第二章 虐待児童を救え!
第9話 相模 正太郎クン
その生徒は相模正太郎くんという名前だった。二年生で真木先生のクラスの男の子。一年生の時は溌剌とした元気な男の子だったというが、二年生になってからは目に見えて元気がなくなっているらしい。
私は職員室で、彼の児童票をじっくりと眺める。
「父親の欄が空欄ですが、母子家庭なんですね」
「そうなのよ。正太郎クンがまだ小さい頃に離婚したみたい。で、保護者面談の時に聞いたんだけど、最近母親の彼氏が同棲しているんだって。虐待してるなら、結構怪しくない?」
「そうですね、可能性はあると思います」
言いながら私は児童票に貼ってある彼の写真を眺める。くりくりした目にパツンと一直線で切られた前髪。おまんじゅうのような白くてぷくぷくしたほっぺたはまだまだ幼さの残る顔立ちだ。こんな可愛い子に暴力を振るう人がいるなんて考えたくもない。
「とりあえず正太郎くんに訪問していい日にちを聞いておいたわ。明後日ならお母さんのお仕事がお休みみたい」
「わかりました。では細かいことは明後日にまたお話しましょう」
真木先生と軽く打ち合わせをし、私はパタンと児童表を閉じた。
※※※
訪問日当日。私と真木先生は早めに仕事を切り上げて相模正太郎くんの家へ向かっていた。正太郎くんの家は小学校から近い公営住宅の一画にある。
児童票を見て住所をしっかり確認した後、私は真木先生と一緒に正太郎くんの家の呼び鈴を鳴らした。数刻の後、「はい」という応答の声と共に女性が顔を出す。正太郎くんのお母さんだ。
私はできるだけ警戒されないようにニコリと営業スマイルを浮かべて頭を下げた。
「こんにちは。お忙しい所すみません。私達、相模正太郎くんの小学校の教師をしております、浅雛と真木と申します。昨日ご訪問の予定をお知らせしておりましたが、今少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「あ、はい……あ、いえ、今はちょっと……」
正太郎くんのお母さんは、半分開いたドアから顔を覗かせて、オドオドと視線をさまよわせている。私達が来たのに困惑しているというか、戸惑っている雰囲気だ。きちんと事前に連絡はしてありますよね? と真木先生に目で確認すると、コクコクと真木先生が頷く。
「すみません、あまりお時間はいただかないつもりですので。最近少し正太郎くんに変わったことがないかお聞きしたかったんですよ」
「ああ、それはわかっています。ですが今はヒロく……いえ、彼がたまたま帰ってきてしまって……少し都合が悪いというか……」
お母さんは目を泳がせながら、しきりに部屋の中を確認している。彼というのは、真木先生が言っていたお母さんの彼氏ということだろうか。唇がふるふると震えている所を見ると、なんとなく怯えているようにも見える。
私は一歩下がって隣にいる真木先生に顔を近づけた。
(今日はちょっと都合が悪いみたいですね。出直しますか?)
(そうね、なんだか彼氏がいないときの方が良さそう)
お母さんに聞こえないようにヒソヒソと耳打ちをしていた時だった。
突然、部屋の奥からガァンと何かを殴る音がしてパリンとガラスの割れる音が響く。お母さんの顔がサッと青ざめたと同時に、今度は壁を殴りつける鈍い音が響いた。
「おい亜希子ォ! てめぇさっきから何ずっと食っちゃべってんだよ!! 用がないならさっさと追い出せ!」
「ヒロくん、今正ちゃんの学校の先生が来てるの。もうすぐ終わるからちょっと待ってて」
「はぁ? 学校のセンコーだぁ?」
奥から野太い声がして、ダンダンと床を踏みしめる音がする。
お母さんを突き飛ばすようにして後ろに追いやり、顔を出したのは四十代くらいの人相の悪い男だった。短く刈った髪に小さくて鋭い目。ヨレヨレのシャツから伸びる太い腕には無数の入れ墨が彫ってあった。
お母さんの彼氏(と思われる)男は、私と真木先生を上から下まで下品な目で一瞥すると、ペッと床にツバを吐いた。
「で、センコーがウチに何のようなんです」
「突然のご訪問失礼いたします。最近正太郎くんの体にいくつかアザや怪我が見られるようになりましたのでお話を伺おうかと思いまして」
「はぁ? 俺らが虐待してるって言いたいの?」
まるで威圧するような言い方だった。私の後ろにいる真木先生の肩がビクリと震えたのがわかる。でもここで怯んでしまってはここに来た意味がない。私はぐっと拳を握ると、目の前の男をしっかりと見据えた。
「いえ、まだわかりません。わからないからお話を聞きたいと言っているんです。最近、正太郎くんのご自宅での様子はどうですか?」
「別に何もねぇけど? アザや怪我ぁ? そんなもんそこらへんで引っ掛けて転んだだけに決まってンだろ。あいつトロクセェとこあるし」
「ですが、そうだとしても頻度が多すぎるかと。それに私はお母様にお話があるんです。代わっていただけますか」
「あぁ!? フザケてんじゃねぇぞてめぇ!! 俺は保護者じゃねぇってのか!?」
一向に怯む様子の無い私に苛立ったのか、お母さんの彼氏が――後から知ったが、名前は塚本と言うらしい――が、ガァンと玄関の扉を蹴り上げる。つり上がった鋭い三白眼が私を射殺すように睨みつけてくるが、構わずにこちらも睨み返す。大丈夫、ここは人目があるし、こちらだって二人いる。いざとなったら真木先生が逃げて警察に通報してくれるだろう。彼も同じことを思ったのか、塚本はチッと大きく舌打ちをして後ろを向いた。
「正太郎、ちょっとこっちに来い」
まるで怒鳴るような声だ。高圧的な態度に私が不快感を覚えていると、部屋の中からおずおずと正太郎くんが出てきた。
「おい、オメェそのケガ、どこでやったんだよ。早く言いな」
「て、鉄棒から落ちた……」
「他は?」
「友達と……け、喧嘩して……」
「聞いたか? ウチは何もやましいことは無いんで。帰ってもらえます?」
フンと小馬鹿にしたように鼻を鳴らす塚本に、私は悔しくてギリッと歯を食いしばった。そりゃアンタが側にいたんじゃ本当のことなんて話せないでしょーよ!
お母さんの彼氏が家にいたのは誤算だったが、ここは素直に退くしかない。私は後ろにいる真木先生に目配せをすると、能面のような顔でペコリと頭を下げた。
「お騒がせてして申し訳ございませんでした。それではこれで失礼いたします」
「ああ、大迷惑だよ。早く帰れ」
そう言うと、塚本はばたんと大きな音を立てて扉を閉めた。途端に真木先生が私の服の裾をギュッと掴む。
「ごめんねあかり先生。まさかお母さんの彼氏があんな人だったなんて……」
「いえ、次は酒井先生にでもついてきてもらった方が良いですね。でもこのまま放って置くわけにはいきませんし、対応についてはまたしっかり考えましょう」
不本意だけど、ひとまず今日の所は退散するしかない。私はもう一度振り返ると、所々剥げた灰色の扉をキッと睨みつけた。
※※※
真木先生と解散した私は、家に帰るなり鞄を投げ捨て、ぴよぴよ仮面になる支度を始めた。でも今日の所はメイクや変装は無し。もし誰かに見られたら顔を覚えられる危険性はあるけど、今日に限ってはこちらの方が都合が良い。
私は着ていた洋服を脱ぎ捨てると、いつも通りの黒いニットと白のホットパンツ、そして黒手袋を身につけた。
ベランダに出て耳をすませ、一ノ瀬さんが不在であることを確かめた後、私はエイヤッと道路に飛び降りた。
とっくに日が沈んだ人気のない道を一目散に駆けていく。目指すは先程までいた正太郎くんの家だ。
あっという間に目的地までたどり着くと、私は周りに誰もいないことを確認し、タンタンと公共住宅の階段を走って登っていった。
正太郎くんの家の前につくと、踊り場から身を乗り出してベランダに飛び移る。公共住宅はどの家も同じ作りになっているから、いちいち侵入経路を確認しなくて済むのがありがたい。
身を屈め、ベランダの窓からソッと部屋の中を覗くと、リビングの机で勉強をしている正太郎くんと、床に座ってビールの缶を煽っている塚本の姿が見えた。
お母さんが一生懸命掃除をしているのか、部屋は全体的に片付けられているようだが、塚本の周りにはクシャリと潰されたビールの缶と吸い殻だらけの灰皿、そして割り箸が突っ込まれたままのコンビ二の容器が散らばっていた。
想像通りの姿に顔を
「おい、ビール買ってこい」
壁が薄いのか、外にいてもまる聞こえだった。正太郎くんが顔を上げ、座った目で彼を見る。
「未成年はお酒買えないんだよ」
「あ? お前口答えすんのか? 養ってもらってる分際で」
「……」
「なんとか言えよこのクソガキ」
「……働いてるのは、お母さんだよ」
「おい、おめぇなんつったよ!! もっかい言ってみろ!」
外に聞こえるほどの怒声。続いて何かを殴りつける鈍い音が響いた。
正太郎くんの泣き叫ぶ声が聞こえる。気がつくと、私はその場を離れて一目散に走り出していた。
向かう先はもちろん交番だ。脳で理解する前に、体が反射でそこへ向かっていたと思う。幸いここからなら小学校の側にある交番まですぐだ。
私は真っ暗になった道を必死で駆け抜け、交番に飛び込んだ。
「浅雛さん!? どうかされたんですか?」
中に飛び込んだ瞬間、机に座って書き物をしていた一ノ瀬さんがガタッと立ち上がった。私は震えながら交番の外を指差す。
「ぎゃ、虐待です。お願いです、助けてください。男の子が、殴られていて、な、泣いているんです。早く行かないと殺されちゃう!」
「とりあえず落ち着いてください。状況を確認します」
言いながら一ノ瀬さんがハンカチを差し出してくれる。気がつくと、私はいつの間にかボロボロ泣いていた。小さい男の子が、大人の男性に思い切り殴られるという光景が思ったよりもショックだったみたいだ。もらったハンカチを両手で掴んでグジグジ泣いていると、一ノ瀬さんがためらいつつも優しく背中を撫でてくれた。
「時間が無さそうですので、車の中で状況を聞きます。申し訳ありませんが、浅雛さんもついてきてもらえますか」
「はい……はい、勿論です」
もらったハンカチでぐいと目元を拭うと、私は一ノ瀬さんと一緒に交番の横に停まっているパトカーへ乗り込んだ。
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