「じゃあ、今日は部活があったわけじゃないのか?」

「じゃあ、今日は部活があったわけじゃないのか?」


 初対面の千歳には翻弄されっぱなしだった。


 会っていきなりヒーロー扱いしてきたかと思えば、ファミレスに入って向かいに座るなりなぜか急に黙ってしまったので、俺のほうがむしろ積極的に質問をするはめになった。


 いくつかの問いを重ねるうち、たまたま千歳は部活に入ってないことが判明した。


 高校一年生が夏休みに学校に来る理由なんて部活しか思いつかなかったから、つい何も考えず訊いてしまった。


 だけど、これが悪手だった。大きなミスだ。


 適当に誤魔化す方法をなんとか捻り出そうと考えていると、沈黙を嫌ったのか彼女のほうから尋ねてきた。


「先輩はなんで今日学校にいたんですか?」


「……勉強だよ。受験勉強。対策講座みたいなのが夏休み中あってそれに出てる。高三になればわかる」


 千歳は「ふうん」とつまらなそうに相槌を打った。


 平然と受け答えをこなしたが、実は彼女が質問のために口を開いた瞬間、俺は内心ひやっとしていた。


 会話の流れ的に、俺にも部活関連の問いがぶつけられると思ったからだ。


 先ほどのミスというのもそれ。つまりは、わざわざ部活についての話題に自ら踏み込んでしまったことである。


 少し前にも述べたように、俺は高一の最初の二か月で部活を辞めている。


 さすがに高三になった頃にはその過去も少しずつ受け入れられるようになっていたが、部活のことに話が及びそうになるたびに冷や汗が出るのは変わらなかった。


 冷静になって振り返ってみると、このとき千歳が部活について訊いてこなかったのは、高三の夏にはほとんどの生徒が引退しているからだろう。


 もうすでに三年生の大半は部活動がないことを理解していたからこそ、質問の内容が「先輩はなんで今日学校にいたんですか?」に切り替わったのだ。


 でも、彼女のほうからそれを尋ねてくれたのはいろんな意味で好都合だった。そのまま同じことを彼女に対しても訊けばいいのだから。


 そう思って口を開きかけたのだが、千歳は食べ終わった料理の皿を脇によけ、テーブルの上に何やら用紙を並べ始めていた。


 白い紙に描かれた絵。台詞が書かれた吹き出し。コマ割り。


 制作途中のものを実際に見るのは初めてだったが、それが何であるのかは門外漢の俺にも見当がついた。


「漫画、描いてるのか?」


 尋ねたかったことを忘れ、思わず訊いてしまった。当時、自分が知っている限りで周りにそういった創作活動的なことを行っている者はおらず、物珍しさもあってついじっくりと覗き込んでしまった。


 そんな無遠慮さが気に食わなかったのか、千歳はむっとした表情でこちらを睨んできた。


「何か文句あるんですか?」


「いや、そういう意味じゃなくて」


 後輩の脅しに気圧され、ちょっと待て、とすぐさま自分の身を守るように両手を前に出して落ち着かせる。


 実際、すごいなと感心していたのだ。何かを作ったり生み出したりすることの難しさは当事者にしかわからないとはいえ、その行為が大変であるということは理解しているつもりだった。


 だからこそ、それに取り組んでいる人が目の前にいるということについて、自然と尊敬の念を抱いていた。


 そして、それと同時に自分でも驚くくらいに興奮していたのを覚えている。


 心の底から沸々と沸き上がる何か。


 その正体が何であるのかは説明できないが、いつからか冷たくなって止まっていたものが再び熱を帯びて動き出すような感覚があった。


 それに「漫画を描いている」という点を考慮すれば、彼女のそれまでの奇妙な言動についても多少説明がつくと思った。


 あまり聞き慣れない『敵』とか『ヒーロー』とかいう単語は、いかにも漫画に出てくるようなワードである。普段からそっちの方向に強くアンテナを張っていれば、人とは違った感性や感覚が自然と育まれて、普通の人間には見えないものがたくさん見えるようになるのかもしれない。


 描かれた漫画を眺めつつ、俺は勝手にそう推察して納得していたのだが、千歳という人物はなかなかどうして一筋縄ではいかなかった。


「言っておきますが、これは漫画じゃありませんよ」


 心を見透かすような目で俺のことを捉えると、まるでこちらを試すみたいにふふっと笑みを湛えて、わかりますかと可愛らしく首を傾ける。


 突如始まった禅問答。困惑しつつも答えを考えてみた。


 漫画は一つの表現手法だ。それが解でないとするならば、千歳は何か別の表現手法を使っているということだろうか。


 もう一度、描かれたものを見る。


 キャラクターらしき人がいて、吹き出しにその人物の台詞らしきものがある。設定やストーリーはぱっと見ではわからないが、大小さまざまなコマがちゃんとあって、辿っていくと話の流れが存在しているように見受けられる。


 どこからどう見ても漫画である。


 それ以外の答えは全然思いつかなかったが、本人が違うというのだから仕方がない。別の回答を用意しよう。


 俺はそもさんに対し、堂々とせっぱしてみた。


「そのが……」


「やっぱり漫画でいいです」


 千歳はわかりやすくため息をつき、もうどっか行ってというようにしっしっと手で追い払う仕草をした。どうやら見限られてしまったようだ。


 しかし、本当にどこか行ってしまうわけにもいかなかったので、彼女の機嫌を取り戻すべくできるだけ穏和な笑みで語りかけた。


「完成したら読ませてくれよ」


 難しいことを頼んだつもりはなかった。純粋に彼女が描いたものを読んでみたかったし、決して無関心ではないということを知ってもらいたかった。


 けれども、目の前に座る千歳は意外にも自信なさげに下を向き、自分が描いた漫画の上にそっと手を置いた。


「いいですけど、いつになるかはわかりませんよ」


 その様子を見て、調子よく浮かべていた自らの微笑みが消えた。


 彼女の言葉を聞いてようやく、俺は自分がしたお願いの本当の意味を知った。


 受け取る側の「完成したら」は実に気軽なもので、どこか社交辞令じみたなんの制約も拘束力もない約束だ。


 話を合わせるためにその場の流れでなんとなく言ってみたりして、ともすれば発言したことすら忘れてしまうくらいのものでしかない。


 しかしながら、生み出す側の「完成したら」はそう容易いものではない。


 それを目指して懸命に努力しなければ叶わないことであるし、約束したからには達成に向けての期待や責任を一身に背負うことになる。


 受け取る側の期待や責任なんてほとんど存在しないとしても。


 千歳だって、もしかしたら誰かに漫画を描いていることを告白したことがあるかもしれない。


 そして、もしかしたら誰かに俺が言った台詞と同じような言葉を返されたことがあるかもしれない。


 けれども、それが都合のいい口約束であることを彼女は理解している。全部理解した上であえて相手を試すように問うているのだ。


 ちゃんと待ってくれる人なのかどうかを確かめるために。


「いつになっても構わない。完成したら必ず読む」


 それが俺の出した答えだった。


 千歳は顔を上げ、ぼんやりとした目で俺のことを見つめていた。できるだけプレッシャーを与えないような言い方をしたつもりだったが、振り返ってみると結構偉そうな物言いだったかもしれない。


 それでも、千歳は嬉しそうに微笑みを浮かべて、びしっと俺の口元に右手の人差し指を向けてきた。


「言いましたね? たとえ超絶つまらなかったとしても、最後まで投げ出さずに読んでくださいよ!」


「大丈夫だ。俺はどんなつまらないものでも面白く感じちゃうタイプだから」


「ありが……って、それって大丈夫って言えるんですか? ……でもまあ、ありがとうございます。先輩はやっぱりヒーローですね」


 予想外にも素直にぺこりと頭を下げられたので、照れくさくなった俺はしどろもどろになりながら反論していた。


「そのヒーローって言うのやめてくれないかな。むず痒いというかなんというか」


「えー、なんでですか? ヒーローにヒーローって言ったっていいじゃないですか?」


 からかうチャンスと見るや、千歳は両手をついてこちらに身を乗り出してきた。


 正面から堂々と攻められると逃げ場もなく、苦し紛れに出てきた言葉を継ぐしかなかった。


「そもそも俺はヒーローじゃないし。確かに小学生のときの夢は正義のヒーローだったけど……」


 言わなくてもいいことを言ってしまったかもしれない、と思ったときには遅かった。千歳は小さな子供を見るようにしてにんまりと悪戯な笑みを浮かべる。


「いや、それすごい可愛いですよ。もしかして修学旅行で木刀とか買っちゃったりするタイプでしたか?」


「な、なぜ俺の過去を?」


「まさかの図星? さすが先輩、素質ありますね」


 千歳は目を丸くして驚いた演技を見せ、まるでちょっと引いちゃったみたいに距離をとってぶつぶつと小さめな声で呟いた。……演技だよね?


 もしかしたら本気で引かれちゃったんじゃないかと心配していると、千歳はいきなりふっと笑い出して、描いた漫画のほうへ静かに視線を落とした。


「でも、それがヒーローなんですよね。巨大な敵に立ち向かえるヒーローはきっとそんな感じなんです」


 どこか遠くを見るように手元を眺めるその姿は嬉しそうでもあり、でも瞳には憂いを微かに秘めていた。


 俺はそんな彼女の呟きに自然と頷いていた。意味なんて理解できないけれど、心の奥に眠っている何かが「そうだ」と答えた気がした。


 千歳は小さく息を吐いてから顔を上げ、明るい笑顔で俺の胸の辺りを鋭く指差した。


「だから先輩もその心をなくさないようにしてくださいね!」


「お、おう」


 急に真っ向から指摘を受け、またしてもたじろいでしまった。


 彼女のテンポには正直全然ついていけていなかったけれど、話を聞いていて悪い気分にはならなかった。


 むしろ、彼女が口にする「ヒーロー」や「敵」についての話をもっと聞いてみたいとさえ思った。


 単純に怖いもの見たさだったのか、あるいはそこに何か大切なことがあると直感的に理解したのか。それはわからない。


 いずれにせよ、その日会ったばかりの千歳皐月という人間に、俺は紛れもなく興味を持ち始めていた。

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