏み越えたいと思っている。誰かを好きになればなるほどその人のことを知りたいし、もっと知ってもらいたいと思うのだ。


「あかりさん」


 雅臣さんが立ち止まり、つられるようにして私は顔を上げた。雅臣さんが真っ直ぐにこちらを見ている。


「雅臣さん……?」

「あかりさん、もうあんな無茶はやめてください」

「え、む、無茶って」

「赤子の誘拐犯を追って捕まえようとしたことです。俺達のような訓練を受けた者ならともかく、あかりさんは一般人なんですよ。今回はたまたま俺が間に合いましたが、もし遅れていたらどうするんですか」


 雅臣さんが諭すように言う。彼にしては珍しく、とがめるような響きを伴っていた。


「そう、ですよね。ごめんなさい。私、あそこで捕まえないと、もっと大変なことになってしまうと思ってしまったんです」

「公園や町中にある防犯カメラやナンバーで該当の車が分かれば、彼が目的地に着く前に取り押さえることもできます。警察は市民を守ることが仕事ですから、あなたが怪我をすれば元も子もありませんよ」

「すみません、次からは気をつけます……」


 しゅんと肩を落とすと、雅臣さんがハッとしたように目を開く。そのまま視線をそむけ、ためらいの表情を見せた。


「すみません、少し言い過ぎました」

「い、いえ、それは私のことを大事に思っていてくれるということですから。むしろ嬉しいです、そこまで言ってくださって」


 そう、雅臣さんが言っていることは正論だ。今回は運良く大事にはならなかったが、一歩間違えれば彼にも周りにも大迷惑をかけていたかもしれない。

 謝ろうと顔をあげた途端に腕が引き寄せられる。次の瞬間には、私はがっちりとした逞しい腕の中にいた。

 体温と、匂いと力強い腕の感触。濃密な彼の気配に、私は息を飲んだ。


「ま、雅臣さん」

「俺はあなたが好きです、あかりさん。おそらくあなたが思っているよりもずっと。あなたの身に何かあれば、俺は一生後悔したはずです」


 ぐ、と背中に回された腕に力がこもる。さらに密着する体にドキドキしながらも、私はその甘い熱を享受していた。

 雅臣さんの言葉が胸中をじんわりと温かくする。彼の胸板に顔を埋めながら、私も手を伸ばしてその広い背中に手を回した。

 数刻抱き合った後、どちらからともなく腕を緩めて見つめ合う。雅臣さんの親指がそっと私の唇に触れた。熱を帯びた眼差しに射止められ、私もそれに応えたいと思った。


「雅臣さん、私も好きです」


 彼の首に両手を回し、背伸びをしてそっと唇を重ねる。ほんの一瞬の触れ合いの後、ゆっくりと離れると、雅臣さんが驚いた表情で私を見ていた。その表情がどうしようもなく愛しい。


「今日はもう少しだけ一緒にいてくれませんか」


 囁くように言うと、雅臣さんの腕が私の背に回る。その後のことへの期待を淡く感じながら、私は家までの道を歩いて行った。








 

 私の首筋に唇が触れる。薄暗い部屋に、こぼれた吐息が溶けていった。私は壁を背にしてベッドの上に体を投げ出し、私に覆いかぶさるように彼が壁に手をつく。


「雅、臣さん」


 名前を呼ぶと、彼が唇を離して身を起こした。カーテンの隙間から入ってくる月光が室内を照らし、まるで彫刻のように体の陰影が浮き彫りになる。シャツの襟合わせから覗く首の血管と鎖骨が仄白く照らされ、否が応でも衣服の下を想像して胸が高鳴った。

 正直に言って今まで経験がないのだから、こういう時にどうすればいいのかはわからない。だけど、気持ちのままに身を預けるだけでいいという真木先生の言葉の通り、私は彼から与えられる甘い疼きを素直に受け止めていた。

 大きな手が私の体を引き寄せ、今度は唇を重ねてくる。何度も触れてくるそれに、私は彼の奥底に秘められた熱情を感じ取った。肯定の代わりに薄く口を開けると、雅臣さんが身を起こし、まっすぐに私を見る。


「あかりさん、俺も男ですよ。ここで引き下がれるほど紳士じゃない」

「私、雅臣さんとならいいです」


 雅臣さんがぐっと何かを堪えるように唇を噛み、私をぎゅっと抱きしめる。唇に熱を感じたと同時に、背後でブラウスのボタンが外されたのがわかった。

 途端にスルッと布が肌を滑り降りる感覚がする。左手で私の衣服の戒めを解きながら、右手が私の太ももを撫でた。スカートがたくし上げられる感覚と共に、私はすべてを受け入れる覚悟をする。


 雅臣さん、雅臣さん。私はあなたのことが好きです――


 突如私を抱く手が離れていき、温もりが去っていく。甘い熱に浮かされていた私は慌てて身を起こした。目の前にいる雅臣さんの表情は鋭く、堅い。


「雅臣さん……?」

「太ももにホクロがある」


 ホクロ? そんな所にホクロがあるなんて知らなかった。キョトンとして首を傾げる私を見て、雅臣さんが悲しそうに目を伏せる。


「以前何者かによって貸倉庫に呼び出された時に、黒尽くめの女性に会ったことがあるんです。仮面で顔を隠していたが、逃亡する際に内股にホクロがあるのを見た」


 雅臣さんの言葉はまるで機械のように抑揚がなかった。それはまるで死刑宣告をする断罪人のようで――


「ぴよぴよ仮面と名乗る女怪盗は、あなただったんだな、あかりさん」


 私の正体を暴く彼の言葉が、私を奈落の底へ突き落とす。とうとう正体がばれた。ばれてしまった。一番知られたくない人に。

 

「雅臣さん」

「否定は、してくれないんですね」


 悲しげな彼の声色に、咄嗟に返事ができなかった。私の無言の肯定に、雅臣さんが苦しそうに息を吐く。

 すがるように雅臣さんの手を握るが、彼はもう握り返してくれなかった。


「雅臣さん……ごめんなさい、私」

「あなたのことだ。きっと何か事情があるんだろう。でも今は……一人にさせてくれないか」


 言いながら雅臣さんがベッドの脇に押しやられた布団をふわっとかけてくれる。乱れた着衣を直しもせず、私はぎゅっとシーツを握った。

 先程まで感じていた熱は冷え切り、心臓は切り裂かれたように痛い。こぼれ落ちた涙がシーツの上に水滴を作った。


「ごめんなさい……ごめんなさい、雅臣さん」


 ぐしぐしと泣きながら嗚咽を漏らす。だけど返答の代わりに聞こえてきたのは、静かに閉められた扉の音だった。

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