第7話 交番でとんでもハプニング
私は一ノ瀬さんに借りた傘をさしながら、彼についていくようにして交番までの道を歩いていった。外はまだざぁざあのどしゃぶりで暫くは止む気配がない。寒くはないが、湿気た空気と濡れて肌に張り付いた服がなんとも気持ち悪かった。
数分ほど歩くと、霧がかった視界の中にポウと交番の光が浮かび上がる。一ノ瀬さんに続いて交番の中に入ると、中には誰もいなかった。
「そこの椅子に座ってください。今タオルと電話帳を持ってきますから」
一ノ瀬さんが引いてくれたカウンターの椅子に座り、彼が奥の部屋へ行く背中を見送る。私は椅子に座りながらぐるりと交番の中を見回した。
部屋の中はカウンターと電話があるだけの簡素な作りだった。壁には犯罪抑制のポスターが貼ってあるだけで他には何もない。普通に生きていれば、交番にお世話になる機会はあまりないのもあって、私は寒さと緊張で借りてきた猫のように椅子の上で縮こまっていた。
「お待たせしました。タオル、使ってください」
両膝に手をついてカチコチになりながら待っていると、一ノ瀬さんが白いバスタオルを持って戻ってきた。先程のラフな黒いTシャツではなく、しっかりと警察官の制服を着ている。
私は目をパチクリさせながらタオルを受け取った。
「ありがとうございます。あの、一ノ瀬さん、その服……」
「一応着替えてきました。警察手帳は持っていますが、見た目が一般人の男が交番にいるのはまずいですからね」
「わっ、すみません。私のせいで……本当は今日お休みの日ですよね」
「いえ、事務仕事が溜まっていましたから、ちょうど良かったですよ」
そう言って一ノ瀬さんが優しく笑う。迷惑をかけている上に気遣いもしてもらった私は内心でガックリと項垂れた。これでは一ノ瀬さんを惚れさせるどころか、返って迷惑をかけてしまっている。ごめんなさい一ノ瀬さん、次に持っていくおかずはいつもより奮発するので許してください。
借りたタオルでワシャワシャと髪を拭き、ついでに手や足の水滴も拭う。服もびっしょり濡れているが、着替えがないのでここは我慢するしかないだろう。
タオルを畳んで机の上に置くと、一ノ瀬さんがパラパラとファイルをめくって差し出してくれた。そこに書いてあるのは、私が勤務している小学校の連絡先。恐らく、近隣施設の情報がまとめてあるファイルなのだろう。私は丁寧にお礼を言って、机に置いてある電話の受話器を手に取った。数コール後に「はい」という真木先生の声が聞こえ、私は安堵のため息をついた。
サトシ君の家に鞄を置いてきたことは伏せて、鍵も財布もスマホもないことを説明する。受話器の向こうから、真木先生の素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「はぁ? それで今交番にいるってこと? ちょっと待ってなさい、すぐに行くから」
「すみません真木先生、まだやることもあるのに……」
「ちょうど今終わった所だから構わないわよ。その代わり、今度駅前のパンケーキ奢ってよ。トッピング全部のせのやつ」
そう言うとプツンと電話は切れてしまった。良かった、これでとりあえず泊まる所には困らなそう。私がお礼を言って電話を返すと、一ノ瀬さんは机で何かの書類を書いていた。
「同僚が迎えに来てくれて、そのまま泊めてくれるみたいです。すみません、お騒がせしました」
「いえ、市民の為の交番ですから。ここにいると人の目がありますから、良ければ裏の休憩室を使っていてください」
「いえ、そんな……そこまでしてもらうのは申し訳ないです」
と言いつつも、確かに交番の横を通り過ぎて行く人は、なぜこの時間の交番に若い女の子が一人でぽつんと座っているのか気になるようだ。チラチラと送られる視線に耐えかねて、私は一ノ瀬さんの申し出に甘えることにした。
※※※
通された場所は、仮眠室にも使っているらしく、本当に「寝るだけの部屋」という殺風景な場所だった。仮眠用のベッドと書き物用の小さな袖机が置いてあるだけで窓もない。私は一ノ瀬さんが出ていくのを見計らうと、ベッドに腰掛けようとして慌てて思いとどまった。
傘を貸してもらったとは言え、土砂降りの中を歩いてきたので服は上も下もビショビショだ。黒い薄手のニットが肌に張り付いて気持ちが悪いし、スカートも濡れているから、このまま皆が使うベッドに横になるのは申し訳ない気がする。
私は部屋に窓がないことを確認すると、エイヤッとトップスを脱ぎ捨てた。下から白いレースのキャミソールが現れる。簡単に手で触った感じだと、下着はそこまで濡れていないようだった。これなら少し経てば乾くだろう。少し迷ったけど、思い切ってスカートも脱ぐことにした。ワンピースタイプのキャミソールだから太ももまでくらいは隠れるし、何より一ノ瀬さんみたいなタイプは用があれば必ずノックをしてくれるだろうから、不躾にいきなり部屋を開けられることもないだろう。
身軽になった私は、下着姿のままポフンとベッドに腰掛けた。そのままなんとはなしに、年季の入った灰色の天井を見上げる。
(一ノ瀬さん、優しい人だな……)
何もない空間を見上げながらぼんやりと思う。彼の目を盗んで怪盗をする為に恋人になって勤務日程を把握する作戦なのだが、わりと彼の前では失態を見せすぎてこのままでは自分に惚れてもらうのはかなり難しいかもしれない。というか、そもそも彼、モテそうだし。
それでもやはり彼のスケジュールを抑えておくのは不可避の問題だった。現に、彼が勤務日だと思っていた日がお休みだったことで計画が大幅に狂っているわけだし。
はぁ、とため息をつきながら視線を部屋の中に戻すと、白い壁にぽつんと一つだけかかっているコルクボードに目がとまる。ボードには様々な書類がピンで留めてあった。
それを見た瞬間、私の中でパチンと何かが閃く。
(そうだ、勤務表! これがあればわざわざ一ノ瀬さんの彼女にならなくても良いじゃない!)
私はガバッと立ち上がるとコルクボードに近付いた。貼ってある紙をくまなく見るが、部屋の使い方や勤務のルールなど当たり障りのない内容が書かれているだけで勤務表は見当たらない。めぼしい情報を見つけられなかった私の視線が、ベッドの袖机に吸い寄せられる。
(こっちになかったら、もしかしてあっちかも?)
そっと足音を殺しながら袖机に近づき、ゆっくりと引き出しを開ける。引き出しの中にはいろいろな書類が雑多に詰め込まれていた。
息を潜めながら、引き出しの中を引っ掻き回して目当ての物を探す。だが、いくら探しても勤務表は見当たらない。いや、勤務表でなくても、何か手がかりになりそうな情報を探そうと私は目を皿のようにして中を探した。
夢中になっていたからだろう。だから、私は背後から近づくソレに全く気が付かなかった。
突然、太ももに下から上へ撫で上げるような感触があった。そのくすぐるようなふわふわした肌触りに、ゾワッと背筋が震える。まるで後ろからお尻をまさぐられているかのような不快な感覚に、私の思考は完全に停止した。
「きゃあぁぁぁあ!!」
防衛本能のままに大声で叫ぶ。待って何、痴漢? 交番で? 男の人にまともに触られた経験のない私の頭は恐怖で混乱していた。と同時にバタバタと足音がして、バンっと扉が開かれる。
「浅雛さん! どうされましたか!?」
血相を変えた一ノ瀬さんが慌てて部屋に入ってくる。私は恐怖に震えながら思わず彼の胸にすがりついた。
「今、今誰かが私のお尻を触って……」
涙ぐむ私の姿を見た一ノ瀬さんの表情がサッと変わる。まるで庇うかのように私を背後に押しやった一ノ瀬さんが、鋭い目で部屋の中を見回した。
私も震えながら背後からそっと部屋の中に視線を移す。だが、そこには無の空間があるだけだった。
「あれ? 誰もいない……?」
ポツリと私がつぶやいた時だった。
にゃーん
視線の遥か下から小さな鳴き声が聞こえた。見ると、ベッドの下からつぶらな黒い瞳が怯えたようにこちらを見ている。
「え、猫……?」
「の、ようですね」
一ノ瀬さんもふーっと息を吐きながら腕を降ろす。よく見ると、ずっと左手で私を庇っていてくれていたようだ。一ノ瀬さんがゆっくりとベッドに近づくと、怯えた猫がヒュンとベッドの下に隠れる。
「おいで、怖いことはしないから」
はじめ猫は微動だにしなかったが、元は飼い猫だったのだろう。一ノ瀬さんが何度か優しく声をかけると、やがてか細い鳴き声と共におずおずと這いでてきた。三色の毛並みが綺麗な小さな三毛猫だ。猫は人馴れしているのか、しっぽをまっすぐに立て、それを巻きつけるかのように一ノ瀬さんの足に寄り添った。
「さっきの感覚って、尻尾だったんだ……」
ほっと安心しながら私が呟くと、一ノ瀬さんが笑いながら猫を抱く。猫は嬉しそうに彼の腕の中でぐるぐると鳴いた。
「すみません、私の早とちりで……」
「いえ、何事も無かったのならそれに越したことはありませんよ。浅雛さんが無事ならそれで……」
にこやかに笑いながらこちらを向いた一ノ瀬さんがピタッと固まる。どうしたんだろう、と訝しげに思いながら彼の視線の先を辿った私は、自分の姿を見下ろしてぎょっとした。
(あーーーーー! 私さっき洋服脱ぎっぱなしだったーーーー!!)
焦りすぎて自分が下着姿でいることをすっかり忘れていた。慌てて両腕で自分を隠しながら後ろを向くがもう遅いだろう。白いレースのキャミソールの裏から透けて見えるピンクが恨めしい。
「すみません、服が濡れていたのでつい。とんだお目汚しを!」
「い、いえ、自分もいきなり部屋に入って申し訳ありませんでした。てっきりはじめは暴漢に襲われたのかと……」
「ですよね! こんな格好してたらそう思いますよね!」
恥ずかしすぎて半ばやけくそになって叫ぶ。日頃のズボラっぷりがこんなところで足を引っ張るなんて。神様、明日からおしとやかに生きるので三十分前に時間を戻してください。
一ノ瀬さんは口元に手をあてながら礼儀正しく視線をそらしていたが、「あ」と一声あげると慌てて部屋を出ていった。
私はバタバタと出ていく大きな背中をしょんぼりしながら見つめる。うう、こんな調子じゃ彼女になるどころか友達にすらなってもらえないかもしれない。
ガックリと項垂れながら私はびしょ濡れのニットを手にして広げた。まだ濡れているけど恥ずかしい格好をするよりマシだと思って袖を通そうとした瞬間、ノックの音と共に部屋の扉がガチャリと開いて一ノ瀬さんが戻ってきた。
「これ、自分のものですが良ければ着ていてください。洗ってあるやつですので」
差し出されたのはブルーのシャツだった。警察官が着ている、袖にエンブレムがついている本物の制服だ。私がお礼を言いながら受け取ると、一ノ瀬さんは軽く会釈をして部屋を出ていった。勿論、最後まで視線はバッチリそらしたままだ。
(一ノ瀬さん、完璧すぎて完敗です……)
心の中で百万回謝りながら、シャツを広げて体に羽織る。背の高い一ノ瀬さんの着ているシャツは思ったよりも大きくて、ちょうど太ももが隠れるくらいの丈だった。
両方の袖に腕を通すと、ふわりと石鹸の香りが鼻をくすぐる。どこかで嗅いだことがあるなと思って私はダブダブの袖に鼻を近づけた。
(ああ、そっか。さっき私を庇ってくれた時……)
私の悲鳴を聞いて駆けつけてくれた一ノ瀬さんは、迷うことなく私の体を背後に押しやってくれた。一瞬密着した時に、彼の体温と石鹸の香りを感じた気がする。
視界いっぱいに映る大きな頼もしい背中を思い出した途端、私の中で何かが微かに蠢いたのを感じた。でもなんとなくそれを明らかにするのが怖い気がして、私は慌ててその記憶を頭の片隅に追いやった。
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