第二十三話 蛋白石 前編
――私の元へ百夜通うことができたなら、あなたの想いに応えましょう。
それは果たせない約束。あるいは悲しい恋の物語。もしも、その結末を知っていたとしたら、そんな約束を交わすこともなかったのだろうか。
否。きっとそうではなかっただろう。その人のことを本当に愛していたのだとしたら。だから、あなたと交わしたあの約束も、きっと必然のことだった。
――あなたに会うためならば、百夜と言わず、私は何度でも通いましょう。たとえ、この心が千々に砕けたとしても。その他の全てを投げ捨ててでも。
ふたりの前に横たわるのは、険しく遠い道のりか、降りしきる冷たい大雪か、激しい嵐の雨風か、それとも荒々しく波立つ水面だろうか。
それでも、あなたとまた会える、そのことだけが、ふたりに残された唯一の幸せ。
幸せだった
のに。
* * *
冬に訪れたときとは違って、深泥池の周辺は明るい緑にあふれていた。水面を渡る風は清々しく、鳥のさえずる声もかろやかだ。そうした穏やかな風景には、あやしい噂がささやかれるような、おどろおどろしい影などひとつもない。
槐はしばらく池のほとりをながめていたが、ふとあることが気になって、不機嫌そうに背を向けている青年――浅沙の方へと視線を戻した。
「そういえば、今日は片桐さんと一緒ではないんですね」
「今さら何言ってんの。俺は別に、あのおっさんと常に一緒にいるわけじゃないんだけど」
浅沙は呆れたようにそう返す。そうして肩をすくめながら、気だるそうにこう続けた。
「鉄線のおっさんも、あれでけっこう食えないおっさんだからな。何を考えてるかは知らないけど、今となってはいろいろと都合もいいから、俺の方でも乗っかってるってだけで」
浅沙はそう言うと、空を仰いで背を伸ばした。ようやく話す気になったらしい彼に向かって、槐はこう問いかける。
「鷹山さんのお姉さんのこと、どう思われます」
浅沙はしばし無言で槐をにらみ返したが、ため息をついたかと思うと、思いのほか素直にこう答えた。
「障りがあるってことは、そういうことだろう。こうなる前に珪化木だけでも取り返したかったんだけど。さすがに、あの鬼相手じゃ分が悪かったな。何考えてるかわかんないし」
浅沙はそう言って槐から視線を逸らしたかと思うと、再び口を閉ざした。槐にしてみれば、彼もまた何を考えているかわからない相手ではあるのだが――ひとまず、口も利いてくれない、ということはなさそうだ。
とはいえ、今の彼は槐のことなど意に介していないかのように、どこか遠く、対岸の方へと目を向けている。
花梨の姉――エリカの居場所が特定できたことを受けて、そのことについて話をしていた。何かを知っているだろう彼になら、今の状況がわかるのではないかと思ったからだ。
しかし、彼は多くを語らない。それでも、槐は浅沙が鬼という言葉を口にしたことを聞き逃しはしなかった。
鬼――あるいは、雨の名を持つ者たちの話となると、槐は真っ先に祖父のことを思い出す。おそらく彼らとの初めの因縁となると、曾祖父まで遡ることになるのかもしれないが、それでも鬼という言葉を耳にして思い浮かぶのは、なぜか祖父の方だった。
祖父は槐が生まれてほどなくして亡くなってしまったから、残念ながら言葉を交わした思い出はない。それでいて、祖父は曾祖父とは違い、身に起きたできごとを一切書き残してはくれなかった。
祖父が残したのは、どこからか集めてきた石――それはもちろん、言葉を交わすことのできる彼らとは違う、本当に何の変哲もない石――だけ。槐にとっては謎の多い人だった。
しかし、祖母の話からすると、祖父はどうも鬼と呼ばれる存在と交流があったらしい。槐が唯一言葉を交わしたことがある鬼――時雨も祖父のことをよく知っている風だった。
そうしたこともあって、槐はどうにも雨の名を持つ者たちに対して恐ろしいという印象が抱けない。とはいえ、曾祖父の手記を信じるなら、槐が背負うことになったあの厄災も、元を正せば鬼がきっかけではあるらしいのだが。
そんな風にあれこれと考えを巡らせながらも、槐はただ待っていた。浅沙が何かを語ってくれる、そのときを。
しかして、彼はふいに槐の方へ向き直ったかと思うと、こう話し始めた。
「ともかく、今となっては俺にできることは何もない。というか、できればそれとは関わりたくない」
「それはやはり、木の呪い、だからですか?」
槐の問いかけに対して、浅沙はあからさまに顔をしかめた。
「どうして、あんたがそのことを知っているのかと思ってたけど……そうか。もしかして、先代を殺したのは、あんたなのか」
槐は何も答えなかった。浅沙も強いて答えを求めようとはしない。
「まあ、いいか。あいつが死んだことについては、むしろせいせいしてるくらいだし」
浅沙の呟きには、今度は槐が顔をしかめる番だった。
「しかし、先代の当主ということは、あなたにとっては……」
その言葉をさえぎるように、浅沙はふんと一笑する。
「あんたは、あの男のことを何も知らないんだろう。あいつは人の心なんか持っていない――化けものだった。あの家のやつらだって、死んでよかったと思ってるよ。口には出さないだけで」
そのときふと、一羽の鳥が上空を横切った。かと思えば、その影は槐の視界をかすめながら何かを示すかのように旋回し始める。
「あれはカラス……?」
「黒曜石だな」
槐の呟きに、そう応えたのは碧玉だ。
カラスは槐に近づいて来るようにも見えたのだが、ふいに方向を変えたかと思うと、滑空しながら高度を落としていった。行き先を視線で追っていくと、槐はそこに見知った人の姿を見つける。
カラスはやがて、どこからともなく現れたその人――鷹山花梨の肩に流れるように降り立った。彼女は突然現れたカラスにも驚いたようだが、槐と浅沙がそろってこの場にいることに気づくと、さらに大きく目を見開いている。
「何で花梨ちゃんがこんなところにいるの」
浅沙はそう言って、花梨の方へと身を乗り出した。しかし、こちらへ歩み寄る彼女が何かを手にしていることに気がつくと、彼は怖い顔をして動きを止める。
「……鬼に会ったね?」
浅沙の呟きに、槐は思わず目をしばたたかせた。花梨は浅沙に指摘されたことを受けて、ばつが悪そうな顔をしている。どうやら、本当に鬼と会ったらしい。
浅沙は呆れたようにこう言った。
「どうしてそう、危ないところに首を突っ込むかな」
「今回は、その……たまたま迷い込んでしまって」
珍しくしどろもどろに言い訳しながらも、彼女は、すみません、と言って肩を落としている。
槐は思わず、こう呼びかけた。
「黒曜石?」
「すまない、槐。用心していたつもりなのだが……」
この場に姿を現した黒曜石は、花梨の肩に止まっていたカラスを取り込みながら、そう言った。
決まりの悪そうな表情を浮かべている辺り、不用意な行動をしたという自覚はあるようだ。今さら咎めたところで意味はないだろう。とはいえ――
そうして考え込みつつも、槐はあらためて花梨の方へと向き直った。
浅沙の方は彼女が手にしているものを妙に気にしているようだ。不機嫌そうな顔でしげしげと見つめていたかと思えば、それを指差しながら彼はこう話し出す。
「それ。鬼があの家から持ち出した呪物でしょ。どうしてそんなものを花梨ちゃんが持ってるの」
「私にも、よくわからないんですが。なぜかいただいてしまって……」
槐は彼女の手のひらに乗っているものへと目を向ける。
それは褐色の石だった。でこぼこした平面でありながら、妙に均整のとれた四角い形をしている。割れ目のように見える線は、ふたつの石がきちんと合わさっているためだろう。これは――
「
浅沙はその石に忌々しげな視線を向けつつも、こう言った。
「それは、この世に存在するものなら何でも手に入る箱だよ。ただし、条件つきだけど」
花梨が首をかしげると、浅沙は続けてこう話す。
「術がかかっているからね。欲しいものを願いながら開けると、それを手に入れることができる。その箱に収まるものなら、何でも。ただし、この世にないものや、箱に収まらないものは手に入らない。そうだな……例えば、憎い誰それの右目が欲しい、と念じて開ければ、それが手に入るんだけど――」
「どうして目なんです」
不穏なたとえ話に、花梨は思わずといった風に顔をしかめた。しかし、浅沙は平然としている。
「まあ、いいから。それで、もしもうっかり右目が欲しい、とだけ願ってしまったら、世の中にある全ての右目が対象になってしまう。当然、この箱には入らない。呪いは返って障りになる。扱いが難しいんだ」
浅沙はそう言うと、厳しい表情を浮かべて花梨に念を押した。
「だから、開けちゃダメだよ。封じてあるから、開かないだろうけど」
花梨は浅沙の言葉にうなずくでもなく、香合石にじっと目を向けている。何かを考え込んでいるようだ。
そのことを気がかりに思ったのか、黒曜石が声をかけた。
「花梨。やはり危険なものなのだろう。槐に預けた方がいい」
「そうですね。うちで厳重に保管しておきましょう」
槐はそう言ったが、花梨はその提案を退けるように、きっぱりと首を横に振った。
「いいえ。開けなければ、何も起こらないということですから。それに、封じてあるなら問題はないと思います。危ない物を、またお店に持ち込むわけにはいきません」
これには、黒曜石も驚いたような声を上げる。
「花梨……そんなことは気にしなくてもいい」
しかし、花梨はそれを受け入れるつもりはないようだ。苦笑を浮かべながらも、こう返す。
「大丈夫だよ。黒曜石」
かたくなに香合石を手放さない花梨にため息をつくと、黒曜石は恨みがましい目を槐に――いや、槐が持っている碧玉の方へと向けた。
「碧玉。あなたが、あのようなことを言うから……」
いつのことだったか、彼女が店に奇妙なカエル石を持ち込んだとき、碧玉が苦言を呈したことを言っているのだろう。
碧玉は沈黙している。浅沙はそうしたやりとりをじっとながめていたが、何も言うことはなかった。
花梨が手にしている香合石を見つめながら、槐はしばし考え込む。
鬼から受け取ったという石。たとえ封じられていたとしても、その石を彼女の元にとどめておいていいものかどうか――
とはいえ、そもそも彼女が鬼に会ってしまったのも、おそらくは姉を探していたことと無関係ではないだろう。できることなら妙な因縁には巻き込みたくはないと思っていたが、そうして遠ざけておくことはもはや難しいようだ。
考えた末に、槐は花梨に彼女の姉について話すことを決める。
「鷹山さん。実は、エリカさんの所在がわかりました。そのことについて、浅沙さんとも話していたところです」
突然のことに、花梨は呆けたような表情を浮かべている。相手の反応をうかがいながら、槐は慎重にこう続けた。
「ご無事であることは確かです。ただ、少し気がかりなことがありまして……ですから、確認できるまで、しばらくお待ちいただけないでしょうか」
花梨は戸惑いながらも、どうにかうなずいている。おそらく聞きたいことは山ほどあるだろうが、とっさのことに言葉もないのか、くわしい事情をたずねることもない。
ともかく、これで彼女が思いがけず危険に足を踏み入れてしまうことはないだろう。その間に、珪化木の呪いをどうにかしなければならない。
視線を向けた先では、意味深な顔をした浅沙が無言で槐をにらみ返していた。
* * *
花梨はぼんやりとした心持ちで大学構内を歩いていた。
休みの間は閑散としていたその場所も、新しい学期が始まってからは学生たちの活気に満ちている。しかし、そうした中にいたところで花梨の気持ちが晴れるわけもなく、何をしようにも手につかない日々が続いていた。
槐から姉のことを知らされたとき、花梨が何もたずねなかったのは、決して冷静でいられたからではない。あまりに突然のことで、どう受け止めていいかわからなかったからだ。
もちろん、槐のことは信頼している。しかし、正直なところ、花梨は今でも心のどこかで夢でも見ているのではないかと思っていた。
姉が見つかったことを喜ぶ夢。しかし、その喜びは夢から覚めるたびに悲しい余韻と共に消えていった。姉がいなくなってから、何度そうした夢を見ただろう。そのことが思い出されて、花梨は今もまだ、槐の言葉を現実のこととして受け止められずにいた。
それはおそらく、花梨がまだ姉の姿を直接目にしていないことも理由のひとつではあるだろう。しかし、槐にあのように言われたからには、今しばらくは信じて待つより他ないとも思う。
姉は元気にしているのだろうか。体を壊したり、ふさぎ込んだりはしていないだろうか。
いつだったか、浅沙はこう言っていた。
――君のお姉さんは、おそらく、呪われている。
彼があの場にいたということは、そのことについて何かしら話をしていたということだろう。そう考えると、姉の所在がわかったからといって、何もかも解決したとは思われない。
ようやくもたらされた吉報に相反して、花梨の胸のうちにはじりじりと不安が広がっていた――
「まだ、お姉さんを探しているの?」
ふいに声をかけられて、花梨はその場で立ち止まった。はっとして声の主を探したところ、行く手にあったのは見知った人の姿。
例のサークルの先輩だ。声をかけられるとは思っていなかったので、花梨は相手のことをまじまじと見つめ返してしまった。
大学内の施設を結ぶ広い道の途中。絶えず人が行き交う中、まるでそこだけ場面が切り取られたかのように、花梨はその人としばし無言で対峙した。通りすがりの学生たちは、振り返ることもなく向き合うふたりの横を通り過ぎて行く。
花梨は戸惑っていた。彼女はなぜ、突然そんなことをたずねたのだろうか。
あるいは、純粋に心配して声をかけてくれているだけなのかもしれない。しかし、部室の前であったできごとを思い出してしまって、花梨はその言葉を素直に受け入れられずにいた。ましてや、姉の行方がわかったことについては、まだ誰にも教える気にはなれない。
そんなことを考え込んでいると、その人は花梨のことをじっと見つめながら、こう続けた。
「どうしても知りたいんだったら、教えてあげる。あなたのお姉さんに何があったのか」
やはり何を考えているのか、わからない。
とはいえ、本当に姉が呪われているというなら、その原因を知るべきではないか、とも思っていた。だとすれば、彼女の話は何らかの手がかりになるかもしれない。
槐は花梨に無用な心配をかけまいとしているに違いないが、だからといって、彼に頼りきりというわけにはいかないだろう。そうでなくとも、姉のことが少しでもわかるなら、それはきっと、無意味なことにはならないに違いない――
花梨が迷っているうちにも、相手は何の気なしにこう続けた。
「深泥池に行ったからだよ。深泥池に行ったから、みんな、おかしくなった。深泥池に行った、そのうちのひとりは亡くなって、ひとりは大学を辞めて、ひとりは……何してるんだろうね。知らないけど。でも、あなたのお姉さんも行方不明で。だからきっと、深泥池に行ったのがよくなかったんだろうね」
やはり深泥池なのか。
花梨が困惑しているうちにも、彼女はふいにこう提案する。
「そうだ。話を聞きに行ったらどう? 知ってるんだ。退学した人がどうしているか」
姉の友人のひとり、ということだろうか。その人と会えば、姉のことが何かわかるかもしれない。しかし――
「知ってるよ。行ってみる?」
どうにも嫌な予感がした。いつもであれば、花梨はその申し出を断っていただろう。しかし、今の花梨はまるで思考に雲がかかっているかのように、その決断を下せずにいた。
相手は何ごともないかのように平然としている。少なくとも、花梨のことをからかっている風ではなかった。彼女の話に不安を感じるのも、花梨が穿ちすぎているだけなのかもしれない。
花梨はひとまず、うなずいた。その人に会いに行くかどうかは別にして、情報としてそれを知っておこうと思ったからだ。
相手はそれを見てうなずき返すと、姉の友人が
その場から去るとき、彼女はぽつりとこう呟く。
「会えばわかる。彼女たちがどうなっていったか。あなたのお姉さんは、変わってないといいね……」
その声は、なぜか花梨をひどく不安にさせた。
花梨はとある場所を訪れていた。
目の前に建ち並ぶのは白い大きな建物。周囲には駐車場の他に樹木が植えられた庭があり、活気があるというよりかは落ち着いているといった雰囲気だ。それでいて、その施設は見るからに人の出入りが絶えなかった。
姉の友人が
とはいえ、相手とは待ち合わせをしているわけではないので、そもそも会えるかどうかもわからない。教えてもらった特徴と、毎日姿を現すという情報だけが花梨にとっての拠りどころだ。
その人と会うことについては、花梨にも迷いがないわけではない。しかし、姉に関わることであれば、やはり直接会って話してみたいと思わずにはいられなかった。場所が場所だけに少々不穏ではあるが、ともかく一度行ってみようと思い、ひとまずはここに立っているという次第だ。
そうして所在なく周囲をながめていた花梨だが、長い間待ちぼうけたことで、そろそろ諦めようかと思い始めた頃――ふいに通り過ぎたその人が、探していた特徴に当てはまることに気づいて、花梨は思わず声をかけた。
「あなたが宝坂さん……ですか?」
確信があったわけではない。いつもの直感に従っただけだ。しかし、あらかじめ教えられていたとおり、その人の目元には小さな赤い痣がある。
彼女は呆けたような顔で振り向くと、花梨のことをまじまじと見返した。
「エリカ……?」
そう呟いてからも、彼女はしばし茫然としていたが、そのうち焦点が定まってくると、はっとしてこう言い直す。
「ごめんなさい。知り合いに似てたから。あなたは……」
「私は鷹山エリカの妹です」
花梨がそう答えると、彼女は途端に顔をしかめた。
「妹さん? どうして私のところに……」
そうした反応から、花梨は彼女が目当ての相手であることを確信する。
彼女の名は、
杏は苦々しげな表情で花梨から視線を逸らすと、こう続けた。
「エリカのことは、私には何もわからない。何も知らないの。わざわざ会いに来てもらって申し訳ないけれども、私では力になれないから……」
相手は明らかに会話を切り上げたいようだったが、それでも花梨はこう話した。
「私は確かに姉のことを探しています。でも、宝坂さんにお話しいただきたいのは、姉がどこにいるかとか、そういうことではないんです。大学の、あのサークルで何があったのか――」
「わからないって言ってるでしょう!」
突然の大声に、花梨は思わず固まった。
しかし、よく見れば相手の方も、自分のかんしゃくに驚いたかのように目を見開いている。それでも彼女はその戸惑いから立ち直ると、声の調子を落としてから、あらためてこう言った。
「本当に、私は何も知らないから」
「でも」
花梨はさらに食い下がる。
それは、彼女にどうしても話してもらいたかったからではない。明らかに普通ではない反応に、何か不穏なものを感じたからだ。
花梨は思い出す。姉が失踪する前、電話やメッセージで交わしていたやりとりを。その中には、新しくできたという友人についての話題もあった。
「姉がいなくなる前、私は大学でのことをいろいろと教えてもらっていました。お菓子づくりの得意なお友だちって、あなたのことではないですか? やさしくて穏やかで、そんな素敵な友だちができたって言っていました。大学では、友だちと過ごすのが何より楽しいって――」
「やめてよ」
杏は震える声で花梨の話をさえぎった。その表情は、あからさまに
花梨の中に、じりじりと不安が広がっていく。
――会えばわかる。彼女たちがどうなっていったか。
ふと、そんな言葉を思い出した。あれはどういう意味だったのだろう。花梨がそんなことを考えている間にも、杏は吐き捨てるように、こんなことを口にする。
「誰のせいで、私がこんなに苦しんでいると思ってるの……」
「待ってください。それは、どういうことでしょう。姉が、あなたに何かしたんですか?」
花梨は慌ててそうたずねる。しかし、それに対する彼女の反応は意外なものだった。
「――え?」
杏はそう呟きながらも、虚をつかれたような表情を浮かべている。自分が発した言葉が、思いがけないものであったかのように。
これには花梨の方が戸惑った。
杏は何かを思い出そうとするかのように視線を泳がせている。そうして、ぶつぶつとひとりごとを口にし始めた。
「違う……エリカじゃない。でも、だったら誰? すみれ? それとも、
「誰かが?」
花梨が思わずそう問い返すと、杏はようやく自分以外の誰かがいることを思い出したらしい。いくらか平静を取り戻すと、花梨からは目を背けながらも、あらためてこう話した。
「ごめんなさい。私、あなたとは冷静に話せない。エリカのことも、力にはなれないから……本当にごめんなさい」
それだけ言い残して、杏はこの場から去って行く。花梨はその背を見送ると、彼女が向かった先――目の前にある病棟を仰ぎ見て、しばし呆然と立ち尽くした。
杏と別れた後、花梨に声をかけたのは黒曜石だ。
「花梨」
その呼びかけにはっとして、花梨は慌ててこう返す。
「どうしたの? 黒曜石。もしかして、宝坂さんに何か――」
杏と言葉を交わしているうちに、花梨は呪いの石とそれを用いた人たちのことを思い出していた。
玄能石に火打ち石。それらの力は、向けられた人たちにとっては得体の知れない恐怖だっただろう。何より杏は、誰かが、と言っていた。彼女の普通ではない反応も、あるいは――
花梨はそう考えていたのだが、黒曜石が声をかけたのは、杏のことを気にしたからではなかったようだ。
「いや。そうではない――そこで何をしている? 椿」
黒曜石がそう呼びかけるので、花梨は驚いて周囲を見回した。
「え? 椿ちゃん?」
しかし、椿の姿は見当たらない。身を隠せるような場所となると、近くにある生垣くらいだろうか。
そう思って花梨がのぞき込もうとしたところ、がさごそと音を立てながら姿を現したのは、ばつの悪そうな表情を浮かべた椿だった。
「別に、あなたのことをつけてたわけじゃないから。見つけたのは、たまたま。この近くに、おいしいパン屋があるって、なずなが……」
花梨がたずねるより先に、椿はそう言い訳する。その言葉どおり、椿は大きな紙袋を抱えていた。彼女の主張が正しいなら、中に入っているのはパンなのだろう。
とはいえ、生垣にずっと潜んでいたわけでもないだろうから、椿は少し前から花梨のことをうかがっていたに違いない。黒曜石はあらためて苦言を呈した。
「椿。盗み聞きは誉められたことではない」
そのことに反発したのか、椿はむっとした表情を浮かべると、口を尖らせながらこう返す。
「それは、だって、翡翠がおかしなこと言うから……」
「翡翠輝石が?」
黒曜石の言葉に応えるように、翡翠がこの場に姿を現した。淡い緑の翡翠の勾玉――その化身である彼の澄んだ目は、杏が向かった病棟をじっと見つめている。
「先ほどの女性から妙な気配を感じた。しかし、それは私でなければわからないほどに、かすかなものだ。彼女は暗雲をまとっている。あれは、いったい……」
花梨が首をかしげていると、それを見た椿がこう話した。
「翡翠は石たちの中でも、呪いとか怪異の気配には聡いの。さっきまでここにいた人、翡翠が急に、妙だ、って言い出して……」
どうやら、そのことをきっかけにして、椿は花梨たちのことを探り始めたということらしい。
翡翠の言葉を信じるなら、杏の周囲にはやはり何らかの異変があるのだろう。それが誰かによる呪いなのか、過去の残滓が生み出した怪異なのかは、まだわからないが。
花梨の不安を察したのか、椿がこう提案する。
「そんなに気になるなら、行ってみればいいじゃない」
「宝坂さんを追いかけるの? でも……」
戸惑う花梨に対して、椿は気にすることもなく、さっさと前を歩き出す。翡翠の姿はすでにこの場からは消えてしまっていた。
花梨は慌てて椿の後を追う。用もないのに病院をうろつくのは、どうにも気が咎めるのだが――そんな花梨とは対照的に、椿は何でもないことのように堂々としていた。
「見つからなければいいんでしょ。翡翠。私たちのことを隠してちょうだい」
「隠すって?」
椿は振り向くこともなく、こう答える。
「翡翠は器用だから。気配を消したりもできるの」
とはいえ、特別に何かが変わったという感覚はない。前方から歩いて来た人も、花梨たちのことは普通に避けて、すれ違って行く。
隠すと言っても、姿を消しているわけではないようだ。単に、相手がこちらのことを気にしなくなる、くらいの意味だろう。
椿は迷いなく病院の中を歩いて行く。まるで杏の行き先がわかるかのように。あるいは、それも翡翠の力だろうか。
院内は思いのほか行き交う人の姿が多かった。これなら、気配を消さずとも、誰かに見咎められることもなかったのかもしれない。
不安があるとすれば、杏と鉢合わせしてしまうことだったが――ほどなくして、花梨たちは前を歩く彼女の姿を見つけ出す。どうやら、花梨たちのことには気づいていないようだ。
扉を開けて彼女が入って行ったのは、入院病棟にある部屋だった。個室のようだから、さすがに中までついて行くことはできないだろう。
「お見舞い、みたいね」
椿の言葉に、花梨はうなずいた。
「毎日通ってるって、そういうことだったんだ」
「……毎日?」
椿がそう問い返したので、花梨は再びうなずいた。
とはいえ、花梨は話に聞いただけで、杏に直接それを確認したわけではない。それでも、何の約束もなしに会えたくらいだから、ここにはよく訪れているということだろう。
椿は、ふうん、と呟くと、何かを考え込んでいるかのように、病室の扉をしばし無言で見つめている。
杏の目的を確認した花梨たちは、彼女が出て来るのを待つことなくその場を後にした。これだけでは彼女の周囲で何が起こっているかはわからないが、場所が場所なだけに、いつまでもこそこそと隠れているわけにはいかないと思ったからだ。
おそらく、杏とはもう一度話をしなければならないだろう。どうにかして、翡翠の言う妙な気配の正体を突き止めなければならない。
病院を出たところで、それじゃあ、と別れを告げて、椿はあっさりとその場を去って行った。槐の店に帰るのか、あるいはパン屋のことを教えたという、なずなのところにでも行くのかもしれない。
別れ際に、珍しく翡翠が花梨に声をかけた。
「君も――暗雲とまではいかないが、かすかに黒い霧をまとっている。私でも、それの正体は知れない。それほどに強い何かなのだろう。気をつけることだ」
得体の知れない黒い気配。花梨が感じていた不安は、無意識のうちにそれを予感していたからだろうか。
ともかく、まずは杏のことだ。
彼女の苦しんでいる姿を目の当たりにしたことで、花梨はそこに何かしらの異変があることを確信していた。姉の友人だから、というわけではないが、彼女のことをこのまま放ってはおけない、とも思う。
じりじりと大きくなっていく不安を抱えながら、花梨は彼女を取り巻く不穏な空気について、ぼんやりと考えを巡らせていた。
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