第6話 思いがけない事態
一連のドタバタはあったものの、私はひっそりと怪盗業を続けていた。
勿論、SNSで一ノ瀬さんと頻繁に連絡を取って彼の動向を探ることは欠かさない。「おかずを持っていきたいので今晩家にいますか?」と聞けば、少なくともその日の在宅有無はしっかりわかるからだ。貰ったGPSが高価すぎて、その分をおかずにしてきっちり返さないといけないなと思っているのもあるけれど。
何度かやり取りをしているうちに、なんとなく彼の行動パターンが理解できてきた。
まず、警察官の勤務形態は基本的に当番、非番、公休の交代勤務制だ。その日が当直であれば、次の日は非番。何時くらいに帰ってきて、いつ家にいるかくらいの予測は立てられる。だけどやっぱり彼の言う通り、急に駆り出される日もあるみたいで、お休みだと思っていた日に彼が家を出ていくのを見たこともある。やはり正確なスケジュールがわからないうちは、闇雲に行動はできなかった。
その日、私はいつも通りぴよぴよ仮面になる準備をしていた。
勤務時間が終わったと同時に学校を出て真っ直ぐに帰宅。その後鏡台の前に座り、母から譲り受けたメイクセットをずらりと並べた。今日はサトシ君の家に行くから、パターンAのメイクだったかな、などと考えながら私は使い慣れた化粧筆を手に取る。アイラインやコンシーラーで顔の雰囲気を変えながら、私は昔のことを思い出していた。
舞台女優だった母は、昔から私の前でよくメイクをしていた。田舎にある小さな劇場で演劇をやっていただけで全く有名な役者ではなかったのだけれど、それでも役柄に合わせて化粧を変えていく母の手はまるで魔法のようだった。
ある時は天使のような美少年に。ある時は夫と死に別れた未亡人に。役柄に合わせて丁寧に塗られた化粧は、そこにいるのが母だとわかっていても別人のように思えた。
――お母さんすごい! 全然お母さんじゃないみたい!
――そうよ、私は今あなたのお母さんじゃなくて、お転婆令嬢のパトリシアなんだから。『ねぇアビー? ルナール亭にチェリーサンドを買いに行かない?』
――すごい! 声まで変わってる! ねぇそれってどうやるの?
キラキラと目を輝かせながら変身シーンを眺めていた私に、母は優しく頭を撫でてくれたのだった。
今はもう引退して、父と仲良く暮らしてるみたいだけど、両親との思い出は大人になった今も私を形作ってくれる大切な記憶だ。だからこそ、親と一緒に過ごすことができない子供達に、少しでも構ってあげられるよう私は怪盗になった。例えほんの僅かなことしかできなくても、私はできるだけ彼らから寂しい時間を奪ってあげたいのだ。
丸い大きな目をテープで引っぱってツリ目にし、目に赤色のカラコンを入れる。その上から金髪のカツラを被れば怪盗ぴよぴよ仮面の完成だ。髪の毛を短くしてるのは、実はかつらをかぶるためだったりする。最後に百円ショップで購入した安っぽい仮面を手に持ち、黒手袋をはめると、私はガラガラとベランダの窓を開けた。
ベランダに出て、慎重に聞き耳を立てる。一ノ瀬さんとのやり取りで、二日前が非番と言っていたはずだから、順当に行けば今日は当直。明日の昼までは帰ってこないはずだ。一応、一ノ瀬さんがお休みの日は紙袋に変装道具を入れてデパートの化粧室でメイクをしたりしているけど、荷物を少なくする為にそこまで手の混んだ変装はできないし、何より人目がある。こうやって家から行くのが一番安全で楽なのだ。
人目が無いことを念入りに確認し、私は二階から飛び降りた。そのまま黒く染まりつつある空の中に、私は走りながら溶け込んだ。
※※※
一仕事終えた私は、暗闇の中を走っていた。時刻は午後八時。いつもより少し早めに家を出たのは、天気予報でこの後雨になることを知っていたからだ。少し名残惜しそうな顔はされたものの、聞き分けの良いサトシ君のお陰で、片付けもご飯も宿題もスムーズに終わらせることができたのも助かった。
すっかり暗くなった道を小走りで駆けていく。暫くすると、自宅のマンションが見えてきて私はホッとため息をついた。よし、ここまで来ればもう安心だ。後はヒョイッとベランダから家に入ってしまえば良い。いつもの通り、外壁から二階へ飛び移ろうとマンションへ近づいた途端、私はその場でピシリと固まった。
隣の部屋のベランダに人影が見えた。一ノ瀬さんだ。少し濡れた短い髪と、首にタオルがかけられているのを見るに、風呂あがりで涼みにでも来ているのだろう。うんうん、五月になってだいぶ温かくなってきたから、風に当たるのは気持ちいいよね。ってそうではなくて!
(ええええ〜〜〜! 今日は勤務日じゃなかったの〜〜〜〜!!!)
心の中で悲鳴をあげ、私は慌てて物陰に隠れた。咄嗟に金髪のカツラをむしり取り、回れ右して来た道を猛烈にダッシュする。
一ノ瀬さんを見た瞬間にかつらを取ったからおそらくバレてはいないだろうけど、家に帰れないのは一大事だ。おまけに、ぽつりと頬に水滴が当たったかと思うと、まるで追い打ちをかけるかのように一瞬でバケツをひっくり返したようなザアザアぶりになった。
マンションから少し離れた所にあるコンビニに駆け込み、トイレでビーッとテープを剥がす。証拠になりそうな金髪のかつらは、申し訳ないが公共のゴミ箱に捨ててきた。うう、勿体ないけどそろそろ換え時だったから仕方ないと思おう……。
幸い、今日のメイクはいつもより少し雰囲気を変えただけの簡単なものだったから、ひとまず「浅雛あかり」に戻った私は商品であるコンビニの傘を手に取った。これで何食わぬ顔をして帰れば、マンションで一ノ瀬さんに会ったとしても問題ない。
だけど、財布やら鍵やらを入れているポシェットに手を伸ばそうとした所で、私は腰に触れるものがないことに気付いた。
(ポシェットがない! もしかして、サトシ君の家に置いてきちゃったのかも!!)
早く帰らねばと慌てていたのが裏目に出てしまったようだ。私は慌てて今の状況を頭で整理する。
ベランダから出入りしたということは、家の鍵はかかったまま。サトシ君の家に戻りたくても、もうお母さんが帰宅しているだろう。財布も無いので傘も買えない。もちろん、スマートフォンは自宅にある。
(詰んだ……)
八方塞がりの状況に、私はガックリと肩を落とした。おまけに雨の中を走ってきたので全身ずぶ濡れだ。ブルッと悪寒がしてくしゅん! と一つくしゃみをすると私はしょんぼりとうつむいた。
家に入れない上に財布もないしスマホもない状態ではどうすることもできない。暫く待ってみて、一ノ瀬さんがベランダからいなくなったらこっそり家に入ろうかとも思ったが、彼が在宅である以上、万が一物音を立てて見つかったら一巻の終わりだ。
私は半ば呆然としながらフラフラとコンビニから出た。屋根の下で佇みながらバケツをひっくり返したかのような豪雨を眺めてため息をつく。
――こんな時、誰かが側にいてくれたらいいのに。
濡れて張り付いた服と共に心も冷えていく。心細さを押し殺すように、ギュッと拳を握ったその時だった。
「浅雛さんですよね? 大丈夫ですか?」
低くて優しい声が頭上から降ってくる。つられて顔をあげると目の前には一ノ瀬さんがいた。さっきベランダで見かけたままの黒シャツ姿で、手には黒い傘を二本持っている。短い髪に少し水滴がついているのは、風呂上がりだからか、雨の中を走ってきてくれたのかのどちらかだろう。
それでもなぜか彼の姿を見た途端、私の胸にどっと安堵の思いがこみ上げた。
「一ノ瀬さん……どうしてここに?」
「先程ベランダで涼んでいたら、浅雛さんが雨の中を走って行くのが見えたんですよ。マンションの近くまで来ているのに、傘も持たずに慌ててどこへ行くんだろうと思いましてね。お節介だとは思いましたが、せめて傘くらいはお渡ししようかと」
百点満点の回答に、私はしょもんりとうつむく。ぴよぴよ仮面、今のところ警察に惨敗です。
きゅっと口を結んで地面を見つめる私を見て、一ノ瀬さんは私が手ぶらの状態に気がついたようだ。
「すみません、差し支えなれば何をしていたのか聞いても……? 見たところ、鞄も傘も持っていらっしゃらないようですが」
「実は鞄を、その……置いてきてしまって。あ、置いてきた場所はわかるのですが、もう今日は取りに行かれない場所ですね。鍵も財布も全部その中に入っています」
「そうですか……」
一ノ瀬さんは顎に手をあてて暫く考えこむ様子を見せていたが、やがて顔をあげて私と視線を合わせた。
「自分の家……はまずいですね。ここからだと交番が近いのでひとまずそこまで行きましょうか。一応、遺失物届けも提出できますし、必要であれば公衆接遇弁償費といって交番からお金を借りることもできます。どなたかに連絡できる人はおりますか?」
「同僚は家に泊めてくれそうですが、スマートフォンは自宅なので……連絡先がわかりません」
「まだ学校にいらっしゃったりしますか? 交番で電話くらいならお貸しできますよ」
それを聞いて私はあっと声をあげた。コンビニにかかっている時計に目をやると、時刻はまだ午後九時前。死んでも家に仕事を持ち込みたくない真木先生ならまだ学校にいる時間だ。彼女に電話をすれば、一泊くらいは泊めてもらえるかもしれない。
「うう……お世話になります……」
情けなさに押しつぶされそうになりながらペコリと頭を下げると、一ノ瀬さんが優しく笑った。
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