第36話 二つの頼み事
俺は早歩きで家に帰るつもりだったが、途中から何故か走り出したくなってしまった。
どうしても「家族」という話題になると俺の心はもやもやとして、不快な気分になってしまう。けれど、俺は家族に愛されているし、何より普通の生活を送っているはずだ。どうしてそんな感情を抱くのだろうと、いつもわからなかった。
それは今もわからない。不安と頭痛が混じり合って、早く帰って寝たいと思うようになった。
けれど、俺が見たものを誰かに伝えなければ、きっと今日彼女は死ぬに違いない。
帰宅したが着替えもせず、俺はスマホを操作し〈チョコチャット〉を起動する。そしてイフのアイコンをタップしてから、通話ボタンを押した。するとすぐにイフは出た。
『何さ』
「一ノ瀬陽菜は今日自殺しようとしてる。今すぐにでも策を……」
言いかけた言葉を遮って、イフは答える。
『大丈夫。彼女が死ぬのは夜だ』
「どういうことだ?」
『一ノ瀬陽菜という人間について調べていたんだが……どうやら面白いことに今日が実の父親の命日らしい。ちょうど死亡確認がされたのが今日の深夜だからな』
俺が読んだラブレターこと遺書の内容と合っている。
『ところで、何を見つけたんだい?』
「本人はラブレターと称していたが、遺書らしきものを読んだんだ。そこには今日死ぬことと、父親への愛が綴られていた。他の家族は一切愛していないように思える文章だった」
意図せず早口になって、一気に話した。背中から這い上がる焦りに支配されそうになる。冷静に、冷静にならなければ……。
『思い出せる限りでいいから、その内容を後で送って欲しい。それも〈不確定要素〉の方に。今日は全員で彼女を止めに行きたいんだ』
「ああ、送っておく……。だから……頼みたいことがある」
これは俺が目覚めた時から決めていたこと。絶対にこれだけはやらせなければ気が済まないと思っていたことだ。しかし、これはイフに頼みたいことではない。
『何だい?』
だからイフには別のことを頼む。
「イフには、一ノ瀬陽菜の行動の監視。動き出したらすぐに連絡をしてほしい」
『それは勿論するさ。それはボクの得意分野だからね。で? 他の誰に何を頼みたいんだ?』
含みのある言い方で返される。
コイツはあの日のことをわかっている。そっちがそのつもりなら、俺だって包み隠さず、やらせたいことをさせるのみだ。
「それは勿論……」
しばらくの間を置いてから、言い放った。
「俺の中を隅々まで覗きやがったクソ野郎に、一ノ瀬陽菜の中身も見ろ、ってね」
『あはは~。面白いや。ヒイラギがそこまで言うなら頼むしかないね』
あの感覚を思い出し、少し息が荒くなり始める。全身を不快感に包まれ、身体の隅から隅まで舐め回されるような気分、まさに朝味わった感覚が再現される。
「……そうだ、ついでに聞いておきたい」
『次は何?』
不快では無いが、イフは質問ばかりされるのに飽きているのが伝わってきた。
「クソ野郎の名前を教えろ。ずっとクソ野郎って呼ぶのは気が引ける」
『最初からクソ野郎って呼ばなかったらいい話じゃないの?』
「さっさと答えろ」
不安は痛みとなり、恐怖は震えになる。俺の知らない痛みが、俺の頭の中にある痛みの辞典に追加されてしまったようだ。
『あの子はね、
「戸輪翡翠ね……」
ここでようやくわかったイフの本名。何となくだが、イフの抱えるものが何か、わかったような気がした。
『正直、あの子が持つ力というものは、アルトの言葉の濁りが分かる力と非常に相性が悪いんだ。お互いの健康に配慮して、今まで会わせないようにしてきたんだけど……。いつまでも隠しているわけにはいかないか』
「力……?」
『ヒイラギが体験した、アレのことだよ。あと言葉に籠る毒と言えばいいのかな』
「もう……訳わかんねぇ」
俺は限界に達しそうだった。刺される痛みなんかよりも段違いの痛みが俺をずっと這い回っている。こうやって喋っているのも、ある種の奇跡と呼べるだろう。それぐらい俺の思考は働いていなかった。
『ボクだって理屈が分からないもんだから、何とも言えない』
「悪い……俺は行けそうにない」
壁にもたれて滑り落ちるように、床に座る。もう立つことができない。
『ボクのせい?』
「……お前じゃない。……翡翠のせいだ」
『そっか。ごめんね』
少し寂しそうに謝る。やめてくれ。お前のせいじゃない。
「他の奴に行けるように頼んでくれ……。その時間には、俺はきっと気を失ってるから……」
『無理しないようにね。おやすみ』
そして俺は、そのまま眠るように意識を失った。
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