番外編 分光石

 突然の休講で時間を持て余してしまった茴香は、ひとまずとある場所へと向かっていた。

 暇ができたときなど、他に用がなければ向かうところは大抵決まっている。それはおそらく他の学生たちも同じで、特に示し合わせたわけでもないのに自然と知り合いが集まる場所があった。茴香はサークルや部には所属していないので、思いがけず空いた時間などにはそこで過ごすことも多い。

 茴香が目指していたのは、食堂の隅にある一画だ。案の定、友人たちはその日もそこで何やらこそこそ話をしていた。

 しかし、友人のひとりが茴香のことに気づいた途端、その話し声は止まってしまう。かと思えば、振り向いた皆がじっとこちらを見つめてくるものだから、茴香は思わずぎょっとした。

「え? 何? もしかして、あたしの悪口とか言ってた?」

 本気でそう思ったわけでもないが、そんな心配が頭をかすめる程度には妙な空気だ。しかし、その心配はすぐさま否定される。

「違う違う。でも、こういう話、茴香は嫌がるかな、と思って」

 首を横に振ってそう答えたひとりに、ほとんどの友人たちが同調した。しかし、そのうちのひとりだけは、困ったような顔でため息をついている。

 事情のわからない茴香は、思わずこうたずねていた。

「まさか、また花梨のこと?」

 しかし、友人たちは、それも違う、と否定する。とっさに嘘をついたわけでもなさそうだ。

 今となっては――少なくとも茴香の周囲では――花梨に関する噂を広める者はいなくなっていた。茴香がそのことをよく思っていなかったことも理由のひとつではあるだろうが、おそらく単純に飽きたのだと思う。中には、根拠のない噂話に花を咲かせていたことを、今になって決まりが悪いと思っている者もいるようだ。

 ともかく、花梨のことでもないならば、いったい何の話をしていたのだろう。それ以外に、自分が嫌がるような話など、茴香はとっさには思い浮かばない。

 空いた席に座りながら、かまわないから話してよ、とうながすと、友人はあっさりとこう言った。

「それがねえ。下宿先の近くで、あやしい光を見たって話で……」

「あやしい光?」

 その言葉にため息をついたのは、先ほどもひとりだけ困った顔をしていた友人だ。彼女の下宿先は確か――

「京都の市内とも思えないような、辺鄙なところだっけ。そこで見たの?」

「辺鄙って言わないでよ」

 大学には実家から通っている者もいれば、遠方から出てきて京都に下宿している者もいる。彼女の場合は後者で、その上お金の問題だか知り合いの伝手だか知らないが、なぜか大学から遠いところに下宿していた。毎日、自転車でかよっているそうだ。

 京都といっても、市内に限ってもけっこう広いし、端の方は思いのほか田舎だったりする――ということを、茴香は彼女の下宿先へ遊びに行ったときに初めて実感した。そこは静かな町外れで、近くに木々の生い茂る山があるからか、妙に暗いところだった。別にあやしいとまでは思わなかったけれども。

 そこで見たあやしい光というのは、こんな話だ。

 何でも、彼女の下宿の近くには、明治だか大正時代だかに建てられたような、古そうな洋館があるらしい。本当にその時代に建てられたかどうかは、わからないが。

 ともかく立派な建物で、周辺は木立に囲われている。しかし、人が住んでいる気配はないようだ。かと言って、荒れていたり、売りに出されている風でもないから、もしかしたら別荘かもしれない、とのこと。

 その洋館の周辺で、いくつかの光がうろうろと飛び交っているのを見たそうだ。それだけなら、たとえば明かりを持った誰かがそこにいただとか、そういう状況もあり得ると思うのだが、それだけでなく、木立から大きな青白い光が空へ昇っていくのを見たのだと言う。

 アルバイトで思いがけず遅くなったときのことで、時刻は深夜近く。それ以来、同じような光は見ていないとのことだが、どうにも気になって仕方がないらしい。とはいえ、あらためて確かめに行くのも怖いようで――

 ともかく、それが本当の話なら確かに奇妙な状況ではあるだろう。光の正体も気になるところだ。

 そんなことを考えていると、皆がそろって茴香の反応をうかがっていることに気づいた。どうやら、花梨の噂を否定していたことで、そういったことについても否定的だと思われているらしい。

 怒り出すか、馬鹿にするとでも思ったのだろうか。心外だ。いつだったか、あやしい音に悩む知り合いのために、茴香はその正体を調べようとしたこともあるというのに。

 そう思って、茴香はひとまずこう言った。

「別にあたしは、そういう話自体を否定してるわけじゃないし」

 かといって、そういう話を好んでいるわけでもないが。以前の茴香なら、そんな話を聞いたところで、不思議だね、くらいで終わらせていただろう。

 しかし、幸か不幸か、今の茴香にはそういうことについて、頼ることができる場所がある。

 そこでなら、もしかしたら、その光の正体がわかるかもしれない。そんな期待から、茴香は自分でも思いがけずに、こんなことを口にしていた。

「あやしい光、ね。よし。その正体、あたしが突き止めてあげる」

 呆気にとられている友人たちの視線を受け止めながら、茴香は意気揚々と立ち上がった。




「あやしい光、ですか……」

 そう呟いてから、その人はしばし無言で考え込んだ。

 茴香が向かったのは、花梨を通じて知ることになった不思議な石の店。今では、そこは花梨のアルバイト先でもある。その座敷で、茴香は店主の槐と相対していた。

 花梨にも声をかけたのだが、都合がつかなかったので、今日は茴香ひとりで訪れている。それについては、むしろその方がよかったと茴香は思っていた。あやしい光のことは茴香が引き受けたことであって、花梨を巻き込むのは気が引けたからだ。

 友人が見たというあやしい光については、ひと通りの事情を槐に話し終えている。とはいえ、茴香もそれを直接見たわけではないので、どれだけ正確に伝えられたか、わからないのだが。

 そうして、桜という名のどう見ても人にしか見えない石の人が、茴香にお茶を差し出してくれる頃には、槐はおもむろにこう話し始めた。

「いわゆる、怪火かいかのようなものでしょうか。各地でさまざまな名の怪火が伝承されていますが、京都近辺に限るなら、比叡山ひえいざん逢火おうび壬生みぶ叢原火そうげんび……あるいは広く狐火、鬼火などとも呼ばれますね」

 思いがけずいろいろな名が出てきて、茴香は思わず混乱した。しかし、少なくとも今挙げられた地名は友人の下宿先付近ではない。

 ともかく、あやしい光というものは、昔からよく――かどうかはわからないが――あることらしい。

「その怪火の正体って何なんでしょう?」

 茴香の問いかけに、槐はこう答える。

「単に不思議な発光現象として語られる場合もありますが、たとえば叢原火については、壬生寺で油を盗んでいた僧が死後に罰としてさ迷っている姿だとされています。浮遊する光を死者の妄念や魂だと捉えたのでしょうね」

「妄念とか魂、ですか……」

 茴香は思わず戸惑った。

 友人が見た光も、それが正体だなんてことがあるだろうか。人気ひとけのない洋館に飛び交っていたというあやしい光や、夜空に浮かぶ青白い光が、途端に恐ろしいものであるかのように思えてくる。

 この件は、さわらぬ神に祟りなし――なのかもしれない。今のところ、不気味だということ以外に害はないのだから、調べても仕方がないような……

 茴香が難しい顔で考え込んでしまったからか、槐は苦笑いを浮かべながら、こう続けた。

「とはいえ、かつては不思議な現象だとされていたそれも、今では科学的に説明されている場合もありますよ。私はそういったことは不勉強なので、聞きかじりの知識で申し訳ないのですが――たとえば、海に現れるという不知火しらぬいは、漁火いさりびなどが特殊な大気の状態により屈折することで見える現象だそうです。他にも、雷などの影響で怪火のようなものが現れることがあるようですね」

 怨念との落差に、茴香は何だか拍子抜けしてしまった。とはいえ、友人が見た光が、それらと同じものかどうかは、まだわからないのだが。それでも、そう説明されてしまうと、よくわからないながらも納得してしまうのだから、おかしな話だ。

 槐はさらに、こう言った。

「そうした現象は条件がそろわないと見られませんから、同じ場所だからといって、また見られるとは限らないでしょう。ただ――音などもそうですが――光というものは、思いのほか遠くまで届いたり、思いがけない方向へ反射したりするものです。その怪火も、もしかしたらもっと単純な理由があるのかもしれません」

「だったら、やっぱりそのものを見てみないと、正体はわからないってことですね」

 あやしい光の正体を科学的に説明できたなら、友人の不安もなくなるだろう。怨念だの魂だのといった話はひとまず忘れることにして、茴香は一度その洋館に行ってみようかと思い始めていた。

 そのとき――

「茴香。もしも君がそれを調べるつもりなら、よければ俺もついて行こう」

 忽然と姿を現した金髪の青年に驚きながらも、茴香は思わずその名を呼んだ。

「黄鉄鉱」

「まあ、俺には火を出すくらいしかできないけどね。夜は危ないし、いないよりはましだろう」

 黄鉄鉱の申し出を受けて、茴香がちらりと視線を向けると、槐は無言でうなずき返した。彼が一緒にいてくれるなら、これほど心強いことはない。

「目には目を、火には火を、ってことだね。ありがとう」

「それは少し、違う気もするけれど……」

 そうして黄鉄鉱を借りることになった茴香は、石の部屋――石ばかりが並べてある変わった部屋だ――に案内してもらうことになった。

 黄鉄鉱には以前、茴香と共に奇妙な祭りの中へ迷い込んだときに助けてもらっている。当然、石としての姿も知っていたので、茴香はさっそく、金色で変わった形をした彼の姿を探した。

 見つけた、と思って近づいたところ、茴香は黄鉄鉱のとなりに、よく似た金色の石が並んでいることに気づく。

 その石は、黄鉄鉱と同じように、立方体がいろんな角度でくっついて固まったかのような、奇妙な形をしていた。黄鉄鉱はおそらくこちらだろう、と手を伸ばしつつも、もう一方のことが気になって、茴香はついそちらへと目を向けてしまう。

 そのことに気づいたのか、黄鉄鉱はこう言った。

「そちらは黄銅鉱おうどうこう。俺は鉄と硫黄だけど、彼にはそこに銅が混じっているんだ」

「黄銅鉱……」

 茴香は思わず呟いた。見た目だけでなく、名前まで似ているらしい。

「やあ、こんにちは」

 と話しかけてきたのは、おそらくその黄銅鉱だろう。人の姿を現してはいないので、茴香はその石に向かって、こう返した。

「こんにちは。見た目がそっくりだね。間違いそうになっちゃった」

「よく言われるよ」

 黄銅鉱の言葉にうなずきながらも、茴香は今度こそ黄鉄鉱の方を手に取る。

 そうして黄鉄鉱を手にした茴香は、その日の夜にはさっそく、町外れの洋館へと向かった。



 時刻は、友人があやしい光を見たときと同じ夜更け頃。木立の中に佇む洋館は、それだけであやしげな空気をまとっていた。

 洋館やその周囲に照明などの灯りは一切なく、人の気配も全く感じられない。付近の建物はほとんどが住宅らしく、辺りはしんとして静かだった。

 同じ時間、同じ場所だからといって、その光が見られるとは限らない、とはあらかじめ言われていたことではあるが――いざ、その場に立ってみて何もないことがわかると、やはり次にどうすればいいかを迷う。ひとまずは、しばらく様子を見るしかないだろうか。

 そんな風に考えて、茴香は洋館へと近づいて行った。とはいえ、さすがに敷地の中まで入り込むわけにもいかないだろう。周りを囲む鉄の柵には棘々しい装飾があって、普段なら何も思わないだろうけれども、今は妙に物々しく感じられた。

 そうして、柵越しに中をのぞき込みながら、外周に沿って歩いて行くと――

 洋館の影に、ふいにちらりと光が見えた。もっとよく見ようと茴香が門に寄りかかると、鉄のそれは、きい、と高い音を立てて開いてしまう。

 ぎょっとして後ずさったが、どうやら鍵がかかっていなかったようだ。あるいは、誰かに外されたのか。

 どうしようか。さすがにためらったが、ここまで来て光の正体を見逃してしまうのも惜しい。考えた末に、茴香は意を決して中に忍び込むことにした。

 気をつけて、と黄鉄鉱の声がする。

 広い庭を抜けて洋館の背後へ回って行くと、そこにはやはり、何かの光がうろうろと辺りを照らしているのが見えた。その正体は何だろう、と茴香は恐る恐る注視したのだが――

 深夜に飛び交うあやしい光。その光源を手にしていたのは、どう見ても人だった。

 懐中電灯を手にした男が、周囲に目を配りながら、時折小声で何かを呟いている。よく見ると、洋館の窓がひとつだけ開け放たれているのが見えた。

 ――もしかして、ただの泥棒?

 の由来は、油を盗んでいた僧が死後に罰としてさ迷っている姿、だっただろうか。友人の見たあやしい光の正体は――ある意味で――本当に妄念の光だったらしい。

 茴香は内心でため息をついた。決死の思いで乗り込んだ、その結末がこのオチだとは。とはいえ、青白い光の方は、まだその正体がわかっていないのだが――

「おい。そこに誰かいるのか?」

 突然声をかけられて、茴香は思わず飛び上がりそうになった。もしかして、見つかってしまっただろうか。そんなことを考えているうちにも、懐中電灯の光は茴香の姿を探しているかのように、すぐ近くをかすめていく。

 茴香は物影に隠れながら、そろそろと来た道を戻って行った。音を立てないよう慎重に。しかし。

 進もうとした方向にも光が見えた。そのことに気づいて、茴香は思わず立ち止まる。

 ――もしかして、挟まれている?

 思えば、男が何かを呟いていたのも、おそらくは他に誰かがいたからだろう。別の場所でも仲間が見張っていたのかもしれない。茴香は慌てて引き返した。

 どうしよう。見つかったら、どうなるか……

 盗みの現場を見られたことで、相手が素直に逃げてくれればいいのだが――茴香はひとりきりで、泥棒は何人いるかもわからない。うかつなことはしない方がいいだろう。

 茴香は周囲を見回した。洋館を取り巻く木立は、思いのほか広いらしい。暗がりに沈んでいてよく見えないが、四阿あずまやや人工の小さな池まである。

 そこでどうにかやり過ごせないだろうか。茴香は身を隠せそうなところを探し出すと、茂みの陰にしゃがみ込んだ。

 そうしているうちにも、どこからともなく人が集まって来る。しかし、なぜか茴香が逃げようとした方向から来る者はいなかった。

 あれ、と思ってよく見ると、そちらの方にガラス張りの小さな建物――温室だろうか――があることに気づく。どうやら、あのとき見た光は、単に他の光を反射していただけらしい。

 ふと槐の言葉を思い出す。光は思いがけない方向へ反射するもの――

 しまった、と思ったときにはもう遅く、いつの間にかぞろぞろと増えた人たちに取り囲まれていた。見えているだけでも四、五人はいる。

 彼らの多くは手に手に何かを持っていた。どうやら外にいたのは見張りで、残りは洋館の中へ忍び込んでいたらしい。金目の物を持ち出して、表へと出て来たのだろう。

 見張りの男が、誰かいた、としきりに主張している。そのせいで他の男たちも木立の方を注視しているものだから、茴香は出るに出られなくなってしまった。

 ――ばかだな。あたし。

 あの光が反射であることに気づいていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。怖いより何より、何だか情けなくて、茴香は涙が出そうになった。そのとき。

 ――にゃあ。

 と聞こえたのは、明らかに猫の鳴き声。茴香が発したわけではない。ベタな展開だが――いや、そもそも本当に猫がいるのだから、それとは違うのかもしれないが――とにかく、これであの男たちが勘違いしてくれるかもしれない。茴香はとっさに、そう期待したのだが……

 男のひとりは無言で耳を澄ませた後、こんな風にさわぎ始めた。

「この場面で、こんな声がして、本当に猫なことがあるか。やっぱり誰かいるんだろう。探せ!」

 逆効果だったようだ。とはいえ、そもそもの話。仮に茴香のことを見つけたとして、彼らはどうするつもりなのだろうか。用が済んだなら、素直に帰ればいいのに……

 茴香は段々と苛立ってきた。おかげで、沈んでいた気持ちは、だいぶ持ち直しはしたが。

 男たちは周囲に散って、茂みをかき分け始めている。茴香のことを探しているのだろう。

 もうダメか、と思って見つかることを覚悟していると、ふいに遠くの茂みが不自然に揺れ始めた。かと思えば、何か小さな影が飛び出して、木立の奥へと走り去って行く。

 猫、だろうか。

 見えたのは頭から上の部分だけ。確かに、獣の耳ではあった。しかし、どう見ても猫の大きさではなかったような。中型犬くらいはあったように思う。

 しかし、男たちはそれを見て、なんだ猫か、と納得したようだった。釈然としないが、茴香が文句を言うわけにもいかない。この場から去って行く男たちを、無言で見送る。

 ようやく人心地ついたかと思ったのだが――そうして周囲を見回しているうちに、すぐ近くの木陰に誰かが潜んでいることに気づいて、茴香は思わず声を上げそうになった。

 しかし、その人は何をするでもなく、茴香の方をじっと見つめている。そのうち雲が晴れたのか、月明かりが照らし出したのは、笑みを浮かべながら人差し指を口に当てている青年の姿だ。

 泥棒の仲間、ではないのだろうか。突然のことに、何が何だかわからない茴香は、小声でこうたずねた。

「そこで何をしてるんですか?」

「それは僕の方でもお聞きしたいところですね」

 青年がそう返したので、茴香は素直にこう答える。

「あたしは、友だちがあやしい光を見たって言うから、それを調べに……」

「なるほど。それなら、僕も似たようなものです。怪火の噂を聞いて、それを探しに来たので。そしたら、突然あの人たちがやって来て……」

 青年はそう言って、男たちのいる方へと目を向けた。泥棒たちは洋館から持ち出した物を門の方へと運んでいるらしい。

「あの人たち、以前からこの家を狙っていたようですね。ここには普段から人がいないようですから。ただ、そう簡単には侵入できなかったのか、僕が見ていると、やっと開いたって喜んでいましたよ」

 だとしたら、友人の見たあやしい光の正体も、やはりあの泥棒たちだったのだろう。

 茴香が密かに呆れていると、青年はふいにため息をついた。

「それにしても、似てなかったですかねえ。猫。自信あったんだけどな……」

 猫の鳴き声はこの人だったらしい。ごまかせなかったことを落ち込んでいるようだが、男たちが信じなかったのは、おそらく出来の問題ではないだろう。

 どこかとぼけた感じのするその青年は、さて、と呟くと早々に気を取り直した。

「これから、どうしましょうかね……」

「ごめんなさい。もしかして、あたしのせいで、あなたまで逃げられなくなっちゃった?」

 茴香が慌ててそう言うと、青年はきょとんとした後、すぐに首を横に振った。

「違いますよ。すでに警察を呼んでいます。できれば、あの人たちをもう少し足止めしたいな、と」

 にこにこと笑いながら、けっこう大胆なことを言っている。茴香は呆気にとられてしまった。

 そうしているうちにも青年は、ここで隠れていてくださいね、とだけ言い残して、泥棒たちの様子を見に行ってしまう。茴香がひとりきりになったところで、声を上げたのは黄鉄鉱だ。

「やれやれ。とんでもないことになったね。今までも、機会はうかがっていたのだけれど……茴香。俺が火を灯して、あの連中の注意を引こう。先ほどの彼はともかく、君はやはり、この場から逃げた方がいい」

 黄鉄鉱の提案に、茴香は首を横に振った。

「ううん。黄鉄鉱。あたしもあの人たちを逃がしちゃうのは嫌だよ。何とか足止めできないかな?」

「仕方ないな……」

 黄鉄鉱がそう呟くと、洋館の門の辺りにぼうっとした光が浮かび上がった。泥棒たちは誰かが来たと思ったのか、声は上げずに静かに慌て始める。

 しかし、それも束の間のことだった。

「落ち着け。誰か来たわけじゃないぞ。こういうのは、確か――プラズマだとか言ってだな……ともかく、何てことはない。行くぞ!」

 その反応に茴香は思わずむっとした。

 これは黄鉄鉱が出した、正真正銘の怪火だ。それを、さもわかったかのように、よくわからない正体を決めつけて。

 茴香は段々と腹が立ってきた。

 そもそも、そんな風に考え無しだから、盗みをしようなんてことになるのだろう。そんな人たちが悪事を成功させるだなんて、どうにも納得できない。

 しかし、そんな茴香の憤りも虚しく、門前に大型の車が止まるのが見えた。おそらくは、それで逃走するつもりなのだろう。

「あの人たちが逃げちゃう……」

 茴香がやきもきしていたところに、先ほどの青年が戻って来る。男たちが去ろうとしているのを見て、何かを迷っていたようだが、彼はふいにため息をついたかと思うと、こう言った。

「兄さんに知られたら、怒られるだろうなあ。でも、仕方ないか。あまり怪我とかは、させたくなかったんですけどね」

 青年はそこでなぜか、空に浮かぶ月を仰ぎ見た――かと思えば、息を大きく吸い込むと、犬の遠吠えの真似をした。

 茴香は思わずぎょっとする。そうしているうちにも、どこからか聞こえてきたのは、近づいて来る犬の息づかいとその足音。

 それは、音だけが真っ直ぐに男たちのところへと向かったようだった。そのうち犬のうなり声がしたかと思うと、ぎゃ、とか、何だ、とか悲鳴を上げながら、男たちがばたばたと倒れ始める。しかし、そこにいるだろう犬の姿は、どこにも見えない。

 何が何だかわからずに、茴香が問いかけるような視線を送ると、青年はにこにこ笑いながらこう言った。

「まあ、しばらく立てなくなるだけです。大した怪我じゃないですよ」

 よくわからないが、ちょっと怖い。茴香はそう思ったが、青年は平然とした顔でこう続ける。

「とにかく、警察が来る前に逃げましょうか」

 ここは大人しく従うことにして、茴香は青年の後ろをついて行った。茴香は知らなかったのだが、どうやら裏口のようなところがあるらしい。

 池のほとりを通り過ぎるとき、ふいに四阿の方で何かが光った。どきりとしながらも、そちらの方に視線を向けると、青く小さい何かがあることに気づく。

 いろいろあって、すっかり忘れていたが、そういえば、青白い光を見た、という話もあったような。

 茴香は思わず、そこにある何かに近づいて行く。

 そこにあったのは、青白い光――ではなく、石が嵌め込まれたブローチだった。無意識のうちに手に取ったそれは、ひやりと冷たい。

「それは、ラブラドライト、ですね」

 青年はそう言った。

「ラブラドライト?」

「ええ。宝石ですよ。そんなに高価なものではないと思いますけどね。泥棒が落としたのかな」

 青年は茴香からラブラドライトのブローチを受け取った。その黒っぽい石は手のうちで動かすと、角度を変えるたびに、光が当たる部分だけが青く煌めいて見える。

 その不思議な輝きに、茴香は思わず目を奪われた。

「確か、曹灰長石そうかいちょうせきという種類で、分光石ぶんこうせきとも呼ばれているそうです。この青い光が、同じく構造色で青く見えるモルフォチョウに似ていたから、覚えていたんですよね」

「モルフォチョウ! 見たことあるの?」

 茴香はその言葉にすばやく反応した。モルフォチョウは主に南米で生息しているあざやかな青い蝶のことだ。そのモルフォチョウが翔ぶ姿は、茴香がいつか見てみたいと思っている景色のひとつだった。

 青年は笑みを浮かべながら、こう答える。

「うちの家族はみんな、生きものが好きなので。小さい頃から、いろいろと見て回りましたから――」

 そのとき。あ、と呟いたかと思うと、青年は茴香の背後を見つめたまま一切の動きを止めてしまった。茴香は何があったのだろう、と思ってうしろを振り返る。

 視線の先にある四阿の柱の向こうに、なぜかほのかな光が灯っていた。息を詰めて見守る中、そこからゆっくりと姿を現したのは、細い脚と長い首を持つ水鳥。その鳥は、まるでラブラドライトのように、不思議な青い光をまとっている。

 月明かりのせいで、その羽が輝いて見えるのだろうか。しかし、光の反射にしては、異様なほどに明るいような……

 そんなことを思っていると、その水鳥は長いくちばしを開けて、そこから青白い炎を吐き出した。それをまといながら翼をはためかせると、水鳥は夜の闇へと飛び立っていく。

 茴香は突然のことに驚いて、ぽかんと口を開けた。

 青白い炎の尾を引きながら、水鳥は夜空の向こうへと消えていく。その姿を見送ってから、茴香はちらりと青年の方へと目を向けた。青年はその目をきらきらと輝かせながら、水鳥が去った方向を見上げている。

 彼はふいに、ほうと息をはくと、高揚したようにこう捲し立てた。

「もしかしたらって思ったんですが。やっぱりいたんだ。きれいだなあ。でも、驚かせちゃったみたいだから、もう戻っては来ないかな。惜しいなあ」

 彼の目当てはこちらの怪火だったようだ。茴香がぽかんとしていると、青年はうれしそうにこう話す。

「あれは青鷺火あおさぎびですよ」

「青鷺火……?」

 青年は勢いよく、うなずいた。しかし、茴香のきょとんとした顔を見て、すぐにはっとした表情に変わる。

「すみません。わからないですよね。木も石も器物も、そして動物も……年を経ると化けるんです。だから、あれは幻想のもの。秘密ですよ?」

 よくわからないが、少なくとも茴香は、話す石のことを知っていたので、そんなものかと納得する。

「ともかく、これは疾風しっぷうに返してきてもらいましょうか」

 青年は落ちていたラブラドライトのブローチを示してそう言った。

「……疾風?」

 茴香が問い返すと、青年はこう答えた。

「僕の犬ですよ」

 やはり犬がいたらしい。青年はラブラドライトのブローチを持って、木陰にしゃがみ込むと、それをそこにいる何かに手渡した――ようだった。しかし、やはり犬の姿は見えない。

 何だかふれてはいけないような気がして、茴香はそれ以上何も言わなかった。



 表の道路に出た茴香たちは、早々に洋館から遠ざかっていった。途中、パトカーとすれ違ったので、あの泥棒たちはおそらく捕まるだろうと思う。

 夜半も過ぎていたので、茴香は青年に送ってもらうことになった。道中、モルフォチョウを現地で見たという彼の話で盛り上がる。

 その間、ずっと後ろの方でひたひたと犬の足音がついて来ていた。おそらく、彼の犬だろう。よほどの人見知りなのか、やはり姿は見えないが、彼の方は気にする様子もない。

 長い道行きで話題が少し途切れると、ふいにさっきまでのことが思い返されて、茴香は思わず黙り込んだ。冷静になると、自分の行動の危うさに、今さらながらひやりとする。あらためて考えると、あの泥棒たちのことを笑えはしないな、と茴香は思った。

 どうかしましたか、と青年が言うので、茴香は思わず苦笑する。

「今さらだけど、やっぱり無謀だったなって。あたし、いつも考え無しで。これじゃあ、あの泥棒たちと変わらないね」

「でも、あなたはお友だちのために、怪火の正体を調べに行ったんでしょう? あの人たちとは違いますよ」

 茴香は小さく肩をすくめた。

「それでも、人に迷惑かけているようなら、結局は同じことだよ。今回はあなたに助けられたから何とかなったけど……こんなことじゃ、ダメだなって思うし」

 そのとき茴香の頭の中にあったのは、自分が抱く夢のことだ。けれども、それは自分でも叶えられるかどうかわからないような、手に余るほどの夢だった。

 今のところ、その夢を話したのはひとりだけ。家族にも他の友人たちにも、何となく笑われるような気がしていたから。

 だからこそ、こんな弱音を知らない人に話していることも妙な感じだった。あるいは、知らない人だからこそ、話せているのかもしれないが。

 何かの答えを期待していたわけではなかったけれども、青年は笑い飛ばすこともなく、こう返した。

「失敗なら、僕にも覚えはありますよ。今だって、至らないところは多いですし。ただ、そのせいで気後れしまうと、本当に何もできなくなってしまいます。だから、うまくいったことは、うまくいったな、でいいんですよ。ダメだと思ったことだけ、反省していれば」

 よく知らない相手なのに、励まされてしまった。何だか照れくさくなって、茴香はごまかすように話題を変える。

「そっか。そうだよね……昔のことを思い返すと、どうしてもダメだったなってことが多いんだけれども、そうした中にも、よかったと思える欠片はある気がする。そのことを、ちょっとだけ思い出したよ」

 茴香は無意識のうちに、遠い昔の記憶を思い起こしていた。今の自分に続いている、茴香にとっての忘れがたい過去を。

「何だか、夢みたいな話なんだけどね。小さな頃に、すごくきれいな庭を見たことがあって。何だろう。桃源郷みたいな感じ? 桃源郷を見たことあるわけじゃないんだけど……その景色が、ずっと心の中に残ってるんだよね」

 茴香のとりとめもない話を、青年は黙って聞いている。

「そんなことがあって、あたし、世界中のいろんな風景を見たいなって思ってるんだ。あのときの景色をもう一度見たいってわけじゃないんだけど――たぶん、あそこにいた人たちには、あたし、嫌われてるだろうし――でも、あたしはきっと、あのときのことを嘘にはしたくないんだと思う」

「桃源郷、ですか……それは不思議な話ですね」

 青年の反応に、茴香は思わず苦笑する。

「変な話でしょ? 自分でも、夢みたいだなって思ってる。そういえば、あの庭を世話していた人も、少し変わってたかな。右腕にある――刺青? それが真っ黒に見えて……」

「――え?」

 青年がふいに表情を曇らせたので、茴香は首をかしげた。

「どうかした?」

 茴香が問い返すと、青年はすぐさま、にこにことした顔つきに戻る。

「いえ。何でもありませんよ」

 そうこうしているうちにも、いつの間にか下宿先についていた。お礼を言って別れるときになって、茴香はようやく大事なことを忘れていたことに気づく。

 慌てて引き返して、茴香は彼の背にこう問いかけた。

「あたし、笹谷茴香。あなたの名前、聞いてなかった」

隼瀬はやせ伊吹いぶきです」

 茴香の声に振り向きながら、青年はそう名乗った。




 黄鉄鉱を返すために茴香が店を訪れたところ、そこにはすでに先客がいた。

 茴香の用件はあやしい光についての報告だけだったので、話の合間に会ってもらえることになる。そうして座敷へ向かったところ、襖越しに聞こえてきたのは、こんな話し声だった。

「こいつにそんなもん持たすのはなあ。俺は賛成しないが――」

 案内してくれた桜がひとこと声をかけてから、茴香は中へと通される。座敷にいたのは、作業着姿の四十代くらいの男性と、もうひとり――

 その青年の顔を見て、茴香は思わず顔をしかめてしまった。似た顔を、遠い昔に見たことがある……

 思わず呆けてしまったが、皆が注目していることに気づいて、茴香は慌ててこう言った。

「すみません。話に割り込んでしまって」

「かまわんよ。こっちは、ちょいと込み入った用件なんでね。むしろ、俺たちの方こそ席を外した方がいいんじゃないのかい」

 中年の男性はそう言った。青年の方は何を言うでもなく、無愛想にそっぽを向いている。

「あたしはかまいません。すぐに済みますから」

 そもそも茴香の方は約束もしていないのだから、彼らが順番を譲ってくれなければ、日をあらためなければならないところだった。人に聞かれて困るような話でもないので、同席することについても、茴香は特に気にしない。

 とはいえ、この人たちがこの店のことをどこまで知っているかは知らないが。槐が問題ないと思っているなら、そういうことなのだろう。

 茴香はさっそく、洋館の周囲であったことを槐に話した。泥棒に出くわしてしまったこと。あやしい光の正体が、懐中電灯の光だったこと――

「それで、青白い光の方なんですけど……」

 茴香はそこまで話してから、その先を言い淀んだ。

 あのとき出会った伊吹という名の青年のことだけは、話そうかどうか、いまだに迷っていた。とはいえ、光る鳥のことを教えてくれたのは彼なのだから、やはりあの青年のことにもふれた方がいいだろうか、とも思う。

 さて、どこまで話したものか――

 茴香はひとまずこうたずねた。

「その……青鷺火って知ってますか?」

 その言葉を聞いただけで、槐は合点がいったように、ああ、とうなずいた。

「怪火の正体とされるものに、もうひとつ鳥がありましたね」

 あっさりとそう返されてしまったものだから、茴香は思わず目をしばたたかせた。もしかして、あれは珍しいものではなかったのだろうか。

 槐はこう話し始める。

「青鷺火は鳥山石燕の『今昔画図続百鬼こんじゃくがずぞくひゃっき』にあります。夜に光る鳥の怪異ですね。アオサギ――あるいはゴイサギとも言われていますが――それらの鳥は夜に羽が光って見える、ということで広く知られていたようです」

 確かにあのとき茴香が見た鳥も、青白い光を放っているように見えた。とはいえ――

 その現象はおそらく、鳥の羽が暗闇の中で月の光などを反射してそう見える、ということだろう。しかし、あのときの鳥はそんな感じではなく、自ら光を放っていたような気がする。それどころか、口から火まで吹いていたような……

 茴香はふと、伊吹が言っていた、幻想のもの、という言葉を思い出した。秘密、ということは、やはりあれは普通の存在ではなかったのかもしれない。

 茴香はあの鳥のことを、あえて話さないでおくことにした。とはいえ、黄鉄鉱は知っているのだから、彼がこのことをどう考えているかはわからないが。少なくとも、この場では青白い光の正体は鳥、ということでかまわないだろう。

 そんな風に、茴香が自分の中でひとり納得していたところ――

「横からすまんが」

 と声を上げたのは、それまで無言で話を聞いていた中年の男性だった。

「お節介かとは思うが、夜遅くに若い娘さんがうろつくのは感心しねえな。まあ、何かしら対策はしてたのかもしれんが……今回は問題なかったとしても、あまり無謀なことはしない方がいい。おっさんの説教なんざ、聞きたくもないだろうが。俺も娘がひとりいるんで、他人ごとだとは思えなくてな」

 不器用な言い方ではあるが、初対面ながら茴香のことを心配してくれていることはわかる。茴香はありがたいと思ったのだが――それを伝えるより先に、それまでずっと黙っていた青年が、ふいに口を開いた。

「ていうか、おっさんの娘って三歳くらいでしょ。無理に持ち出さなくてもいいって」

 そう言ってから、青年は茴香に向かってこう続ける。

「気をつけなよ。このおっさん、隙あらば自分の娘の動画とか見せてくるから。面倒くさいよ」

「は? おまえ、この前はうちの娘のこと、かわいいって、言ってたじゃねえか」

 男はものすごい形相でにらみつけていたが、青年はあくまでも平然としている。

「そんなの社交辞令でしょ。同じような動画見せられても違いなんてわからないんだから、そう何度も見せなくたっていいよ」

「おい。ふざけるな。おまえ、表へ出ろ」

 そんなふたりのやりとりを、茴香は呆気にとられながら、ながめていた。何なのだろう。この人たち。

 槐も、そのとなりにいる桜も――よくあることなのか、呆れているのか――彼らを止めようという気配もない。

 ともかく、このよくわからない争いを終わらせなければ。そう思って、茴香はとっさにこう言った。

「えっと……無謀なことをしたのは、そのとおりなので――心配していただいて、ありがとうございます。あのときも、たまたま居合わせた人が助けてくれなければ、どうなっていたか……」

 茴香は思わずそう言ってしまったが――

 思えば、あの人も変わった人ではあったが、悪い人ではなかった。彼があの場で助けてくれたことは、本当にありがたいことだったのだと、茴香はあらためて思い返す。

 槐たちがいぶかしげな表情をしているのは、それまで彼のことを話していなかったからだろう。ここまで話してしまったなら、隠す意味もない。そう思って、茴香はさらにこう続けた。

「何というか。少し変わった人でした。突然、犬の遠吠えの真似をしたり。まあ、ちゃんと名乗ってくれましたけど。隼瀬伊吹って――」

 折しも、作業着姿の男は落ち着くためにお茶を口にしていたところで――しかし、彼はその名を耳にした途端、唐突に咳き込んだ。そうして、しばらく苦しそうに呻いた後、声を出せるようになると、すぐにこう問い返す。

「隼瀬、だあ?」

 茴香は思わずきょとんとしてしまったが、周りの反応もだいたい同じ感じだ。皆が注目する中で、男だけが何やらぶつぶつと呟いている。

「いや。伊吹っていうと、本家の末の坊っちゃんか。だったら、俺のところに来たってわけじゃねえな……」

「おっさん。何焦ってんの」

 青年が一笑したのを、男は鋭い視線でにらみ返している。しかし、この場で彼を咎めることについてはもはや諦めたのか、男は茴香の方へ向き直ると、あらためてこう言った。

「まあ、そいつが俺の知ってる人物なら、悪いやつじゃねえよ。保証する」

 そもそもの話。茴香はこの人がどんな人なのかも知らないのだが――ともかく、そこは素直にうなずいておくことにした。まさか、たまたま出会った人同士が知り合いだったとは。世間は狭い。

 そうして怪火の件について報告し終えた茴香は、槐に礼を言って座敷を出た。その後は、石の部屋へと通してもらう。

 借りていた黄鉄鉱を棚へと戻しながら、茴香はあらためてこう言った。

「ありがとう。黄鉄鉱」

「あまり力にはなれなかったけれどね」

 黄鉄鉱はそう返したが、茴香は首を横に振る。

「そんなことないよ。とても心強かった」

 茴香は心の底からそう思っていた。彼がいたからこそ、あのときの茴香は不安で足がすくむこともなかったのだろう。

 自分の向こう見ずなところをあらためるのはなかなか難しいが、それでも、茴香の周りには知恵や力を貸してくれる人がいて、忠告をしてくれる人もいて。だから、そう悲観的になることもないだろう、と今は思い始めていた。

 胸に秘めたこの夢も、いつかは実現できるかもしれない。

 至らないところには苦笑を浮かべながらも、茴香はこれからのことについて、ほんの少しでも希望の光が灯ったような――そんな気がしていた。

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