第23話 ファームの男

 ふいに現れた男は、名入とは、似ても似つかぬアラブ人の男だった。


 俊介も都真子も、アリの顔を見たとたん、頭の中がふっとび、わけのわからぬ光景に、心がねじられたようにうろたえた。


 俊介は、間違いなく名入本人が登場するものと確信していた。


 都真子も、アリの顔を見て、「この男じゃない!」と、思った瞬間でさえ、実にふしぎなことではあるが、年齢を重ねて老けていても、まさしくTS1で見た轢き逃げ犯の男が現れると信じて疑わなかった。


 都真子は、正直なところ、そうなったら、この場で名入の腕をねじ上げて「あんたが犯人ね!正直に白状しろ!」と噛みつこうとするほどの衝動に駆られていたが、むしろ反対に、驚愕と落胆、それでいながら怒りと悲哀の感情がこみ上げてきた。


 しかしながら、俊介と視線が合い、《機会を待つんだ!》と俊介が言っているような気がして、かろうじて衝動を抑えることができた。


 俊介は、男をのぞきこむような表情で挨拶を返した。


「忙しい時間に、お邪魔してすみません」


「店を任せられたアリです。ほら、名入さんは、しばらく出かけてるよ。帰りは来週になるよ」


《えっ!来週では困ったぞ!もう帰国の途についているじゃないか!》


「名入りさんは、どこかへお出かけなんですか?」


 都真子も、わめきたい気持ちを抑えて、いくぶん冷静に尋ねた。


「ほら、急な用事ができて、日本に帰ったよ」


「えっ!日本へですか?まるっきり行き違いだな!」


 俊介と都真子は、あっけにとられて、思わず顔を見合わせた。


《それでは、まったく会えないではないか》


「ほら、どうかした?」


「いや、会えずに残念だなと思って……」


「ほら、私ができるだけのことはするよ。任せて。ほら、今日は現地の娘しか今日はいなくて、おどろいたでしょ。ほら、名入さんからは、友人を捜してると聞いたよ。協力してやってくれといわれてる。その人も、よくエジプトまで来たね」


 さっきから聞いていると、アリはほらが口癖で、日本語の使い方を間違って理解しているようだ。


 俊介は、もどかしい気持ちのまま、一枚のスナップ写真を取り出し、傑の顔を指さした。


「この男が捜している友人の皆川傑と言います」


「ミナガワスグルさん?聞いたことないな。ほら、でも、この顔、見たことがあるような気もする。ほら、日本の若い人なら、農業キャンプに来ているけど、何となく似た人が店に来たよ」


「えっ!本当ですか?あと、農業キャンプって、何ですか?」


 いっぺんに興味を示した都真子は、だしぬけにアリに尋ねた。


「ほら、ジャイカの職員がやってる緑化プロジェクトね。砂漠で作物を育てる事業です。野菜と果物とか、うちでも仕入れてるよ」


「なんだ!傑の奴、そういうことだったら、最初からおおっぴらにすれば問題ないのに、何で言わないんだろう」


 快斗は、まるっきり傑が、ジャイカの職員であるかのような口ぶりだ。


「それじゃ、どこに行けば会えますか?」


 俊介は、電光石火、ただちに出向くつもりでいる。


「ほら、くわしくは知らないけど、野菜プラントの場所は、何ヵ所もあるね。ほら、ジャイカの事務所に電話するのが早いね」


 アリが電話帳を差し出すと、都真子が電話をかけた。


「もしもし、私は、日本から来た三色都真子といいます。それというのも、日本人の男性を捜しているんですが、ジャイカの職員に、皆川傑という名前の日本人はいますか?」


 電話の相手は、ほかならぬ日本人女性だったので、都真子は、とりわけ話しやすい気がして、本人が偽名で働いている可能性があるなど他愛のない事情まで伝えた。


「さあ、そのような名前の職員は、ここ、ナセル湖のモデル村にはおりませんが、職員には会うことはできますよ。さもなければ、職員と直接、会わなくても、ここにはメンバー全員の名簿が揃っていますから捜すことはできますが……」


 意を決した都真子は、モデル村を訪問する約束をして電話を切った。


「ほら、ナセル湖のモデル村なら、よく知ってるよ。私が車で送ります。ほら、食事をしたらすぐに出かけよう」


 そうと決まれば、さしあたって腹ごしらえだと言って、アリは、まさしくレストランの名前にちなんだエジプトの国民食、コシャリを作ってみんなに振る舞った。


 いずれにせよ、落ちついて味わう暇もなく食事を終えると、アリが用意したワゴン車に、全員で乗り込んだ。


 ナセル湖までは、約十二キロほどの道のりである。


 運転手のアリに、快斗が質問した。


「名入さんって、なぜ、アスワンでレストランを始めたか聞いてますか?」


「ほら、名入さんは、むかしタンカーへ乗ってたんだけどね。中東から原油を運んで、しょっちゅう、日本と中東を往復する船のコックさんしてたんだよ。ほら、自分から選んだものの、船員の仕事ってきつくてね。乗ったら二十四時間。ほら、そればかりか外国人の船員も増えてね。なにしろ言葉は通じないから。それで船員を辞めたね」


「へえ、それでどうしたの?」


「ほら、日本でエジプト料理の店を出して、結構、客も入ったんだけど、結局、失敗して、好きなエジプトで今の店を始めたわけよ」


 アリは名入の苦労話まで知っていた。


 都真子と俊介は、ひときわ聞き耳を立てて、むさぼるようにアリの話を聞いていたが、どうやら、船員になってからの名入の話が主で、それ以前の話題はいっこうに出てはこない。


「ほら、そもそも、日本で生まれて育ったくせに、日本よりエジプトの土地柄の方が、自分にはなぜか肌に合うんだって。ほら、誰だって、実際にその土地に足を運んでみることは大事だよ。ほら、スグルさんのおかげでエジプトに来たんじゃ、スグルさんに感謝ですね」


「それにしても、波乱な人生ですね。まあ、どっちみち、人生っていうのは思い通りにはならないのが普通だな」


 想像していたのとは、しょせん違った名入の人生を聞いて、快斗は、やけに納得していた。


「でも、エジプトが好きになって、永く住めるなんて、遺跡の発掘のために、はるか遠くからやってくる学者からは、さぞ羨ましがられるだろうな」


 慎太は、いたってプラス思考だ。


 俊介は、アリから聞く名入の話は、何やらいっそう怪しげに聞こえたが、とりもなおさず、日本から逃げ出すために船員になったとしても、からきし不思議はないと思った。


「ほら、ナセル湖が見えてきました」


 全長五百キロ以上ある巨大なナセル湖は、さしずめアスワンハイダムの建設に伴って、ついでに造られた貯水湖だ。


 あくまでもアスワンハイダムがナイル川の洪水対策や発電、灌漑用だとすれば、ナセル湖の役目は、どちらかと言えば、農業用水を供給し、とりわけ砂漠の緑化に貢献している。


「ほら、大戦後、大統領になったナセルって人がいてね。ナイル川を開発したり、スエズ運河を国のものにしたりして、エジプトを発展させたよ。ほら、だから、エジプトには、遺跡だけじゃなくて、ナイル川とスエズ運河という二つの財産があるよ」


 アリの車は、たちどころに、トウモロコシ畑の間に入って、広大なファームにぽつんと立つ、頑丈な建物の前に停車した。


「やあ!サキさん!」


「あら!アリさん!久しぶり!そちらは、さっき電話くれた人?」


「ええ、そうです。三色都真子です」


「それじゃ、建物の中に入ってて下さい」


 そう告げると、咲は、反対方向に遠くまで広がるトウモロコシ畑に向かって走って行った。


 言われるままに、建物の中に入ると、事務机と長椅子があるだけで、あちこちに肥料や農具が置かれ、ほとんど倉庫替わりのように使われている。


「おい、実がなってるよ。砂漠からも育つんだな。どうやって栽培してるんだろう?」


 畑を見た慎太はいかにも感心した様子だが、なにぶん、俊介は当然だという顔をした。


「今や、エジプトは、れっきとした農業先進国だぞ。最先端の農業がいたる所で行われているんだ」


 咲は、野菜をさげて戻ってくると、にっこり挨拶した。


「中尾咲です。中東大学の院生で、ふだんは遺跡調査が主だけど、人手が足りない時は、こうしてジャイカの手伝いをしてます。アリさん、これ、今日、取れた野菜ね」


 アリに野菜を渡すと、電話で事情を聞いていた咲は、奥の机に置いたパソコンの前に、ぐるっと回って都真子を案内した。


「名簿には百人ほど載ってるけど、ましてや偽名を使ってるなら、一人一人、確認しますか?」


「そうします。どっちみち百人くらいなら時間はかからないわ」


 あながち、動ずる色も見せず、都真子は椅子に座らせてもらって、ただちにチェックを始めた。


 そこへ、突然、畑で作業していた男が建物に入ってきたのだ。


「野菜を持ってきたけど、中尾さんはいますか!」


 振り向いて、男の顔を見た俊介たちは、ぎょっとして面食らった。


「あれっ!傑だ!傑じゃないか!」




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