第29話 死者の声
「あれを見ろ!黒い渦だ!」
それは見るからに、真っ黒な波の塊で、ふいに祭壇下の空洞から現れて、いきなり花の先端に向かって押し寄せ、うねり上がると、またたく間に円柱全体を包んだ。
「おお!タイコウチだ!」
傑が叫んだ。
やがて、黒い塊は、円柱の頂上まで上がるやいなや、今度は引き波の如く、すばやく去り尽くして、さっきまで何もなかった円柱の最上部には、青碧色に輝くゴバが、花びらに包まれるようにして横たわっていた。
「ゴバだ!ゴバが戻ったぞ!」
一部始終を、食い入るように釘付けになって見ていた傑は、今でもよくおぼえているが、かつて俊介の家の庭で見た、タイコウチの大軍団による光景を鮮明に思い出した。
《あの時も、まさしく真っ黒いタイコウチの集団が、見るからに真っ黒いうねりとなってゴバを包み、あっという間に持ち去っていったな。まさしく俺の母親を病から救ったあのゴバが、たった今、目の前にあるのだ!》
ゴバが戻ったのを目にした潜入者たちは、発作を起こしたように祭壇に置かれたゴバに向かって、一心不乱に、むきになって祭壇によじ登ろうとした。
その瞬間、とたんに何十匹もの巨大なスカラベたちが、おそらく、まったく何も無い虚無の空間から、いきなり出現し、潜入者たちに、真っ向から襲いかかった。
『すぐに動いてはならない!』
ゲブの三人は、文字通り、長老からの言い付けをかたくなに守り、石のようにじっとしていた。
潜入者は、手ごわいスカラベの攻撃を受け、誰一人としてスカラベを倒せる者はなく、たちまち、無残に喰われていった。
やがて、ゲブの一人が、しびれを切らして、だしぬけに飛び出して、スカラベの口に丸薬を放り込んだが、すぐに効き目は出ないのか、頭から喰われてしまった。
《思った通り丸薬なんて効かないのか?》
傑は疑ってみたが、そのあと、しばしスカラベの動きが停止したのだ。
「丸薬は効くぞ!さっきは早すぎたんだ!今だ!」
傑の隣にいたもう一人のゲブの仲間も、機敏にスカラベの隙を衝いて、まんまと祭壇に上がることに成功し、もうちょっとでゴバに手の届くところまで行くと、いきなり別のスカラベに行く手を阻まれた。
同時に走り出た傑は、仲間の前に現れたスカラベの口に、ひょいと丸薬を投げ入れると、数回、攻撃を交わしているうちに、スカラベの動きがぴしゃりと止まった。
「まずい!うしろにいる!」
仲間は、残念なことに、もう一匹現れたスカラベに頭から喰われてしまった。
こうなると、とりもなおさずゲブの潜入者は、傑しか残っていない。
傑は、勇を鼓して、祭壇に向かって、まっしぐらに駆け寄ったが、おどろいたことに、傑を制止するスカラベは、ただの一匹も現れず、それどころか、傑に道を空けるスカラベも現れた。
《どうしたことだ。どういうわけか俺を邪魔するスカラベが、一匹もいないなんて!ひょっとすると、伝承通り、おれがゴバの経験者だからなのか?》
傑は、やすやすと祭壇に上ると、青碧色に輝くゴバを掴み、あらかじめ持参した水を満たした革袋にすばやくゴバを沈めた。
そのとたんに、ひっきりなしに現れたスカラベが、たちまち、ぷつんと消え去ったのだ。
傑は、火の消えたように静寂になった秘密の間を、しげしげと見回すと、スカラベに喰い殺された潜入者たちが、床のあちこちにころがって倒れていた。
《どうにもこうにも、今すぐゴバをかかえて、神殿の外へ出るわけにはいかないな。出たら最後、ゲブの長老にゴバを引き渡さなければならないからな》
傑は、がむしゃらに階段を駆け上がると、至聖所のラムセス二世の石柱の陰に身をかがめて、前もって、掘っておいた隠し穴の石板をめくり、ゴバの入った革袋をおずおずと押し入れた。
《とりあえずこれで、明日になったら観光客に紛れて、ひそかに取りに来て、気づかれぬように外に出れば、まさしく完璧だ!》
すっかり油断した傑は、周囲をことさら気にすることなく、まっすぐに出口に向かおうとするやいなや、こともあろうに、いきなり後ろから棒でがつんと頭を殴られて、前のめりに倒れた。
「うっ!だれ……なんだ……」
薄れゆく意識の中で、傑は、何としても殴った人間の顔を見ようとしたが、殴られたダメージで、目の前がゆらゆらぼやけて焦点が合わない。
こうなると聴力に頼り、かすかに耳から入る音に集中すると、何やら女性の声が聞こえた。
「あったわ!ゴバよ!」
《日本語?ひょっとすると日本人か?隠したゴバを見つけたのか?》
そう思った直後、傑はすっかり意識を失った。
してみれば、傑を背後から力まかせに棒で殴ったのは雉間教授で、ゴバを見つけて、甲高い声を上げたのは羽衣不三だった。
それと言うのも、雉間と不三は、盗んだラムリアから、ゴバがもうすぐ神殿に戻ることを嗅ぎつけて、計画通り、日中のうちに観光客に紛れて神殿に入ると、辛抱強く、至聖所に潜んでいたのだ。
時が立ち、夕方になって潜入者が詰めかけると、気づかれぬように、そっとあとを追い、卑怯にもゴバを横取りしようとしたが、初めて見るスカラベの出現で、生ぬるい考えはことごとくふっとんだ。
「巨大なスカラベが、潜入者を食べてるわ!」
「逃げろ!おれたちも喰われるぞ!」
あたふたと、スカラベの襲撃に肝をつぶした二人は、無我夢中で至聖所に逃げ戻って、じっとしていると、そこへ、のこのこ革袋を手にした傑が上がってきたのだ。
「ひょっとすると、この若者はゴバを手に入れたのかもしれないぞ!」
そう思った雉間は、用意していた棒きれで、やにわに傑を殴って気絶させ、不三が革袋の中を覗くと、まさしく待望のゴバが沈んでいるのを発見して、たちまち狂喜乱舞した。
「やったぞ!とうとうゴバを手に入れたぞ!」
「さて、このまま外に出たら、ホルスに捕まってしまうからな。予定通り、もう一晩、ここに身を潜めて、翌日の観光客に紛れて外に出るぞ!あたかもホルスに気づかれずに脱出できるはずだ!」
「ゴバを自分のものにできるなら、もう一晩、暗闇で過ごすくらいは、何でもないことだわ」
そんなわけで、二人は、ゴバが入った革袋をリュックに収めて、持参したライトをともして至聖所でじっと息をひそめることにした矢先のことだ。
どういうわけか、秘密の間から人の声がひっきりなしに響き、そのうち、何人かが、足を引き摺りながら、階段を上ってくるのが分かった。
「人だわ。秘密の間から、人が上がって来るわ!」
「いったいどういうことなんだ?死んでなかったのか?」
二人は、石柱の陰に身を隠した。
喋っていたのは、まぎれもなく潜入者たちで、何よりも確かなのは見るからに生きており、しかも誰もゴバを手にしていないということだ。
ホルスの潜入者の男は、いささか舌足らずの口調で不思議そうに言った。
「いったいぜんたい俺たちは、全員、スカラベに喰われたはずだが、それでいながら、どういうわけか生きている!なんて不思議なんだ!」
あるいは別の男は、気が付いていた。
「まてよ!秘密の間から出て来るときに、ゴバは祭壇には無かったぞ!どの教団の奴が手に入れたんだろう?どうやってスカラベから逃れたんだろう?まさしく凄い奴がいたんだ!」
ぞろぞろと続いて上がってくる潜入者の中に、ほかでもないゲブの男がいた。
男は、薄暗い至聖所の床に、ゲブの衣装を着て、顔に彩色のある男が、長々と横たわっているのを発見して、抱き起した。
「まさか!仲間だ!仲間が倒れているぞ!」
「おい!しっかりしろ!生きてるのか?」
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