第二十三話 蛋白石 後編
彼と初めて言葉を交わしたのは、高校に入学したときのこと。クラスメイトというだけで、特別な出会いをしたわけではなかったけれども、高校生活を一緒に過ごしていくうちに、彼とは気心の知れた仲になっていった。
異変があったのは、高校三年の秋。大学受験で忙しい日々の中、体調を崩したということで、彼は学校を休むことが多くなる。心配ではあったけれども、自分のことは気にしないように、と彼からメッセージが届いていたから、そのときは勉強に集中するよう努めていた。
そもそも彼とは恋人同士というわけでもなく、かといってただの友だちにしては親密だという、そんな微妙な関係だ。高校を卒業するときには、あらためてこの気持ちを伝えよう。あの頃の自分は、そんなことを思いながら、無邪気に明日を夢見ていた。
それが本当に儚い夢でしかないことを知ったのは、卒業式も間近に迫ったある日のこと。久々に会った彼から、重い病のため、もう長くは生きられないだろうことを知らされた。
あまりにも受け入れられない現実を前にしたとき、人は何も考えられなくなるものらしい。頭の中が真っ白になり、何も言えないでいると、彼はさらにこう話した。
――これからはもう、会わない方がいい。自分のことは忘れてもらってかまわない。そうでないと、きっとつらい思いをさせてしまうから。
彼の言葉は正しいのかもしれない。これから先、何かしらの奇跡が起こって――なんてことを夢見てしまうのは、きっと甘い考えなのだろう。
それでも、杏にとって、彼はかけがえのない人だった。
戸惑う彼を説き伏せて、杏は彼と約束する。
――私は毎日あなたに会いに行く。だから、どうか一緒にいさせて欲しい。
その日から、杏が彼の元へと通う日々が始まった。
たとえ余命が告げられていたとしても、それは定められた命の期限というわけではない。病に苦しむ彼を支えるために、杏はできる限りのことをすると決めた。
いつか訪れるそのときを覚悟しながらも、時を惜しむように彼と過ごした毎日。つらいことがなかったと言えば嘘になるが、その日々を苦にしたことなど一度もない。
時は経ち、告げられた期限はとうに過ぎていたが、それでも彼はどうにか命をつないでいた。とはいえ、奇跡が起こることはなく、彼の病は進行し、苦しみをなるべく減らすための医療へと移行する。
彼のことを誰かに打ち明けようと思ったことはない。高校のときからの友人にも、大学での新しい友人にも、誰にも。さすがにお互いの家族くらいは事情を察していただろうけれども、その程度だ。
これは、ふたりだけの秘密の約束――そう思っていた、はずだった。
ある日のこと。所属していたサークルの部室にいたとき、何気ない会話の中で、なぜか彼のことを話してしまった。
どうして話してしまったかはわからない。話すつもりなどなかったし、話したこと自体は覚えているのに、どういう流れでそうなってしまったのか――その記憶はおぼろげだ。
それでも親しい友人たちが相手なら、こんな思いをすることなどなかっただろう。なかったはずだ。
しかし、そのときはそうではなかった。
今となっては、話した相手が誰なのか、どうしても思い出すことができないのだが、そのとき耳にした言葉だけは、今でもはっきりと覚えている。
「それは大変だね。かわいそうに。あなたもつらいでしょう? だから、その人には早く死んでもらわないとね」
とっさに、その言葉の意味を理解することができなかった。
何の反応も返せずにいると、相手は哀れむような声で、こう続ける。
「だって、そうでしょう? その人には未来なんかないんだから。そんなことに、いつまでもつき合っていられないもの」
発言の意図がわかった途端、杏は怒りをあらわにした。あんなに声を荒げたのは、生まれて初めてのことだったと思う。
そのとき相手が、どんな表情をしていたのか――驚いていたのか、それとも後悔していた風だったのか――なぜか全く思い出せない。まるで厚い雲がかかったかのように、そのときの記憶はやはりおぼろげだ。
残っているのは、心無いその言葉と、もやもやとした苛立ちの感情だけ。
その場にいられなくなった杏は、飛び出すように部室を出て行った。それ以来、あの場所には近づいてもいない。
それでも、しばらくはその言葉を思い出すたびに、怒りと悲しみで感情がひどく乱れた。思い出したくはないのに、ふとしたときに、どうしても思い出してしまう。
――その人には早く死んでもらわないとね。
闇の向こうから聞こえてくる声は、ぼんやりとしていて誰のものかも判然としない。しかし、その声は、記憶がおぼろげになるにつれて、徐々に別の声へと変化していった。
それは、もっとも身近な者の声。すなわち、杏自身の声へと――
いつものように病院の廊下を歩いていた。
受付や診察室の辺りには人の姿も多いのだが、階が違えばその喧騒からも遠ざかる。そうして、階を上がっていくにつれて、周囲は気だるいような、息を潜めるような、そんな静けさで満ちていく。
杏が向かう病棟には、重い病気の人たちのための病室が並んでいるからだろう。あるいは、杏がそのことを知っているからこそ、そう感じるだけかもしれないが。
目的の部屋に着くまでは、じっとリノリウムの床を見つめていた。周辺をまじまじと見るのは、何となくはばかられたからだ。きつい消毒薬の匂いが漂っているが、それにはすっかり慣れてしまっている。
病室の扉を開けて部屋の中をのぞき込むと、寝台を隠すカーテンが風でかすかに揺れているのが目に入った。垂れ下がった白い布には、
声をかけてから、カーテンの向こう側をそっとのぞき込む。管がつながれた彼の顔が、ゆっくりとこちらへ振り向いた。
そこに見えた死の影に思わず息を飲みそうになるが、杏はどうにかそれを押し殺す。
枕元に座って、明るく彼に話しかけた。いつものように。しかし、うなずいてくれるその顔には明らかな衰えが見えて、意識をしなければ目を逸らしてしまいそうになる。
生きている人が横たわっていても、よく見れば息をしていることがわかるし、その姿に死を見出すこともない。あるいは、かつて葬式で見た祖母の亡骸には当然生気はなかったのだが、それはしんとして穏やかなものだった。
しかし、死の淵にある人の気配というものは、そのどちらとも違う。深い穴に引きずり込まれるような、そんな重い空気をまとっている。
彼の姿を前にして、ふと頭の中に像を結んだ光景に、杏は思わず顔をしかめた。
有名なのは、
それが京都にある
その、朽ちていく屍の絵が、彼の姿に重なった。
管がつながれた彼の腕は、目を背けたくなるほど細く弱々しい。それを目にするたびに、杏は声を上げて叫び出してしまいそうになる。そんなことを思うようになったのは、いつからだろう。
――彼は、まだここに生きている。
彼の元に通い始めた頃、その事実は、それだけで杏にとっての希望だった。しかし、その思いは少しずつ形を変え、ねじれて、今では別の感情へと歪んでしまっている。
――彼は、まだここに生きている。かろうじて。
彼と会うたびに、そう思った。しかし、これではまるで、死んでないことを確かめに来ているみたいではないか。
そんなことを考えているとき、杏はふいに、あの言葉を思い出す。
――その人には早く死んでもらわないとね。
あのとき怒りをあらわにしたのは、それが見当違いの指摘だったからではないのかもしれない――と杏は思い始めていた。あの言葉はむしろ、自分の中にある小さな不安を言い当てていた。だからこそ、あんなにも苛立ちを覚えたのではないだろうか。
九相図に描かれた野ざらしの屍は、腐敗し、獣に食われて、最後には骨となり野に帰っていく。それで終わりだ。
自分はただ、その様を見届けるためにここに通っているのかもしれない。彼と顔を合わせると、杏はどうしても、そんなことを考えてしまう。
九相図に描かれた有名な人物にはもうひとり、
小野小町は『
有名な
小野小町に思いを寄せる
杏もまた、いつ切れるのか分からないような弱々しい糸を頼りに、ずっとこの険しい道を歩いていた。しかし、そうして彼の元に通い続ける毎日の先にあるのは、彼の死だけ。それ以外にはない。
ならば、いっそ早く切れてしまえ、などと考えてしまうのは、彼の死を願うことに他ならないだろう。そんな心の揺らぎを、自分ではどうにもできなくなっていた。
――私はいつまで、こんな日々を過ごせばいいのだろう。
ふと浮かんだ疑問の言葉。これは、あのときの言葉と、どれほどの違いがあるというのか。
ふたりの行く末にこんな運命が待ち受けていると知っていたなら、あのとき約束を交わすこともなかったのだろうか。それでも、始めてしまったからには、物語が終わるまで、きっとそこから逃れられはしない。
だとすれば自分もまた、約束の日までには、この道を踏み外してしまうのだろう。
そうして、自分が今まで歩んで来た道をぼんやりと思い返していると、ふと――そういえば、と杏はここに訪れる前に会った人のことを思い出した。
友人の妹を名乗る人物。顔立ちが似ていたから、おそらく嘘ではないだろうとは思う。
その友人が、行方不明になっていることは知っていた。しかし、今の杏に彼女を思いやる余裕などない。
友人たちとの日常は遠い過去へと追いやられて、今はただ、あの恐ろしい声が、言葉が、闇の向こうから、ふいに聞こえてこないことを願っている。
――その人には早く死んでもらわないとね。
誰かが、確かにそう言った。
でも、あれはいったい――
誰の声だったのだろうか。
* * *
病院の前で、花梨は杏が現れるのを待っていた。
杏と初めて会った、次の日の同じ時間。入院患者との面会の時間は限られているようなので、おそらく昨日と似たような時間に姿を現すだろう――と当たりをつけてのことだった。
杏が病室へ向かったことを確認した上で、今度は出て来たところを呼び止めるつもりだ。早く話ができるに越したことはないが、できることなら、お見舞いの邪魔をしたくはない。
そんなことを考えていると、思っていたとおりに杏は姿を現した。しかし、見るからに様子がおかしい。
彼女の周囲にある空気が、妙に重たい気がする。不安を感じた花梨が思わず声をかけてしまいそうになったほどだ。
花梨は代わりに黒曜石へ呼びかけた。しかし、彼には翡翠が言っていたような暗雲は見えないらしい。たとえ彼女に何らかの異変があったのだとしても、それは本当にかすかなものなのだろう。
花梨は意を決して、杏の後を追うことにした。
前を歩く彼女の後ろを気づかれないようについて行く。病室に入って行くのを見届けて、その場でそっと聞き耳を立てた。
花梨は誰かに見咎められはしないかと、気が気ではない。そのうち昨日の椿を思い出して、ここまで来ればこそこそするのも杏に悪いかと思い直し、花梨は目の前の扉を軽くノックした。
返事はない。いや――かすかに音がした気がする。
迷ったのは一瞬のこと。嫌な予感に動かされて、花梨は目の前の扉を開けた。思い切って室内に足を踏み入れて、垂れ下がるカーテンの向こう側をのぞき込む。
驚いた表情の杏と目が合った。
彼女の傍らにある寝台にはそこかしこに管がつなげられた人が横たわっていて、枕元にいる杏のことをじっと見つめている。花梨から見えていたのは横顔だけだが、それだけでもひどく痩せていることがわかった。
不自然な格好で固まっている杏の伸ばされた手の先にあったものは、その彼と管でつながれている何かの機械。
「宝坂さん。いったい、何を――」
花梨がそう声をかけると、杏は弾かれたように後ずさる。寝台の上の人は起き上がることなく、目だけで彼女の姿を追っていた。
花梨は杏が手を伸ばしていた機械をちらりと見やる。病人であるその人につながれているのなら、これはおそらく、何かしら生命の維持に必要なものなのだろう。杏はいったい、何をしようとしていたのか――
花梨には確信があったわけではなかったのだが、杏は自分の行動を見咎められたとでも思ったのか、突然こんなことを言い出した。
「彼が死んだら、私も死ぬわ」
花梨は驚きのあまりぽかんと口を開けて、彼女のことを見返した。しかし、すぐに気を取り直して、どうにかこう口にする。
「落ち着いてください。宝坂さん。どうして、突然そんなことを……」
なだめようとする花梨の言葉を、杏の叫びがさえぎった。
「もう嫌なの! こんな風に不安になるのは。誰かが言ったの。私のことを、かわいそうに、って。その言葉を振り払えない。このままだと、私は本当に、彼のことを」
そこまで言って、杏はその先の言葉を飲み込んだ。歪んだ表情には彼女の苦しみが見えて、事情はわからないながらも、花梨は何も言えなくなる。
そうしているうちにも、杏は頭を抱えてこう続けた。
「こんな気持ちにはなりたくないのに。どうしても考えてしまう。どうしても願ってしまう」
戸惑うばかりの花梨の視線に追い詰められていくかのように、杏はじりじりと窓辺へと逃れていく。あるいは、彼女が恐れているのは、寝台に横たわる彼の視線の方かもしれない。
やがて窓枠に背をぶつけた杏は、はっとして振り返ると、そこから見える青空へじっと目を向けた。
「そうだ。だったら、私が先に死ねばいい。それなら」
その言葉に、花梨はぎょっとする。まさか、飛び降りるつもりだろうか。ここは五階だ。そんなことをすれば、無事ではすまない。
ひやりとしつつも、花梨は杏の元へとかけ寄った。しかし、杏が手をかけた窓枠はがたがたと音を立てるばかりで、どうやら人が通れるほどには開かないらしい。そのことに気づいた杏は、絶望に打ちひしがれたように大きく肩を落とす。
そのとき、ふいに病室の扉が開いた。カーテンを押しのけて、この場に現れたのは――
「……椿ちゃん?」
椿は無表情で周囲を見回すと、花梨はもちろん、へたりこんだ杏にすら目もくれず、寝台の枕元へと真っ直ぐに歩み寄る。そして、横たわる彼に向かって、ひとつの石を差し出した。
灰色のごつごつした石だ。しかし、よく見ると、その灰色に囲まれた割れ目のような隙間には、別の何かが――内から不可思議な輝きを放つ透明な何かが満たされている。この石は――
「ここにある石は、記憶を消す力を持っている」
椿は石を示しながら、そう言った。
「あなたさえいいと言うのなら、彼女の記憶を消しましょう。あなたに関わることは全て」
椿は寝台に横たわる彼に向かって、そう話す。その人は悲しげにじっと杏のことを見ていたが、ゆるりと首を回すと、差し出された石とそれを持つ椿のことを見返した。
「あなたが決めるの。記憶を消すか。消さないか。さあ、決めて!」
椿はそう詰め寄った。しかし――
消してしまっても、いいのだろうか。杏が持つ、彼に関する全ての記憶を。
確かに杏は苦しんでいるのだろう。それが、ここにいる彼に由来することは明らかだ。それでも、彼の元に毎日通うくらいなのだから、その記憶の中にはきっと、杏にとって大切な思い出がたくさんあったはず――
そうでなくとも、彼にそれを決めさせるのは、やはり残酷だ。
花梨は椿を止めようと、口を開きかけた。しかし、それより先に、か細くかすかな声が病室の空気を震わせる。
「彼女が……」
かすれて、声にもならないような声だ。これは、死の淵に立つ人の声――
誰もが思わず息を潜め、その声が発する次の言葉を待った。
声はこう続ける。
「彼女の苦しみが、それで終わるなら……」
寝台から起き上がることもできないらしい彼は、悲しげな顔で杏の方を見つめている。しかし、たとえ弱々しくとも、その言葉に迷いは感じられなかった。
椿はこう呼びかける。
「
その声に応じて現れたのは、どこか儚げな印象の青年だった。
茫然としている杏に向かって、蛋白石はそっと右手をかざす。その途端、杏は眠るように目を閉じた。花梨は慌てて抱き起こしたが、どうやら気を失っているだけらしい。
蛋白石はそれを見届けると、椿の方を振り向いた。
「これで、いいのかな? 椿」
「そう。これでいいの」
そう言って、椿は迷いなくうなずく。蛋白石は少しだけ苦笑のようなものを浮かべると、さとすようにこう言った。
「けれどもね、椿。ひとつだけ言っておこう。私の力は、君が先ほど彼に伝えたものとは、少し違う。私は記憶を消すのではない。私は君たちから、ただ記憶を受け取るだけ」
蛋白石はそう言うと、自身の本体――椿が手にしている石を、寝台の彼に示した。
「安心するといい。あったことを取り消すことはできない。なかったことにはならない。美しい思い出の欠片は、今も私の中で輝いている」
その石の内側では、確かに赤や緑や青や黄色――さまざまな色彩の光が、燃えるように煌めいている。その虹色の閃きを瞳に映して、寝台の上の彼は静かに目を閉じた。
「蛋白石。英語名はオパール。非晶質のため厳密には鉱物の定義に当てはまらないのですが、ほぼ鉱物として扱われている石です。二酸化ケイ素の球が重なったような構造をしていて、透明なものから不透明なものまで、さまざまな色のものがあります」
いつものように、座敷で槐の話を聞いていた。部屋の隅では素知らぬ顔をした椿が本を読んでいて、座卓の上には彼女が病室まで持って来ていた石――蛋白石がある。
「蛋白石には
目の前にある蛋白石は、表面こそ、そのほとんどを灰色の岩石に覆われているが、内側には、角度によって赤や緑や青や黄色に変わる不思議な光が輝いているのが見える。だとすれば、ここにある蛋白石はプレシャスオパールに分類されるのだろう。
蛋白石についての話を聞いた後、花梨は今回の経緯を槐に話した。翡翠が感じた妙な気配についても伝わってはいたようだが、それについては漠然としすぎていて、槐には何とも判断がつかないらしい。
話を終えた後、店に去るときになって、花梨はずっと気になっていたことを椿にたずねた。
「どうして、椿ちゃんは蛋白石さんを?」
狙い澄ましたようにあの病室に現れていたので、気にはなっていた。椿がこのことに関わる理由はない。そうでなくとも、椿にはなぜ蛋白石の力が必要になることがわかったのだろう。
椿の方もそれをたずねられるだろうことは覚悟していたのか、花梨をじっと見返すと、ため息をついてから、こう答えた。
「毎日通ってるって言ってたでしょう? それで、ちょっと前に読んだ本を思い出して」
そう前置きをしてから、椿はこう話し出す。
「言い寄って来る相手をかわすために、百夜通って来るよう吹っかける話。知ってる?」
「小野小町の百夜通いのこと?」
花梨はそう返したが、椿は首を横に振った。
「違う。私が読んだのは、たぶん民話か何かで、男女が逆。対岸に火を灯すから、百夜続けて海だか湖だかを
なぜ盥なのだろう。と花梨は思ったが、今は指摘しないことにした。
椿はこう続ける。
「でもね、その男は、本当に毎晩暗い水面を渡ってくるなんて気味が悪いって、途中で火を消してしまうの。それで、女は溺れて死んでしまう。ひどいと思わない?」
椿は心底憤っているように、そう言った。そして、花梨からは目を逸らしながらも、ぽつりとこう呟く。
「だから、本当にその人のことを思っていたなら、始めから火を灯してはいけなかったの。そうでしょう?」
その声がほんの少し悲しげに聞こえて、花梨は思わず椿の手を取った。椿はけげんな顔をして振り向いたが、その手を振りほどくことはない。
記憶を消すという選択を彼に示したこと、椿にも迷いやためらいがなかったわけではないだろう。その結末についても、責任を感じているのではないか、と花梨は思っていた。
しかし、椿はあくまでも平然とした顔をしている。
花梨のことを見返しながら、椿はふいに、こうたずねた。
「どうしたの? そんな怖い顔をして」
花梨はその言葉にはっとして、ようやく自分が顔をしかめていたことに気づく。
杏が言っていた、彼女に不安を与えた誰か。そのことを、花梨はずっと考えていた。
誰か、と言うからには、それが漠然とした何かを指しているとは思えない。杏があそこまで不安定になったのには、おそらく何かしらの理由があったはず。それは、誰かの悪意なのか。それとも。
花梨は杏たちのことを思い出しながら、その考えを口にした。
「彼が火を消したわけじゃない。宝坂さんが約束を破ったわけでもない。あのふたりには、もっと違う結末があったかもしれないのに。けれども、誰かが彼女を不安に陥れた」
もしも、そうだとしたなら――
「誰かが……」
花梨はそのとき生まれた感情を自分でも持て余しながら、茫然とそう呟いた。
病院の前で、花梨は杏が現れるのを待っていた。いつかのときと同じように。
しかし、このとき先に声をかけたのは、花梨ではなく杏の方だった。
「こんにちは。ごめんね。待たせちゃったかな」
そこにある杏の明るい笑みを見て、花梨は思わず目をしばたたかせた。初めて会ったときとは別人――とまでは言えないが、それでも受ける印象が全く違ったからだ。
花梨はその戸惑いをどうにか振り払うと、杏に向かってこう答えた。
「いいえ。こちらも来たばかりです」
「そう。よかった。この間はありがとう。私、どうして倒れたのか、全然覚えてなくて。前の日には、あんなにひどいことを言っていたのに……あのときは、本当にごめんなさい」
病室でのことは、道端で気を失っていた杏を花梨が助けたということになっている。そのことについてお礼がしたいと、あらためて会う約束をしたのが、この日だった。
「それじゃあ、案内するね。近くに素敵なお店があるの。そこで食べられる焼き立てのパンが、とってもおいしいのよ」
そうして連れられたのは、店内で飲食することもできる、かわいらしい内装の小さなパン屋だった。
杏は花梨にこう話す。
「エリカのことを、ちゃんと話したかったのだけれど、エリカがいなくなっちゃったときは、私も大変な時期で……何があったか、あまりよく知らないの」
杏はそう言ってため息をついた。
「自分でもよくわからないことで不安になったり、この前みたいに、調子が悪いときには人に当たったりもして」
申し訳なさそうではあるが、その話し声には、あのときの不安定さはない。これが本来の彼女だったのだろうか、と思うと、花梨はどうにも複雑な気持ちになった。
花梨が何も言えないでいると、そのことを心配したのか、杏は慌ててこう続ける。
「私の話ばかりで、ごめんね。今はもう、全然大丈夫なの。大丈夫になっているつもりなだけかもしれないけど……少し前のこととか、記憶がおぼろげなところもあって。でも、今なら調子もいいみたいから、知りたいこと、私にわかることなら何でも答えるよ」
杏はそう言って、今度は快く、花梨に姉のことや調べていることについて、協力することを申し出てくれた。
しかし、花梨はあえて彼女にこうたずねる。
「あの……宝坂さんは、この辺りには、よく?」
杏はその問いかけに、しばしきょとんとしていたが、小首をかしげながらも、こう答えた。
「そう、だね。大学を退学して家にいるばかりだったから、元気を出さないとって思って。よく散歩に出ていたの。この店を見つけのも、そのときに」
彼女はそう言って、店内を見回した。
「せっかくだから、何か楽しいことを見つけようと思って。そうして意識して街を歩いていると、季節や街の変化にすぐに気づくことができるから。そのたびに、何だか新しい気持ちになって、少しだけ気持ちが前向きになるの。でもね――」
何かを思い出している風だった杏の表情が、ふいに陰りを見せた。その声には、ほんの少しだけ不安がにじみ出ている。
「どうして、この辺りばかり歩いていたのかは、よく思い出せなくて……家からも遠いのに。ただ、そうして見つけた楽しいことを、誰かに話そうと思っていたような気がする。でも、それが誰だったかが、わからなくて」
宙に投げられた彼女の視線は、どこか遠くを見つめているかのように、ここにはない何かを探し求めている。
「どうしても、思い出せないの。大事なことだった気がするのに……」
寂しげな表情を浮かべながら、彼女はぽつりとそう呟いた。
* * *
実家である寺の敷地の外れには、長年空木が謎に思っている家屋が存在していた。
謎といっても、その家屋に入ったこともないとか、そういうことではない。空木は何度となくそこを訪れたことがあるし、それどころか、たびたび掃除をさせられていた。
だから、空木はその家屋のことはよく知っている。そうなると、それ自体はもはや謎でも何でもない。
わからないのは、なぜそんなところに家屋が建っているのか、ということだ。
木造平屋の、かなり古いが至って普通の民家だった。電気水道その他生活に必要な設備は全てそろっており、いくらかの生活用品や食料まで備蓄されている。しかし、空木が知る限り、その家屋に人が住んでいた――あるいは、誰かを泊めた――ことはない。
だから空木はこの家屋を掃除するたびに、なぜこんなことをしなければならないのだろう、と常々疑問を抱いていた。とはいえ、家など使わなければ悪くなるものだろうし、維持するつもりならば、掃除くらいはしておかなければならないだろう。
そもそも、本当にその理由を知りたいのであれば、親にでもたずねればよかったのだと思う。しかし、空木はそうしなかった。単にそこまで本気で気にしていたわけでもなかったからだ。そうでなくとも、どう見てもただの家屋でしかないのだから、聞いたところで特別ないわれなどありはしないだろう。
おそらくは、宿坊のようなものだろうとは思う。宿坊と呼ぶほど、大それたものではないのだが。
ともかく、そうしてそこにある家屋には、今はひとりの女性が住んでいた。自らを呪われていると話す女性が。
鷹山エリカをそこに住まわせた当初、彼女の生活をあれこれ世話したのは、主に空木と母だった。問題が起こったのは、そんな生活を始めてしばらく経った頃のことだ。
歩道に突っ込んで来た車にぶつかって、空木は腕を骨折した。
全治二か月。原因は相手の不注意という話だ。車の運転手は当初、視界が急に暗くなった、などと主張していたらしいが、そのときの空木は、居眠りか酔っ払いの妄言だろうと思っていた。
今にして思えば、あれも何かの異変だったのかもしれないが――とにかく、問題になったのはエリカの反応だ。
ただでさえ神経質になっているだろう彼女に事故のことを伝えればどうなるか。とはいえ、腕の骨折など隠しきれるものではない。
案の定、エリカはその事故を自身の呪いのせいだと考えた。
出て行こうとするエリカを必死に止めたのは空木だ。説得によってその場はひとまず落ち着いたが、今度は母が何らかの病で寝込むことになる。
細菌性の肺炎だ。別に原因不明の病ではないので、ちゃんと治療さえすれば大事ないとのことだった。とはいえ、それがわかるまでは、空木も少々ひやりとしたのだが。
実際のところ、立て続けに起こる不幸をエリカと全く関連づけて考えなかったか、と言えば嘘になる。とはいえ、呪いだの何だのという前提がなければ、これらは単に、近頃運が悪いな、くらいで済ませられるようなことではあるだろう。
それでも、母の入院が決まったときには、少しだけ気弱になったこともあって、空木はそのときうっかり、呪い、という言葉を口にしてしまった。
空木の家では、その手の言葉は禁句として扱われている。なぜなら、もしも兄の耳に入れば相当面倒なことになると、誰もが重々承知していたからだ。
兄は呪いの存在など露ほども信じていない。いや、認めていない、といった方が正しいか。
ともかく、その単語をちゃっかり耳にしてしまった兄は、空木のことを思う存分罵ると、その足で例の家屋へと乗り込んだ――もとい、訪ねに行ってしまった。
か弱い女性を相手に、まさか追い出したりしないだろうな、と空木は恐々としていたが、意外なことに、兄はエリカと話をつけてきたらしい。母の病についても知らせたらしいが、取り乱すこともなかったと言う。
いったい何を話したのか。気になってエリカにたずねてみたところ、要はいつものとおりに、呪いなど存在しない、ということを延々と説教――というほど厳しくはないだろうが――したらしい。恐ろしい男だ。それが真実であれ気のせいであれ、呪いに悩んでいる相手にすることではないと思うのだが、エリカの場合は、思いがけずそれが功を奏したようだ。
おそらくは、兄くらい頑迷な者に、呪いなどない、と言い切られてしまうと、むしろ安心するものなのだろう。兄の面倒くさい部分が初めて役に立ったらしいことに、空木は妙に感心した。
そうして、兄はたびたびエリカの元を訪れるようになったが、その兄は現在に至るまで病気や事故に煩わされたことはない。兄は身をもって、呪いなどない、ということを示したことになる。とはいえ、式の話を信じるなら、兄にはそういったことには、そもそも耐性があるらしいのだが。
兄の説教だか説法だかにつき合わされることになったエリカには同情するが、空木相手には厳しい兄も、それ以外の人には別人かと思うほど外面がいいから、おそらく怖がらせるようなことはしていないだろう。
どのような形であれ、心を安らかに保つことはよいことだ、と式は言う。不安定であると、悪いことを引き寄せることになるから、とも。
それが正しいかどうかは別にして、それなりに納得できる理屈ではある。悪いことというのは、なぜか続けて起こるものだ。
とはいえ、そうして平穏だからといって、それでエリカの呪いが消え去るわけでもないようだが。
今の空木の目には、エリカがいるだろう方向に、あるはずのない木の姿が見えていた。車骨鉱のときは歯車が見えていたことを思えば、要するに、あれが木の呪いなのだろう。
――今のところ、変化なし、か。
槐からは、その木に何かあればすぐに知らせて欲しいと頼まれている。変化がなければ、今しばらくは問題ないだろう、とも。
そんなわけで、境内の掃除をしながらその木をながめていた空木は、そちらの方から誰かがやって来ることに気づいて、すぐさま背筋を伸ばした。
現れたのは、空木の兄だ。
それ以外に特徴を挙げるとするなら、頭に毛がないことくらいだろうか。坊主なのだから、当たり前なのだが。
兄はどことなく不機嫌そうだった。とはいえ、空木と話すときの兄は大抵こんな顔つきではある。どうも、弟が相手なら、そうしたことを取り繕う必要もないと思っているらしい。
だから空木は気にすることなく、いつものように軽い調子で声をかけた。
「エリカさん、どうだった?」
別に変なことをたずねたつもりはないのだが、兄には思い切り顔をしかめられてしまった。しかも、何のひとことも発することなく、そのまま空木の目の前を通り過ぎてしまう。
空木は慌てて呼び止めた。
「待った。エリカさんに何かあったなら知らせてくれないと。もし――」
呪いが悪化しているならば――悪化するなんてことがあるかは知らないが――槐に知らせなければならない。
そんな心中を読み取ったわけでもないだろうが、兄は途端に怖い顔すると、空木のことをにらみつけた。
「どうして、おまえにそんなことを知らせなければならない?」
「どうしてって――俺が彼女を保護したんだから、気にして当然だろ」
「まさか、また妙な連中に関わらせようと画策してるんじゃないだろうな」
兄が言う妙な連中とは、巷にいる霊能者だとかそういう人たちのことを指す。空木は兄ほど呪いを頭から否定しているわけではないから、そうした者たちに頼ることを考えたこともあった。
とはいえ、調べれば調べるほど、うさんくさく思えてしまったので、結局のところ、それについては早々に断念しているのだが。そうして漠然と呪いにくわしい人物を探していたところ、見つけたのが槐の店だ。
ともかく、エリカのことについては空木もいろいろと手をつくしているわけだから、否定するばかりの兄にどうこう言われる筋合いはない。空木は思わず不満を口にした。
「妙な連中ってなあ。呪いなんてないって兄貴のスタンスは知ってるよ。だけど、エリカさん自身はそう主張してるだろ。だとしたら、しかるべき人に――まあ、霊能者とかじゃなく、たとえば、心療系――の医者――だとかに診てもらった方がいいって考えはおかしくないと思うんだが。みんな、兄貴みたいに強靭な心を持っているわけじゃないんだから」
嘘も方便。兄相手には、こう言っておいた方が無難だろう。少なくとも今のところは。
案の定、兄は何かを考え込むように黙り込んだ。空木はここぞとばかりに言いつのる。
「ここにいるのはエリカさん本人の意志だけどさ。ご家族だって心配しているだろうし。できることなら、何かしてあげたいじゃないか。俺だって、エリカさんのことについては、いろいろと考えているんだからな。この前も――ほら、桜もちを差し入れたり……」
偉そうなことを言っているわりには、やっていることがしょぼい。とはいえ、今のところ呪いについては槐に任せきりの状況ではあるから、仕方がないだろう。
ともかく、それは何気ないひとことだったのだが、思いがけず兄の表情が変わった。空木がいぶかしく思っていると、そのことに気づいたのか、兄は自分に言い聞かせるように、こう返す。
「おそらく……大したことじゃない。彼女も少し――疲れているだけだろう」
兄はそう言って目を逸らした。そんな調子では、言葉どおりに受け取れ、という方に無理がある。
――本当に、何かあったのか?
ふいに浮かび上がってきた不安に思わず顔をしかめながらも、空木は式の見せる幻の木を見上げていた。
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