第二十二話 閃亜鉛鉱 前編
学生の頃、授業の合間にはいつも、教室で楽しそうに話す彼女の声を聞いていた。
彼女はクラスの中心人物で、何かの行事ごとには皆を引っ張っていく――そんな陽の中にあるような存在だ。対して自分は日陰の者で――といっても、別に追いやられたというわけではなく、好きこのんでそうしていたわけだが――似たような者たちと、教室の片隅で静かに過ごしているのが常だった。
狭い教室でのことだから、よく通る彼女の声は意識しなくても耳に入ってくることになる。そして、そんな彼女の話し声を聞くのが、実のところ自分にはひそかな楽しみでもあった。
いつの日だったか、彼女がこう言っていたことを思い出す。
「将来は女優になるんだ。舞台女優。東京に行って、絶対に有名になるんだから。覚えておいてよね」
日陰の者にはまぶしくも思える彼女の夢。しかし、それは彼女には相応しい未来のように思えた。そして、そんな未来が訪れることを、疑いもなく信じていたように思う。
同じクラスというだけで、彼女とはほとんど話をしたこともないのに。それは恋といった感情とは明らかに違っていて、あえて言葉にするなら、憧れだっただろうか。
それでも、そう思っていた自分でさえ、彼女の存在が後の人生にこれほどの影響を及ぼすとは、そのときは考えもしなかった。
今でも、たまに思い出す。教室という舞台で楽しそうに話す彼女の声と、それを聞いているひとりの観客であった自分。そんな、ひそやかでささやかな喜びの時間を。
けれども、そうして彼女の声を聞くことができる時間は、もう二度と訪れない。
凍えるような冬を越えた先。寒さがほころび始め、暖かな春がようやく訪れようとしていた、そんな季節に――彼女は
京都の街中にあって妙に静かなその通りには、似たような外観の町屋が並んでいる。
遠い記憶を頼りにここまでやって来たものの、どうやらいよいよ迷ってしまったらしい。そう思った矢先、格子戸の傍らに石が吊るされているところを見つけて、老年の男はおそらくここだろうと当たりをつけた。
周囲を見回してみたが、呼び鈴のようなものはない。仕方がないので意を決して格子戸を開けてみたが、その先には誰の姿もなかった。左手の板戸が閉め切られているせいか、真っ直ぐに伸びる通り庭は薄暗い。
中に入ることをためらっていると、通路の先から届く日の光が、ふいに何かにさえぎられた。誰かがそこにいるようだ。近づいてくる人影に、男はとっさに会釈をする。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。あなたは……」
そう言ったのは、どこか人懐こそうな青年だった。この顔は、いつかどこかで見たような気もするが――
そんなことを考えていると、相手の方は男に覚えがあったのか、特に戸惑う風もなくこう話し出した。
「すみません。榧さんは不在で……しばらくは帰らない予定になっています」
榧は確か店主の名だ。ここが目的の店だとわかって、男は内心でほっとする。
青年はさらにこう続けた。
「榧さんは店主を引退していまして。今は夫婦で、気ままに日本各地を旅して回っているんです」
思いがけず長い時間が経ったことを実感して、男は軽く目を見開いた。しかし、自分も同じように年をとったことを思い出し、苦笑する。
「そうでしたか。急に来ることを思い立ったものですから。連絡先もわからず、場所すら曖昧で……ご都合が悪ければ、出直します。実は――長い間お借りしていた石を、返しに来たのですが」
男の言葉に、青年はうなずいた。
「では、座敷へどうぞ。今は榧さんの甥にあたる、槐という者が店をやっておりまして。お呼びいたしますので、少々お待ちください」
そう言って、彼は男に通り庭の先を示す。そちらへ向かう前に、男は気になっていたことを彼にたずねた。
「失礼ですが、君とはどこかで会ったことがありますか? お顔をお見かけしたことは、あるような気がするのですが……」
青年は苦笑を浮かべながら、こう答えた。
「ええ。お会いしていますよ。この店で。実のところ……僕も人ではないので」
その言葉に、はっとした。普通の青年のように見えていたが、だとすれば彼もまた――
初めてこの店を訪れたときのことを思い出す。確かに、そうだ。あのときも、同じように応対してもらったではないか。
同時に、この奇妙な感覚の理由が腑に落ちた。数十年の時を経ているというのに、彼の外見は記憶の中の姿と全く変わっていなかったからだ。
青年はその若々しい容貌に不釣り合いな、どこか老成した表情を浮かべながら、男に向かってこう言った。
「懐かしいですね。あなたか初めてここに来られたときは、まだお若くて……でも、すぐにわかりました。あらためて、いらっしゃいませ。それから」
青年はその視線の向かう先を、ふと男の顔から外した。その先にあるのは――
「おかえりなさい。
男が懐にしまい込んだ、ひとつの石。その石の存在がわかるかのように、青年はそう話しかけた。
* * *
高校に入学した年の、五月の中頃だっただろうか。校庭にひとりでいたところ、ふいに声をかけられた。
「あなた、ひとり?」
学校の片隅にある、何かの銅像の前だ。その囲いの縁に座って、風景をスケッチしていたところだった。
「えっと……すみません」
と答えてしまったのは、声をかけられるとは思っていなかったからだ。突然のことに驚いて、とっさにそう口にしてしまっていた。
彼女は笑いながら、こう返す。
「どうして謝るの。ひとりでいたから、なんでかな、って思っただけ」
なぜひとりでいるのか――そんな無邪気な問いかけに、しばしどう答えるべきかを迷う。
ここにこうしている理由は、これが美術部としての活動だからだ。しかし、それではひとりでいる理由にはならないか、と思い直して、そう答えることは思いとどまった。
そんな風に逡巡しているうちにも、彼女は手にしていたスケッチブックのことに気づいたように、じっとそちらに目を向けている。見せるようなものでもないが、変に隠すのもおかしいと思って、彼女にそれを差し出した。
「私、美術部で……それで、ここで絵を描いてたんです」
お世辞にも上手いとは言えない絵。彼女はそれをまじまじと見つめてから、なるほど、と呟くと、顔を上げて背後を――つまり、絵に描かれていた方を見やった。
「いい場所だね。ここ」
その言葉に、はっとする。
視線の先には一本の大きな木があって、その風景は周囲の建物も含めて絵になった。しかし、ここは生徒があまり通らない場所で――通ったとしてもその風景を目に止めることなど、あまりないだろう。
自分だけが見つけた、とっておきの場所。だからこそ、彼女にそう言われたことは下手に絵を褒められるよりもうれしい気がした。
何にせよ、取るに足らない会話だ。しかし、それが彼女との交流の始まりだった。
絵を描くことが好きだったので、美術部に入部すること自体には何の迷いもなかった。
しかし、それについては結果的に良い判断ではなかったかもしれない。そう考えを変えるに至った主な理由は、部内で親しい友人ができなかったから――ただ、それに尽きる。
ただでさえ、この学校の美術部は部員が少ない。三年生は受験でほとんど姿を見せず、二年生はひとりだけいるにはいるらしいが、美大を目指すことになったとかで、結局は籍があるだけらしい。
同級生はというと――別のクラスの仲の良い子たちが集まって入部してきたようで、その輪に入ることは難しかった。放課後になると、彼女たちはたいてい部室で楽しくおしゃべりをしている。どうにも居心地が悪いので、仕方なく外でスケッチをすることが多くなっていた。
そうして、その日もひとりで絵を描いていると――
「こんにちは」
と彼女に再び声をかけられたのは、初めて会ったところとは別の場所――体育館の近くだ。苦手な人物の描写を練習してみようと、運動部の人たちをひそかに描いているところだった。
こんにちは、と返して、相手のことを見返しているうちに、ふと彼女のことをたずねてみようという気になった。以前に会ったときには突然すぎて気が回らなかったが、彼女がひとりでいる理由が気になったからだ。
「その……あなたは、ひとりで何をしてるんですか?」
彼女はその問いかけに、にこりと笑う。
「よくぞ聞いてくれました。私はね。部員を探して回ってるの」
「部員?」
思わず首をかしげると、彼女は大きくうなずいた。
「そう。演劇部を作りたくて。この学校にはないでしょう? もしかして興味ある? 演者じゃなくても、あなたなら――そうね。舞台美術とか、どう?」
突然の提案に驚いて、とっさに何も言えなくなる。舞台美術。いったいどんなことをするのだろう。演劇なんてほとんど見たことがなかったので、想像もつかなかった。
そうでなくとも、自分はひとりで黙々と何かをすることの方が得意だ。しかし、大勢で作り上げるような舞台となれば、そうはいかないだろう。だとしたら――
返答に迷っているうちに、こちらが困っていることを察したのだろう。彼女は苦笑いを浮かべた。
「何てね。実のところ、部員なんて全然集まってないの。だから、作れたとしても、まだまだ先の話。もしよかったら、そのときまた考えてね」
そんな言葉にほっとする。誘ってもらって申し訳ないが、自分にできるようなことだとは思えなかったからだ。
「えっと……がんばってください」
口にしてから、おざなりな言葉だな、と思ったが、彼女は気を悪くした様子もなく、ありがとう、と笑っていた。
放課後に時折会うだけの友だち――彼女とは、そんな感じの関係が続いていた。
この学校は生徒の数が多いので、同じ学年であっても、関わりのないクラスだと顔を合わせることもない。わざわざ会いに行くつもりもなかったので、同級生らしい、ということ以外、彼女のことは何もわからないままだった。
彼女に声をかけられるのは、決まってひとりでいるときだけ。それも、ひとことふたこと言葉を交わして別れることがほとんどだ。
そうしたささやかな交流の中、彼女にこんなことをたずねたことがある。
「どうして、演劇なの?」
特に深い意味があったわけではなかったのだが、彼女はずいぶんと悩んだ挙げ句に、こう答えた。
「私にとって、生きることは演じることだから、かな」
演劇が好きだとか、そういう言葉が返ってくると思っていたので、彼女のどこか哲学的なその答えを少し意外に思う。
「人生を演劇に例えるとか……そんな話は聞いた覚えがあるけど」
とっさにそう返したが、彼女はどうにもしっくりこないかのように、首をかしげた。
「うーん……それは逆、かなあ。人生とかを表現するのが、演劇。だって――生きるって、演じるよりも遥かに難しいことだから」
彼女はそう言うと、しんみりとした表情でどこか遠くへと目を向けた。いつもの快活な印象と違う、そんな横顔を見てしまうと、彼女の背景を知らないこともあって、途端に何も言えなくなる。そうして、彼女の言葉はまるで反響するかのように、頭の中を巡っていった。
生きることは、確かに難しい。
不器用な自覚のある自分は、その言葉に共感を覚えた。ただでさえ、漫然とした日々が終わりへと近づいている時期――ようするに、己の進路を決めなければならない時期がやってきていたからだ。
その日は、彼女と初めて会った場所に座って、目の前の景色をただながめていた。
「今日は絵、描いてないんだね」
いつものように、そう声をかけられる。彼女の言うとおり、そのときはスケッチブックも筆記具も、何も持ってはいなかった。
「何かあったの?」
彼女は心配そうに、そう問いかけた。考えがまとまらないまま、口をついて出たのはこんな言葉だ。
「私には何もないんだなって。唯一あったのは絵を描くことだったけど、それだって人に誇れるようなものじゃない……」
そう言ってから、それだけでは相手には何も伝わらないことに気づいた。しかし、何をどう話していいかわからない。
それでも彼女は、次の言葉を待っている。今しがたあったできごとを思い出しながら、あらためて話し直すことにした。
「そんなことでどうするんだって、言われちゃって。進路面談で、先生にね。私なんて何の取り柄もないし、得意な教科だってない。絵を描くことは好きだけど――それだけではどうにもならないんだって、そんなことは私にもわかってる。けれども……それを突きつけられると、本当に私には何もないんだなって」
そうやって心の内を口にすると、堰を切ったように次々と言葉があふれ出した。
「美術部にいるのもね、家にいると――お遊びの絵ばかり描いて、そんなことで、この先どうするのって、お母さんに言われちゃうからなんだ。そんな風に言われるから、家では絵を描けなくなった。でも、お母さんの言っていることは、間違ってないと思う。絵を描くことは好きだけど、だからこそ、こんなことをしていていいのかなって不安になってくる。結局ずっと逃げているだけじゃないかって……」
そう言って、ため息をついていると、ながめていた景色の中にふと彼女の姿が入り込んできた。彼女はそのまま、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「逃げる先ってさ。自分にとっては安心できる場所ってことでしょう。それだけ好きってことなんだと思うよ。絵を描くことが」
それは――そうだ。しかし、先のことを思うと、好きなことばかりをしてはいられない、と考えてしまうこともまた事実だろう。
だからこそ、彼女の言葉には苦笑いを浮かべた。
「好きなだけでは、どうにもならないことだってあるよ」
少し投げやりにそう返す。彼女はしばし無言で考え込むようだったが、ふいに振り向いたかと思うと、その先の景色をながめながら、こう話し始めた。
「そうだね。生きるって難しいことだから。人生には台本もない、明確な役もない、素敵な衣装や舞台が用意されるかはわからないし、科白や演技をちゃんと指摘してくれる人だって、いるとは限らない……」
そう話しているときの彼女は、どこか寂しげだ。いつだったか彼女が言っていた、生きるって演じるよりも遥かに難しいことだから――という言葉を思い出す。
「でも、だからこそ人は演じるし、それを見るんだと思うの。そこに手探りで求めている自分だけの生き方の、手がかりになる何かを探して――きっと、生きるってそういうことなんだよ」
振り返った彼女は、やさしく――しかし、どこか悲しげな笑みを浮かべていた。彼女の発したその言葉の奥底に、何かつらい記憶が隠れているかのように――
「私はあなたに明確な生き方を与えることはできない。でも、忘れないで。人生という難しい舞台に立っているのは、誰だって同じ。うまくやれる人もいれば、そうではない人だっているはず。だからこそ、たくさんの……誰かの生き方を知ってみて。それは現実にいなくてもいい。舞台の上でもいい。演劇を見るのでもいいし、絵を見るのだっていいの――それは誰かが描いたものだから。あなたの方法で、それにふれてみて。そのことはきっと、無意味じゃないから」
彼女からアドバイスを受けたその日から、自分だけのとっておきの場所を探す毎日が始まった。未来というまだ真っさらなキャンバスに、どんな絵を描けばいいのか。その答えを見つけ出すために。
考えた末にまず足を運んだのは、やはり絵に関する場所だった。好きな画家の個展や、美術館での展覧会、あるいはアート系のイベントなど。
いつもであれば、ただ好きな絵を見るためだけに訪れるのだが、このときばかりはその心持ちも違っていた。それらの絵を描いた人はどんな生き方をしたのか。どんな思いでこの絵を描いていたのか、そんなことを考えていたからだ。
自分とは、全く違う誰かの人生。それはそのままを自分のものにすることはできないけれども、だからこそ、唯一無二である自分の人生をどうしたいのか――それを考える
もちろん、ただそれだけですべての迷いが晴れたわけではない。そうしたことをとっかかりにして、考えて考えて考え抜いて、迷いながらも自分が描くべき場所を見定めていった。
そうして、まだぼんやりとしたものではあったが、どうにかその答えを求めて歩み始めた頃には、夏の暑さは秋の涼しさに変わり、それを感じる間もなく身を切るような底冷えの時期がやって来る。
そうして、凍えるような冬を越えた先。寒さがほころび始め、暖かな春がようやく訪れようとしていた、そんな季節に――
「そっか。合格したんだ。よかった」
誰もいない校舎の廊下。そこで希望の大学に合格したことを報告すると、彼女は自分のことのように喜んでくれた。
文化祭が終わってからは美術部で活動することもなくなっていたので、彼女と話をするのは久々のことだ。今までは声をかけられるのを待つばかりだったが、このときばかりは、どうにかして彼女に報告したいと校内を探し回っていたところ、卒業式を前にして、やはり彼女の方から声をかけられたのだった。
嬉しさのあまり、感極まってこう返す。
「ありがとう。自分には何もない、とか――そういう弱音は、クラスの友だちには話しづらくて。あなたに聞いてもらえてよかった。おかげで、自分なりの答えを見つけた気がするから」
その言葉にほほ笑みを浮かべながらも、彼女は深くうなずいた。
「あなたなら、この先もきっと大丈夫。私の方こそ、今までありがとう。いろいろと話をしてくれて」
何てことはない、ひとことだ。しかし、何かが妙に引っかかった。
声の感じか、表情だろうか。寂しげでもなく、悲しげでもない。それでも心をざわつかせるような何かがそこにはあった。
あるいは、今まで彼女が被っていた仮面が、その一瞬だけほんの少し剥がれてしまったかのような――
そんな考えに囚われて、思わずこうたずねてしまう。
「どうしたの。何だか、いつもと感じが違う気がするけど……何かあった?」
その言葉にはっとして、彼女は表情を取り繕う。そうして、いつものように明るく笑ってみせたが、抱いた違和感が消えることはなかった。
「だって、明日はもう卒業式だもの」
言い訳をするようにそう答えと、彼女はくるりと踵を返した。
「それじゃあ」
軽い調子でそう言いながら、彼女はこの場を去っていく。会うたびに、何度となく交わした言葉。だから、それが彼女との別れになるなんて、そのときは思いもしなかった。
* * *
「お願いだから、もうここには来ないで」
そんな言葉とともに腕を引かれたのは、部室棟にある例の部屋の前だった。
姉が所属していたサークル、古都文化研究会――その部室に花梨が入ろうとした、まさしくその直前。
現れたのは、茴香と一緒に訪れたときにも声をかけてきた先輩だった。あのときは、どうして深泥池に行ったのか、とまるで責めるような口調だったが――
そのときよりは幾分か落ち着いた様子で、しかし、それでも険しい表情を浮かべながら、彼女はさらにこう続ける。
「あなたが探しているものはここにはない。だから、もうここには来ないで」
そう言って、彼女は花梨の腕をつかんでいた手に力をこめた。突然のことに呆然としていた花梨だが、これにはさすがにぎょっとして、その手を振りほどこうとする。
とっさの抵抗に逆らって相手がさらに強くその手を引いた、ちょうどそのとき。ふいに目の前の扉が開いた。
「あれ。どうしたの。
中から顔を出した青年は、そう言って先輩と花梨を交互に見た。先輩は驚いた顔で花梨の腕から手を放したかと思うと、部室の方をちらりと見やってから、すぐさま踵を返してしまう。
青年はけげんな顔で立ち去る彼女の背を目で追っていたが、それが見えなくなると、その場に残った花梨の方へと視線を向けた。
「あー。その……やあ。ここに何か用かな」
少しばつが悪そうにそう声をかけた彼に、花梨は会釈をしながらもこう返した。
「こんにちは。
彼とは何度か会ったことがある。大学に入ってすぐ、姉のことを調べていたときにサークルの勧誘を行う場で知り合って、話を聞かせてもらう約束をしていた。
ただし、それに関しては、結局うやむやになってしまったが――なぜなら、そのとき黒い影が現れて、それどころではなくなってしまったから――つまり、黒曜石と出会った、そのきっかけのできごとのときに会うはずだった相手だ。
「あー。その節は、その。悪かったね。あれから連絡もせずに。まあ、お互い何もなかったようで、何より……」
しどろもどろにそう話す彼の背後から、ふいに別の誰かの声が聞こえてくる。
「化けものを見たとかで、怯えて逃げたときの話? あのあと、しばらく部屋に引きこもって出てこなかったらしいじゃない。それなら――そう、あなたが鷹山さんの……」
部室には、彼以外にも人がいたらしい。中をのぞいて見ると、眼鏡をかけた女性の姿が目に止まった。花梨にとっては初めて見る顔だ。
彼女は花梨のことをじっと見ていたかと思えば、すぐに手元のノートパソコンへと視線を戻してしまう。都島の方は花梨を部室に入るよう促しつつも、こう言い訳し始めた。
「いやあ。あのときは、ついに俺のとこにも来たか、て思っちゃったんだよね。バイク事故のときもさあ、あいつ言ってたし。現場で血まみれの男の姿を見たんだ――とか、何とか」
黒い影のことは、どちらかというと花梨の方に原因があったのだが、都島の方はそう思ってはいないらしい。かといって事情を説明するのも難しいので、それに関してわざわざ訂正するのはやめておくことにする。
それよりも、見知らぬ相手が自分を知っていたことが気になって、花梨は思わずこう言った。
「私のことをご存知なんですね」
初めて会う彼女に向けた言葉だったが、応えたのは都島の方だ。
「そんなかしこまらなくていいよ。君はここではけっこう有名人だから。いや、変な噂とかは抜きにして。お姉さんと、かなり仲がよかったでしょ。ことあるごとに君のことを話してたからなあ。鷹山さん」
彼女が花梨のことを意味深に見ていたのは、噂云々ではなく、姉が原因だったようだ。いったい、どんな話をしていたのだろう……
ともかく、花梨は気を取り直すと、あらためて都島の方に向き直った。
「それから、その……先ほどおっしゃっていた、ついに来たか、というのは、やはりこのサークル内で不幸が続いていたことでしょうか」
花梨がひとまずそうたずねると、都島は困ったような表情を浮かべつつも、こう答えた。
「まあ、ね。さすがにもういろいろ知ってるか。その割りには、君はあんまり怖がってないみたいだけど。やっぱりまだ鷹山さんを、お姉さんを探している――んだよね。今日は、そのことで?」
花梨はうなずいた。
「ええ。でも、先ほど部室の前で、探しているものはここにはない、と……どういうことでしょう。姉のことでしょうか。それとも――」
花梨がそう言うと、都島は苦々しい表情を浮かべながら目を泳がせた。
「あー。
「白々しい」
と口を挟んだのは、部屋の片隅で我関せずといった風にキーボードを打っていた女性だ。
「呪いだの何だの、彼女が一番さわいでたじゃない。今さら恥ずかしくなったんじゃないの。自分の発言を知られるのが嫌だったんでしょ。鷹山さんが呪われてたんだから、その妹も危ない。近づくなって、散々言ってたし」
彼女の言葉に、都島は苦笑した。
「あのときは、みんなどこかヒステリックだったから……
「当たり前でしょう。呪いだの祟りだの馬鹿馬鹿しい。そんなことで、みんなここに来なくなって。まあ、静かになったのをいいことに、いい休憩所として利用させてもらってはいるけどね」
芦屋と呼ばれた女性はそこでようやく、ぱたりとノートパソコンを閉じた。
「都島くんだって、しばらく顔を出してなかったじゃない。今日はここに何しに来たの」
「今年の新入生の勧誘とか、どうするのかなって」
「呑気なものね」
芦屋の冷ややかな返しにたじろぎながらも、都島は逃げるように花梨へと向き直った。
「まあ、それはいいとして、えーと……鷹山さん。聞きたいことは何かな。君のお姉さんのことは、俺も心配はしているからさ。できる限り協力するよ。俺に答えられることなら、だけど」
その申し出にうなずくと、花梨はさっそくこうたずねた。
「ありがとうございます。それなら、まず……姉が失踪する前のことですが――姉は深泥池に行ったんでしょうか?」
花梨の問いかけに、都島と芦屋は顔を見合わせた。首をかしげながらも、答えたのは都島の方だ。
「鷹山さんが深泥池に行ったか、ねえ。というか、みんな行ってたんじゃないかな。一時期流行ってたし。まあ、誰が行って、誰が行ってないかなんて、さすがに把握してないけど」
「都島君は行ったの?」
芦屋の問いかけに、都島は乾いた笑いを浮かべている。
「いやあ。俺はほら。興味があるのは、古戦場とか武将の首塚とかだから。オカルトは守備範囲外で――」
「ビビりなだけでしょ」
芦屋の辛辣なひとことにしょんぼりとしながらも、都島は花梨に向かってこう答える。
「鷹山さんが行ったとは断言できないけど、そもそも噂の出所は、鷹山さんと仲の良かった誰かだったような気がする。彼女と親しかったのは、
都島のおぼろげな発言を、芦屋が引き継ぎこう言った。
「宝坂さんの方だったと思う。確か、弟から聞いたって。願いを叶えられる、とか何とか」
願いを叶える? 呪いを引き受ける、という話から、だいぶ内容が変わっている気がするが――とはいえ、そこで石を手に入れた人たちのことを考えると、ある意味では、願いを叶える、でも合っているのかもしれない。
都島はこう続ける。
「宝坂さんは大学中退しちゃったんだよね。戸隠さんは……今は何してるのかな。ここには来てないみたいだし、近頃は大学内でも見かけなくなった気がする」
姉と親しかったという人たちの名前を、花梨は頭の中でくり返した。とはいえ、その人たちに話を聞くのは、どうやら簡単なことではなさそうだが――
それまで調子よく話をしていた都島だが、何か言いにくいことでもあるのか、そのときふいに口をつぐんだ。問いかけるような視線を送ると、都島は渋々といった様子でこう続ける。
「まあ、ここの空気がおかしくなったのは、深泥池に行くのが流行ってからって感じだったけど……明確に事故だとか何だとかが起こり始めたのは、白峰さんが亡くなってから――だと思う」
都島がそう言い終えると、部室内がしんと静まり返った。
同じサークルに所属していた友人の死。ある程度は時が経ったとはいえ、そう気軽に語れるようなことではないだろう。ましてや、それが不吉なできごとに関係しているかもしれないとなれば、なおさら口が重くなるのも仕方がないように思える。
この辺りでそろそろ一旦、切り上げた方がいいかもしれない。そう判断して、花梨は彼らに礼を告げた。何かあれば連絡してもいいと言って、都島は今後も協力を約束してくれる。
そうして先輩たちと別れて部室棟を出た直後、近くに人の気配を感じて、花梨は思わず立ち止まった。待ち伏せでもするかのように、その場で佇んでいたのは先ほど花梨のことを呼び止めたあの先輩だ。
とっさに身を隠したからか、花梨のことに気づいた様子はない。そのうち、彼女は腕時計に目を落とすと、ため息をついて歩き始めた。
わずかな逡巡の末、花梨は彼女の後を追うことにする。部室の前で突然引き止められたときには驚いたが、今となっては彼女にもいろいろとたずねたいことがあったからだ。
彼女が向かったのは、大学の前にあるバス亭だった。呼び止める間もないまま、彼女はそのときちょうどやって来たバスへと乗り込んでいく。さすがに同じバスに乗ってまで彼女を追うのもどうかと思って、花梨はそれを見送った。
何とはなしに、走り去るバスが向かう先を調べたところで、花梨は思わずどきりとする。これは偶然か、それとも――
花梨の視線の先で、彼女を乗せたバスはゆっくりと遠ざかって行く。その行き先は、深泥池のある方向だった。
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