第二十一話 十字石 後編

 幼い頃の空木は、おじいちゃん子だった。

 なついていたのは父方の祖父で、当然のごとく僧侶だ。一緒にいて楽しい快活な人で、空木はことあるごとに遊んでもらっていた。

 亡くなったのは突然のことで、家が急にあわただしくなったことだけはよく覚えている。しかし、そのときの空木は幼すぎたこともあって、何があったのかほとんど理解していなかった。

 祖父の死からしばし時が経った頃、外でひとり遊んでいると、ふいに声をかけられたことがある。声をかけたのは親戚のおばさんだ。そのとき自分が何をしていたのか、そんなことは空木もあまり覚えていないが、そのときかけられた言葉だけは、なぜかはっきりと覚えていた。

 ――元気にしてるみたいねえ。空木ちゃん、おじいちゃん子だったから、心配してたの。でも、もう大丈夫だねえ……

 実のところ、空木は全然大丈夫ではなかった。その頃の空木は自分の中にぽっかりと空いた穴を持て余していて、何をしても楽しく思えなかったからだ。

 ただ、そのことを大丈夫ではないと実感したのは、そう声をかけられたからだろう。そのとき空木は、初めて自分が祖父の死をずっと悲しんでいたことに気づく。

 同時に空木はこうも思った。人には人の心なんてわからない。自分の心でさえもそうなのだから、他人なら、なおさら。だとすれば、他人の悲しみに寄り添うようなことは、自分には決してできないだろう、と。

 空木の家は寺なので、自室からでもお堂の向こうにいくつもの墓石が並んでいるのが見える。これらはすべて、誰かの内にあるだろう、ぽっかりと空いた穴だ。僧侶というものがこれらのすべてを弔い、その死に寄り添うものならば――

 空木はそのとき、自分は僧侶にはなれないな、と思った。まだ幼い頃の考えではあるから、家業への決別というほどではないが、その感覚は空木の心に深く刻まれることになる。ただ――

 心の底では、今でも空木はそれを探しているような気がしていた。心の内をわかってくれる誰かを。あるいは、わかってあげられる自分を。自分の心が誰にもわかってもらえないのだと気づいてしまった、あのときの幼い自分に寄り添うために。

 道中、そんなことを思い出していた空木は、少しだけ考えをあらため始めていた。物言わぬ死者の声が聞けるというなら、聞こうじゃないか。それがその子の救いとなるかもしれないなら。

 そんなことを考えていると、空木はふと、石英が口にしていたことを思い出す。

「そういえば、あのときは聞き流したけどさ。石英が墓を探させる、とか何とか。それもどうせ、石の力なんだろう。当てがあるなら、始めから言っておいて欲しいんだが」

 空木のそんな不満にも、式は何でもないことのように、こう答える。

「黄玉のことかい。彼は以前ほどの力はないからね。そうでなくとも、石英には何か別のものが見えていたのではないかな」

 別のもの――石英には、いったい何が見えたというのだろう。そういえば、走る車を止めろとか何とか。死者の声を聞くという話はどこへいったのやら――とはいえ、そもそもこれは石英が言い出したことではなかったか。

 何にせよ、石英にはどうにも振り回されているような気がしてならなかった。あるいは、空木が空回からまわっているだけかもしれないが――

 そうこうしているうちに深泥池付近までやって来た空木は、さっそく連絡をくれた少女のことを探した。

 待ち合わせに指定された公園にはパトカーが止まっていて、周囲の空気はどことなく物々しい。しかし、行方のわからない子どもがいるのだから、それも仕方がないことだろう。

 そんな中、空木は公園にある木の下で隠れるように立っていた少女の姿を見つける。彼女は空木のことに気づくと、手招きをしながらも、パトカーの近くで何やら話し込んでいるらしい警察官の方をちらりと見やった。

「あそこに、妹の自転車だけ残ってたから……」

 歩み寄る空木に向かって、少女はこそっとそう告げる。

 警察官がいるのは、そのせいか。だとすれば、この公園が例の――彼女の妹が真夜中にひとり遊んでいたという場所なのかもしれない。

 小さな公園には子どもの姿はもちろん、誰の姿も見当たらなかった。もちろん、警察官を除いては。情報がどれだけ広まっているかは知らないが、近くを出歩く人の姿も少ないように思える。

 空木は不安そうな表情を浮かべている少女の顔を見返した。心配なのはわかるが、これから一緒に探し回る、というわけにはいかないだろう。それこそ人に見咎められたときに、何と言い訳していいかわからない。

 空木は彼女に向かって、できるだけ安心させるようにこう言った。

「妹さんがいなくなって、おうちの人も心配してるんじゃないのかい。大丈夫。安心しなよ。俺が必ず探し出すから」

 少女を家に帰した空木は、あらためて公園を見渡した。警察官がちらりとこちらに目を向けた気がしたが、声をかけられるわけでもない。今のところ、ただの野次馬だとでも思われているのだろう。

 そのときふと、公園の真ん中に子どもがひとり、ぽつんと佇んでいるのが目に入った。さっきまではいなかったはず。いつの間に――

 空木がその子どもに気をとられていると、燐灰石が突然こんなことを言い出した。

「気をつけた方がいいよ。君が今見ているものは生者の姿ではないから」

 生者の姿ではないって――まさか、これが噂の幽霊か。思わず後ずさりそうになりながらも、見失うことの方が怖くて、空木はその子どもをじっと注視していた。

 とはいえ、その子はただそこにいるだけで、何をするわけでもない。近くにあるパトカーが珍しくて、それをながめているだけ――のように見えなくもなかった。

 そんなことを考えていた空木に、のん気な調子で話しかけてきたのは式だ。

「おや。君には何か見えているのかい。空木」

「――って、おまえには見えないのかよ」

「少なくとも、君の視線の先にあるだろうものは、私には見えていないよ。君が見ているものは君だけのものだ。基本的に私の力は眼鏡のレンズのようなものだと思ってくれていい」

 ということは、あそこにいる子どもは、やはり普通の存在ではないのだろうか。他の人には見えないのだとすると、近くにいる警察官はどうなのだろう、と少しだけ目を逸らした、そのわずかな隙に――

 公園の真ん中にいたはずのその子どもが、いつの間にか自分のすぐ側まで移動していることに気づいて、空木はぎょっとする。

 足音はもちろん、そんな気配は一切なかった。しかし、視界の端には確かにその姿がある。驚いた空木はすばやくそちらに目を向けたが、その子どもはそうした動きに対しても何の反応も示さなかった。

 そこに立っていたのは、小学生くらいの女の子だ。無表情でじっとしているのは少々不気味ではあるが、それでもその子の姿が透けて見えるというわけでもない。

 この子どもが本当は存在しないもの、なんてことがあるのだろうか。空木がそんなことを考えているうちにも、その子はゆっくりと、何かを訴えるように口だけ動かし始める。

 ――あのこをおうちにかえしてあげて。

 声が聞こえたわけではない。しかし、口の動きだけでも、空木にはそう読み取れた。

 いったい、どういう意味なのだろう。

 空木が呆気にとられていると、女の子はふいにかけ出し、遠ざかっていった。かと思えば、まるで空木のことを待っているかのように、道の先で立ち止まる。

 ついて来い、ということだろうか。

 戸惑う空木に向かって、妙なことを言い出したのはやはり燐灰石だった。

「空気の流れは風となるように、すべての事象は目には見えない波を生んでいる。君が見ているものは、君の心を通して、その波を具象化して見ているのだと思うよ。たぶん」

 空木は顔をしかめた。

 ――何言ってるかわからん。

 そもそも、石英や式でさえ、その力によって見えるものが何なのかよくわかっていなかったのだから、これは言葉で説明できるようなことではないのかもしれない。一家言あるらしい燐灰石にしてみれば、幽霊の存在はそう簡単なものではないらしいが、今はともかく幽霊みたいなもの、という認識でかまわないだろう。

 ともかく、そうして幽霊の後を追った空木が行き着いたのは、神隠しで亡くなった子が住んでいた家だった。だとすれば、この子はやはり――

 そのうち、女の子は家の表門をすっと通り抜け、忽然と姿を消してしまう。燐灰石の言うとおり、あの子は普通の存在ではなかったのだろう。

 幽霊が消えた家の門前に立つと、空木は複雑な思いでその佇まいを仰ぎ見た。

 家自体はわりと新しめの、よくある一戸建てだ。あやしげな空気をまとっているだとか、そんなことは一切ない。空木の目には、いたって普通の家に見える。

 しばし迷った末に、空木は意を決して門の横にある呼び鈴を押した。ありきたりな呼び出し音が鳴った後、しばらくすると、目の前にある扉は呆気なく開く。

「何か?」

 と応対したのは中年の女性だ。すぐに顔を出してもらえるとは思っていなかったので、空木は少しだけまごついた。

「あー……こちらに、近所のお子さんが迷い込んでいないかと思いまして。できれば、お話をうかがいたいのですが」

 空木がとっさにそう言うと、女性はあからさまに顔をしかめた。

「何のことでしょう」

 そのまま扉は閉められるかと思ったが、折よく近くを無音のパトカーが通り過ぎていく。それを見た女性は、はっとしたような表情を浮かべたかと思うと、周囲の目をはばかりつつ、空木に中へ入るよう促した。

「……どうぞ」

 どうも、周囲の人に見咎められるのが嫌らしい。

 さて、どうしたものか。と、少しだけ迷いはしたが、ここまで来て怖じ気づくわけにもいかないだろう。虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ――そんなことを考えながらも、空木は彼女の言葉に従った。

 表門を通って、家の中へと入り込む。空木は抜け目なく周囲を見回していたが、残念ながら幽霊の――消えた女の子の姿は見当たらなかった。

「それで? うちに何の用ですか」

 女性は空木を三和土まで通すと、その先に案内することもなく、険しい表情でそう問いかけた。喜んで迎え入れてくれるわけではないらしい。が、それも当然か。

 どう切り出したものかと思案しながら、相対する女性にあらためて目を向けた、そのとき――視界の端で奇妙なものが動いていることに気づいて、空木は思わず顔をしかめた。

 女性の背後で、丸く平たい何かがくるくると回っている。これは、いったい――

 空木にだけに聞こえるほどのささやき声で、式はこう問いかける。

「何が見えている。空木」

「歯車。いや、車輪が回って――」

 空木は呆然としながらも、そう答えた。女性は途端に表情を曇らせる。

「歯車……どうして、あなたがそのことを?」

 どういうことだろう。彼女には何か心当たりがあるようだが、空木には何のことだかさっぱりわからない。

 その戸惑いに、一応の答えを与えたのは式だった。

「空木。君が見ているのは、おそらく片輪車かたわぐるまだ、と石英が」

「片輪車?」

 空木は思わずそう問い返した。

 目の前の女性は――ひとりごとを言っているようにでも見えるだろう――空木にいぶかしげな顔をしながらも、時折どこか別のところに目を向けている。何か他に、気がかりなことでもあるかのように。

 そんなことはおかまいなしに、式は淡々とこう話す。

「片輪車は『諸国百物語しゅこくひゃくものがたり』にある話で、夜に街中を走る車輪の化けものだ。あるとき、女がそれをのぞき見たところ、片方だけの車輪が千切れた人の足を下げて転がっていた。しかも、その化けものは女に向かって、我を見るより我が子を見ろ、と言うので、あわてて子どもを見に行くと、その子の足が失くなっていた――という話だそうだ」

「また怪談かよ。だそうだ、って……それも石英が言っているのか?」

「いや。これは針鉄鉱が――」

「誰だよ。それは」

 呆れのあまりそう呟きながらも、空木の心中には何とも言えない苦い感覚が広がっていた。我を見るより我が子を見ろ――子を失った母親の背後で回るその車輪は、その母親のことを責め苛んでいるかのように思われたからだ。

 そのときふいに、空木は回る車輪の向こうに幽霊の――消えたはずの女の子の姿を透かし見た。その子は悲しそうな表情を浮かべながら、家の奥の方を指差している。

「奥に何か――いや、誰かいるんですか?」

 空木の何気ない問いかけに対して、女性は明らかにその身を固くした。これは何かあるだろう。いや、そもそも何かあるだろうと思っていたわけだから、それが確信に変わった、といったところか。

 ここまで来たからには、もはやためらってもいられない。

 覚悟を決めた空木は幽霊の示す場所に向かうため、目の前の女性を押し退けて、上がり框に足をかけた。相手は当然それを止めようとするが、叶わないとわかると、空木を突き飛ばしてまで先回る。

 幽霊が指差す先にあるのはリビングか――いや、その先につながっているらしい和室のようだ。廊下に面した戸を開けて、女性はその中にかけ込んで行く。

 そこにはいったい、何があるのだろう。

 女性を追って、部屋をのぞき込んだ空木が目にしたのは、畳の上に横たわる少女の姿だった。空木から隠そうとでもするかのように、女性はその前に立ち塞がっている。

 少女はかすかに寝息をたてているので、おそらくは眠っているだけだろう。行方不明の子だとは思うが、どうしてこの子がここにいるのか。

 空木は必死で考えを巡らせた。

 幽霊の姿はいつの間にか和室の片隅にあって、この状況を悲しげにながめている。その顔が、近くにある仏壇の遺影と重なった。

 真夜中に友だちを呼びに来る幽霊。しかし、その幽霊は、あのこをおうちにかえしてあげて、と言っていた。これは彼女が望んだ結果ではないのだろうか。わからない。ただひとつ、わかることがあるとすれば――

 空木は苦々しい表情を浮かべながらも、鋭い視線でにらみ返してくる女性の方へと目を向けた。彼女には、少なくとも見られて不都合なことをしているという自覚はあるらしい。

 空木は女性にこう問いただした。

「その子をどうするつもりです」

 彼女は何も答えない。片方だけの車輪は、今もその背後で回っている。

 戸惑う空木に、こそっと声をかけたのは式だった。

「どうやら、何らかの力が働いているようだよ。おそらく、死者は自分の意志でこの子を呼んだのではないのだろう。むしろ、それはこの子を呼び込むための――」

 皆まで言わせずに、空木は女性にこう言った。

「その子を夜中に呼び出していたのは、あなたですね」

 女性は強張らせていた肩を落としたかと思うと、深いため息をついた。そして、もはや隠し通せないと開き直ったかのように、少女の傍らに跪く。

 そして、どこか虚ろな笑みを浮かべながら、こう答えた。

「いいえ。うちの子ですよ。お友だちと走り回るのが大好きで。それで、遊んでもらったんです」

 空木はその答えに思わず顔をしかめた。

 彼女の背後では、車輪がなおも回り続けている。片隅の幽霊は痛ましげな表情でかすかに首を横に振った――気がした。どちらも実在するのものではない。式の力が見せている、本来なら見えないはずの何か――

 しかし、目の前で眠る少女は、間違いなくこの場に存在しているものだろう。だとすれば、呼び出したのはこの女性以外にはあり得ないのではないだろうか。ただ、それがどのようにしてこうなったのか、空木には全くわからないのだが。

 空木はさらに問い詰めた。

「この子を呼んだのはあなたでしょう。どうしてそんなことをしたんですか。あなたにならわかるはずだ。子どもを失う悲しみが。そうでなくとも、こんなこと、娘さんが望んでいるはずは――」

「あなたに、うちの子の何がわかるんです!」

 女性の叫びに、空木は思わず口をつぐんだ。

 確かに、空木には亡くなった子の気持ちなどわかるはずもない。ただでさえ、生きていた頃のその子とは、一度も会ったことがないのだから。ましてや、一番身近だったはずの母親にそう返されてしまっては、それ以上何も言うことはできないだろう。

 空木が黙り込んだのを見て、女性はどこか悦に入ったようにこう話す。

「あの子は寂しがっているんです。私にはわかります。だから、お友だちを呼んであげなくちゃ……」

 空木はふと、これはぽっかりと空いた穴だ、と思った。

 他人には理解できない、ぽっかりと空いた穴。どれだけの深さなのか。どれだけの痛みなのか。誰にもわからない――

 ふいに、人は死んだらそれで終わりだよ、という燐灰石の言葉を思い出した。そして、人はそこに恨みや心残りを勝手に見いだしたりする、という言葉も。

 この女性は、亡くなったその子を思うあまり、あるはずのない死者の心を見いだしてしまったのだろうか。しかし――

 空木は部屋の片隅で暗い顔をしている幽霊に目を向けた。

 あのこをおうちにかえしてあげて――この子は確かにそう訴えていた。それとも、それすら空木が都合よく見いだした心にすぎないのだろうか。

 空木が呆然としているうちにも、虚ろな目をした女は眠っている少女をふいに抱きかかえたかと思うと、こんなことを言い始める。

「そうね……いっそ、ずっと一緒にいてもらいましょう。あの子のために。そうすれば、きっともう、寂しくない」

 両輪の、片方を失ってなお走り続ける片輪の車。それがもはや、思いもしない方向に走り始めたことに気づいて、空木は思わず息をのんだ。

 この人は、いったい何をするつもりだろう。まさか、この子を道連れにするつもりなのでは。

 眠る少女は目覚めることもなく、ぐったりとした体を女の腕にゆだねている。どうにかして、この子を彼女から引き離さなければ――

 焦る空木に、声をかけたのは式だった。

「空木。十字石だ」

 そういえばそうだった。他の石と違って全く主張しないものだから、存在を忘れかけていた。しかし、石英がわざわざ持たせたのだから、この石にはこの場をどうにかする力があるはず。

 名を呼ばれたからか、そこでようやく十字石は言葉を発した。

「止めても、よいのだな?」

「こんなこと、止められるものなら止めてくれ!」

 とはいえ、この状況でいったい何ができるというのだろう。不安のあまり、思わずそう叫んでしまった空木に向かって、式は平然とこう返す。

「大丈夫。十字石が立ち塞がれば、その先には誰も通れない」

 空木の元から逃れようと、少女を抱えたまま足を踏み出した女性の前に、何か細長い棒のようなものが現れる。それは彼女の歩みを阻むように、その眼前に屹然と横たわった。

 差し出された棒をかまえているのは、いつの間にか姿を現した青年だ。もしかして、これが十字石の姿なのだろうか。

 体格のよい、見るからに偉丈夫といったその青年は、女性に向かって力強くこう言い放つ。

「汝、この先を通ること、まかりならん!」

 女性の歩みが止まる――いや、まるで透明な壁に阻まれたかのように、その先に進むことができないようだった。

 しかし、そうしてよろけたがために、彼女は抱えていた少女を取り落としそうになる。空木はあわててかけ寄ると、眠る少女をどうにか受け止めた。

 十字石に止められた女性は、もはやその場から一歩も進めないらしく、憮然とした顔でその場に立ち尽くしている。そして――

「……ここどこ? お母さん?」

 空木の腕の中で、少女はふいに目を覚ました。

 自力で体を起こした少女は、きょとんとした顔で辺りを見回している。体調などに問題はなさそうだ。そのことに、空木はひとまずほっとする。

 部屋の片隅にいた幽霊は、いつの間にかいなくなっていた。女性の背後にあったはずの車輪も消えている。これですべては終わったのだろうか。しかし――

 ぽっかりと空いた穴は、どうなるのだろう。空木はふいにそう思った。

 空木は悄然と佇む女性の表情をうかがい見る。それまでの激しい感情も消え去って、彼女はもはや、考える気力すら失ってしまったかのようだ。

 空木は哀れに思って、彼女に何かしら声をかけようとした。とはいえ、この状況で空木にかけられる言葉があるだろうか。それでも何か。何かないか。そう思って、空木はどうにか言葉を探す。

 考えた末に、空木の口から出たのはこんな言葉だった。

「人は死んだら、裁きを受けることになるんです」

 女性はけげんな顔で空木のことを見返した。空木は淡々と続ける。

「その結果によって、次に生まれる先が決まります。故人のために行われる法要は、よりよい世界に生まれ変わるため、その裁きに慈悲を乞うものなんです。だからどうか、娘さんにもう、これ以上の罪を背負わせないでください。娘さんのことを思うなら、どうか」

 ただの方便だ。しかも、たいした知識もないから、かなりいいかげんなことを言っている。この場に兄がいたとしたら、烈火のごとく怒られていただろう。

 それでも、亡くなったその子を知らない空木には、そんなことくらいしか話せない。

「あなたには、亡くなった娘さんのために何かをしてあげたいという思いがあったのでしょう。でも、その子にとって、今はひとりでがんばらないといけないときなんです。次に進むために。あなたにも覚えがあるんじゃないですか。心配でも、一歩引いたところで見守らないといけないときが。できることは、ただ祈ることだけ。今がそうなんです。それをわかってあげてください」

 それを聞いた女性の表情は、みるみるうちに歪んでいく。そうして、その場でくずおれると、両手で顔をおおいながら、声を上げて泣き始めた。

 さっきまで眠っていた少女が、突然のことにぽかんと口を開けている。何も知らないこの子にこんな姿を見せるのは忍びないだろうと思い、空木はこの場から連れ出そうとしたのだが――少女はもじもじしながらも女性の側に近づいていくと、気づかうような声音でこう言った。

「きいちゃんのお母さん。きいちゃんがいなくなって、私もさみしいけど……おばさんも、元気を出してください」

 何もわからない、などと思ったのは、空木の思い違いだったようだ。むしろ、友だちを失ったこの子の方が、子を失った彼女の悲しみに寄り添う相手としては相応しかったのかもしれない。

 空木の言葉なんかより、この子の素直な言葉の方が、きっとこの女性の心に届くだろう。そう思って、空木は軽く苦笑する。

 空木はひとまず、心配しているだろう少女の姉に、妹が無事であることを連絡した。彼女から両親に事情を伝えてもらって、どうにか穏便にことがおさまればいいとも思う。空木には、それ以上できることはない。

 家族が迎えに来るまで、少女はジュースとお菓子をもらって機嫌よく過ごしていた。それを横目に、空木は女性からここに至るまでの経緯を聞く。

「あの子がどうしてあんなことになったのかを知りたくて、関係がありそうなところには、何度も足を運びました。そのうち妙な噂を聞いたので、試してみると祠のようなところにたどり着いて……そこには願いごとのようなものが書かれた紙がたくさんあったんです。それを見て、私もふと書いてみようと思い立って。そうしたら――」

 彼女が話しているのは、深泥池の噂のことだろう。空木は祠まで行ってはいないが、その場所が実際にあるらしいことは槐から聞いている。

「ある日、石と、それについての手紙が送られてきたんです。この石があれば、条件がそろったときだけ、またあの子に会える、と――」

 呪いを求めた者に何らかの力を持った石を与える。それが深泥池の祠で行われていたことだったらしい。だとすれば、それを与えたのは――国栖の葉か。

 女性はそこで息をつくと、空木にひとつの石を差し出した。石の中に鈍色の歯車のような形のものが埋まっている、そんな奇妙な見た目の石だ。空木が歯車と言ったことに反応したのは、これを持っていたからなのだろう。

 女性はさらに、こう続ける。

「夜になると、お友だちと遊んでいるあの子の姿が私にも見えました。私はただ、あの子が遊んでいる、その姿が見られるだけでよかった……それだけでよかったんです。お友だちも、何も覚えていないようだし、ちゃんと家に帰って行くので、問題はないだろうと思っていました。でも」

 女性はそこで言い淀むと、すぐそこにいる少女に気づかうような目線を送った。今の彼女には、さっきまでにあった危うさは見受けられない。

「昨夜は疲れてその場で眠ってしまったみたいで――置いて行くわけにもいかず、連れて来てしまいました。申し訳ございませんでした……」

 この女性も、決してあの子を傷つけようなどとは思っていなかったのだろう。自分の行いを悔いたように深く頭を下げるその姿に、空木は内心でほっと胸を撫で下ろした。




「これは……車骨鉱しゃこつこうですね」

「はあ。車骨鉱。そんな石があるんですか」

 店に戻った空木は、女性から渡された奇妙な石をさっそく槐に見てもらっていた。槐はその車骨鉱とやらを手に取ると、ためつすがめつしながらも、こう続ける。

「車骨鉱は鉛、銅、アンチモンから成る硫塩鉱物りゅうえんこうぶつの一種です。くり返し双晶を成し、その形がまるで歯車のように見えることからその名がつきました。英語名はボーノナイト。こちらはフランスの鉱物学者にちなんだ名です」

 鉱物としての話はともかくとして、とにかく、この車骨鉱が亡くなった子の幻を見せていた、ということらしい。それが空木の目には、式の力によって片輪車に見えていたのだろう。

 少なくとも、幽霊さわぎについてはこれで解決したことになる。残念ながら、調べていたはずの神隠しについては、たいしたことはわかっていないのだが。

 それにしても――やはり石だ。

 今日だけで、空木はいくつの石の名を耳にしただろうか。たかが石だと思っていたが、この店に関わるつもりなら、それについてもっと知っておいた方がいいのかもしれない――と、空木もさすがに考えをあらため始めていた。

 そうでなくとも、例の部屋にある石にはそれぞれに特別な力がある、ということなのだから、それだけでも把握はしておくべきだろう。そうすれば、石英に振り回されるようなこともないのかもしれない。

 とはいえ、あれだけの数の石をひとつひとつ理解し、かつ友好的な関係を築こうと思うなら、けっこう骨が折れる気がしなくもないが――空木は自分がよくわからないことに首を突っ込んでいるという事実を、今さらながらひしひしと実感していた。

 ひととおりの事情を話し終えて車骨鉱を槐に託した空木は、次に石の部屋へと向かう。

 中に入るなり石英は人の姿を現したが、空木は何を言う気にもなれなかった。何だかひどく疲れていたからだ。肉体的に、というよりは、気疲れといったところだろう。

 それでも空木は、ふたつの石――燐灰石と十字石――を棚に戻すときには、誰にともなくこうたずねた。

「結局、亡くなった子の姿を見せるっていうのも、呪いってことでいいんだよな。やるせないというか、何というか。俺が思ってた呪いと違うんだが」

 呪いというと――例えば、藁人形に釘を打って恨みを晴らすような――そんなものだと、空木は思っていた。しかし、車骨鉱はただ亡くなった子の姿を見せていただけだ。それは、強い感情をぶつけてでも何かを変えようとするような呪いと比べると、先がないだけむしろ残酷な気もしていた。

 石英は肩をすくめて、こう答える。

「呪いなんて、そんなものだよ。呪い、あるいは、まじない、と呼んでもいいが――それらは結局のところ、人の心に起因するものだからね。内に向くか外に向くか、といった違いはあるだろうけれども。まあ、今回のことは幻を見るために演者が必要で、それにつき合わされた子がかわいそうだったね。あまり長く関わっていれば、悪い影響もあっただろうし」

 空木が行方不明の少女を見つけたとき、その子が昏々と眠っていたことを思い出した。たとえ覚えてはいなくとも、真夜中にそう何度も呼び出されたとあれば、影響がないわけはないだろう。

 空木は思わずため息をつく。

「それにしても、何のためにこんなことをしたんだろうな。あの人にあんな石を渡して、それでいったい何になる?」

 それは、あの女性から話を聞いて以来、空木がずっと考えていたことだ。深泥池で国栖の葉が行っていたことは知っているが、その結果を目の当たりにして、空木はあらためて彼女の考えがわからなくなっていた。

 そんな空木の物思いになど気づくことなく、石英は冷淡にこう返す。

「何のために――って、それは片輪車の呪者のことを言っているのかい? くもの考えることなんて、僕にわかるはずもないさ。ひとつひとつの呪いには、さしたる意味があったわけではなさそうだし。まあ、やっていること自体は、槐と大差ないだろうけれども」

 石英の言葉に引っかかりを覚えた空木は、思わずこうたずねた。

「大差ないって……その言い草はどうなんだ?」

 槐と呪いの依頼を受けることを、石英があっさりと同列にしたことに、空木は少なからず驚いていた。確かに、怪異に対抗するために槐も石を渡しているが――共通するのは、その石を渡すという行為くらいだ。それとも、そうではないのだろうか。

 困惑する空木に、式は苦笑まじりにこう返した。

「呪いやまじないというものは、不安定なものなんだ。こちらが善意で何かをしたとしても、それが相手にとっていい結果になるとは限らない。むしろ、そう思い込んでしまうことの方が危ういよ。空木」

 式の言葉に、石英はうなずいた。

「そういった危うさは、槐はわかった上だろうけれども、君は関わってまだ日も浅い。あまり入れ込まないことだよ。君はどうにも、そういうところがあるようだからね」

 他者を理解できる自分に固執していることを見抜かれた気がして、空木は思わず黙り込んだ。たとえ、どれだけ相手に寄り添いたいと思ったとしても、本当にそれができるかどうかはわからない。そのことは、今回の件で身に染みてわかったことではある。

 ともかく、幽霊さわぎについてはこれでどうにか終わったとして、神隠しの件については、また後日話し合うことになった。

 石英と別れて、空木は店を後にする。家に帰るまでの間、空木はずっと考え込んでいた。

 いつだったか、国栖の葉が深泥池での行いの理由を、かわいそうだったから、と言っていたことを思い出す。あのとき空木は、そんなことが理由ですか、と言ってしまったが、思い返してみると、あれは彼女の本音だったような気もした。そうでなければ、あの場であんな風に答える必要もなかっただろう。

 そう考えることもまた、空木の独りよがりなのかもしれないが。

 国栖の葉は、何を思って子を亡くした母親にあの石を与えたのだろうか。もしも、本当に相手を哀れむ気持ちがあったのだとしたら。いや、だとすれば、なおさら――

「……それでは誰も救われないよ」

 届くはずのない言葉だったが、それでも空木は、ぽつりとそう呟いた。

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