午後に一つだけあった授業を終えた。

 午後に一つだけあった授業を終えた。


 講義の内容について質問し合う生徒たちを置き去りにして、荷物をまとめた俺は一人でさっさと教室を出た。


 廊下から昇降口へと歩き、上履きから靴に履き替える。


 外に出ると空は快晴。昇りきった太陽が青空の高い位置にあった。


 俺は一瞬立ち止まって見上げてから、体育館脇の駐輪場に急いだ。


 千歳がいるはずのファミレスまでは自転車で数分。焦る必要などなかったのだが、心が早く向かえと急かしていた。


 最後だから。


 本能に突き動かされるように俺は自転車を漕ぎ、瞬く間にファミレスへ辿り着いた。


 自転車を停め、すっかり入り慣れた店のドアを開ける。その先で顔を覚えつつあった女性の店員さんにさらっと事情を告げ、すぐに店の奥の窓際のほうへ移動した。


 入り口からは見えなかったが、隅のテーブル席に近づいてみると勉強道具が広げてあり、いつも通り千歳がそこに座っていた。


「どうだ、調子は?」


 特別なことなど何もないというように、俺はさらりと声をかけながら彼女の対面に滑り込むようにして座った。


「スケジュール通り、補講は今日ですべて終わりました。あとはテストだけです」


 千歳は淡々と言葉を口にした。視線はペンを走らせていた手元のノートにあり、こちらを一度たりとも見ようとしなかった。


「そうか。わからないところがあったら今日のうちに訊いてくれ」


 俺は彼女にそれだけ告げて、そそくさと自分の分のドリンクバーを注文しつつ、大学受験のための参考書などを鞄から取り出した。


 千歳が数学をやっているようだったのでなんとなく同じ科目をやることにした。分厚い本の途中のページを開き、とりあえず肩慣らしに簡単な問題から解いてみた。


 だが、一、二問やったらすぐに集中力が途切れてきた。俺は次の設問に取り組むのを一旦保留し、目の前で静かに勉強する千歳の様子をこっそり窺った。


 彼女は相変わらず無言でペンを動かしていた。ただ、注意してよく見てみると問題を解いている感じではなかった。おそらくは解答を見てそのままノートに書き写しているのだろうと推測された。


 それ自体は別に悪い勉強法ではない。模写や写経というやり方が広く浸透しているように、答えを順番になぞってみて理解が深まることも多い。


 だけど目の前の千歳の場合は、ただ機械的に作業としてこなしているようにしか見えなかった。


「写してるだけじゃなくて、なんでそうなるのかも考えろよ」


 念のため釘を刺しておいた。対して、呟くように千歳は答えた。


「追試までにはちゃんとやります」


「追試までって。もう明後日だろ?」


 先ほどからどこか会話が噛み合わない気がする。


 質問に答えているようで答えていないし、忠告も聞いているようで聞いていない。おまけに目も合わせてくれなかった。


「今日が最後なんだぞ」


 思わず口をついて出た言葉に、千歳の肩がぴくっと震えた。


「……わかってますよ」


 俯いたまま絞り出すようにして彼女は言った。だが、台詞はそれ以上続かず再び途切れる。


 沈黙になるのが嫌で、俺は即座に強めの催促をした。


「あとで後悔しないためにも、何かあるなら今のうちだから」


 自分が言った「最後」という言葉をかき消すため。口にした事実を誤魔化すため。


 全責任を擦り付けるように、ずるくも俺は残りの時間を使う権利を千歳に譲渡した。


「一つだけ」


 十数秒後、短く声が発せられた。


 強く言い放ったという感じではない。言おうか迷った末に出て、か細く途切れてしまったような儚い響き。


 なんだと尋ねようとしたが、今度は俺のほうも声が詰まって出なかった。


 何も言えないうちに、俯いていたままの千歳が先に続きを述べた。


「一つだけあります」


 そう言って、対面に座る後輩はすっと顔を上げた。


 おそらくこの日初めて彼女と目が合った瞬間だった。


 でも、そんなことを意識するのも束の間、彼女の口からまったく想像もしていなかった『お願い』を告げられた。


「今から一緒に海に行きませんか?」


 戸惑う俺をよそに千歳は軽く微笑んでみせた。


 あとで後悔しないように。今のうちだから。


 それらの言葉の解釈をどうやら彼女は勉強以外に繋げてしまったようだ。


「さすがにそれは……」


 まずいだろう、と続けるはずの声が無意識のうちに止まっていた。


 目に映るどこか寂しげな彼女の瞳。


 そこに何かとてつもない決意が宿っていることに気づいてしまったから。


「わがままだってことはわかっています」


 俺が言えなかった部分を補完しつつ、俯いて歯噛みしながらも千歳は語り続けた。


「今まで先輩に勉強を教えてもらって、先輩自身の受験勉強の時間も奪っちゃってるのに、追試の前にこんなことを頼むべきじゃないって。でも……」


 迷いを断ち切るように、再び彼女は視線をこちらに向けてきた。


「どこの海でもいいから、最後にどうしても行っておきたいんです」


 最後に海へ。


 俺が使った「最後」という言葉に、千歳は「海」という場所を加えた。


 なんてことはないただの言い回しの問題だが、これによって曖昧にしようとしていた終幕の時間と舞台が同時に定まってしまったような気がした。


「今からか?」


 ついさっき「今から」だとはっきり聞いたはずなのに、何か淡い期待にでも縋るように俺は尋ねていた。


「今からです。ごめんなさい。行っても時間はほとんどないでしょうけど」


 頷いたのかそれとも謝ったのか、千歳は小さく頭を下げて答えた。


「まあ、行けなくはないな」


 俺は上っ面だけをなぞるように呟いた。


 それで彼女の決定に従う形を取ることしか、俺にはできなかった。


 俺たちが通っていた高校付近からどこかの浜辺に行くのは、実際のところそんなに気軽な話ではなかった。


 時間にしたらおよそ二時間はかかり、ちょっとした小旅行である。


 時刻は午後三時前。即行動に移したとしても、夕方頃にぎりぎり着けるかどうかという状況だった。


「悩んでいる時間はないし行くなら早く向かおう。今出れば完全に暗くなる前には到着する」


 俺がそう促すと、彼女のほうから「ありがとうございます」と消え入るような声が返ってきた。


 なぜ海に行くのか。


 そんな単純なことも訊かず、それについて深く考えることもしないで、あるいはそうすることから目を背けるようにして、俺は早々とファミレスのテーブルの上に広げてあった勉強道具を片づけた。


 今から千歳と海に行く。


 他には何もなく、それだけが俺にとって確かなことだった。

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