第22話 レストラン「コシャリ」
俊介は、無我夢中で、スマホのズーム機能を使って、漕ぎ手の顔を拡大し、むさぼるように画面を見つめた。
「だめだ!この距離じゃ!ターバンを被り、髭を生やし、陽に焼けた横顔がわずかに見えるだけだな。だとしても、クルーズ船に近寄ってもらうわけにはいかないしな」
「この分だと、こっちに寄って来る様子はないわね。残念ながら、ますます、視界からさっさと遠ざかって行くわ」
そのあとも、いくら眺めてもよく見えないことに、しびれを切らしていたが、やがては、他のファルーカに紛れて見失ってしまった。
「それじゃ、アスワンに着いたら、ファルーカにアジア人の漕ぎ手がいないか探してみるしかないな」
してみれば、ほかならぬ、この時の目撃が、ゆくゆくは、功を奏することになるとは誰も想像することはなかったのである。
やがて、刻一刻と、夕陽はナイル川をオレンジ色に染めていく。
都真子は、エジプトに来てから、アフリカの大地に夕陽が沈む姿を幾度か見たが、そのつど、ひときわ雄大な美しさに魅了された。
もっぱら、感激屋の快斗からも、アフリカへの想いが口をついて出た。
「だってさ、日本じゃ、こうした夕焼けや夕陽を見て、きれいだなと思うことはあっても、それほど感動しないんだけど、このアフリカじゃ、どうにもこうにも、大自然の美しさに、たちまち感動するんだな。まてよ、おれの感覚は、アフリカ人に近いのかな?」
慎太は、快斗の顔をひたと見つめた。
「ほほう、おそらくお前の先祖はアフリカ人だな。かねてから、そういう気がしてたよ。ほかでもない、快斗には、アフリカの原野を駆けて抜けている姿が、とことんまで似合っているんだな」
「なあに、そう褒められると困るな。それじゃ、日本に生まれて、損したな?」
「なに、快斗を褒めてるの?でもね、日本の繊細な風景とアフリカの雄大な自然を好きこのんで、比べる必要はないわよ。なぜって、世界の自然や地形がどこも同じだったら、からきし面白くないでしょ。みんな違ってるからいいのよ。さしあたりは都会で走る快斗もかっこいいわよ」
いずれにせよ、都真子は、あたかも野性的なイメージの快斗を、手短かにフォローしたつもりだが、どっちみちフォローになっていない気がした。
そうした矢先、観光客たちにとって、お待ちかねの夕食が始まった。
ビュッフェには、盛り沢山に積まれた料理と、楽し気な歌や踊りが演じられ、そこへもってきて、移動している船の上で味わえることで、ひときわ異国情緒をかもし出す演出となっている。
「傑は決断力のある奴だな。俺だったら、もってのほか一人で、ここまでは来れないな」
快斗のつぶやきは、なにやらいっそう、傑がエジプトに来ているような断定的な言い方だ。
俊介は、ほかならぬ傑の決断力という言い方を聞いて、かつて傑がゴバに願い事を入れたときの姿をたちまち思い出した。
《おれに言わせると、あのとき傑が決断して、ゴバにねじこんだ願い事はくれぐれも間違ってはいない。その証拠に、母親はまぎれもなく、元気になったではないか》
「傑がこのエジプトに来ているとすれば、かけがえのないような何かを見つけに来たんだな。まるで都真子が感じたように、とびっきり人生観が大きく変わるような何かをね」
俊介は、都真子がいる前で、藪から棒に、傑の目的はゴバにあるとは言えなかったが、とどのつまり、傑も、もっぱら人生の荒波に遭遇して、みずからの運命を変えたいと逡巡し、しびれを切らして行動したことを言いたかった。
四人は、これまで通り、にぎやかに食事を終えると、その日は、昼間の疲れもあって、大人しく部屋に戻っていった。
船は、夜のしじまの中に、水の上に浮かんでいるとは思えないほど、静かに進行し、まっしぐらにアスワンに向かって歩みを進めた。
次の日、クルーズ船の航行は、ナイル川沿いの遺跡に、万事抜かりなく下船し、あくまでも観光を忘れてはいなかった。
おどろいたことに、コム・オンボ神殿には、人間以外のミイラとして、三百体ものワニのミイラがあり、エドフ神殿では、幸運にも十二メートルも堆積した砂の中から発掘されたハヤブサ神ホルスを祀っていることなどが、俊介たちの旅の記録に追加された。
こうして束の間の船旅は終わり、クルーズ船はアスワンの船着き場に接岸した。
バスに乗り、椰子の木に覆われたエントランスに到着すると、四人は赤みがかった上品な褐色の建物に目が行った。
「これが、かの有名なオールドカタラクトホテルアスワンか」
俊介は息を飲んでホテルの外観を見上げて言った。
「このオールドカタラクトホテルアスワンは、ほかならぬ英首相チャーチルや皇太子妃のダイアナ妃などの有名人が宿泊したり、ミステリー作家のアガサ・クリスティが滞在して、ナイル殺人事件を執筆したりするなどしたホテルだよ」
ホテルは、ナイル川を眼下に見下ろす位置に建ち、館内の至る所に、エジプト風のデザインを取り入れた設計、天井から下がるベネチアンガラスのシャンデリア、遺跡を展示した博物館も併設していた。
ほどなく縞模様にデザインされた入口を通り、部屋に案内された。
窓からは、ナイル河畔の小高い岸に立つホテルからの遠望が広がった。
四人は、ただちにドレスコードを確認して、がらりと着替えてから、レストランに集合することにした。
今夜のディナーは、四つあるレストランから地中海料理の店を選んである。
しばらくして、全員がレストランに集まると、席の多くは埋まっており、にぎやかな会話があちらこちらから耳に入る。
予約した席に案内されると、俊介が音頭を取って、ワインで乾杯した。
「それじゃ、傑の発見を祈って、乾杯!」
料理は、たてつづけに運ばれ、疲れが一気に吹き飛んだ。
「さあ、これでアブシンベル神殿を見れば、予定していた観光地は、おおよそ見ることになるけど、してみれば、明日からは、傑の捜索を何よりも優先しないとな」
「俺も、傑を探すまでは日本に帰らないつもりで来たからな」
「快斗は、いつも大袈裟だな。もしかしたら、このホテルにだって、傑が働いている可能性があるかもしれないしな」
そう言われて、慎太は、ここにいる従業員の顔を見回した。
俊介も、アスワンに来たからには、ゴバの誕生したアブ・シンベル大神殿に、一刻も早く行きたかったが、その前に、名入に会ってからにしようと思っていた。
「アスワンはスーダンと国境が近いから、昔から、ヌビア人が多く住む地域なんだ。ファルーカの船頭も、ヌビア人が多いらしいよ。治安も心配だって、ネットに出てたな」
「ええ!アスワンって、治安は余りよくないんだな。我々には、日本の優秀な警察官が、二人もいるから大丈夫だな」
快斗は思わせぶりな口調で言った。
「で!明日は、羽衣さんに紹介された名入さんを訪問して、ファルーカの船頭や、傑の手掛かりになる情報を聞くことから始めよう。アブシンベル神殿に行くのは、それからでもいいだろう」
都真子は、名入の名前が出ると、自らが、わざわざ、この旅行に志願した大きな理由、つまり名入に会って、まさしく犯人かどうかを確かめる重大な任務に、身の引き締まる想いを感じていた。
「明日は、その名入さんから、傑のいい情報が聞けるといいわね」
都真子は、そう言うものの、俊介は、都真子が名入と顔を合わせる場面を、ことのほか心配していた。
それというのも、名入は、都真子の父に怪我を負わせた人間なのだから、ほかならぬ都真子がどのような行動に出るか、さっぱり予測できなかったのである。
快斗が俊介に質問した。
「名入さんって、どういう人なんだ。学者か?」
慎太は快斗の愚もつかぬ質問に口を挟んだ。
「おいおい、学者が、レストランをやるわけないだろう。だが、訳ありだろうな。エジプトまで来て、店を開くなんてな」
「そう思うだろう。だとすると、以前は何をやっていたかはわからないぞ。もしかすると、訳があって日本から逃げて来た人かもしれないぞ」
俊介は、あてずっぽうにしても、快斗の動物的勘の鋭さに敬服した。
四人は、ホテルの豪華さ、味の良い料理、喉に合うワインに感激したが、調子に乗る前に、ちゃんと都真子に制止され、時間通りに部屋に戻った。
翌朝、朝食を済ませると、ただちに名入のレストランに向けて出発した。
名入には、間が悪かったのか、なぜか、アポは取れなかったが、どちらかと言えば、名入のレストランは、ホテルからは、そう遠くない場所にあって、あっさり見つけることができた。
「ここだ。店の名前は『コシャリ』だ」
コシャリとは、混ぜるという意味で、米にマカロニやレンズ豆、揚げた玉ねぎにトマトソースをかけたエジプトの国民食と称される料理の名前だ。
俊介たちが店に入ると、若い現地の女性が出てきて、窓ぎわのテーブルに案内されたまではよかったが、なにせ、言葉がまったく通じない。
それでなくても、女性は、注文されるまで、まるっきり黙ってにこにこして立っている。
快斗は、にわかに心配になって俊介に確かめた。
「俊介、本当にこの店なのか?」
俊介は、女性に英語で問いかけた。
「ミスターナイリ、ステイイングアットホーム?」
「……?」
またしても通じない。
ちょうど、その瞬間だ、黒い前掛けを付けた男が厨房からだしぬけに現れた。
《すわ!名入が来た!》
俊介と都真子は、雷に打たれたように、男の顔に釘付けになった。
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