旧交は温めますか?


 えー、ひょんなことから切れた御縁がつながるなんてえこともありまして。

 落語のマクラなど真似て述べている場合ではないのだが、動揺しすぎた私は一周回って変に冷静になっていた。

 そもそも『ひょん』とは何だろう。『凶』の読みが変化したもの、『ひょう』という宿木説、以前Wikipediaで調べた何の役にも立たない雑知識が脳内を巡る。


 その日は人生何回目かの引っ越しを終えて、そろそろお隣さんにご挨拶に行こうかと、お気に入りの革のサンダルを履きドアを開けたところだった。

 特に人生の転機があったという訳でもなかったのだが、私には住居から見える景色に飽きると引っ越しをする悪癖があった。

『富岳三十六景』を描いた浮世絵師・葛飾北斎は90年の人生で93回引っ越しをしたという。理由は”掃除嫌い”だったそうだが私には当てはまらない。

 どちらかと言えば掃除は得意だ。物が増えるのも嫌なので、引っ越しは断捨離にも丁度良い。もともとフリーランスでほぼ在宅で仕事をしているので、職場への距離なども考えずに済む。引っ越し慣れして荷物が極端に少ないので片付けも楽だ。


 私がマンションの外廊下に出ると、ちょうど両隣の部屋のドアが同時に開いた。隣人に挨拶をしようと開きかけた口がそのまま閉じられなくなる。


「……は?」

「こんにちは」「こんにちは」


 向かって右から出てきたのは青いワンピースタイプの部屋着を着た女、柔らかい茶色の前髪に少々の寝ぐせ。左から出てきたのは紺のスウェット上下の男。いつもは整えている前髪も下して少々の無精髭ぶしょうひげ。先日酒場で再会した二人だった。

 あの時はどうにかこうにか言いつくろってその場を逃れてきたが、まさかのお隣さん。不穏な予感に震えながら、思わず言葉が口をついて出た。


「え、ストーカー?」

「まさか」「昨日引っ越してきたんだよ」

「気が合うね……」

「きみは引っ越しが」「好きだったよね」


 同時にそう言われて少々気まずい。過去に引っ越しとともに別れた恋人もいるのだ。この二人とはどうだったかなと思い返してみたが全く思い出せない。


「ある日家に行ったら」「もぬけの殻」

「わ……わあ…」

「連絡先も」「聞いてなかったし」

「ヒドイヤツモイルモンダナ~」


 おう…過去の例に漏れず。

 二対の眼にジトリと見詰められ、脂汗がにじむ。他人との付き合いを疎かにしてきたツケが今まさに回ってきているのをまざまざと感じる。

 しかしそうは言ってもあまり物にも人にも執着できない性質なので、性懲りもなく同じことを繰り返すのだろうなと思いつつすっとぼける。


「……まあ、立ち話も難ですから、引っ越し蕎麦でも食べに行きません?この辺のお店知ってる?」

「越してきたばかりだから」「知らないけど」

「そっか、じゃあみんなで散策しようか」


 この状況で一緒に食事なんてどういう神経だ、と思っているのが見え見えな態度ながら、二人は声を揃えて「着替えてくるから10分待ってて」と言って部屋の中へ消えた。


 さて、旧交は温めるべきか否か。コンビニで弁当を温めるようにはいかないのは分かっていたので、私は急いで鍵と財布と携帯電話を持って、二人が戻って来る前にその場を離れた。

 引っ越し蕎麦は二人で食べればいい。あれだけ息も好みも合う二人だ。すぐに意気投合するだろう。あわよくば恋にでも落ちてくれないだろうか。片方は同性しか愛せないのでそれは無理かもしれない。


 私はそんな益体もないことを考えながら、まだ見慣れぬ近所の道をぶらぶら歩いて行った。

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