次はどんな話が飛び出すのか。

 次はどんな話が飛び出すのか。まったく先の展開が読めない。


 ファミレスに来た当初はこちらから話を振ったりしていたが、気がつけば完全に彼女のペースに巻き込まれ、繰り出される突拍子もない話に驚き戸惑う時間が続いていた。


 だからだろうか。


 俺は彼女にまつわる一つの謎について、その存在を完全に忘れてしまっていた。


 初期の段階で訊こうと思っていたこと。


 些細で素朴な疑問。


 ――なぜ彼女は今日学校にいたのか?


 ふと会話の最中に思い出し、そんなに深刻なことでもないと思っていたので、話が途切れたちょっとした隙をついて質問してみた。


「そういえば、今日は学校になんの用事があったんだ?」


 すぐに返事がなされるだろうと思っていたのに、俺の問いを聞いた途端、千歳の顔は強張った。先ほどまでの饒舌な語りはどこへやら急に押し黙ってしまった。


「ど、どうした? もしかして言えないようなことだった?」


 学校へ来るのに言えないような理由というのも思いつかなかったが、思春期のデリケートな女子には人には言えない特別な事情があるという可能性もあった。


 そうじゃなくても、そもそも冷静に考えてみれば初対面の相手だったのだ。何でもかんでもべらべらと喋れてしまうほうが異常なのである。


 人は誰しもどこかに闇を抱えていて、普段はそれを隠しながら生きている。


 だから、目の前の後輩が理由を言わないのならば、それ以上は絶対に追求するべきではなかった。


 けれども、千歳は一瞬だけこちらの表情を確認するように目視した後、わざとらしく大きなため息をついて言った。


「別に話してもいいですけど、つまらない理由ですよ?」


 そう前置きして、本当につまらないから、と強調するように自虐的に笑う。


 俺は頷いていた。話してくれるのならちゃんと聞こうと。


 すると、彼女は了承したのか窓の外のほうにゆっくりと視線を動かした。


「一年生の七月の定期テストで赤点の人って夏休みに補習があるじゃないですか? もしかしたら先輩の代は違ったかもしれませんが」


「あぁ、それか。周りにも愚痴りながら出てた奴いたよ」


 返事をしながらつられて俺も外の景色を眺めてみた。だが、特に何が見えるというわけでもなかった。


「国語と数学と英語の三科目について、赤点だった教科は夏休みの間ずっと強制参加の授業に出なくちゃいけなくて、最後には成果の確認のための追試があるんです。それで合格しないと単位は厳しくなるそうです」


 赤点や追試について語る千歳の横顔は憂鬱そうだった。


 その雰囲気を例えるなら、夏なのにまだ梅雨が去っていないような、あるいは晴れの日が来ないうちに夏が去っていくような、そんな感じだった。


 声をかけられずに見つめていると、彼女の顔がおもむろにこちらを向いた。


「先輩は赤点とったことないんですか?」


「ないな、一応」


「なるほど。優秀なんですね、先輩は」


 自嘲気味の笑みで視線を落とす。対等ではない、と一方的に交流を遮断された気がして、俺は即座に付け足した。


「勘違いしないでくれ。俺の場合、毎回テスト前に一夜漬けで間に合わせてるだけだ。良くても平均点を少し上回るくらいで成績上位者に名を連ねたりしたことはない」


「いいじゃないですか、それでも。一夜漬けで乗り切れるのは頭良いってことですよ」


 決してそんなことはない、と否定したかったのだが、優しい口調なのに投げやりになっていた千歳を見ていると、どうしても二の句を継ぐことができなかった。


「先輩、褒めてるんですけど」


 そんなこちらの葛藤を知ってか知らずか、千歳は俺のことをじいっと睨んでわざとらしく口を尖らせた。


 そう来られたら自動的に礼を言うしかなかった。


「……ありがとう」


「はい。どういたしまして」


 千歳はこれで終了だと示すように、冗談めかした笑顔を浮かべた。


 当然、すっきりとはしなかった。胸の内に残るもやもやを取り除く機会を奪われたまま、半ば強制的に打ち切られた形だ。


 とはいえ、それは彼女が望んだことだった。


 けれどもちょっとだけ、嫌がられても少しだけ食い下がってみようと、俺はあえて強引に舵を切った。


「補習のほうはどうなんだ? 追試は合格できそうなのか?」


「それ訊きます?」


 ため息と苦笑い。もういいじゃないですか、と言いたげな表情。


「補習は……休まずに行ってますよ」


 歯切れの悪い回答が返ってきた。気勢もまるでなかった。


「国語は今のところなんとかついていけてます。英語はちょっとまずいというか……。一番やばいのは数学なんですけど……」


「えっ、いやいやちょっと待て。どういうことだよ?」


 千歳が次々と呟いていく内容を聞いて頭がパニクった。


「何がですか?」


「国語に英語に数学って……」


「だからさっき言ったじゃないですか。その三科目は赤点だったら補習があるって」


 苛立ちを露わにして、千歳は投げやりに言い放つ。


「それってつまり……」


 ようやく理解が追いついて、俺は千歳の言葉の意味を正しく受け取れた。


「三科目全部赤点だったってことかよ?」


 口をつぐんで俯く千歳。反論はなく、もどかしさをこらえるようにして唇を噛みしめていた。


 そのいたたまれない反応こそが、三科目赤点の事実が間違っていないことを表していた。


「勉強してなかったから当然の報いです」


 やっとのことで小さな呟きが返ってきた。ボリュームは小さいけれど言葉自体は強くて鋭かった。


 当然の報い。似たような言葉として、因果応報、身から出た錆などがあるが、つまりは「自分が悪い」ということを受け入れて認めたことによって出てくる台詞である。


 だったら初めから勉強しておけよ、というのはそれに対する実に単純で明快、けれど最も受け入れがたいアドバイスだろう。


 例えば、本当に例えばの話だが、彼女のテストの点が低いのを「漫画を描いているからそうなるんだ!」と激しく非難する人がいたかもしれない。


 そうじゃなくても、もっと優しい言い方で直接的な否定を避けながら、勉強することの大切さを説いてくる人は多分いただろう。


 それらは間違っていない。というより、正しい。正しすぎる。


 人は皆、いつも正しくありたいと願っている。


 だから、正しさが保証されたときは心強い。


 それまで否定されることが怖くて不安だったからこそ、自分のいる側が正しいという承認は大きな後ろ盾となり、人々をこれ以上ないくらいに安心させる。


 でも、その出来上がった正しさに抵抗しなければならなくなったら。


 そのときは多分、自分が悪いと、自分が間違っていると、感じずにはいられないだろう。


 千歳はきっとそうだったのだ。だから自分のせいにした。


 実際に誰かに何かを言われたことはなかったとしても、彼女に向けられた無数の正しさの集合体が、彼女の身を震わせて、彼女の心を蝕んでいた。


 俺は何もわかっちゃいなかった。そのときの俺に高徳なヒーローの気概なんてまるでなかった。


 それでも、なんとかしてあげなければならないという気持ちだけは強くあった。 


「それなら、俺が千歳に勉強を教える」


 千歳が「えっ」と驚いた様子で顔を上げた。俺は真っ向から主張を続けた。


「追試に合格できるように、夏休み間、俺が千歳の面倒を見る」


 宣言をしながら、俺は思考を巡らせていた。


 もっとも考慮すべきこと。


 それは夏の追試に合格できるのかという一点に集約されるものではない。


 その先も続く高校の授業に千歳がついていけるのか。それこそが最大の問題だった。


 高校三年生になると、大学受験のためにこれまでやってきた内容を復習する機会も多くなり、勉強とはつくづく積み重ねが大事なのだと感じる場面が増えた。過去に習ったことがどこかで必ず出てきて、前の内容をある程度理解していなければなかなか先には進めないからだ。


 言い換えれば、高校一年生の夏の時点でこれだけ躓いている千歳皐月は、これから先のことを考えると相当まずい状態であるということは明らかだった。


 最悪の場合、途中で高校を辞めてしまう可能性もある。


 本気でそう思ったから、俺はなんとかして彼女を救いたいと願ったのだ。


「で、でも……」


 千歳の表情は硬かった。不安げな瞳でこちらをそっと見つめていた。


 少しでも彼女の心に余裕を持たせようと、俺は意識して明るい言葉をかけた。


「俺だってそんなに勉強ができるわけじゃないが、一年生の最初の内容なら多少はわかる。一応、三年生だからな」


 わざとらしくかっこつけてにやっと笑うと、張り詰めていた千歳の表情はようやくちょっとだけ緩んだ。


「別にそっちは心配してませんよ。むしろ、わからないって言われたらどん引きです」


「お、おう、そうか……」


 実は案外自信がなかったりしたのだが、それを表に出すのはやめようと思った。可愛い後輩にどん引きされたくはなかったし。


 千歳はしばし微笑んだ後、すっと黒い目を俺のほうへと向けた。


「わたしが気にしているのは先輩の受験のことです。わたしの勉強なんて見ている暇ないんじゃないですか?」


 探るような言い方だったが、その意見自体は核心を突いていた。


 本来、勉強を教えることはそれ自体が勉強になり、その時間は決して無駄ではない。


 しかし、それがこと大学受験においては、うまくは言えないが「大学受験のための勉強」というものがある。そのための対策をしっかりとできたかによって結果は大きく変わり、だからこそ使える時間はできる限りそれに費やすべきだという根強い常識がある。


 最後の夏休みという大事な時期に一年生の勉強の面倒などを見ていれば、受かる大学も受からなくなってしまうという恐れがあった。


 でも、仮にそうであったとしても……。


「そんなの心配しなくていい。千歳が追試の勉強をしている隣で、俺はちゃんと受験用の勉強をする。それで問題ないだろ?」


 本当に問題がないかなんて、下級生の千歳の立場で答えられるわけがなかった。


 それでも、彼女には安心してもらいたかった。


 ここに至るまでずっと不安な気持ちで高校生活を送っていたのだろうから、少しくらいは信頼できて頼れる存在があってもいいはずである。


 無論、自分がそうなれるなんて驕った考えを持つつもりはなかったけど、やれるだけのことはやってみようと俺は強く心に決めたのだった。


「さすがですね、先輩は」


 千歳は呆れたとも感心したとも取れる絶妙なため息を漏らした。


「それ褒めてるのか?」


「さあ、どうでしょう?」


 にこりと笑いながら小首を傾げ、もう一言続けた。


「少なくとも貶してはいません」


 まわりくどい説明だったが、微笑んだ表情に嘘はなさそうだった。


「先輩」


 千歳に真っ正面から堂々と見つめられる。


 それだけでどこか特別感があって俺の胸はざわついた。


「よろしくお願いします」


 居住まいを正した彼女は小さく丁寧に頭を下げた。


 そうやって可愛い女子に頼まれたら、断れる男はこの世にいないだろう。


「よろしく」


 いや、いるかもしれないけれど、少なくとも俺には無理だった。


 跳ねる気持ちを抑えつつ返事をしながら、俺はこれから先のことをちょっとだけ想像してみた。


 頼れる先輩。ヒーロー。


 本当の自分はそんな人物像とはほど遠いけれど、彼女が望んでいるのなら少しはそれを目指してみてもいいのかもしれない。


 千歳はくすっと笑いながら、さてはと何かに気づいたような悪戯な視線を向けてきた。


「先輩、ひょっとして照れてますか?」


「照れてない」


「そうやって即答するのは怪しいですねぇ。あっ、少し顔が赤くなってますよ」


 自分の顔に向けられた彼女の白い人差し指。


 楽しげに見つめる彼女の瞳から目を逸らした俺は、赤らんでいたかもしれない頬をさすりながら心の中で呟いた。


 ――今年は暑い夏になりそうだな。


 とにかく、こうして俺たちは知り合った。


 そして、ここからひと夏の間、迫り来る受験や追試に備えて一緒に過ごしていくことになるのだが……。

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