幕間 学校にて

 朝七時。大きな声で朝の挨拶をしながら子供達が次々に校舎の中へ入っていく。弾けるような笑顔と活気。校門の側に立ち、時折挨拶を返しながらも一ノ瀬は元気いっぱいに走り回る子供達を眺めていた。

 学校に来る前に、この界隈の通学路はぐるりと一回りしてきた。子供達もだんだん顔を覚えてきたのか、町中で会えば挨拶をしてくれる子も多い。学校で教えられた通り、ハキハキと挨拶をしてくる子供達のいじらしい姿を思い出し、一ノ瀬はフッと微笑んだ。


「おはようございます、一ノ瀬さん」


 そんなことを考えながら校庭を眺めていると、すぐ側で朗らかな声が聞こえた。振り向くと、この学校に勤める女教師がニコニコしながら門の側に立っている。こちらも挨拶を返すと、彼女はニコッと愛想よく笑った。


「今日も見回りご苦労様です。ふふっなんだかこのやり取りも日課になりましたね」

「ええ、自分も毎日子供と関われることで元気を頂いていますよ。むしろもう少しで巡回がなくなってしまうのが逆に寂しいくらいです」

「え、もう来られなくなってしまうんですか?」

「そうですね。最近不審人物の目撃情報も無いようですし、そろそろパトロールも切り上げる頃合かもしれないという話が出ているんですよ」

「そうなんですね……なんだかそう思うとちょっと寂しいですね。やだ、こんなこと言っちゃいけないんですけど」


 慌てて口を覆う彼女の仕草が可愛くて、一ノ瀬もつられて口角をあげる。彼女が言う「寂しい」という言葉が、家が隣同士で顔見知りだからこその言葉だというのはよく知っている。女性の好意的な言葉にいちいち恋の芽吹きを感じるほど自分は子供でもない。それでも、やはり一人の男としてこんな風に言われることに悪い気はしなかった。


「定期的な見回りは一旦切り上げることになるかと思いますが、普段のパトロールで学校に立ち寄ることはできますよ。引き続き地域の見守り活動には貢献していきますのでご安心ください」

「わぁ良かった! 一ノ瀬さんが来てくれるなら心強いですね。これからも宜しくお願いします」

「もちろんです。そう言えば先日の舞歌さんの件ですが、件の人物は無事に逮捕されましたよ。彼女が言っていた画像データも、押収されていずれは破棄されるでしょう」

「本当ですか? 良かった!」


 パッと顔を輝かせる彼女を見て、一ノ瀬もつられて微笑む。この学校に見回りをするようになってから、彼女がとても子供思いである場面を何度も見てきた。生徒に囲まれて楽しそうに過ごしている彼女の姿を見ると、自分もなんとなく優しい気持ちになれるのだ。

 ちらりと腕時計に目をやったあかりさんが、きゃあ!と小さく悲鳴を上げる。


「もうこんな時間なんですね。そろそろ朝礼ですのでこれで失礼させていただきます。今朝もご苦労様でした」

「いいえ、それではまた夕方の下校頃に」

「はい! 宜しくお願いします!」


 ピッと敬礼の真似をして元気よく挨拶すると、あかりさんは門に手をかけてガラガラと閉め始めた。だが、門が大きい為か小柄な彼女が引くには重そうだ。両の足で踏ん張りながら一生懸命に引っ張っている彼女を見ているうちに、一ノ瀬の体が自然と動いていた。

 手を伸ばし、門に手をかけて力強く引く。急に軽くなった手の感覚に驚いた彼女がよろめき、お互いの手がわずかに触れ合った。その瞬間にあかりさんがパッと手を離す。


「あ、す、すみません、失礼いたしました」

「あ……申し訳ありません。自分もよく見ていませんでした」


 慌てて謝ると、あかりさんがうつむいて頬を染める。その仕草にうっかり勘違いしまいそうになる自分を叱咤しながら、一ノ瀬は内心で苦笑した。


(俺もまだまだ若いな……)


 そろそろ三十が見えてきた二十七歳。もういい大人なのに、若い女の子の一挙手一投足に心が浮き立つ気持ちは健在なようだ。同時に蘇るのは、彼女の家に招かれた時の記憶。転んだ彼女が怪我をしないよう咄嗟に抱きとめた時に感じた柔らかい体の感触と甘い香りを思いだし、不意に顔が熱くなった。慌てて彼女から視線をそらし、雑念を振り払う。


「一ノ瀬さん、どうされたんですか? 具合でも悪いんですか?」


 動揺した自分を見て、あかりさんが心配そうに顔を覗き込んでくる。自分を見上げる大きな瞳とばちりと視線が合い、一ノ瀬の胸が大きな音を立てた。

 動揺している自分を笑うかのように風がふわりと頬を撫で、どこからか甘い香りを運んでくる。どこにでもある市販のシャンプーの香りですら、個人を結びつける情報になるとどこか艶めかしく、官能的に思えて――


 香り。

 

 と同時に一つの記憶が脳裏を掠めた。先日貸倉庫でぴよぴよ仮面と思われる女を抱きとめた時にも同じ香りがしたような気がする。香りだけではない。両手で抱きとめた時に感じた軽さも、体の柔らかさも。

 そう思った瞬間、ドキリと胸が鳴った。不意に脈打つ動悸と共に、脳が一つの結論を弾き出す。


(ぴよぴよ仮面は――まさか)


 意識した途端にゾワリと背筋が泡立った。いや――馬鹿な、そんなはずはない。この明るい生徒思いの教師が罪を犯すことは考えられない。

 そう思い直して一ノ瀬は大きく息を吐いた。もしかしたら突拍子もない想像をしてしまうくらいに自分は疲れているのかもしれない。目の前のあかりさんが怪訝そうに自分の顔を見上げているのを見て、一ノ瀬は慌てて笑顔を取り繕った。

 

「引き止めてしまってすみません。それではこれで」

「あ、はい。じゃあ私も…………あっ」


 はにかみながら挨拶をしたあかりさんが、顔をあげた途端ビクリと肩を震わせた。怯えるように一二歩後退した彼女を見て一ノ瀬も慌てて視線の方向へ目を向ける。そこにいたのはあの陰気な容姿をした男の教員だった。


「薄井先生……」


 あかりさんが震えながら呟く。彼は確か以前あかりさんとトラブルがあったという人物だ。あの時はあかりさんの勘違いということで大事にはしなかったが、彼女の様子を見るにまだ何かしこりがあるのだろう。

 薄井という男は鋭い視線でじっとこちらを見ていたが、やがて何も言わずに校舎の方へと去っていった。彼の後ろ姿を見ながら、あかりさんが大きく息を吐く。


「あかりさん、大丈夫ですか? 彼とまた何かあったんですか?」

「いえ、あの一件があってからは目立ったことはありません。でも、私が他の先生と話しているとよく視線を感じることがあるんです。それに最近、私が帰宅する時間帯に一緒になることが多くて……酒井せんせ、別の男の先生が厚意で一緒に帰ってくれることもあるんですけど……」


 言いながらあかりさんが胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。同僚を庇ってはいるものの、本心は怖いのだろう。そのいじらしい姿に、微かに胸が揺れ動くのを感じた。


「よろしければ、帰りの時間にこの辺りをパトロールします。何かあれば遠慮なくご連絡ください」

「いいんですか? でも、そんなに甘えるわけには……」

「市民を守るのが自分達の役目ですから。貴女が気負うことはありませんよ」


 優しく言うと、あかりさんがそっと視線を上げた。不安に揺れる大きな目に、ためらいの色がみてとれる。庇護欲を唆られるような潤んだ瞳に、自分が言いたいのは警察官としての言葉でないことを唐突に理解した。

 彼女に近づき、腰をかがめて耳元にそっと口を寄せる。


守らせてください。貴女のことを」


 スルッと自然に言葉が出た。酒井という同僚の名前に刺激されたのもあるかもしれない。それでも必要とされたいのは、警察官としてではなく男としての自分だ。「はい」と言いかけたあかりさんが、言葉の真意に気付いたのかハッとして頬を紅潮させる。戸惑いながらおそるおそる視線をあげてくる彼女が、たまらなく可愛くて愛おしい。


「一ノ瀬さん、それって――」

「あ! 浅雛先生、そろそろ朝礼の時間ですよ。早く行きましょう」


 背後から太い声が聞こえ、あかりさんが慌てて振り向く。ちょうど校門の前を通りかかった男の教員――以前に薄井とトラブルになった時にあかりさんを心配していたガタイの良い教師だ――があかりさんに手招きをする。それに気付いたあかりさんが腕時計を確認し、慌ててペコリと頭を下げた。


「引き留めてしまってすみません。また夕方、宜しくお願いしますね」

「はい、あかりさんもお気をつけて」

「はい。それと……」


 あかりさんが真っ赤になりながらうつむく。


「さっきの件……嬉しかったです」


 ポソリと呟くように紡がれた声が甘く響く。彼女はそのまま目を合わせないようにして慌てて校舎の方へと行ってしまった。

 小走りにかけていく小さな背中を目で追いながら、照れを隠すように口元に手をあてる。


 明るく元気な彼女に泣き顔は似合わない。 

 降りかかる火の粉は払ってやらねば。


 叶うならば、その役割が自分であればと願う。

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