第11話 囮大作戦

 次の日、私は学校が終わると迷うことなく正太郎くんの家へと向かった。今回の訪問は真木先生や酒井先生は連れずに一人だけだ。

 大きく深呼吸をしてチャイムを押すと、応答はなく、代わりにカチャリと扉が開く。おずおずと扉を開けたのは正太郎くんだった。


「おい正、誰だ?」


 部屋の奥から塚本の声が聞こえる。部屋でタバコを吸っているのだろう。たばこの匂いがこちらにまでムッと届く。正太郎くんは私が来たことに驚いたのか目を丸くしていた。


「あ、えっと、学校の先生」

「ああ? センコーがまた来たのか?」


 苛立ちの声と共に、タバコを加えた塚本が部屋の奥から姿を現す。私は彼の姿を見た瞬間、ニコリと笑って正太郎くんの手を取った。


「いきなりのご訪問、誠に申し訳ございません。ですが、匿名で学校に通報があったもので。どうやらこちらのご家庭では暴力的な行為が日常的に行われているようですね。なので正太郎くんの学校の教師として、これから児童相談所に連れて行こうと思います」

「おい待てよ。そんなこと俺は許可していないぞ。勝手な真似をするな」

「これは教師としての責任と義務です。どうかご理解を」


 冷たく言い放って正太郎くんの手を引く。彼は戸惑いの表情をしつつも、チラリと塚本を一瞥してそのまま私の手をギュッと握った。

 塚本が正太郎くんを捕まえようと手を伸ばすが、その前に彼の手を引いて部屋を出る。「走って」と告げると、彼はコクリとうなずいてくれた。


 二人で階段を駆け下り、建物の外に出る。一旦目指すは小学校だ。そこで一時的に正太郎くんを保護し、後に児童相談所に引き渡す。

 この公営住宅は目の前が大きな公園になっており、背が高い樹木に囲われた空き地に連なるようにして建物が並んでいるので、良くも悪くも人目が無い。ただし、住宅街を出て大通りに出てしまえばこちらのものだ。人通りがある場所では塚本も乱暴なことはできないだろう。

 だけど、やはり小学生の小さな男の子と女性の私では身体能力に差がありすぎた。

 後ろから怒声を浴びせながら迫ってくる塚本の気配を感じた瞬間、私は後ろから思い切り突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。膝に焼けるような痛みが走った所を見るに、コンクリートで思い切り擦りむいたようだ。慌てて振り返ると、塚本が正太郎くんの腕を掴んで強引に連れ帰ろうとしていた。


「正太郎くん!」

「あかり先生ー!」

「うるせぇ! お前はこっちに来い!」


 正太郎くんが涙声で呼んでいる。私は走って二人に駆け寄ると、正太郎くんを引き離そうと塚本の腕を引っ張った。だが、やはり成人男性の力には勝てないようで、腕はびくとも動かない。


「児童所だぁ? そんなもんいらねぇんだよ! 帰れ!」

「あなたこそなぜそんなに必死になっているんですか? 私にはあなたが保護者であるようには見えませんが!」

「あ? なんだとこのクソ女! ぶっ殺してやろうか!」

「殺せるもんなら殺してみなさいよ! あなたが必死になっているのは、今までの暴力の数々が明るみになるのを恐れているからでしょう! 一度痛い目を見なさいこのパチンコやくざ!」

「ああ!? てめぇ今なんつった!?」


 私の言葉にカッとなった塚本が正太郎くんから手を離し、私の髪の毛を鷲掴みにする。痛さに思わず悲鳴をあげると、塚本が残忍に笑った。

 だが私を殴りつけようと彼が拳をあげた瞬間だった。

 塚本の体がグイと後ろにのけぞる。髪を掴まれているので、体が一瞬引っ張られたと同時に離され、後ろからふわりと誰かに抱きとめられた。

 慌てて振り返ると、以前に交番ですれ違ったワンコのような若い警察官が私の体を支えてくれている。


「てめぇやめろ! 離せ!」

「暴れるな! 大人しくしろ!」


 目の前では暴れる塚本とそれを取り押さえる数人の警察官がいた。一ノ瀬さんもいる。塚本は手足を激しく振り回しながら必死で抵抗していたが、やはり訓練されている警察官には敵わなかったようだ。

 一ノ瀬さんが塚本の腕を掴んで後ろに捻り上げる。体勢を崩した塚本に、一ノ瀬さんがすかさず馬乗りになり、地面に組み伏せた。


「午後八時二十七分、婦女暴行の現行犯で逮捕する」


 一ノ瀬さんが時刻を読み上げると、後ろでワンコの警察官が「やべ、記録しなきゃ」と紙にペンを走らせる。想定はしていたものの、初めて見る逮捕の瞬間を目の当たりにした私は腰が抜けてぺたりと地面に座り込んだ。

 そのまま、塚本をパトカーに連行していく一ノ瀬さんの後ろ姿をぼんやりと眺める。


「あかりせんせぇー!」


 自分を呼ぶ声にハッとして顔をあげると、正太郎くんが私にガバっと飛びついてきた。どうやらあの若い警察官が保護して私の所まで連れてきてくれたらしい。「正太郎くん!」と彼の名前を呼ぶと、正太郎くんが涙で顔をグチャグチャにしながら私の胸に顔を埋めた。


「僕怖かった……! あかり先生が」

「大丈夫、ちょっと膝を擦りむいただけだからね。先生は大人だからこんなの平気だよ」

「アイツがあかり先生を怪我させた! ごめん、ごめんねあかり先生」

「正太郎くんは悪くないの。悪いのはアイツ。でももう警察が捕まえてくれたから大丈夫だよ」


 正太郎くんの体をギュッと抱き締めながら優しく背中をさする。小刻みに震える小さな体がとても頼りない。大人の私でも怖かったのだ。こんな小さな子からしたらどれほど恐ろしい経験だっただろう。

 守るかのように正太郎くんを抱きしめていると、ふいにザクザクと砂利を踏みしめる音が聞こえてきて視界にブルーのシャツが映る。


「浅雛さん、怪我はありませんか」

「い、一ノ瀬さん……」


 そこにいたのは一ノ瀬さんだった。地面に座る私と視線を合わせてくれるかのように腰をかがめて腕を差し出している。何のためらいもなく、私はその大きな手に自分の手を重ねた。


「浅雛さん、申し訳ありませんが車内で事情をお聞きかせ願えますか」

「あ、はい。勿論です」

「それではこちらに。江坂、もうすぐ男の子の母親が現場に到着するらしいから引き渡しておいてくれ」

「ラジャーっす! じゃあ正太郎クンあっちに行こうか。パトカーに乗せてあげるよ?」


 江坂と呼ばれた若い警察官がニコニコしながら正太郎くんの手を取る。正太郎くんは一瞬戸惑いの表情を見せたが、「先生は警察の人とお話があるからね」と伝えると、コクリと頷いて江坂さんの後を追った。

 

 一ノ瀬さんの手を借りて立ち上がり、パトカーの方へと歩いて行く。大したことがないと思っていたが、思っていたより派手に擦りむいたようで立ち上がると傷口がズキズキと痛い。一ノ瀬さんにすがるようにして立ち上がると、彼の手がさり気なく腰を支えてくれた。

 まだランプがピカピカと光っているパトカーの後部座席に乗ると、一ノ瀬さんも反対側のドアを開けて私の隣に座った。

 車内の電気をつけ、私の膝を見て痛ましそうに顔をしかめる。つられて私も視線を落とすと、膝小僧が真っ赤に染まっていた。派手に流血したらしく、血がふくらはぎを伝って靴下を真っ赤に染めている。

 一ノ瀬さんが簡易的な医療セットを膝の上に置き、海綿と大きめの絆創膏を取り出してくれた。


「聴取の前に手当をしましょう。簡易的で申し訳ございませんが、自分がやっても? それともご自身でされますか?」

「あ、やってもらって大丈夫です……」


 どっと安心した私は思ったよりも頭が働いていなかったようだ。一ノ瀬さんの言葉に、特に何も考えずに返事をしてしまったのだが、それが軽率な返答だったことに気がついたのは、一ノ瀬さんの手が私の足に触れた時だった。

 なるべく触れる面積を最小限にしつつも、彼の右手に持つ海綿が汚れた足を綺麗に拭き取っていくのを感じた瞬間、私の頬がカッと熱くなる。


(た、ただの手当だから! それ以外何もないから!)


 そう。男の人に体を触られることなんて病院に行けばいくらでもある。先週歯医者で検診をしてもらった時だっておじさん先生に顔を触られてるし、整体に行ったって若い男の先生が背中を押してくるもの。それと同じ同じ!

 それでも絆創膏を貼ってくれる為に一ノ瀬さんが顔を寄せてきた時は緊張して体がビクリと震えた。すっとした切れ長の目が私の足をじっと見ている。鼻筋も通ってて、この人やっぱりイケメンだわ……なんてドキドキしながら観察していると、一ノ瀬さんがふうとため息をついた。


「まったく、あなたも無茶をする人だ。まさか自分自身を標的にさせるなんて」


 一ノ瀬さんが静かな声で淡々と告げる。そう、私は塚本を現行犯で逮捕させる為に自らが囮になる作戦を立てたのだ。

 正太郎くんの家に行く前に、私は予め一ノ瀬さんに連絡をしていた。子供を虐待している疑いのある男がおり、その人と話をつけに行く。トラブルになる可能性が高いので、現場近くに来ておいてほしいとお願いをした上で正太郎くんの家に向かったのだった。もちろん、正太郎くんのお母さんがいないことや、塚本が在宅していることは事前に正太郎くんに確認済みだ。

 はじめ電話口で一ノ瀬さんは困惑していた様子だったが、一ノ瀬さん以外にも複数の警察官が来ていたことや、すぐさま逮捕に至ったことから考えると、彼が私の話を信じて対応してくれたことがわかる。

 私が返事に窮していると、一ノ瀬さんがふっと目をあげた。至近距離で目が合い、私の胸もどきりと鳴る。


「彼を挑発したのはわざとですね。あなたに暴力を振るわせる為に」

「す、すみません。でも現行犯で逮捕させるならこれしか方法が無いと思いまして……」

「それでも危険すぎます。訓練を受けた自分達とは違ってあなたは一般市民なんですから」

「はい、ごめんなさい……」


 彼の言うことは尤もだ。今回は間一髪で一ノ瀬さんが塚本を拘束してくれたが、場合によっては擦り傷だけでは済まなかったかもしれない。私がしゅんと肩を落とすと、一ノ瀬さんがふっと微笑んだ。


「それでも今回の逮捕は浅雛さんのお陰です。思ったよりも度胸があるんですね」

「え、そ、そうでしょうか」

「ええ。普通の女性なら事前に作戦を立てていてもいざとなったら躊躇してしまったり、判断が鈍くなったりするものです。浅雛さんは見た目に反してなかなか肝が座っている。今度良ければ個人的にお礼をさせてくださいね」


 一ノ瀬さんの言葉にヒヤッと背筋が寒くなる。肝が座っているのはきっと怪盗をしているからだろうけど、あんまり無茶をするとバレるリスクが高くなるということか。危ない危ない。今度から一ノ瀬さんの前ではもう少ししおらしくしてなきゃ。

 と同時に、怪盗という言葉で私はハッとする。そうだ、そもそも一ノ瀬さんに近づこうとしたのは警察の目を盗みながら怪盗業を続ける為だ。

 頭の中で、当初の目的と一ノ瀬さんの「お礼」という言葉が瞬時に結びつく。もしかしてこれ、うまくいけば彼女にならなくても彼のスケジュールをゲットすることができるチャンスかもしれない。


「あの、お礼はいりません。でも、今度良かったら駅前のパンケーキを一緒に食べに行きませんか? 最近できたお店で、評判も良くて」

「パンケーキですか? 自分で良ければいくらでもお付き合いしますが……でも、そういう所はむさ苦しい男と行くよりも女性と一緒に行った方が良いのではないでしょうか」

「い、いやそんなことないです! むしろそっちの方が都合がい……じゃなくて、い、一ノ瀬さんと一緒に行きたいんです!」

「自分とですか? それはまた珍しい」

「私、一ノ瀬さんの勤務じ……い、いや、えーと、そう、一ノ瀬さん! 一ノ瀬さんのことをもっとよく知りたくて!」


 拳をギュッと握って力説すると、一ノ瀬さんが瞠目する。普段は落ち着いている彼が珍しく動揺しているようだ。ほんのり顔を赤らめながらフイと目をそらす一ノ瀬さんを見て私はさっと青ざめた。


(え? あれ? もしかして今の発言ってデートに誘ってる感じ?)

  

 考えてみれば告白してるも同然の発言だった。やばい、撤回しなきゃ! と思いつつも、どう軌道修正したら良いのかがわからない。

 真っ青な顔をしてあわあわしている私をよそに、一ノ瀬さんは軽く頭を下げた。


「あまり語れる話もありませんが……自分で宜しければ」


(しかもオッケーもらっちゃったー!)


 その後車内で事情聴取を受けたのだが、私の頭はどうやってデートをしたら良いのかということで頭がいっぱいで、何を言ったのかは覚えていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る