第4話 謎めいた夢の中で

「やあ、俊介くん、おどろいたかね。私の名前はフェルといって、まさしくゴバの精としてこうして仕えている者である。きみが、幸運にも釣り上げたゴバは、まぎれもないエジプトに伝わる願いの叶う袋なのだ。きみはもうゴバを使ったね」


 とつぜん絵から現れた人間は、頭には頭巾をかぶり、顔はツタンカーメンのマスクのように端正で、眉は細長く、鋭い眼のふちは青みがかった化粧をほどこし、尖った鼻と一文字に結んだ口、腰から下には模様のついた布を巻き付けて、足にはサンダルのようなものを履いていた。


 びっくりした俊介は、人間の姿をした怪物のように思ったが、ゴバの精と聞いていささか見る目が変わり、ゴバを使ったことを聞かれ、しどろもどろの返事をした。


「じつは…、あの…、ゴバにわがままで自分勝手な願いを入れてしまったんだけど、悪くないかな……」


「それどころかすでに、きみの願いは叶っているよ。なぜならそれは、きみが本心で願ったからだ。人の本心というものは、ふだんは心の奥深いところにしまってあって気づかないが、誰にあってもその本心にそって生きているのが人間だ。だからこそ、わがままな願いであっても、本人にとって、ことさら叶えてほしい願いであるならば、たちどころにゴバに届くことになると思ってよいわけだ」


「そう、本心か。それなら、嫌いな人にいなくなってほしいとか、それどころか、お金がないから泥棒するとか、悪いことも本心だったら叶うことになるの?」


「これだけは言っておくが、まさしくゴバに不可能はないからね。ひいてはいかなる願いであっても叶うということだ。してみれば当然のことながら、人の命を奪うことだってできるのだ」


 フェルの話を聞いた俊介は、たちまち恐ろしくなった。


《じゃ、自分が真剣に考えていることがあれば、それが自分の本心なのか?だとしたら、自分の心をよく観察しないとな…。それにしても、もし悪いことを考えている人がいたら、ゴバによってそれが叶ってしまうことになるなんて…恐ろしいことだ》


「ところで多くの偉人や英雄が、ゴバを使ったって本当なの?」


「まさにその通り真実だよ。ほかでもないが、多くの人間を虐殺した独裁者の中にも何のためらいもなくゴバを使った人間はいたのだから。とは言うものの、ゴバを自分の専有物とみなして、永久に手元に置くことは不可能なんだ。ついでに言っておくが、ゴバは神殿から奪い去られたとしても、ただちにゴバを探し出して神殿に戻す一族が昔からいてね、あたかもナポレオンが英雄から没落したのはどういうわけか?ローマ帝国の英雄、シーザーが暗殺されたのはなぜなのか?それというのも、その一族によってゴバを奪われ、たちまち力を失ったからなのだよ」


「えっ、ゴバを奪いに来る一族がいるわけ?それならむしろ、その一族に発見されないようにって書いて、ゴバに入れればけっして奪われることはないのに」


 するとフェルからは思いがけぬ答えが返ってきた。


「と言うのも、そもそもその一族は、元来ゴバの力から誕生した一族だから、言うなればゴバが灰にされても、いっこうに消滅しないのと同じで、何があってもゴバを探し回る力は消滅させることはできないということさ」


 フェルから聞くそうした説明は、俊介が読んだ袋物語には載っていなかった。


「いったいぜんたい、その一族というのは何人くらいで奪いに来るの?」


 フェルは眉を寄せながら、もの思わしげに答えた。


「何人ではなくて。さしあたり、何千何万だろう」


「ええ、万事休すだな。そんな人数で来たら、間違いなく奪われてしまうよ」


「何より確かなのは、その一族は人間ではないということだ。言うなればタイコウチの大群なのだよ」


 俊介は、だしぬけにフェルから聞いたタイコウチの名前は、かつて見たエジプト文明の写真集に載っていたのを思い出した。


「えっ、もしかしてタイコウチって、女神セルケトの頭に乗っているやつだよね。手足をもぎとられたサソリと間違えられたという虫のことで、ウオータースコルピオンともいうよね。こともあろうに何万匹も来るのか。いかにも恐ろしいな」


「そのとおりだ。よく知ってるな。ついでに言うとタイコウチには、ゴバから出るエネルギーを全身で感じ取る能力が備わっていて、ゴバの在処を感知すると、たちどころに地球上どこにでも現れるんだ。ゆくゆくは、此処にもやって来るはずだよ」


「ああ、大変!僕が海から釣り上げたから、スカラベがたちまち感知したんだ。いったいどうしたらいいんだろう?」


「それというのもタイコウチがやってこない方法が一つだけあって、ゴバは水に沈めたとたんにエネルギーが封印され、タイコウチに探知されないのだ。ましてこの場合、こうして水から出しておくと、せいぜい今夜遅くには此処にやって来るだろう」


 俊介は、ほかならぬラムセス二世が、ゴバを探し出そうとする者たちの手にけっして渡らぬように、ゴバを海の中にわざわざ沈めた話を思い出した。


「うん、それなら知ってるよ。だとしたら、確かなことはわからないけど、僕が釣り上げる前にゴバを使った誰かが、まさしく海に沈めたのかもしれないな。それでゴバは海の中を漂うことになって、水の中だから力が封印されて、とんとタイコウチに発見されなかったわけだ」


 俊介は、しごく偶然とは言え、ゴバを釣ったことより、むしろ地上に出してしまったことにいっそう責任を感じた。


「ゴバの使用には、とりもなおさず使う者の責任は重いよね。もし、何かのはずみで悪い奴らの手に渡ったとしたら、間違いなく僕の責任だ。それならいっそ海底にあった方がどっちみち悪用されないからすぐにも戻した方がいいのかもしれない」


 ここにいたって、俊介の考えを聞いたフェルは、海に沈めることはきっぱりと反対した。


「今になって海に沈めることは、俊介が考えるほど簡単ではないかもしれないな。当然のことながら、誰かに発見されないためには、岸に戻ってこないように潮の流れを考えたり、漁師の網に引掛かからないために沖合に沈めたりしないと全く予期せぬことになってしまうだろう」


 俊介は、正直なところ、見たこともないタイコウチの大群なんてまるで信じられなかった。


「わかったよ。それならタイコウチの大群に持って行ってもらっていいけど、いったいどうやってエジプトから来るわけ?地上を移動するのを、万が一見つかったらたちまち駆除されてしまうよ。まるきり想像もつかないな」


 フェルは俊介の心配について、あくまで無用であることを説明した。


「さらにつけ加えて言うと、タイコウチの大群は、人が目にすることのない地下を掘り進んで来るんだよ。もともと水生昆虫だから水の中も進めるのさ。だから誰にも気づかれることはないさ。タイコウチが来るまでは、ゴバはしばらく水に沈めておいて、戻す日の朝に水から出せば、それを察知して夜には到着するんだ」


 俊介は地中をやって来ると聞いて、ことさらに驚いた。


《まさか、だいいちエジプトから日本までは、一万キロ以上も距離があるんだよ。想像するだけでも気が遠くなるな…。でも、そうなると、ぜひともこの目で見てみたいものだ。そうだ、夜に来ると言うならば、まさしく明日からは満月だ。なら、夜でも明るいから、ゴバを庭に置けば、タイコウチの姿を見ることができるにちがいない》


 フェルは、俊介がゴバをタイコウチに運ばせることをもっぱら了解したことが分かって、ついでにもう一つ話をした。


「さしあたってタイコウチの大群の仕事は、的確にゴバを見つけ出し、たちどころにアブ・シンベル大神殿まで運んで、しかるべく祭壇に奉納してその役目を終えるが、そうなったあとは、今度はほかならね人間たちの集団がゴバを狙ってまたぞろ神殿にやって来ることになるんだ」


 俊介は、なにせタイコウチの大群も怖いが、それに加えてゴバを狙う人間の集団も、なおさら恐ろしい気がした。


「それらの集団は、ホルスやテトラ、ヌビアンと名乗って活動し、おまけにゴバの方角に向いて花を咲かせて知らせるラムリアという植物を栽培して、ゴバの在処を探し当てることができるのだ」


「じゃ、ゴバは今ここにあるから、ことによると僕の家めがけて、そうした大人の集団がゴバを奪いに来ることはあり得るの?」


「なにぶん日本にもメンバーがいないとは限らないが、今だったらタイコウチの動きの方が早いから心配はいらない。いずれにせよ、そういった集団があることを知っておけば、やがて何かの役に立つことがあるかもしれない。では、さしあたってタイコウチの来る日の夕方、いま一度私を呼びなさい。くれぐれもゴバの扱いには気をつけるのだよ」


 フェルは、そう言って消えてしまうと、俊介はとたんに夢から目を覚ました。


 夢とは言え、思いがけず何千年も続くゴバの不思議な化身と話をした俊介だったが、話のなりゆきで、やむなくゴバを手放すのことになったのは、それはそうと心残りだった。


 そのとき、ちょうど姉の活子の声が響いた。


「俊介!ご飯だよ!」


「わかった!今行くよ!」


 俊介は、ふいに時計を見てあっけにとられた。


《あっ!もう家に帰ってから、二時間もたっていたんだ!あっと言う間に時間が過ぎていたんだ。まるで気づかなかったな。たいへんだ!ゴバをいち早く水に沈めておかなければ、さもないとタイコウチが来てしまう!》


 俊介は、あたふたと使っていない熱帯魚の水槽を庭の隅から持ち出すと、ずんずんと水で満たし、一杯になるとゴバを沈ませた。


《なによりかにより、これでタイコウチの動きを止めたぞ》


 俊介は、水槽を段ボール箱に入れて押し入れの奥に仕舞い込み、何ごともなかったように夕食に向かった。


 さて、一夜明けて、その日は俊介の小学校の運動会だった。


 雲一つない青空が広がって、まさしく絶好の運動会日和となっている。


 俊介はとりもなおさず、昨日ゴバに入れた願いが、まぎれもなく実現するのかどうか、どちらかといえば半信半疑のまま、やけに落ち着かない気持ちで登校した。


 やがて運動会が始まると、プログラムはどんどん進み、ほどなく場内にアナウンスが流れた。


「次の種目は六年生全員の五十メートル走です!」


 競技は、これまで通り五人一組で走ることになっており、全員がぞろぞろとスタート地点に集合すると、自分の順番が来るのを、しばし固唾を飲んで待っていた。


 いよいよ、グループの順番が回ってくると、俊介の一つとなりには学年でいちばん足の速い佑太が、りゅうとして立っており、その姿を見た俊介は、とたんにすっかり弱気になってしまった。


《やっぱり、無理だろう…》


「位置について!よーい!」


「パンッ!」


 担任で出発係の山本先生の絶叫と、甲高いピストルの音が、ひときわ会場に鳴り響いた。


 五人は一斉に好スタートを切り、どうにか俊介は三位につけた。


《やっぱり、一位は無理か!》


 心の中でそう思った次の瞬間、まさに奇跡が起きた。


《どうしたんだ!なんて足が軽いんだ!どんどん回転する!》


 全く予期せぬことが起きた。俊介はいきなり二位を抜き、一位の佑太の真横に並んだのだった。

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