第229話 過去のトラウマ

「えっ!? カリンが『怒りの谷』に!?」


「はい。最近、クロノ様の所へ遊びに行ってばかりでたるんでいると思いましてね。一つここは気を引き締めさせようと思いましてね」


「それは良いな」


 イシュタル家当主と父シノの言葉を聞き、俺は愕然とする。「怒りの谷」と言えば大人ですら無暗に近づくなと言われるほど危険な魔物の巣窟。最低でもAランクの魔物がぞろぞろいると言われる谷だ。


 そのようなところに8歳のカリンを一人で行かせたというのだ。


 こうしてはいられない。二人の会話を聞いた俺はすぐさま立ち上がり、部屋から出ていこうとする。


「どこへ行くつもりだ? クロノ」


「……少し出てまいります」


「ダメだ。貴様には訓練がある。大方、カリンを助けに行こうとでも思っているのだろうがそれではカリンのためにもならんぞ?」


「そうですぞ、クロノ様」


 悠長な二人の話を無視して俺はその場を去る。後ろからなおも引き留める声が聞こえてくる。ここはエルザード領。実力のあるものだけが住むことを許される反吐が出るほど気味の悪いところだ。


 毎日のように無理難題が突き付けられるこの地において危険地帯へ送られることはそんなに珍しい事ではない。しかし、「怒りの谷」。あそこだけは他とは様相が違う。


 ある日、エルザード領の探索隊が派遣された。得体のしれない魔物による被害が出たとしてそれの調査として派遣されたのだ。


 結果は、探索隊の消息不明による作戦中断であった。


 探索隊には将来有望な大人の戦士たちもいた。それが一夜にして連絡が途絶えたのだ。


 そんなところに今、カリンは居るという。俺は不安を胸に抱えながら、屋敷を出る準備をする。


「クロノ、そんなに慌ててどうしたの?」


「母様」


 俺がいそいそと靴を履いていると、母様が心配そうな顔をして姿を現した。


「少し用事がありまして」


「こんな時間に?」


「はい。一刻を争うのです」


 俺は母様を心配させまいと「怒りの谷」に向かう事を告げない。心優しい母様の事だ。きっと自分が行くと言い、俺には待っていてくれと言うだろう。

 しかし俺としては母様をそんな危険地帯へと送りたくはない。だからこその判断であった。


「気を付けてね」


「はい、行ってまいります」


 母様に見送られながら俺は寮の出口の方へと走っていく。暗くなり始めた時間帯に当主の息子が走ってどこかに行くという光景は珍しいものがあるのだろう。すれ違うたびに奇異な視線を向けられる。


 あっという間に駆け抜けていく俺の足が向かう先は、魔物の巣窟、「怒りの谷」。普通の者ならば馬車が必須の数十キロに及ぶ道程を足のみで駆け抜けていく。


 エルザード家の精鋭ならば寧ろ馬車よりも走りの方が速いのだ。


 暫くして少し小高い山が前方に見えてくる。山を駆けのぼっていると、横からシュルリと細いものが飛び掛かってくる。


「邪魔だ」


 俺は破壊者のオーラを纏い、襲い掛かってきた魔物に対して無造作に腕を振るう。


 すると、バシュッという音がして魔物の姿は跡形もなくなってしまう。


「この段階でBランクの魔物が出てくるのか。前に来た時とはだいぶ様子が違うな」


 この前まではここら辺は高くてもCランクだったはず。早々に異変が起きているのが分かる。


「魔神の封印に何かがあったのか?」


「怒りの谷」とは元々、魔神を封印した場所として大昔にエルザード家が管理している場所である。ここで異変が起きているという事はなにかしら関係がある気がするのだが。


「早くカリンを見つけないと大変なことになるな」


 これまでよりも一層気を引き締めながらカリンのいる「怒りの谷」へと向かうのであった。



 ♢



 眼前に広がるは小さな山を割るかのようにできた大きな割れ目。まるで地獄の入り口かのように見えるその大きな口は、魔神が封印されている谷、「怒りの谷」である。


 この下にカリンが放り込まれたと聞く。


 俺は臆することなくその谷に飛び込む。谷から吹く風を全身で感じ取りながらものすごい勢いで落下していく。


「ブレイク」


 落ちきる寸前に俺は地面に向かって破壊者の力を放ち、落下の衝撃を和らげる。


「ようやく着いたか」


 暗く湿った洞窟の様な場所。ここに8歳の幼き少女が一人で置いていかれている。普段通りの「怒りの谷」ならば、カリンは簡単に帰ってこられるだろう。しかし、今も俺を取り囲んでいる魔物たちのレベルを見ると、それが難しいということがよくわかる。


「Aランクの魔物……だけじゃなさそうだな」


 明らかに雰囲気が違う奴が複数匹居るのが分かる。


 クロノの体を漆黒のオーラが包み込んでいく。先程よりも濃密なそのオーラは魔物たちを警戒させるほどの力を有していた。


「――本気を出すか」



 ♢



「剛剣!」


 黒い刀が目の前の魔物を切り裂く。これで一体何体目だろうか?


「はあ、はあ」


 出口の見えない深い谷でカリン・イシュタルはかれこれ何度も剣を振るい、魔物を切り裂いていた。


「そろそろ体力の限界だね。ちょっと休憩したいんだけど」


 しかし、それをさせてくれないのが「怒りの谷」。目の前には狼型の魔物が赤く光る双眸でこちらに狙いを定めているのが分かる。


「もう!」


 少しやけくそになりながらも刀を振るう。


 どうして父様はこんな試練をお与えになったんだろう。私が訓練で手を抜いたから? クロノのところに遊びにいっていたから?


 頭の中の疑問に答える者はこの場には居ない。ただ、この理不尽な処置には幼心に問わずにはいられないのだ。


「きゃあ!」


 疲れた体に鞭を打って動かしていたためとうとう限界が来てしまい、魔物の攻撃が足に当たってしまう。


 ザンッ!


 痛む足をこらえて刀を振るい、襲い掛かってきた魔物の体を切り払う。


「痛ッ」


 赤い血がだらりと流れる足を抑えて私は蹲る。このケガでは歩くことすら困難だろう。


 そこにまだまだ現れる魔物たち。頭に初めて絶望という二文字が過ぎる。


 魔物たちは目の前で動けずにいる私を見て格好の餌食だとしてどこからともなく湧き出してくる。こんなにも魔物が、しかも高ランクの魔物が出てくるのは異常だ。この谷には何かがある。


 そう思っていると突然、魔物たちが慌てたように散っていく。


「なにがあったの?」


 訳も分からず首をかしげていると次の瞬間、体中をゾワリと身の毛がよだつほどの悪寒が走る。


「何か来る」


 強者はやがて惹かれ合うものだ。目の前には黒い翼を生やした人型の何かが居た。


『下等生物が……』


 なに、こいつ。人……じゃないよね。


 明らかに敵対する者ではあるも、体力は底を尽き、足のケガもあってその場から逃げられない。もう、応戦するしかない。


 腰に下げている黒刀に手をやる。


『無駄だ』


 嘘ッ!?


 刀に手を伸ばした時には既にその者は目の前まで移動してきていた。こんなに速いのはエルザード領でも見たことが無い。


「きゃあ!」


 間一髪刀で防御することはできたが、衝撃を殺しきることが出来ずに体が宙を舞う。


 ズザーッと体が地面を削っていく。その者のたった一つの攻撃が今まで耐え抜いていた幼き少女の体を呆気なく破壊した。


 なんて一撃……もう、刀も握れない。


 もうどうとでもなれという感情が私の心を支配していた。この超常の生物を前にしてとうとう私の心は折れたのであった。


「……クロノ、最後にもう一度だけ会いたかったよ」


 何度も流した私の涙は既に枯れ切っていた。諦観の表情を浮かべたまま、魔物の群れの先頭にいるその翼が生えた者の姿を眺める。


 あぁ、これが『死』なんだね。


 カリンの脳裏にはいつも遊んでいた黒髪の少年の姿が映し出される。目の前にはSランクの魔物を引き連れる翼の男の姿が。


 絶望的な状況の中でカリンの目の前に一筋の黒い光が舞い降りる。


「カリン!」


 そこには本来いる筈のないクロノの姿があった。


「ああ、夢を見てるのかな? クロノの姿が見えるよ」


「夢じゃない。俺が来た。後は任せろ」


 絶望的な状況なのは変わらない。だというのにカリンはクロノのその言葉で安心し、そのまま意識を落としたのであった。

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