第39話 翡翠

「ごめん……。甘里くん、戻るの手伝ってくれない……?」


「いいよ。じっとしてて」



 僕は一ノ瀬陽菜を抱えて、自慢の跳躍でフェンスを飛び越えた。そして、ゆっくり彼女を降ろした。



「ありがとう……。でも、その……ごめんなさい」


 僕がそれに応えようとすると、イフがそこに割り込んできた。



「謝罪の気持ちがあるなら、少し時間をくれないか?」

「え……?」



「ほんの少しの時間でいい。ただ、今のお前の心は複雑だろう? だからそれを楽にしてあげようと思ってな」



 イフが何を言っているのかよくわからなかった。


 でもイフのことだ。何か策があるのだろう。


 そう思った瞬間に彼女は自らの目に指を触れさせ、カラーコンタクトレンズを外した。





 隠されていた瞳は、どこまでも奥が深い樹林のような、翡翠色の瞳だった。





 そして僕は同時に、「これはイフじゃない」と思ったのだ。


 理由はどうしてだか分らなかったが、その答えはすぐにわかることだった。




「自分は入り込むことしかできない」




 イフじゃない、何者かの言葉が僕の耳に入った途端に強烈な頭痛に襲われる。


 言葉の濁りがわかるという僕の性質には相性が悪すぎる声だった。


 声自体はイフやライと変わりがない。ただ、そこに籠る意思や感情が僕にとって受け入れがたい、理解できないものだったのだ。




「自分の目を見て」




 一ノ瀬陽菜はそれに従っている。イフの変化に気付いていないのだろう。


 何者かの言葉には、濁りは無い。濁りは無いが、聞く者全ての精神を掴むようなモノが籠っている。直接脳を弄られるような、遊ばれているような、這い回るモノがそこにいるような。




「大丈夫。自分は君がしたことを悪く思わない」




「っ――⁉」




 全てが籠った、最悪の言葉のように聞こえた。


 呪いとはまた違う。言葉に籠るのは精神に干渉するモノ。それらは心という心を這い回り、例え僕宛ての言葉じゃなくとも影響を与える。


 立っているのもやっとのことだった。


 すると一ノ瀬陽菜はこう言った。



「凄く楽になった……。あなたの瞳綺麗ね。ありがとう」



 その言葉にイフの姿をした何者かは一礼した。


 そして、また一ノ瀬陽菜は僕たちに感謝と謝罪をしてから帰ったのだ。


「私も、帰る……」




 そう言ってシオリも勝手に帰ってしまった。

 屋上には、僕とイフじゃない何者かが残ってしまった。

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