第四章 性犯罪者から子供を守れ!

第23話 不審者

 翌日、薄井先生は出勤してこなかった。

 警察の取り調べで過去にも別の学校で同僚につきまといをしていたことが明るみになり、懲戒免職となったようだ。同情はしない。後をつけられていた時の恐怖は今までに感じたことのないものだったし、彼が何をするつもりだったのかなんて考えたくもなかった。あの日、一ノ瀬さんが来てくれなかったら……と考えると未だにゾッとする。

 だけど、おぞましい感情の記憶と共に思い出させるのは力強く響く一ノ瀬さんの声だった。あの時近くに感じた吐息や体温、熱っぽく自分を見る精悍な目は、一夜開けた後も私の心を震わせるだけの余熱を持っている。唇に触れた指の感触でさえ、私の胸を甘くうずかせて――


 そこまで考えて私はプリントをめくる手を止めた。生徒から回収した夏休みの予定表を確認しながらも、先程からつい別のことを考えてしまい、何度も数え直している。私はプリントの束を机の上に置き、職員室の窓から校門の方へと目を向けた。

 今日校門を閉める当番を請け負っているのは真木先生だ。もう一ノ瀬さんは学校に見回りに来てくれているのだろうか。時刻は午後五時。そして学校は明日から夏休みに入る。最近はめっきり不審人物の情報を聞かなくなったことから、警察による毎日の見回りは夏休みに入ると共に終了するらしい。きっとこれから一ノ瀬さんに会う回数はうんと少なくなってしまうだろう。

 彼に会って話したい気持ちと、気まずい気持ちが私の中でないまぜになって濁っている。自分が選ぶべき道はモヤモヤと曇っていて見えない。


 一ノ瀬さんに黙ったまま怪盗を続ける?

 それとも怪盗を辞める? 


「お疲れ〜! あかり先生も早く帰ろうよ〜」


 明るい声が私を現実に引き戻す。茶色い巻毛を指でくるくるさせながら職員室に入ってきた真木先生を見て、私は慌てて机の上を片付けた。


「すみません、今行きます!」


 このまま残業してもきっと上の空で何も進まないだろう。大きな声で返事をすると私はカバンを掴み、真木先生の背中を追いかけていった。


 下校時間を告げるチャイムの音が鳴る。

 夏休みの始まりと共に、警察による毎日の見回り活動は終了した。




※※※


 夏休みが始まってからも教師に休みはない。子供達が夏休みを満喫している間、先生達は二学期に向けて授業の準備をしなければならないのだ。

 子供達がいなくなって空っぽになった学校は寂寥感があり、私の気持ちをそっくり象徴しているみたいだ。ふうと一息ついた私は、寂しい空気が漂う職員室をなんとはなしにぐるりと見回した。

 勿論教師にも夏休みはあるので、出勤している先生はまばらだ。真木先生は土日も合わせてガッツリ九日間のハワイ旅行へ行くらしく、楽しい休暇にむけて毎日精力的に仕事をしている。反対に、酒井先生は飛び飛びで夏休みを取るらしく、今日は学校に来ていなかった。


 時計を見ると時刻は午後六時だった。そろそろ帰宅しようかなと思った所で、職員室の電話がリリリと鳴った。夏休みに入ったとはいえ、保護者からの問い合わせで電話が鳴ることは多い。何気なく電話を取った私は、受話器の向こうの話を聞いた途端、スッと背筋が寒くなった。


「はい、わかりました。警察に通報しましょう」


 保護者からの話を聞いた私は慌てて電話を切ると、110のボタンを押した。




 保護者からの電話は、平和な夏休みを一変するほどに衝撃的なものだった。

 

「昼に習い事に出掛けた娘がまだ帰っていないんです」


 電話は、この小学校に通う四年生の女の子のお母さんからだった。お昼を食べ、午後一時頃にピアノのお稽古にでかけた桜ちゃんが、五時を過ぎてもまだ帰宅していないらしい。ピアノのレッスン場所は自宅から徒歩十分程度の場所にあり、一回のレッスンは大体一時間程度だ。

 初めは帰りに友達の家に遊びに行ったのかと思っていた桜ちゃんのお母さんは、さすがに四時を過ぎた頃で不安になったらしい。けれども、心当たりがあるお家に片っ端から連絡をしても桜ちゃんはどこのお家にもお邪魔していなかった。

 学校に寄っているのかと一縷の望みをかけて電話をしてきたようだが、夏休み中に学校に来る生徒には全員名簿に記名をしてもらっている。そして残念ながら、今日の名簿に桜ちゃんの名前はない。


 電話を受けた後の職員室は一瞬にして騒然となった。校長は警察と連絡を取り、教頭が他の教員への周知と捜索の指示を出す。私達は今抱えている仕事を全て投げやって、教頭の指示通り桜ちゃんの捜索の為に学校を飛び出していった。


「ど、どういうことなの!? なんでうちの学校の生徒が!?」

「わかりません。でも、一刻も早く見つけないと」


 悲痛な声をあげる真木先生の言葉に、動揺する心を抑え込みながら返答する。真木先生と私は、駅前の繁華街へ捜索に来ていた。ここから先生同士連携をしながら手分けして桜ちゃんを探すのだ。ひとまず私と真木先生も分かれて別方向を探すことになり、真木先生は駅周辺、私は繁華街の中を探すことにした。


 誘拐。


 真っ先に浮かんだのはこの二文字だった。連絡があればすぐに出られるようにスマホを握りしめながら無心で歩き回る。時間は午後六時半。居酒屋やカラオケ店がひしめく繁華街は大勢の人混みで賑わっていた。こんな所に小学生の女の子がいるわけないと思いつつも、ゲームセンターでたむろしている中学生やカラオケ店に入っていく高校生など、意外と未成年を多く見かけるのも実情だ。

 ふと、先日逮捕された未成年への飲酒や暴行を行っていた大人達の姿を思い出した。もしかすると自分達の知らない所で、子供を巻き込んだ事件は頻繁に起こっているのかもしれない。そう思うと、何か大変なことに巻き込まれているのではないかという疑念が払拭できず、私は足が痛くなってもずっと歩き続けていた。

 手に持っていたスマホが鳴る。きっと真木先生か教頭先生からの連絡だろうと思って出た私の耳に飛び込んできたのは意外な人物の声だった。話の内容を聞いて電話を切った私は、踵を返して急いで繁華街から出ていった。



 電話の主は一ノ瀬さんだった。公園で該当の人物らしい女の子を見つけたという話だ。慌てて指定された公園へ駆けつけると、数人の警察官がベンチの前に立っているのが見えた。夏とは言え、七時近くになるとさすがにあたりは薄暗い。

 近づいてみると、ベンチの上には女の子がいた。桜ちゃんだ。桜ちゃんはベンチの上に横たわっていて、顔だけをこちらに向けて警察官とお話をしている。ベンチの下には、ピアノの鍵盤模様のレッスンバッグが落ちていた。

 一ノ瀬さん、と声をかけると、警察官の一人が振り向く。


「あかりさん、来てくれたんですね。彼女はあなたの学校の生徒さんで間違いないでしょうか」

「はい、間違いありません。あの、これはどういう状況なのでしょうか」


 一ノ瀬さんと会うのは本当に久しぶりだ。彼の顔を見た途端、一瞬チクリと胸が詰まるような感覚を覚えたが、今の私達は警察官と小学校の先生として会っている。私情は持ち込まない。


「午後六時三十分頃、公園を通りがかった市民から女の子がベンチの上で横たわっていると通報を受けました。我々が現場に着いた頃、彼女は寝ている様子でした。起こして簡単な会話をしましたが、目立った外傷はなく、意識は明瞭な様です。保護者にも既に連絡を入れてあります」

「良かった……一ノ瀬さん、ありがとうございます」


 涙ぐみながらお礼を言うと、一ノ瀬さんが優しい眼差しを向けてくれる。

一時は大事になるかと心配したが、とりあえず彼女が無事であることは確認できた。後は何があったのか確かめなければならない。私はベンチに座っている桜ちゃんの横に座り、優しく背中を撫でた。


「桜ちゃん、気分はどう? どこか痛いところはある? お話はできそう?」


 屈んで桜ちゃんと目を合わせると、桜ちゃんはぼんやりした目で私と視線を合わせた。起きたばかりだからか、なんだか眠そうだ。


「浅雛先生……うん、大丈夫」

「今お母さんが迎えに来るからね。何があったか私や警察の人に教えてもらえないかな?」

「うん……わかった」


 頭が痛いのか、こめかみを手で抑えながら桜ちゃんが頷く。彼女から聞いた話はこうだった。


 午後一時頃にピアノのお稽古の為に自宅を出た桜ちゃんは、一時間のレッスンを終えて午後二時半頃に自宅へ向かって歩いていた。もうすぐ家に着くと言う所で、公園の入口付近に停まっていたキャンピングカーに数人の子供が群がっているのが見えた。何人もの子供達が開きっぱなしのドアから出入りしている。

 桜ちゃんも初めは警戒していたようだが、中から楽しそうな笑い声が聞こえてくるのもあり、おそるおそる車に近付いていった。ヒョイと車内を覗くと、そこには数人の子供達が乗っていて、車内に置かれたジュースやお菓子を食べながら、漫画を読んだりゲームで楽しそうに遊んでいた。


「君も好きなことをしていいんだよ。夏休みだからね」


 不思議に思っていると、運転席に座っていたサングラスの男が振り向いてにこやかに話しかけてきた。顔は見えないけれど、思ったより爽やかでハキハキした声だったという。

 他の子達も楽しそうに遊んでいるのを見た桜ちゃんは警戒心を解き、暫くは皆と同じように楽しく過ごしていた。だけどそのうちに眠くなり、車内の座席の上で丸くなった。次に目が覚めた時は、公園のベンチの上で警察が話しかけてきたのだという。


 話を聞き終えた所で桜ちゃんの名前を呼ぶ声が聞こえ、中年の女性が走ってくるのが見えた。桜ちゃんのお母さんだろう。一ノ瀬さんとは別の警察官が桜ちゃんをお母さんに引き渡している姿を見ながら、私はほっと安堵の息を吐いた。


「良かったです。生徒が無事で……一ノ瀬さん、見つけてくださってありがとうございます。大事にならずに済んで安心しました」

「そうでしょうか。今回はたまたま無事で済みましたが、俺はそのキャンピングカーの男というのが気になります。あかりさんも、生徒によく注意をするように言っておいてください」

「え? ど、どういうことでしょうか」

「車内で寝てしまったからと言って公園に女の子を置き去りにするのは不自然だと思いませんか? その男にはまだ別の目的があるのかもしれません」


 一ノ瀬さんの言葉に、私はハッと息を飲む。顔をあげると、彼は厳しい顔で桜ちゃんの後ろ姿を見ていた。


 温かい風が髪を撫でる。

 カラッとした夏の風とは裏腹に、不穏な気配を象徴するかのような生ぬるい空気が体中にまとわりついていた。

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