Insel
みたか
Insel
ドイツ語で島はInsel(インゼル)と言うらしい。辞書を引くと「島、孤立した場所」と出た。ドイツ語は名詞の性が男性、女性、中性の三種類あるが、Inselは女性名詞だ。辞書を広げながら、おれはそれにぐっときた。
海に浮かぶ島を想像する。水面から体をどっしりと出した島は、全部女だ。女たちはその丸みのある体の、どこを露出しているのだろう。
岩のような肌を露わにした女、海鳥の卵を守る女。色んな女がいるが、おれは青々とした緑を豊かに生やした女がいい。そういう女に抱かれてみたい。その緑は、不安定に揺れるおれの感情すら抱きしめてくれるだろう。葉っぱを一枚一枚広げて、こんなおれを丸ごと受け入れてほしい。
緑が生い茂った女は、きっとその奥に泉を隠している。島の生き物を生かす、命の水。おれもその水で生きてみたいと思ったが、泉にたどり着く前に死ぬだろう。おれは、いつもそうなのだ。
アーリーは先週から頭に女を飼い始めた。イメチェンしてくると言って美容院に行ったアーリーは、ショートヘアの襟足を緩く残して緑色にした。メロンソーダみたいな色だ。髪全体は明るい茶色なのに襟足だけ緑色だから、おれはそれを島だと思った。
「なあ、そこ触らせて」
「ん」
おれが手を伸ばすと、アーリーはパンを齧りながら頷いた。アーリーの昼飯は、いつも大学内のベーカリーで買ったパンだ。今日はベーグルサンドらしい。齧った瞬間に卵が落ちそうになって、アーリーは舌で掬って食べた。
向けられた後頭部で、襟足が揺れている。風がおれたちのベンチを通り過ぎて、二号館のほうへと流れていった。
緑色に手を伸ばす。指先でちょいちょいと撫でると、アーリーはくすぐったそうに笑った。
「へえ」
「良くない? この色」
「ああ、うん、いいと思う」
アーリーの島は平たくてパサパサしていて、女という感じがしなかった。おれが想像していた島は、もっとふっくらしていたのに。
「アーリーはなんでこの色にしたの?」
アーリーというあだ名はおれがつけた。名前に全くかすっていないが、軽やかな感じがこいつっぽくていいと思う。こいつをアーリーと呼ぶのを、おれは密かに気に入っている。
「特別な理由はないよ。まあ、他の人があんまりやってない色にしたかったからかな」
確かに、髪を緑色にしている人は、大学では見たことがない気がする。アーリーが歩くとみんなが振り向くし、すごい色、とコソコソ話す声が聞こえることもある。アーリーはそれを全く気にしていなかった。むしろその視線を楽しんでいるみたいに見える。おれには真似できないことだ。アーリーのそういうところが、好きだと思う。
襟足に触れたままぼうっと考えていると、アーリーはまたベーグルサンドを齧った。咀嚼するたびに、アーリーの首が小さく揺れている。ごく、と飲み込む響きが伝わってきて、どきりとした。生きている、と思った。
おれは誰かの「生」を感じたことがない。生きている人間はたくさんいるのに、自分とは全く別の、違うモノみたいに思っていた。手を伸ばそうとしても、ぬくもりは手に届く前に離れていく。おれだけ隔離されているみたいだ。「孤立した場所」なのかもしれない。おれはInselなのか。
おれの手を全く気にせずアーリーは咀嚼を続け、コーヒーを飲んで満足そうな顔をした。
さすがに触りすぎか。
襟足から手を離すと、アーリーはちらと振り向きながら微笑んだ。
「あれ、もういいの。気持ち良かったのに」
思ってもみなかった言葉が、アーリーの口から出た。気持ち良かった、とは。
「美容院に行くとさ、あったかいタオルを首のうしろに載せてくれるんだよね。シャンプーのあととか。なんかそれみたい。首がぽかぽかして気持ちいいの。手あったかいんだね」
アーリーはおれの手を取って、もう一度襟足に当てた。アーリーの体温がおれにも伝わってくる。ぬくもりが手のひらから体の中に染み込んでいく。
「はあ? なに、泣いてんの?」
「は、うわ、なんだこれ」
前触れもなく涙がこぼれて驚いた。泣くつもりなんてなかったのに。慌てて拭ったけど、視界は滲んだままだった。それが無性におかしくて、声に出して笑ったらアーリーも笑った。
「あーもう。泣かせたみたいだから早く泣き止んでよ」
「そんなこと言ったって」
泣いたり笑ったりしているおれたちの周りを、不思議そうな顔をした人たちが通り過ぎていく。ぜったい変なやつだと思われている。でもなぜか気にならない。アーリーはいつもこんなふうに感じているのだろうか。
「次授業なんだから、早く」
アーリーがおれを急かす。パンを齧ったら、涙と唾液が混ざって溶けた。パンがいつもより甘く感じた。
初夏の風が吹いていく。目の前の木が揺れる。アーリーの襟足みたいな葉っぱが、おれたちを笑った。
Insel みたか @hitomi_no_tsuki
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