第26話 予期せぬ決意

 船頭は、雷に打たれたようにびくっとして、ファルーカの帆を握りしめ、おどろきを隠せぬ様子で、立っている二人の顔を見つめた。


 時間が止まったように、両者とも、身じろぎもせず、その場を動くことはできなかった。


 陽に焼けて、髭に覆われた船頭の顔は、すぐさま誰かは見分けがつかない。


《本当に傑なのか?》


 俊介は、何やら、頭の中が混乱し、すぐに言葉は出なかった。


 性急な快斗は、決然とした口調で叫んだ。


《傑だ!まぎれもなく傑だ!》


 その声を聞くやいなや、船頭は、やにわに、その場から走り出したのだ。


「おい!待て!」


 快斗が、すかさず追いかけた。


 なにしろ、現役のプロサッカー選手だ、叶うわけがなかった。


 あっという間に追いつかれ、腕をつかまれると、ひときわ大男の慎太も、追いついて覆いかぶさったから、地面に倒れ込んで、逆らえなくなってしまった。


「はなせ!」


「ダメだ!傑だろ!?えい!何で逃げるんだ?」


 快斗が、けたたましくわめいた。


 俊介と都真子も走り寄って、まじまじと船頭の顔をのぞきこんだ。


「傑だよな?お前を探しに来たんだ!」


 船頭は、もがいてのがれようとしたが、目は宙をにらんだまま、高ぶった声で、しどろもどろに喋った。


「人違いだ!俺は……俺はエジプト人のカイだ……」


 白を切ったが、懐かしい声で傑だとすぐわかった。 


 都真子はチャンスの首根っこを押さえた。


「傑の声よ!間違いないわ!」


 船頭は、抵抗する力をいくぶん緩め、地面に顔を伏せたまま、血をしぼるような声で言った。


「なんで……来たんだ……」


「やっぱり!傑だ!お前を探しに来たに決まってるだろう!黙って消えるやつがいるか!和美さんやお前の母さんがどれだけ心配したか、考えてみろ!」


 俊介が、責めるような言い方をすると、母や姉の名前が出たこともあって、船頭の目から、きらきら光る涙がこぼれ落ちた。


 快斗も慎太も、せっかく傑に会えたのに、抑えるのを止めたら、逃げてしまうことを心配し、いっこうに力を抜けないでいた。


「ちゃんと話そう!もう、逃げるなよ!」


「わかった!逃げないよ。お前ら、二人から逃げるのは無理だ」


 傑は、すっかり観念して、力まかせに抵抗するのを止めた。


「ファルーカで働いている日本人がいるなんて驚いたわ!いつから、ここに?」


 咲は、親しみのある口調で尋ねながらも、むしろ傑のことは怪しんだ。


《この男こそが、ことによると、ゴバを探しているのね?》


 傑は、初対面の女性から、だしぬけに話かけられて、いささか眉をひそめた。


「ああ、この人はエジプトに研究で来ている中東大学の中尾咲さんだ。こうして、お前を捜すのに協力してもらったんだ」


 俊介は、しゃちこばっている傑の顔を見て、咲を紹介した。


 傑も、ファルーカには、日本人の研究者や観光客を数多く乗せたが、咲のことは、まるっきり初めて見る顔だった。


「ちょうど、二年です」


「そんなに居たんですか。ことによれば、どこかで会っていたかもしれませんね。ろくに気付かないなんてね」


「待って、話の途中だけど、ファルーカの事務所に、今日の仕事の終わりを告げてこないといけないんだ。ちょっと、行ってくる」


「おい、もう逃げるなよ!」


「ああ、分かってるよ!」


 傑は、足早に事務所に駆けて行った。


 ナイル川は、すっかり闇に覆われて、お互いの顔もよく見えなくなってきていた。


「このあとの話は、アリさんのレストランでしましょうよ!」


 咲が気を利かせて言うと、快斗がいちばんに賛成した。


「それがいい!すっかり腹ペコだ!」


 傑は、すぐに戻ってきた。


 全員、咲の車に乗り込むと、俊介は傑の隣に座って話しかけた。


「生きてるかどうかくらいは、どうして知らせなかったんだよ。そもそも、お前は、昔からマイペース過ぎるんだよ。折をみて、電話の一本くらい入れたら、みんな安心するのにさ」


 俊介は、誰に対しても、とき折り、兄貴分のような言い方をすることがある。


「端的に言うけど、正直なところ、エジプトにいると、まるで浦島太郎のように時間が過ぎるのがゆっくりなんだ。むしろ日本を離れてから、たいして時間があまり経ってない気がするんだ」


 耳をそばだてて聞いていた咲が、同感して言い添えた。


「分かるわ。私も同じよ。連絡よこせって、ちょくちょく親に怒られてるわ。言うなれば、ここには、惹きつけられるものが沢山あって、もっぱら飽きることがないからかな」


 俊介は、咲に余計なことを言われて、話の腰を折られた。


「咲さんも、傑の肩をもたないで下さいよ。傑は、ことのほか、みんなに心配かけたんだから。ほかならぬ姉の和美さんや母親から、傑を手きびしく諭すように、頼まれてるんですから」


「あら!それはごめんなさい。まさにお姉さんたちの言う通りですよね。どうにもこうにも、捜されるようになったら、おしまいですものね」


「その通りです。捜されるレベルだから」


 俊介は、そんな冗談が言えるくらいなら、傑の心は、まだそのままだと安心した。


 レストランに到着すると、俊介が、傑をアリに紹介した。


「あなたが、傑さんですか?ほら、見つかってよかった」


「でも、こうして傑が発見できたのは、相談に乗ってもらった上、おまけに一緒に動いてもらったお陰だと感謝しています」


 俊介は、傑に会えたことは、くれぐれもアリや咲の協力があったからだとつくづく思った。


「吉事は食をもって祝うとあるからね。ほら、再会を祝して、腕を奮います」


 夕食は、ステラというエジプトビールの乾杯から始まった。


 それに加えて、モロヘイヤのスープやホムモスという野菜料理、タジンという白身魚の料理や、コフタと呼ばれる肉料理が次々と出てきた。


「ほら、いわゆるエジプトはイスラム圏というわけで、あくまでも豚肉は食べないし、それどころかアルコールも厳禁だけど、店ではアルコールは出していいことになっているんだ。ほら、どんどん飲んで!」


 話はにぎやかに盛り上がり、飲み物もビールからやがてワインに移った。


 傑は、ほかでもないが、ずっと気にかかっていた疑問を俊介にぶつけた。


「くどいようだけど、よく俺の居場所が分かったな?驚いたよ」


「さすがに自分たちだけじゃ、どうしようもなかったが、捜すきっかけになったのは……」


 急に、快斗が口をはさんだ。


「それは、おれおれ、おれの手柄だ。おれがサッカーの試合でエジプトに来たときに、帰りの飛行機で、東央大の先生と会ったわけ。そこで、実に偶然だけど、おどろいたことに、お前に似た人間の噂を聞いたことがきっかけなんだな……」


 俊介は、すかさず話を自分に戻した。


「とは言うものの、疑わしい気もしたので、今度は俺が直接、東央大の先生を訪ねて、もっと詳しい話を聞くと、それならいっそ、現地に行くしかないと言われて、こうしてエジプトに来たってわけだ。どちらかといえば、ダメ元で来て、まさにその通り、お前と巡り合うことになったことは幸運というしかないな」


 咲は、何よりも、傑からゴバについて何かしらの話を聞き出そうと考えていた。


「で!傑さんが、エジプトに来た理由は何なんですか?」


 傑は、当然のことながら、俊介たちを意識して、一つ一つ言葉を選んで喋った。


「それはその、日本での、視野の狭い生活から、あくまでも広い世界を見てみたいと思ったからかな。みんなは、よく知っているけど、僕の親父は、地元ではいたって有名人だったんだけど、こともあろうに、いちばん信じた人に騙されて、仕事に失敗して、あげくの果てにそのストレスで死んだんだ。その煽りをくらって、自分の進学も駄目になって、就職も上手くいかず、自分の将来が、機能不全を起こして閉じてしまったように感じてね。そんな折り、心を癒そうと思って選んだのが、かねてから興味があったエジプトだったというわけかな」


 咲は、傑の口からゴバの話が出て来るんではないかと期待したが、空振りだった。


「自分のことだけでも精一杯なところへ、いきなり親の苦労を背負わされて、重荷が増えたら、何もかも嫌になってしまうわね」


 俊介は、誰よりも傑の負けず嫌いの性格をよく知っていたから、傑の本音は違うところにあると思っている。


《傑が、エジプトに来たのは、ゴバを見つけて、ゆくゆくは自分の人生の一発逆転を考えているに違いない。この場で、ほかならぬゴバのことを話すわけにはいかないからな。いずれ、快斗や慎太と三人になった時に、まぎれのない本音を聞き出すしかないな。それだけに、傑がゴバの情報をどこまで手に入れているのか気になるところだ》


 咲は、ぐいぐいと直球を投げるように、核心を衝いた質問をする人間だ。


「エジプトで、心の傷は癒されたんですか?日本へ帰る気は、まだ、無いんですか?」


 都真子は、傑に代わって真っ向から口を出した。


「今回は連れて帰るわよ。そりゃ、傑の人生だけどね。元はと言えば、勝手に出て行って心配かけたんだから、きっちり、お母さんや和美姉さんに顔を見せた上で、ちゃんと謝ってから、堂々と来ればいいわ。このままエジプトにいるのは、死んでも許されないわね」


 傑は、突然、顔色を変えて、むきになって言った。


「おれは、まだ、エジプトにいます!」


 急に、意固地になった傑に、一同は唖然となった。


「おれは絶対帰らない!」




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