駅へと向かう夏の夕暮れの帰り道。

 駅へと向かう夏の夕暮れの帰り道。


 車輪のついた乗り物が一つ。人影が二つ。


 俺は自転車を降りて手で押していた。かごには千歳の鞄。荷物がなくなり身軽になった彼女は自由気ままに歩いている。


「先輩って将来の夢とかありますか?」


 道端に落ちていた枝を当然のように拾い上げて振り回していた千歳が、思いついたように手を止めてこちらを振り返った。


 俺は彼女が持つ木の棒からわざと目を離し、重い自転車を引きながら道の先のほうを見た。


「特にない」


「えー、ヒーローじゃないんですか?」


「それは小学生のときの話だ」


 不満げに抗議する千歳をあしらって俺は説明を続けた。


「高校生になって何か夢を見つけようとは思ってたんだ。けど、見つからないまま今に至る。まあ、そう考えると木刀欲しがってた頃のほうが夢があったのかもな」


 そんなことを言ったところでいきなり夢が目の前に現れてくれたりはしない。むしろ、目標なんて何もないという現状を再認識するだけだった。


 それでも時間は流れる。車輪は回り、足は止まらず、残りの帰り道を進んでいく。


「そういえば、その木刀って今でもまだ家にあるんですか?」


 隣をふらふらと歩いていた千歳は、手にした枝の先を熱心に見つめながら尋ねてきた。


「多分どこかにあると思うけど。捨てた覚えはないから」


「だったら探してみたらいいじゃないですか?」


 さもそうするのが当然というような口調で提案されたが、すぐには同意しかねて俺は黙り込んだ。


 生まれた沈黙を払うように、千歳がシュッと木の枝で空気を斬り裂いた。


「夢ってそういうものだと思うんですよ。多分どこかにあって、捨てた覚えもない。それなのに見つけ出せる人はほとんどいない。わたしだってまだ十数年しか生きてませんけど、この世界がそういうふうにできているってもうすでに理解しています」


 隣を歩く小さな後輩女子が俺の目に逞しく映った。


 この物語にもしもヒーローが不在だったとしても、ヒロインは必ず存在するのだろうと強く悟った。


「わかった。探してみるよ。見つからないかもしれないけどな」


「本当ですか?」


 千歳は嬉しそうに俺の顔を見上げてきた。俺は微笑みながら頷きを返した。


 そんなやり取りをしているうちに、他愛もない帰り道の時間も終わりが近づいてきた。


 千歳は礼を述べながら、俺の自転車のかごに入れた自らの鞄を引っ張り出した。手に持っていた木の枝は少し前に邪魔にならない街路樹の下に納めていた。


 重い鞄をしっかりと肩で背負うと、彼女はぺこりと頭を下げた。


「今日もありがとうございました」


「どういたしまして」


 別れ際はいつもこんな感じだった。


 自転車に跨がった俺はペダルに足をかけて、いつも通り「じゃあな」と言おうとした。


 でも、その前に千歳が「そうだ」と思いついたような声を上げた。


「先輩、どこか行ってみたいところとかありませんか?」


「ない」


「まさかの即答! いやいや、普通何かありますよね?」


 答えをせがまれ、俺はハンドルを握ったまましばし考えた。


 どうせどこか行きたい場所を挙げたら、千歳は勉強をサボる口実にそこへ行こうと言うのだろう。


 確かに適度な息抜きは必要だが、あまりこちらからその選択肢を出すべきではない。


 そう思った俺は、あえてすぐには実現しないような行き先を挙げた。


「富士山に登りたい」


 自分の声の後、少しの間、喧噪が遠くへ行ってしまったような静寂が訪れた。


 そして……。


「先輩、ずるいです。わざと簡単に行けないような場所を選びましたね」


 即座に看破された。こういうときの千歳の勘は異様に鋭かった。


「答えたんだからいいだろう」


 見破られてしまってはもう強引に押し切ってしまうほかない。これでおしまいというように無理矢理彼女を追い払い、前輪の先に視線を戻した。


 でも、ちらっと見えた千歳の表情はなぜだか楽しげであった。


「まあ、わたし的には結構好きな解答ですけどね。先輩らしいなとも思いますし」


 そうですか、と心の中で呟く。釈然としなかったけれど、彼女が満足げであったのでそれでいいと思うことにした。


「けど、今度本当にどこか行きましょうね。近場でもいいので」


「わかったわかった」


 別に出掛けちゃいけないという決まりはないので、頑なに拒否し続ける理由もなかった。


 粘り強い交渉に折れて俺が許可を出すと、視界の外にいた千歳は「先輩」と可愛い声で呼びかけてきた。


「忘れないでくださいね」


 振り向いた先にはちょっとだけ見慣れてきた後輩の顔。


 でもきっと、このときの表情はこのときだけのものだったと思う。


 だから、もはやはっきりと輪郭を思い出せなくなった今でも、記憶の中ではかけがえのない美しい笑顔で輝いている。

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