第22話 ストーカー

 職員室に戻ると、私は大きく息を吐いた。心臓がドキドキと大きく鼓動を打っているのは、校舎まで走ってきたからではないだろう。朝礼が始まるまでの間、私は自分の机に座りながら先程の出来事を思い返していた。


 ――俺に守らせてください。貴女のことを。

 

 耳元で囁かれた言葉を思い出し、両手に抱いた出席簿の影に顔を埋める。誰に見られているわけでもないのに、恥ずかしくて顔をあげることができなかった。恋愛経験は少ないけれど、あれが一市民としてではなく個人に向けられた言葉であることくらいはわかる。私は大きく息を吐き、耳に甘く残る低い声を振り払うように首を振った。


(誤解しちゃだめよあかり、それは多分一ノ瀬さんがカッコいいから舞い上がってるだけなの)


 心の中で自分を叱咤する。そう、誰だってイケメンにあんな素敵なことを言われたらドキドキしてしまうに決まってる。誰に対してもあんなことを言う人だとは思わないけど、きっと私がお隣さんで顔見知りだから気を使ってくれたのだ。


(お隣さんか。一ノ瀬さんにとって私ってどんな存在なんだろう)

 

 そう思った途端、チクリと胸の奥が突かれたような気がした。顔も知らない女性に同じことを言っている彼の姿を想像し、なぜだかぎゅっと胸が詰まったように苦しくなる。

 だけどそんな私の思考を遮るかのように予鈴が鳴り、私は慌てて授業の準備をし始めた。



※※※


 一日が終わるのはあっという間だ。生徒を下校させた後も教師は忙しい。

 今日は早めに退勤してぴよぴよ仮面の活動をしようと思っていたのだが、午後五時の時点で机の上に山積みになっている残業を見て私は定時であがることを諦めた。心の中で生徒に謝りながら、ひたすらに目の前のプリントの山を崩しにかかる。

 明日こそは子供達の家に行きたいと、少し前倒しで仕事を片付けていたからだろうか。気がつくと時計は午後九時近くになっていた。職員室には自分以外誰もいない。

 

「やばっ! もう帰らなくちゃ!」


 まだもう少しやることが残っているが仕方がない。私は綺麗に机の上を片付けると、鞄をつかんで職員室を飛び出した。



 もう夜も遅いとはいえ、繁華街はまだ人で賑わっていた。この時間ならもうご飯は外で済ますのが楽だろう。何を食べようかと思いながらぶらぶらと道を歩いていると、駅前にあるパンケーキ屋さんの看板が目に入った。先日一ノ瀬さんとデートした場所だ。ふらっと近づくと、店自体はもう閉まっていたが、店の前に置いてある立て看板が目に入る。看板には、今月から発売された新作のパンケーキの絵が描いてあった。

 

(わっ可愛い。また一ノ瀬さんと食べに行きたいなぁ)


 看板の絵を見ながら微笑む。あれ以来、一応月に一回は二人で何かを食べに行くのが恒例になった。デートが目的ではなく一ノ瀬さんのスケジュールを確認するのが目的だったはずなのだが、最近ではその会自体が楽しみになっている。次に行くお店のリサーチをしておかないとな、と思いながら何気なく顔をあげた私は、お店の窓ガラスに映っているものを見てスッと背筋が寒くなった。

 店の窓ガラスに反射して私の姿がぼんやりと映っており、その背後でじっとこちらを見ている男がいた。通行人が私達の間を次々に通り過ぎていく中、彼は建物の影から半身を覗かせながら微動だにしない。パーカーのフードを目深に被ったその男は、周囲と比べると明らかに異質だった。

 慌てて振り返るが、私の視界は帰路で急ぐ通行人の波で遮られる。人混みが途絶えた時、もう男の姿はなかった。


(やだ、気味が悪い)


 薄ら寒さを感じながら、私は足早にその場を去った。時刻はもう九時を回っている。一刻も早く帰りたい私は、半分走りながら繁華街を通り過ぎていく。

 飲み屋街を抜けるとそこはもう住宅地だった。繁華街の喧騒とは違って、街灯もまばらなその道は人気ひとけもない。ここまで来たら家まではもうすぐだ。私は速度を緩めてコツコツとコンクリートの道を歩いて行った。


 ――ザリッ


 背後から、コンクリートを靴の裏で擦ったような音が聞こえた。バッと振り向くがそこには誰もいない。だが、目を凝らすと遠くの電柱の後ろから黒い影がこちらを見ているのがわかった。それが先程のフードの男だとわかった途端、私は咄嗟に走り出していた。


(誰!? もしかして最近よく聞く不審者――?)


 意識した瞬間、ゾワリと肌が粟立つ。街灯がポツポツと灯る暗い道を私は全力で走った。恐怖で心臓が悲鳴をあげ、激しく痛む。一つ目の角を曲がると同時に私は近くのコンビニエンスストアへ飛び込んだ。

 店の中に入った瞬間、レジの店員が「いらっしゃいませー」と脳天気に声をかけてくる。私は未だに震える体を落ち着かせるようにして奥へ入った。


(どうしよう……怖い、怖い、怖い!)


 パンケーキ屋の側で見かけた時は勘違いかと思ったが、今回男は明らかに私に狙いを定めていた。彼の目的はわからないが、私の直感が警鐘を鳴らしている。

 私はお弁当を選ぶふりをしながらたっぷり十分程時間を潰した。用がなければさすがにいなくなっているはずだ。意を決して外から死角になっている棚の影からそろっと顔を出す。良かった。もういないみたいだ。安心した私は棚の影から出てコンビニの出入り口へ向かおうとしてその場で固まった。

 フードの男がコンビニの外からチラチラと中を窺っているのが見える。彼が顔をあげ、一瞬視線が合った。その瞬間私は心の中で悲鳴をあげ、咄嗟に鞄の中に手を入れた。



―――――――

――――



「あかりさん、大丈夫ですか!?」


 来客を告げる電子音と共に、一ノ瀬さんがコンビニへ飛び込んでくる。走ってきてくれたのか、彼は黒い薄手のシャツに紺のジャケットを羽織っただけの格好で、首筋にうっすらと汗をかいていた。彼の姿を見た途端、どっと安堵の気持ちが込み上げる。


「一ノ瀬さん、すみません。勝手な都合で呼び出してしまって」

「それは構わないのですが……怪しいフードの男につけられているのは本当ですか?」

「はい。多分、見間違いではないと思うのですが……」


 ちらりと店の外に視線を送ると、男の姿はみあたらない。一ノ瀬さんについておそるおそるコンビニを出るも、男の姿は影も形もなかった。


「ごめんなさい一ノ瀬さん。もしかしたら私の勘違いだったのかもしれません」

「いや、どちらにしろこの時間帯に女性が一人で歩くのは防犯上良くないですから。一緒に帰りましょう」


 一ノ瀬さんが優しく声をかけてくれる。夜中に呼び出してしまったことに申し訳ないと思いつつも、私は頭を下げて彼の厚意に甘えることにした。




 暗い夜の住宅街を二人で並んで歩いていく。当たり障りのない会話をするうちに、私の恐怖心はすっかり溶けていった。隣にいるのが現職の警察官というのはとても心強い。

 今、大型のトラックが二つのライトを光らせながら横を通り過ぎていった。一ノ瀬さんが少しだけ体を歩道側に寄せ、彼の体が私の背中を掠めた。

 その時初めて、彼が私の半歩後ろを歩いていることに気付いた。ちょうど一ノ瀬さんの右の胸辺りに私の頭が来る位置。きっと何かあった時に咄嗟に引き寄せて庇えるようにしてくれていることに気付き、私の胸が微かな音を立てた。


 どこまでも優しい一ノ瀬さん。彼はもし、仲の良い女友達に同じことを頼まれたら、今と同じように守ってあげるのだろうか。


 気がつくと、私はそっと左手を伸ばして一ノ瀬さんのジャケットの袖口を掴んでいた。目は合わせられない。だけど、彼の視線が私に降りてきたのはわかった。お互いの手の甲が触れ合い、一拍遅れて彼の手がためらいがちに私の手にれる。そのまま指を伸ばして絡めようとした所で――不意に一ノ瀬さんが足を止めた。


「一ノ瀬さん?」

「静かに。誰かいます」


 彼の鋭い言葉にハッとして後方を見やる。視界の先に人影はなく、心許ない街灯の光がポツポツと道を照らしているだけだ。だが、何か例えようのない――ねっとりとした空気が全身にまとわりつくのを感じた。

 一ノ瀬さんが私の前に立ち、庇いながら後方の暗がりを鋭く睨みつけている。切れ長の目が、スッと僅かに細められた。


「あかりさん、こちらへ」


 突如腕を引かれ、細い路地に連れ込まれた。え? と声を上げる間もなく石の塀に背中を押し付けられる。向かい合わせになった一ノ瀬さんが、私の顔の横に手をついて体を寄せてきた。


「一ノ瀬さ……」


 発した声は彼の人差し指によって優しく塞がれた。そのまま一ノ瀬さんが屈む。彼の気配が、匂いが近付いてくる。

 密着する体、感じる体温。私の唇に、何か柔らかいものが押しあてられて―――


 一瞬の触れ合いの後、ゆっくりと一ノ瀬さんの体温が離れていく。何をされたのか咄嗟に理解ができなかった。

 キスをされた、ように思った。

 いや違う。実際に彼の唇が触れたのは、私の唇に押し当てられた彼自身の指だ。だけど、それは私の心臓を止めるには十分すぎるものだった。

 固まったまま、そっと目線をあげる。だが彼の目はもう私のことを見ていなかった。


「やっと姿を現したか」


 一ノ瀬さんの声とは思えないほど、低く鋭い声だった。ハッとして彼の視線の先を辿ると、先程のフードの男が両の肩を怒らせながらこちらを見ていた。男が怒りに任せてフードを取る。その顔を見て私は震え上がった。


「薄井先生……」

「浅雛! お前はやっぱりその男と付き合っていたんだな!? 色んな男に愛想を振りまきやがって、このアバズレめ!」


 薄井先生が怒りで声を震わせながら捲し立てる。目には憎悪の光を宿していて、尋常ではない様子の彼に、私は一ノ瀬さんの服の裾をぎゅっと掴んだ。逞しい腕が伸びてきて、庇うかのように私を背後に押しやる。


「お前は同僚の教師だな。彼女の交際関係を確かめたくて後をつけていたのか」

「うるさい! お前は一体コイツのなんなんだよ!」

の関係だ」

「くそっ! くそっ! 汚れた女め! お前、お前のせいだな!! 殺してやる!!」


 突如薄井先生が絶叫し、一ノ瀬さんに向かって突撃した。髪を乱し、腕を大きくあげて拳を振り下ろす。だが、彼の拳が一ノ瀬さんの頬を掠める寸前、一ノ瀬さんがヒラリと交わし、鮮やかな手付きで手首を掴んだ。


「あああああああああああ!!!」


 手首の関節を極められた薄井先生が絶叫する。後で聞いた話だが、ここを捻られるのは相当痛いらしい。激痛にのたうち回る薄井先生を尻目に、一ノ瀬さんはすぐにスマートフォンで応援を要請していた。


 暫く経って一台のパトカーが現場に到着し、あっという間に薄井先生は連れて行かれた。詳しい話は警察署で確認するという話だ。現場を去るパトカーの後ろを呆然と眺めていると、ふいに肩に手が置かれた。


「怖い思いをしましたね。家に帰りましょうか」

「あ、はい……一ノ瀬さん、ありがとうございました。さっきも恋人のフリをしてくれたんですよね」

「ええ、おそらくこの程度のつきまといであれば、厳重注意の処分で済んでしまうでしょうから。他の男の影があれば今後も容易に手は出してこないと思ったのですが……その、勝手な真似をしてしまってすみませんでした」

「い、いえ……その、ちょっとだけビックリしてしまったんですけど、でも悪い気持ちにはなりませんでした」


 赤くなりながらも素直な気持ちを伝えると、一ノ瀬さんの目がわずかに見開かれる。一瞬の沈黙の後に、一ノ瀬さんの手がためらいがちに伸びてきた。その指が私の髪を掬い、耳にからげる。


「……あかりさん、俺は本当の関係にしても良いと思っています。貴女さえ良ければ」

「そんな。私が一ノ瀬さんとお付き合いだなんて。きっと私より他に良い人が」

「あかりさん、俺は本気ですよ」


 私の言葉に被せるように、一ノ瀬さんが言い切った。その力強い言葉が、私の胸を否応なく震わせる。

 視線をあげると、凛々しい切れ長の目と視線が交わった。雄々しい体躯に精悍な顔立ち。そしてその中にある優しさと包容力。その逞しい胸に飛び込んで、力いっぱい抱きしめてほしいと思った瞬間、私は自分の気持ちをハッキリと自覚した。


 ――ああ、私、一ノ瀬さんのことが好きなんだ。


 おそらくもっと前からずっと。

 それでも、私には「はい」と言えない理由がある。


「お気持ちは嬉しいです……でも、もう少し考えさせてもらってもいいですか」

「わかりました。あかりさんの答え、待っていますから」


 やっとのことで言葉を絞り出すと、一ノ瀬さんが微笑みながら優しく返してくれた。

 彼の気持ちに答えたい。それでも自分にはそれに答える資格がない。


 一ノ瀬さんに送ってもらって家に帰るまでの間、私はずっと彼の目を見ることができなかった。

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