Ep.2 イフの周辺現実

第7話 ボクは姉、ボクは——

 ◆


「他に質問はある? 無いなら解散。あとは〈チョコチャット〉でよろ」


 トゥルン。


 何千回と聞いた通話の退出音。ボクと外の世界をつなぐ扉を閉めた音。


 やはり喋っているときはある程度の緊張感を持っているようで、何だか肩が凝っているような気がした。意識もしていない緊張と呼ぶべきだろうか。


 ボクは自身の部屋でパソコンに向かって喋り続けていた。喉が渇いていることにも気づいていなかった。テーブル右側に置いてある、コースターの上のマグカップを手に取る。


「ありゃ、水が無い」


 マグカップには一滴の水も無かった。青色のミニキャラがそれぞれ違う動きをしているイラストのついたマグカップはボクのお気に入りで、このマグカップが使えないとちょっと気分が乗らない。


 それをぼんやり眺めたあとで、ボクはキッチンに水を取りに行くことを決めた。


 ボクはヘッドフォンを外して、机の上に置く。


 ふと部屋に置いてある全身を映しだせるくらい大きな鏡に目が行く。


 コンプレックスの低身長。胸の上あたりまである緑色の髪を緩く括っただけ、左の顔周りにある一房の白髪が目立つ、違和感のある天然の髪。一部分は立派にアホ毛に進化している。この時点でだらしないのがよくわかる。

 わざとらしさの残る黒い目。カラーコンタクトレンズを入れているというのが、一番の理由だろう。でもボクにはこれが無いと、ボクはボクでいられない。

 そんなお飾りを目に入れているから、通常のコンタクトレンズを使用することはできず、細い黒縁のメガネを身に着けている。これが無いと全てがぼやけて見える。


 次に目が行ったのはやはり、だらしない服装だった。


 身長が高くガタイの良い兄からのお下がり。明らかにサイズが合っていないTシャツを、家限定で着るのだ。ちなみに、今日のTシャツは謎のキャラ〈かんづめウーパールーパー〉という缶詰からウーパールーパーが顔を出している、ゆるーい、何とも言えないキャラTシャツだ。


 兄のセンスは謎だが、ボクはこういった変わったTシャツが好きだった。


「後で着替えればいっか」


 マグカップを取ってから、反対の手でボクはドアノブに手をかけ、部屋の外に出る。


 ボクの部屋の扉には「ノック必須!」と書かれたホワイトボードの小さな板がかかっていた。


 ボクの部屋は完全防音ではない。アルトのスマホをハッキングしたとき、妹が下の階で大声を出していた。二階にいた私でさえ、うるさいと思ってしまうほどのものだったため、もしかしたらマイクが音を拾っていたかもしれない。



 ドタドタドタドタ。



 誰かが階段を駆け上る音がする。誰が、と考える前に犯人がやってくる。


「イフ姉! 見て見て! テストで百点取ったの!」


 中学生の妹、瑠璃るり。彼女だった。


「凄いね」


「……っ⁉」


 妹の表情が驚きのまま固まってしまった。普段、家族との関わりが少ないと思っていたが、もしかしてボクは何かやらかしてしまったのだろうか。


「イフ姉が褒めてくれた……!」


 ぱぁぁぁ! っと笑顔の花が開くように喜びの表情を浮かべていた。


「だって、百点でしょ? いいじゃん」


 ボクはそう言って妹の頭をくしゃくしゃにするように撫でた。ボサボサになっちゃったけど、まぁいいよね。


「えへへ~。イフ姉に褒めてもらえるなんて思ってもいなかった!」


「そっか……ごめんね」


「だって、翡翠姉もライ姉も……」


「ああ、あの二人はちょっと冷たいし、自分の世界に入ってる感じあるもんね」


 翡翠もライも、他人を褒めるような人ではない。


 姉であり、この家の長女である真珠しんじゅ姉さんは心優しく、圧倒的安心感のある母親のような姉だ。


 同じ「姉」という立場でも、ここまで違うとまいっちゃうね。


「ところでボク、キッチンに行きたいんだけどいいかな?」


「いいよ! あ! ママがおやつあるって言ってたよ!」


「ん、了解」


 ボクを取り巻く環境は、とっても賑やかなのだ。






 一階に降りてキッチンに向かう。そこには母親が立っていて、趣味のお菓子作りを楽しんでいるようだった。


「あら、イフ?」


「イフだよ、母さん」


 形式的な確認を終えた後、僕は冷蔵庫に冷やしてあるミネラルウォーターの入った二リットルのペットボトルを引っ張り出して、蓋を開けてマグカップに注ぐ。


「お母さん、久々の休みで張り切っちゃった。スポンジケーキなんだけど、食べる?」


「何味がある?」


「プレーンと抹茶、あとチョコ」


「張り切ってるねー」


 僕はチョコのケーキを指さし、切り分けて紙皿に乗せてもらう。どこかのケーキ屋か、コンビニで貰ったかわからないプラスチックのフォークも添えてある。


「家族全員で食べたら無くなるかしら。ケーキを分けてもいいお友達はいる?」


「んー、いるけど。まだかな。でも母さんのお菓子美味しいから、きっといつでも歓迎だと思うよ、彼ら」


 ボクは頭に思い浮かべていたのは紛れもなく〈不確定要素〉のメンバーだった。


 画面でしか見たことが無い、監視カメラの映像でしか見たことが無い。そんな、画面の向こうの人たち。時々不快だけど、多分これが人間関係というものだろう。


「あら! 素敵ね。一回も学校に行ってないのに、お友達ができるなんて! これがあれ? あのーほら、あれよね? 技術の発展?」


「インターネットで繋がれる世界だからね」


 母さん節を雑に返事して、目当てのものを手に入れたボクは部屋に戻ろうとする。


「あ、そうだ」


 言いたかったことをふと思い出して、そのままボクは話す。



「今度、学園に行くよ」



 返事を聞くことなくボクはキッチンを出て、自分の部屋へと向かう。


 ようやく戻ってきた自分の部屋。机にスポンジケーキとマグカップを置いて、パソコンの画面が通知を知らせている。



「新規依頼……協力要請……報酬が……」



 不定期な仕事。お互いに利用し利用される関係なアルバイト。

 差出人は、稲橋探偵事務所。


「ぜ、ひ、お受け、い、た、し、ま、しょ、う、っと」


 メールの返事をして、僕は服を着替えることにした。

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