幕間 交番にて②

 カリカリと紙の上をペンが走る音が響く。一ノ瀬は最後まで書類を書ききると、コトリと机の上にペンを置いた。

 椅子の背にもたれかかりながら大きく息を吐く。先程まで現場で取り締まりを行っていたからか、体の疲労度が半端ない。休日であるにも関わらず呼び出されたのは、裏通りにある繁華街でトラブルがあったからだ。


 浅雛あかりと分かれて現場に向かった一ノ瀬が目の当たりにしたのは、パチンコ店の前で大揉めに揉める男達だった。話を聞くところによると、パチンコを打ちに来ていた客の一人が別の客に言いがかりをつけ、言い争いがヒートアップして暴力事件にまで発展したらしい。 

 止めようとした他の客や店員も巻き込まれ、刃傷沙汰にはならなかったものの店の前は阿鼻叫喚だった。一ノ瀬も暴れる男を取り押さえる際に、腹と胸に何発か拳を食らっている。警察官総出で男達を取り押さえ、何時間も事情聴取をしているうちに、あっという間に休日が終わってしまった。

 この街は治安が良くない為にこういったトラブルは日常茶飯事だが、こうも何回も休日を潰されるとさすがに辟易してくる。

 ちらりと時計に目をやると、もう時刻は既に午後九時を回っていた。あかりさんはもうとっくに帰宅しているだろうなと思い、なんとはなしに昼間の出来事に思いを馳せる。

 最近知り合って仲良くなったお隣さん。今日の彼女はいつもと少し雰囲気が違っていて、くるりと内巻きにした茶色い髪と、青色の花柄のスカートがよく似合っていた。パンケーキを頬張りながらニコニコとよく喋る彼女はリスみたいでとても可愛らしい。殺伐とした日常を過ごしているからか、彼女と一緒にいる時間は落ち着いていて、とても癒されるような気持ちになるのだ。

 そこまで考えて、ふと自分の気持ちは何なのかと思う。恋……をするには、まだ自分は彼女のことを知らなさすぎた。おそらく、この感情は小動物や子供と接する時のようなものだろう。人懐っこい愛らしさが実家にいる犬に似ている、なんて言ったら彼女は怒るかもしれないけれど。

 想像の中の彼女が、犬耳をピコンと出して小首を傾げる。あまりにも似合っていて、一ノ瀬はふふっと軽い笑みを漏らした。

 そんなことを考えながら書類に印鑑を押し終えると、目の前にヌッと女性の裸体が現れる。


「……江坂、お前は何をしているんだ」

「えー? 休日出勤をしている一ノ瀬さんに元気をあげようと思いまして」


 見ると、グラビアアイドルの写真が印刷されている雑誌を持った江坂がニコニコしながら立っていた。今しがた差し出されたページは、いわゆる袋とじというやつで、女性がほぼ裸体の状態で妖艶なポーズをとっている写真が載っている。この新人はもう少し公務員としての自覚を持つべきではないかと一ノ瀬は深いため息をついた。


「江坂、勤務中に何をやっているんだ。仕舞え」

「ち、違いますよ! これは拾得物ですってば。さっき届けられた鞄の中に入っていただけです。まぁ、検分がてらちょっと中身が気になったのは否定しませんけど」

「良いから、渡さんに見つかる前に仕舞っとけ。何回も続くなら、俺も報告せざるを得なくなるぞ」

「えーそれは勘弁してくださいよぉ! でもね、ちょっとこれ見てください。なんとなく彼女に似てませんか? 塚本を逮捕した時に現場にいた女の子」

「は?」


 呆れた声をあげつつも、ついつられて江坂の指先に視線を落とす。そこに映っていたのは大きな胸を強調するかのように両腕で挟んで小首を傾げたグラビアアイドルだった。顎下までの内巻きの茶色い髪とくりっとした大きな目は確かに彼女に似ているかもしれないが、よく見なくても別人だ。


「……彼女がこういう仕事をしていると言いたいのか? どう見ても人違いだと思うが」

「そ、そんな怖い声ださないでくださいよ! 違います、これくらい可愛い子だったってことですよ。おっぱいも大きかったし。この子この前交番にいた子ですよね? 一ノ瀬さんの知り合いの子でしょう?」

「だとしたら尚更失礼だろ」


 はぁとため息をついて頭を抱える。とりあえずこんないかがわしいものを交番に広げているなんて言語道断だ。江坂に突き返してやろうと雑誌を手に取った瞬間、グラビアアイドルの写真が目に入る。

 男を誘惑するかのように、蒸気した目で見上げる女。ぽってりした唇が蠱惑的に開かれているのを見た途端、一瞬だけ写真のアイドルの顔と彼女の顔が重なったような気がした。


「!!」

 

 慌てて雑誌を閉じて江坂の腕に押し付ける。何か見てはいけないものを見てしまった時のように心臓が大きく跳ねたのがわかった。

 確かに彼女は可愛い。だがこれは小動物を愛でるのと同じ感情だったはずだ。心の中で自分にそう言い聞かせるも、同時にパンケーキを頬張る彼女の頬に無意識のうちに触れてしまったことを思い出す。まるで子供のように美味しそうに食べる彼女の笑顔を愛おしく感じたのは事実だ。


(まさか俺は彼女を女性として意識しているのか……?)


 ほてった顔を隠すかのように口元に手を当てる。同時に、以前に渡警部補から受けた言葉が頭の中に蘇った。


 ――むしろ逆にお前が相手を惚れさせれば良いんじゃねぇのか?


 そうだ、渡さんが変なことを言うから頭が混乱しているに違いない。惚れさせろ、なんて無茶苦茶な指示のせいで、無意識のうちにそういった行動に出てしまったのだ。彼の言葉が無ければ、あんなことをするはずがなかったのに。

 だが、本当にそう言い切れるのだろうか。

 一ノ瀬の脳裏に、勇敢に塚本と対峙した時の彼女の姿が蘇る。いつもニコニコとして明るい彼女が、体を張って生徒を守ろうとした時の凛々しい表情は自分も思うところがあった。

 あの時の彼女を見た瞬間、心配する気持ちと共に、微かに心が揺さぶられたのを確かに覚えている。

 彼女に触れた時の感情きもちは――果たしてどちらのものだっただろうか。


「一ノ瀬、不出来な新人の世話で頭を抱えているところ申し訳ないがな」


 口元に手を当てながら考え込んでいると、頭上から野太い声がする。顔をあげると、強面の中年の警部補と目が合った。


「渡さん……」

「被害届けが提出された。受理する前の聞き込みは一ノ瀬、お前に任せる」

「承ります」


 慌てて居住まいを正し、渡から書類を受け取る。内容に目を通し、一ノ瀬は顔をしかめた。


「渡さん、これはどこからの届け出ですか」

「塚本だ。野郎を聴取した際に聞いたんだよ。堂々と他宅に不法侵入してきた女がいると、てめぇのしたことは棚にあげてうるさく主張してきやがる。まぁ弱者に暴力を振るうクソ野郎とはいえ、市民の声には間違いない。一旦は聞き込みで情報を集めるということになるが、頼めるか」

「承知いたしました」


 頷きながら警部補から渡された書類に目を通す。


 それはぴよぴよ仮面による不法侵入の被害届けだった。

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