06男は儀式からは逃げられない3

 地獄とは人の数だけ存在するーーそう言えば、鼻で笑われるかもしれない。だが、男にとってはソレこそがこの世の地獄の一つであった。


 人が笑って済ませるような苦しみ、しかしだからどうだろ言うのだろうか? 誰かにとっての地獄など意味は無く、己が地獄だと思ってしまえば、そこはまぎれもなく地獄となるのだ。


 結局、他人は他人の事など知ったことでは無い。男にとっての地獄は、そういった他人からすれば笑い話で終わる程度のものであった。


 しかし、そこは男にとっては紛れも無い地獄。他人がどう思うかなど知った事では無いーー男はただ逃げることを選ぶ。目の前にある地獄への入り口、そこを通り過ぎさえすればそれで終わるのだ。たったそれだけの事で、あそこに堕ちることは無い。


 他人がどう思うかなど知った事では無い。もちろん、それは怨霊もまた同じである。いや、怨霊であるからこそ余計に、その行為に対して妄執するのかもしれない。


 キィ・・・。


 無情にも、その扉は開いた。最初から男は逃げることなど出来なかったのだ。怨霊は、すでにそこで待っていたのだから・・・男を地獄へと誘い込む死神の手は、そっと男の肩に触れていた。


「なっ!?」


 手前へと引かれる扉は、ただそれだけで男の進行を塞ぐ壁となる。それだけの事で、男は逃げ場を失くしてしまう。男の前から道は消え去り、男の右手に新たな道が産まれてしまう。光も無い、ただ昏く闇に沈んだ地獄への一本道が・・・。


 ドンッ!!


 肩に衝撃を受けた。誰かに押されたような、そんな衝撃であった。男は唐突な出来事によろけ、ふらふらと闇の中へと入ってしまう。底すら見えぬ古井戸へと落ちるように闇の中へと深く、深く堕ちて逝く・・・ただ、灯りの点いてない脱衣所へと入っただけなのだが、本人の心情的にはそんな感じであった。


 バタンッ!!!!


 男が部屋へと入ったその瞬間、脱衣所の扉が勢いよく音を立て閉じてしまう。脱衣所の扉にはドアクローザーは付けられていないにも関わらず、扉は勝手に閉じてしまったのだ。


 男は慌てて扉へと寄ると、ガチャガチャッ!! と、激しい勢いでノブを掴み扉を開こうとした。だが、どれ程の力を籠めようと、体重を掛けようと、扉はぴくりとも動くことはなかった。また、今日も男はこの部屋に閉じ込められる。いや、これはもはや監禁と云ってもいいのでは無いか!? 男がどう考えようが、扉は開かない。玄関の扉とは違い、ここは部屋の中・・・怨霊の中とも云っていい場所である。その時点で男に勝ち目などは存在しない。そして、怨霊もまた男を逃がす気など無かった。


 男が、きっちりとその行為を終わらせるまでは・・・場合によっては、晩御飯抜きという祟りを突き付けねばならぬという決意までも持ってだ。


 パチ・・・男が開かぬ扉を前に絶望している間に、脱衣場の電気が灯される。脱衣場の中には洗面台や洗濯機があり、そして風呂場へと続く扉があった。


 ジャー・・・。


 水の流れる音、男がそちらを見れば洗面台の蛇口から透明な水が流れ出していた。


「はぁ~・・・」


 男はその水を見ると、諦めたように深く息を吐き、洗面台へと向かう。まずすべきは行為は、服の袖を捲ることである。そうしなければ、袖が水に濡れてしまうからだ。男は両腕の袖を捲ると、その両の手を・・・水の中へと躊躇なく差し込んだ。冷たい水が男の手を濡らす。男はその様子をジッと見詰めながら、やおらその両の手を流れる水の中でこ擦り始めたのだ。


 ジャブ・・・ジャブ・・・と、水の音がする。


 その音は、まるで水の中で溺れ暴れる者が水を激しく掻き回すかのような、そんな音であった。他に誰もいない静かな湖、そんな静謐な場所でたった一人、水中を暴れ・・・やがて沈んで逝った。沈み逝く中で最後に見たのは、髪を水中に漂わせ腐敗した手をこちらへと伸ばす人、人、ヒト・・・。


 というホラー映画を前に見たよなと、男は水音を聞きながら思い出していた。あの時は、テレビの音声が聴こえなくなる程のラップ音が何度も何度も響き渡り、座っていたソファーへ寝室などに飾られているぬいぐるみ達がまさに飛び込んできてしまい、男をソファーが埋もれてしまうという騒ぎになってしまった。


 あれ以来、ホラー映画はたまにしか見ないようにしている。見るのを止めないのは、反応が可愛いからである。


 そんなどうでも良くは無い、わくわくするような事を考えつつ手を動かしていると、水に変化が訪れる。水が、赤く染まり始めたのだ。男はその変化に驚き、まるで過呼吸に陥ったかのように何度も呼吸を繰り返した。水が、赤く染まって・・・それは、まるで血のようにも見えた。赤錆の色などではない、鮮やかに過ぎる鮮烈なまでの赤。そのヌメルような触感が男の手に絡みつき、赤く、赤く、赤くアカクアカクアカクアカクアカク・・・やがて、赤は男の手の動きに合わせ、その色を赤から豚肉を思わせるようなピンクに、そして白い泡となり次々と流し台へと流れていった。


 男の呼吸は止まらない。大きく空気を吸い込み、忙しなく鼻を動かせている。男は匂いを嗅いでいた。真っ赤にヌメるその血のような液体からは、薔薇の花を思わせる臭気が漂って来るからだ。


 鮮やかな赤、それは薔薇の花びらの色を模したものであった。


 ジャブ・・・ジャブ・・・。


 男は薔薇の香りにつつまれながら、その手を擦り合わせる。手の平や甲、そして指と爪の隙間もしっかりと擦っておく事も忘れない。大切なのは、手に着いた悪い菌をしっかりと洗い流す事なのだ。ここで妥協をすることは決して許してもらえない。最悪、食事をさせてもらえないなどという事にもなりかねない。


 今の時代、対策の為には仕方の無いことである。








 ーーソトカラカエッタラマズテヲアラワナイトダメ・・・。








 怨霊は、決して許してはくれない。

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不運な男が事故物件に住んだ結果、怨霊さんにデレデレになるまで呪われました。 NeKoMaRu @nekomaeu

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