第8話 不穏な気配

 彼のシャツを着たままぼんやりと過ごすこと数十分。シャツを着て温かくなった体温が心地良くてうとうとしていると、部屋の向こう側で一ノ瀬さんが誰かと話す声が聞こえた。と同時にカツカツとヒールの音がしてばたんと扉が開き、真木先生が顔を出す。


「よっ! お待たせ〜」

「真木先生! すみませんありがとうございます……」

「まったくだわね〜一体どこに鞄をまるごと置き忘れてくるっていうのよ」


 言いながらドサッと床に紙袋を置いた真木先生が青いシャツを着ている私を見て目をパチクリさせる。


「え? あんた何そのカッコ。シャツ借りたの?」

「あ、はい。雨で服が濡れてしまったので」

「借りたのってあのイケメンの警察官? あんた何ちゃっかりラブロマンス発生させてんのよ! こら、抜け駆け禁止!」

「いや、全然そんなんじゃないですって!」


 ジト目で紙袋を差し出す真木先生の視線を避けながら私はそれを受け取る。中には白のブラウスと緑のカーディガン、そして桃色のプリーツスカートが入っていた。私が着替え用としていつも学校に置いてあるやつを頼んで持ってきてもらったのだ。慌ててシャツを脱いで自分の服に着替えると、やっとここでいつも通りの自分を取り戻せた気がしてホッとする。

 着ていたシャツを畳んで紙袋に入れ、部屋を出ると、机で事務作業をしていた一ノ瀬さんが顔を上げる。さっき部屋にいた猫は、一ノ瀬さんの足元でお皿に注がれたミルクを美味しそうに舐めていた。


「色々とご迷惑をおかけしてすみません。シャツは洗ってお返ししますので……」

「ああ、すみません。シャツは紛失のおそれがあるので貸与できないんですよ。羽織っただけだと思いますし、このままお預かりします」

「重ね重ねすみません……」


 ペコリと頭を下げて一旦は紙袋に入れたシャツを渡す。そのまま交番を出ようとした瞬間、外から入ってきた別の警察官とぶつかりそうになった。


「あ、すみません」

「あぁ、いやいやこちらこそ。あ、お帰りですか、お気をつけて」

 

 少しだけ髪の長い、まだ若い男の警察官だった。くりっとした大きな丸い目がなんだか犬っぽい。私は会釈をすると、真木先生と共に交番の外へ出ていった。





※※※


「あれ、一ノ瀬さん今日非番じゃなかったんですか? なんで出勤してるんですか」 

「色々とあったんだよ。折角だからこのまま仕事をして行く。それより江坂、今日の当直はお前だったな。この猫は何なんだ。引き継ぎも何も書いていないみたいだが」

「あっやべ。メモ残すの忘れてた……さっき拾ってきたんですよ。雨で濡れてて可哀想だったから」

「拾ってくるのは良いが拾得物扱いになるからな。手続きはしっかりやっておけよ。わたりさんには黙っておくから」

「はーい、すんません」


 口調は軽いが根は真面目なのだろう。注意された江坂がしょんぼりと肩を落とす。そんな新人の姿が、先程交番の椅子に座ってしょげていた彼女と重なって一ノ瀬はフッと微笑んだ。その笑みを目ざとく見つけた江坂が一瞬きょとんとした後、ニヤリと口角をあげる。


「一ノ瀬さん、さっきの女の子、もしかして知り合いですか? わざわざ交番まで連れてきて休日に対応してあげるってことは、もしかして例のおかずの子だったりして」

「江坂、お前はこういう時だけやけに鋭いな。もう少しその勘の良さを仕事に活かせないのか」

「えーマジっすか! だってさっきの子、めちゃくちゃ可愛いかったですよね? あんな子にご飯を作ってもらえるなんて一ノ瀬さんズルいっすよ! で、どこまでいったんスか?」

「何もない。ただの隣人だよ。それより江坂、彼女がここに来たことは渡さんには黙っていてくれないか」

「警部補に? 別にいいスけど、なんで? 未来の彼女になるかもしれないんだから、先に紹介しておけば良いのに」

「警部補に余計な負担をかけたくないんだ。あまり調子に乗ってると、今月のお前のノルマ、もう手伝ってやらないぞ」

「げ。それは勘弁してほしいですね、スンマセン黙ってます……」


 すごすごと引き下がる新人に「きちんと手続きをしておけよ」と声をかけ、一ノ瀬は再び手元の書類に視線を落とした。ペンを取ろうとして机の上に目を走らせると、綺麗に畳まれた青いシャツが目に入る。先程まで彼女が着ていたものだ。

 なんとはなしにそれを眺めていると、ふわりと微かに甘い香りがしたような気がして一ノ瀬の胸がドキリと鳴った。確か彼女は香水をつけていなかったはずなのだが……一瞬使い慣れた洗剤の香りとは違う匂いがしたような気がして、一ノ瀬は慌ててそれを鞄の中にしまった。


(渡警部補が変なことを言うからだな。江坂に口止めをしておいて良かった)


 自分と彼女は警察官と一般市民の関係であって、それ以上でもそれ以下でもない。また変なことを言われて逆に意識をしない為にも、余計なことは上司には黙っておくべきだ。

 一ノ瀬は一つ大きなため息をつくと、ペンを手に取り、また事務仕事に精を出し始めた。





※※※


「でね、そこで薬品棚の上にある教材を取ろうとしたら、後ろから手を伸ばして酒井先生が取ってくれたのよ〜! ね、背後から迫られるのってドキッとしない?」

「え、ええ……まぁそうですね……アハハ」

 

 次の日。二人で仲良く歩きながら学校までの道を歩く中、私は真木先生の恋バナをずっと聞かされていた。いや今だけでなく、昨日の夜に彼女の家へ泊まりに行ってからずっとだ。私より二つか三つは年上だった気がするが、そんなことはお構いなしとばかりにキャッキャッと真木先生が盛り上がる。

 一応職場恋愛になるわけだから彼女なりに恋心は隠しているようだが、最近私の前ではすっかり色々と曝け出している。どうやら彼女は、彼の顔も好きなようだがあのマッチョなムキムキボディにときめきが止まらないようだ。ううんわからない……。


「そんなに酒井先生が好きなら、今度お食事にでも誘ってみたら良いじゃないですか。真木先生美人だし、付き合ってくれそうですよ」

「何言ってんのよ〜もう既に実行済みだっつーの! でも、最近忙しくて夜は付き合えないんですって〜。ああんもう、彼女とかできちゃったのかなぁ」

「いや、そういう感じでは無さそうですけどね……彼、あんまり女性に興味がなさそうですし」


 というか、酒井先生は自分にしか興味が無い気がします、と心の中で呟く。なんかいっつも鏡見てるし、放課後に鉄棒で勝手に筋トレしてるし。

 だけど、だからこそ酒井先生とは付き合いやすいのも事実だった。挨拶のように可愛いねとか綺麗だねとか言ってくるけど、なんというか下心がある感じではないのだ。その爽やかさが女性にモテる秘訣なのかもしれない。

 それでも、すっかり恋する乙女モードになってしまった先輩にリップサービスをしてやるのも後輩の努めだ。昨日お世話になったのは間違いないわけだし。私はニコッと笑って真木先生に頷く。


「でも、真木先生と酒井先生はお似合いだと思いますよ? 酒井先生も、多分真木先生と一番仲がいいと思いますし」

「なになに? あかり先生もそう思う? やぁねぇホントのこと言ってくれちゃってぇ〜!」

「いや本当のことですもん。真木先生は美人だし、酒井先生もカッコいいですし」


 そう言った途端、背後からドンっと誰かにぶつかられて私は前のめりによろけた。今日はヒール低めのパンプスを履いていたから踏みとどまったけど、高めの靴を履いていたら間違いなく転んでいただろう。慌てて体勢を整えると、ひょろっとした猫背の背中がスタスタと目の前を歩いていく姿が見えた。


「ちょっとあかり先生、大丈夫?」

「あ、はい。すみません、私も前をよく見ていなかったので」

「いや、なんか薄井先生の方からぶつかってきた感じだったわよ! 何よあのクソねずみ男、感じ悪いわね!」

「真木先生、聞こえますよ……」


 私がたしなめると、前を歩く薄井先生がくるりとこちらを向き、パチリと視線が合う。だけどその目は憎悪に満ちていて、私は背筋がゾクリと震えた。

 隣の真木先生も異変を感じ取ったのか、私の服の裾をきゅっと握ってくる。


「え、なに? なんかあんた睨まれてない? あいつになんかした?」

「い、いえ、特に心当たりは無いのですが……」


 まさしく蛇に睨まれたカエルよろしくその場で固まっていると、薄井先生はまたくるりと踵を返して先を歩いていった。私の影に隠れるようにしていた真木先生が、私の背後から彼をキッとにらみつける。


「気をつけなよ、アイツ多分あかり先生のことが好きだから」

「え、そ、そうなんですか?」

「そうよ。見りゃ一発でわかるじゃん。だっていっつもあかり先生を見る時の目がエロいし。絶対変態だって」

「真木先生、同僚のことをそんな風に言っちゃだめですよ……」

「でもなんかさっきの目つき怖かったわよね。あかり先生のことが好きだと思ってたけど、違うのかなぁ?」

「多分違うと思いますけど……」


 というか、彼のことはあまりよく知らないというのが実情だ。薄井先生は私が赴任してきた当初からいる先生だが、これまでにあまり会話をしたことがない。

 ひょろっとしていていつも猫背。小さな目はいつも光を灯さず陰鬱としていて、への字に曲がった口は人を寄せ付けないオーラを出している。それでもたまに彼から視線を感じる時があって、なんだか気味が悪い人だなぁというのが正直な感想だった。あんなに激しく睨みつけられる程、彼と関わった記憶はない。

 私が黙って考え込んでいると、真木先生が「あ」と声を上げて私の耳元に顔を寄せる。


「そういえばさ、あんたに相談したいことがあったのよ。うちのクラスの生徒なんだけどね」

「真木先生のっていうと、二年生ですよね。どうしたんですか?」


 先程のキャピキャピした乙女モードから一瞬で教師の顔になった真木先生に、私も居住まいを正す。


「うん、結構おとなしい性格の男の子なんだけどね、なんだか最近腕とか足にアザがあるのよ。本人に聞いたら、友達と喧嘩したとか遊んでいて怪我したとか言ってるんだけど、私の勘だとあれはもう少し暴力的なものね」

「もしかして、虐待されてるってことですか?」

「可能性はあるわね。問題は、その子が話してくれないってことなのよ。もうど直球で、お父さんかお母さんに叩かれたりした? って聞いたんだけど頷いてくれなくて」

「それは心配ですね……家庭訪問をするべきでしょうか」

「そ。そこでアンタにお願いがあるの!」


 そう言うと真木先生がパンと両手を合わせて拝むポーズをする。う、これはなんだかあまり良い予感がしないぞ。


「家庭訪問、一緒に着いてきてくれない? どうしても一人で行くのが怖くって」

「私がですか? 真木先生とは学年が違いますけど、良いんでしょうか」

「同じ学校の先生なんだから問題ないわよ。私、こんな見た目だから親受け悪くって。アンタみたいなタイプの方が色々話してくれそうじゃない?だからさ、お願い。ね、今度駅前のパンケーキ奢るから」


 真木先生が上目遣いでウインクをする。うーん美人はこういうポーズが様になるからズルい。

 でも、私も一教師として見逃せない話ではあった。困っている子供がいるならば、大人が助けてあげなくちゃ。


「わかりました。では、日程などはまた後で決めましょう」


 私が言うと、真木先生は珍しく「ありがとう」と言って頭を下げた。

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