第27話 あいしてる
「会いたい」
心の中。夢の中。どこかわからない。
ただ、自分の中に「会いたい」という自分の声が永遠に響く。
「愛してる」
この声もまた、自分の中で反響する。
夢から目覚めても、私の心の中で二つの声が響き合う。
何に会いたいのか。どうして会いたいのか。
何を愛しているのか。その言葉は何処から来るのか。
何一つわからないまま私は学校に行く準備をする。
「ちがう……」
何だ。何だ。何を忘れている。
もっと心の底から愛すべき存在がいたはずだ。
偉大で、素敵で、寛大で、優しくて、カッコよくて、もっともっともっともっと――。
なんだっけ。
ふと棚の上にある家族写真が目に入る。
確か、その写真を撮ったのは小学生の時で、桜の季節だった。近所の公園に植えられた、とても大きな桜の木。その木の下で母親、実の父親、私の三人で写真を撮ってもらったのだ。
優しく穏やかな笑みを浮かべる母親とニカっと全力で笑みを作る父親。
父親に肩を置かれた、全力で笑う私。
「……お父さん」
大好きだったのだ。
私のことを愛してくれて、でも時には厳しく叱ったりして。
何がそこまで私を夢中にさせたのだろう。
はっきりとした理由はわからないが、父という家族関係の中に生まれる親しみの中にある愛が、私の中でより大きく育っただけなのだろう、と私は思う。
そもそも、愛することに理由を求めてはいけないか。
「お父さん……お父さんっ……」
いつの間にか私は写真立てを両手で持って、俯いていた。涙がぽろぽろと落ちていく。
朝。学校に行く前だというのに目の周りを赤く腫れさせて……。嗚呼なんて馬鹿らしい。
亡くなった人を想うことがどれほど辛いか。
その想いを隠さないといけない。その事実だけでも心は締め付けられる。
私は何もなかったかのように写真立てを元の場所に戻す。まだ顔も洗っていない。この部屋で出来ることは全部した。一階に降りて顔を洗わなきゃ。
愛してる。
私は自室を出ると、階段を上ってきている母親と出会う。
「ああ、起きてたのね。早く顔洗っちゃいなさい。酷い顔してるわよ」
「言われなくてもそうするよ」
指摘されるとより意識する。洗面所に行って、いつもの数倍顔を洗う。洗いすぎは良くないと聞くが、今日ばかりは許してくれとどこかで考える。誰が一体許すというのだ。私は相当疲れているらしい。
許すのは私。愛すのも私。
「おはよ、ねえね」
頬に水滴を残したまま声のした方を振り向く。
「おはよう、朱理」
眠そうに目を擦る朱理は私が顔を洗い終えるのを待っている。
この子はお父さんの血が入っていない。入っているのは母親と家に住む男の血。
私からすれば他人も同然。こんな同居人、どうしているのだろう。
ここは私とお父さんの家。百歩譲ってお父さんが大好きだった母親も住んでいいとするけど、この子はダメ。あの男もダメ。
顔を拭く手が止まる。
一体何を考えていたんだ……?
自分のエスカレートする思考にぎょっとする。
この家の主でもない娘が血の繋がっていない妹を追い出すとか、いじめの極致じゃないか。シンデレラに出てくる意地悪な姉のように、愚かな思考をしているのだ。
お父さんのことを思い出していたから頭が疲れているんだ。きっとそうに違いない。
「ごめんね長くて」
「いーよ」
眠いからか、とろんとした目で笑う朱理は私が洗面台の前から退くと、踏み台を鏡の前に移動させてその上に乗る。そして小さな手で蛇口をひねり、顔を洗う。
確か、昔はあの様子でさえも可愛いと思って眺めていたんだっけ。
今は邪魔者でしかない。
「……はぁ」
もっと欲しいな。会いたいな。
撫でてほしいな。認めてよ。
愛してほしいな。愛してる。
隣にいてよ。
心の奥底から湧き出るどろどろとした欲望。会いたい。会いたい。
愛してる。愛してる。
「おはよう」
キッチンで忙しそうにお弁当を作っている母親。リビングから出てすぐにある庭で洗濯物を干している男。どっちにかけている挨拶かもわからない距離で、心のこもっていない挨拶をする。
「おはよう、早く食べちゃって」
返事をくれたのは母親。
少し遅れて私に気付いたのか、男が微笑みながらこちらを向く。
「陽菜ちゃんおはよう」
「……」
すぐに挨拶しよう、なんて気は無い。
でも、お父さんは公園で知らないおばあちゃんや、子供を連れてきている母らしき人にも積極的に挨拶をしていた。
中学校でも「あいさつ運動」なんてものがあったくらいだし、他人と挨拶くらいならしてやってもいいかなという気持ちになる。
「……おはよう」
困ったな、そう言ってそうな顔をする男。
私はこの男を、父と呼んだ日は無い。
今日の朝ご飯はトーストと牛乳、あと机の上にジャムが二種類。ベーコンエッグが傍らに。
いつもならジャムを塗って朝食を少しでも楽しもうとするのだけれど、今日はそれ以上に強い感情が邪魔をする。食べている暇があったらお父さんのことを考えたい。
そのままトーストを口の中に突っ込み、噛み切って、噛んで噛んで噛んで、飲み込む。
作業のように繰り返しているうちに目の前からご飯と呼べるものは消え、いつの間にか朱理もご飯を食べ始めていた。
私は逃げるように自室に戻り、制服を着て、あらかじめ準備してある荷物を持つ。
「いってきます」
母親に呼びかけたつもりだった。
「いってらっしゃい」
答えたのは男だった。
「本当に消してしまおうか……」
通学路にただ一人、私はぽつりとつぶやいた。
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