第二十一話 十字石 前編

 夜中にふと目が覚めた。

 何かの物音がしたからだろうか。それとも、嫌な夢でも見たのか。ぼんやりとした思考では、何が自分を目覚めさせたのか、その理由は判然としなかった。

 暗い室内に異変はない。耳を澄ませてみても、妙な音は聞こえなかった。

 ただ、規則正しく時を刻む、そのかすかな秒針の音だけが、はっきりと耳に届いている。身をよじって枕元にある時計を確認したところ、短針がちょうど二時を指したところだった。

 まだ、こんな時間か――そう思って目を閉じると、すぐにうとうとと浅い眠りに入っていく。しかし、そのときふと、外から――家の前にある通りの方から、呼びかけるような声が聞こえた。

 ――ちゃん。遊ぼう……

 それは子どもの声だった。こんな時間にいったい誰が。そう考えているうちにも、その声は同じ言葉をくり返す。しかも、よくよく聞いてみると、呼んでいるのは――妹の名ではないだろうか。

 まどろみから、一気に目が冴えた。

 これは夢だろうか。あるいは、単なる聞き間違いか。しかし、たとえそうだとしても、声が聞こえたのが確かなら、家の前にはやはり誰かがいることになる――

 そのとき、かたん、と家の門が開く音がした。まさか、何者かが中へ入って来たのでは。

 確かめるべきだろうか。しかし、庭にある木に阻まれて、この部屋の窓からでは門の方はよく見えない。かと言って、外へ出て確かめる気にもなれなかった。

 玄関の扉は鍵がかかっているから、何者かが家の中まで入り込めるはずはない。あるいは、本当に誰かが迎えに来たのなら、妹が何らかの理由で家を抜け出したのかもしれなかった。

 よりいっそう冷え込むこの時期の、しかもこんな時間に、こそこそと何をするというのだろう。奇妙には思ったが、親に秘密で少しだけ悪い遊びをするくらいなら、自分にも覚えがある。

 そう考えると、ひとまず気が静まった。呼びかけるようなあの声も、今はもう聞こえない。ただ、自転車が走り去るような、かすかな音だけ聞こえた気がしたが、それもすぐに夜の静寂へと溶け込んでいった。

 そうして何の物音もしなくなると、徐々に怖さも遠のいていく。とはいえ、どうにも寝つけなくなって、布団の中でぼんやりと考えを巡らせていた。

 あれはいったい、何だったのだろうか。朝になったら、妹に確認しなければ。それに、あの声。どこかで聞いたことがあるような。

 ――ちゃん。遊ぼう……

 妹の友人に、そう言ってよく誘いに来る子がいたような気がする。だとすれば、本当に遊びに行っただけかもしれない。

 そう納得したところで、ふと不安になった。何かを忘れていないだろうか。自分は何か、決定的な思い違いをしているような――

 そのとき、あることを思い出して、途端に背筋がぞっとした。確かにあの声は、妹の友人のものだ。会ったことがあるから、間違いない。でも。

 でも、確かあの子は――


     *   *   *


 三方の壁が石で埋め尽くされた奇妙な部屋。その場所に、空木は再び立っていた。

 初めて訪れたときから日をあらためてはいたが、この状況には既視感がある。目の前には人の姿をした石――石英がいて、その傍らには日本式双晶の双の方が無言で佇んでいる。日本式双晶自体は空木が持ってはいるが、式の方の姿は目に見える形ではここにはなかった。

 煙水晶と紫水晶も人の姿を現してはいなかったが、おそらく話は聞いているのだろう。それについては、ここに並んだ他の石たちも同じなのかもしれないが――

「さて。先日、君が話していた神隠しのことだが。この件を調べるに当たって、まず君に教えておかなくてはならないことがある」

 話を切り出したのは石英だった。空木は腕を組み、その先をただ待ちかまえている。

「いいかい。空木。僕が見えるものは僕に近しいものが対象であることが多い。その上でひとつ注意して欲しいのは、本当に危険なことは僕には見えない、ということだ」

 空木は思わずうなったが、それについて口出しすることはなかった。ひとまずは、石英の話の続きを待つことにする。

「見えないということは、それだけ危険だ、と言い換えてもいい。僕より力の強い何かがそこにあるということだから。実を言うと、僕の力ではどうにも見えないところがいくつかあってね。貴船はそのうちのひとつだ」

 未来が見える、などと豪語していたわりには、頼りない話のようにも思えるが――ともかく。

「それで、その件を調べようってわけだな。参考までに聞かせてもらいたいんだが、そのうちのひとつってことは、それ以外にもあるんだろう? 例えば?」

 空木がそう問いかけると、石英は少しだけ考える素振りを見せてから、こう答えた。

「ひとつは、とある大学だ。桜石には内緒だよ。どうせ、もっとくわしく話せとさわぎ出すに違いないからね。しかし、見えないものは見えないのだから、仕方がない」

 とある大学。どうして、そんなところが危険なんてことになるのだろう。空木はいぶかしんだが、ふとあることに思い至ると、とっさに顔をしかめた。

「もしかして、エリカさんの妹さんが通っている大学か?」

 石英はその問いにうなずきもしなかったが、肩をすくめたかと思うと、平然とこう言い放った。

「まあ、そのための黒曜石だ。あれは彼女自身に選ばれたのだし、今はこちらでそれ以上のことはできないよ」

 黒曜石。これも当然、石の名前だろう。

 姉を探すために京都まで来たという大学生――花梨という名だったか――もまた、どうやらこの店の石を持っているらしい。空木としても、そうなるともはや他人のようには思えないのだが――

 とはいえ、空木はまだ当の本人とは会っていなかった。自分がエリカのことを知らせなかったせいで心配をかけたのだろう、という自覚はあるので、空木はどうにも会うことに後ろめたさを感じている。いずれは会うことになるとは思うのだが。

 それにしても、空木にはその危険を忠告するくせに、彼女の方には我関せず、という石英のその姿勢はどうなのだろうか。慎重なのか、そうでもないのか――それとも、同胞を信頼しているということなのか。何とも判断しにくい。ともかく。

 そちらはひとまず槐に任せることにして、空木は深泥池にまつわる事象を調べることになっていた。理屈はわからないが、呪いを解くためには、それについての情報――誰の企みで、だとか、何を用いて、だとかを知ること――が必要らしい。

 呪いについては、本人から直接何かを聞き出せるなら、それが一番いいのかもしれないが、話を聞くこと自体は空木もすでに試みている。その上でたいした情報は得られていないのだから、ひとまずこの件を調べてみてもいいか、と空木は考えていた。

 何にせよ、エリカを呪いから救うことについては、石英との取り引きに応じるときに、空木があらためて決意したことでもある。たとえ、そのきっかけが軽い気持ちで声をかけたことなのだとしても――いや、だからこそ――今の空木にとって、それは何としてでも果たさなければならないことだった。

 とはいえ。

「神隠しを調べる、か。どこから手をつけたもんかね」

 そもそも、神隠し、なんて言葉を使ってはいるが、これは実際に起きた事件でもある。あまり茶化していいものでもないが――ともかく、そのあらましはこうだった。

 自宅周辺で遊んでいたはずの少女が行方知れずになったが、捜索された末に遺体が見つかったのは遠く離れた山中。その理由についてはいまだ不明、というものだ。

 これが深泥池に関連したものなら、当然、調べるのはその周辺ということになるだろう。あるいは、その関係者か。

「この手の事件を取材したことなんてないから、コネがあるわけでもないし。かと言って、小さな娘さんが亡くなっている家に乗り込むのもなあ」

 その辺りにある店を取材と称して訪れるくらいなら、たとえそれがどれだけ妙な店だろうと、空木は全く気にしない。しかし、この件では人がひとり亡くなっている。さすがに、ずかずかと土足で踏み込むようなことはしたくなかった。

 そもそもの話。このできごとが、どう深泥池とつながっているのかも不確かだ。本当につながっているのだろうか。そんなところからして、空木は疑いの目を向けている。

 ともかく、何かしらの取っ掛かりを得ようと、空木がいろいろと考えを巡らせているうちに、ふいに声を上げたのは式だった。

「それなら、燐灰石を連れて行くのはどうだろう。うまくいけば、その死者と話ができるかもしれない」

 燐灰石。知らない石の名だ――なんてことを空木が考えていると、どこからか知らない声が聞こえてくる。

「だから――」

 それは、どことなく苛立ったような声だった。しかし、恐ろしいかと言えばそうでもなく、何となく間延びしたような印象を空木は抱く。

 その声はこう続けた。

「僕の力は、死者と話をしているわけではないんだって。僕にできるのは、骨を介して過去からの声にほんの少し耳を傾けることだけ。それは一方的なもので、こちらから語りかけたり、伝えたりすることはできないんだよ」

 そう言って、この場に現れたのは淡い黄緑色の髪と瞳を持つ青年だった。苦言を呈しているらしいわりには、どことなくぼんやりとしたような表情を浮かべている。

 これが燐灰石か。空木はもはや驚きもせずに、こう問いかけた。

「つまり、亡くなった人の、生きていた頃の心を読み取る、みたいな?」

「まあ、そんな感じ」

 燐灰石は軽い調子でそう応じる。そんなやりとりに、石英は呆れた表情でこう言った。

「そのわりに、君がその声を聞いているときは、死者と話をしているみたいに見えるんだけどねえ」

 燐灰石はけげんな顔で、首をかしげている。

「別にそんなつもりはないよ。人は死んだら、それで終わりだからね」

 燐灰石は平然とした表情で、そんな身も蓋もないことを言った。

 空木はひとまず考え込む。この石の力、実態はともかくとして――ようは口寄せのようなもの、といったところだろうか。しかも、骨を介して、と言うことなら、向かう先は墓場か。その力がどういう理屈によるものなのかはわからないが、安らかに眠っている死者を叩き起こすような真似は、できればしたくないのだが。

 空木はため息をつきながらも、こう言った。

「とにかく深泥池周辺を探ってみるか。何か変なことがあったなら、噂になっていたかもしれないし」

 とはいえ、今となっては深泥池というと呪いの噂の方が思い出されるらしく、空木が少し探っただけでは神隠しについて耳にすることもなかった。そのことを知ったのは、知り合いがやたらとその手の話が好きだったからだ。

 そもそも、神隠し、なんて言っているのも、一部のオカルト好きだけで、実際のところ、この事件は遭難の上の事故死にすぎない。とはいえ、子どもだけでは足を踏み入れられないような場所で遺体が見つかったことについては、事実なわけだが。

「何だっけ。鬼の道とか何とか。この件には、それが関係していると考えていいのか?」

 空木の問いに答えたのは、式だった。

「鬼の道というのは、深泥池のほとりに出入口があり、貴船まで続いているという地下道のことだ。昔はそこから鬼がやって来たので、豆を投げてその穴を塞いだらしい」

 空木は思わず、はあ、と生返事をしてしまった。またそんな話か。真剣に受け止めていいものかどうか、判断に迷う。しかも、その話は要するに――

「豆を投げてって……それは節分のことか?」

 その問いかけには、石英が呆れたようにこう返す。

「君は京都の生まれだろうに、そんなことも知らないのかい。まあ、節分というのは、そもそも季節の分かれ目のことだが――豆まきの風習に関しては、この話が発祥ともされているね。その豆を捨てたという豆塚は、場所がわからなくなっているようだけれど」

「悪かったな。都人の風習に疎くて。俺は洛外人なんでね」

 空木のそんな戯れ言には、何の反応も返って来なかった。その代わり、何やら気がかりがあるらしい石英が、誰にともなくこう呟く。

「封じられていた道に、封じられていた蔵ねえ。そんなものをやすやすと解くようなでたらめは、そうないと思うんだけど……」

 石英はじっと空木の方を見ていたが、ふむ、とひとり納得したようにうなずくと、肩をすくめてこう続けた。

「まあ、いいか。君なら大丈夫だよ。空木」

 石英の言葉には若干の不安を感じつつも、新たに燐灰石を伴った空木は、そうして神隠しの調査へと向かうことになった。



 そんなこんなで空木がやって来たのは、深泥池付近にある住宅街だ。しかも、亡くなった少女の家の近くでもある。

 ここに来るまでに事件のことをあらためて調べておいた方がいいだろう、と思っていたのだが、知り合いがわざわざ記事をスクラップしていたので、概要を知るのにそれほど手間は取られなかった。おかげで探していた住所も難なく知ることができたわけだが、ありがたいと感じる反面、あまりにもくわしすぎる点については、空木もいろいろと思うところがないわけではない。

 とはいえ、その知り合いというのも、それなりにつき合いの長い相手ではあったので、そうした悪癖はよく知ったことでもあった。しかも、今は仕事を斡旋してもらっている手前、空木はどうにも頭が上がらない。そうでなくとも、オカルト狂い、という欠点にさえ目をつぶれば、できた人物だとも思っている。

 ともかく、そうして家までやって来たはいいものの、どう切り出すべきか――というところで、空木は早速つまずいていた。亡くなった子の墓がどこか、ということまでは、さすがにわかってはいない。

 しかし、燐灰石の力のことを考えれば、その場所をそれとなく聞き出すのが、手っ取り早く、かつ波風を立てない方法ではあるだろう。少なくとも、亡くなった子の話を直接聞き出すよりかは、こちらとしても気が楽だ。

 ただ、空木はそもそも、その墓に行くこと自体、あまり乗り気ではなかった。もちろん怖いからではない。実家の裏手は墓場なのだから、そんなことでいちいち怖がってはいられない。

 おそらくは、燐灰石の言う死者の声を聞く、という行為が、どうにも気が進まないからだろう。

 兄が幽霊を嫌っていることを別にしても、実のところ、空木もそういう話はあまり好きではなかった。死んだ者の思念がいまだにさ迷っているなんて考えると、怖いというより悲しくなる。そうでなくとも、家業のことを思えば、死者にはきちんと成仏してもらわなくては困るのだが。

 そんなことを考え込んでしまって、空木はどうにも踏ん切りがつかなかった。燐灰石が、人は死んだら終わり、なんてことを言うからには、理屈としては空木が思っているようなものではないのかもしれない。だとしても、たとえ相手が死者だろうと、その心を読むという行為についてはどうなのか、とも思っている。

 そうして、決心がつかずに近所をうろついていたところ、空木に声をかけたのは――日本式双晶でも、ましてや燐灰石でもなかった。

「あの家に、何か用ですか?」

 振り返ると、険しい顔をした少女がひとり立っていた。中学生――いや、高校生だろうか。

 見知らぬ少女に声をかけられても、空木はたいして驚きはしなかった。渦中に飛び込むのは得意だが、張り込むのはおそらく苦手だ。自分では目立たないようにしているつもりなのだが、こうした場面ではなぜかよく声をかけられる。

 ともかく、そうした経験のおかげか、そうなったときの対応には、空木もいくらか慣れていた。やましいことなど何もないかのように、空木は気さくに問い返す。

「もしかして、あの家の子かな?」

「違います」

 すぐに否定される。空木はあらためて相手を見返した。

 声をかけてきたからには、何か理由があるのだろうと思ったのだが――もしも、くだんの家の子であれば、これ幸いと飛びついていたかもしれない。しかし、違うというからには、違うのだろう。この場面で、嘘をつく理由があるようにも思えない。

 それとも、単に用心されているだけだろうか。空木のことが、よほどあやしく思われたのかもしれない。だとすれば、この場でどう言い訳したものか。

 そこまで考えた上で、空木の口をついて出たのは、こんな言葉だった。

「今日は取材の下見でね。その……いろいろあっただろう? それで、何か力になれることもあるかと思って」

 我ながら、曖昧かつ、うさんくさい言い訳だとは思う。しかし、どんな内容であれ、こういうときには堂々と答えた方が不審には思われないものだ。

 とはいえ、目の前にいる少女はそれで納得したようには見えなかった。こわばった表情を変えることもなく、彼女は空木のことをただじっとにらみつけている。

 これは一旦退いた方がいいかもしれない、などと空木が思案し始めた頃、少女はふいにこうたずねた。

「今さら取材って……じゃあ、ここ――やっぱり出るの?」

「出るって何が?」

「幽霊」

 少女の答えに、空木は思わず顔をしかめた。

 深泥池付近にはなぜか怪談が多いことは知っているが、わざわざあの家のことを言及したからには、この少女はそうしたことを言っているのではないだろう。だとすれば――

「亡くなった子の、ってことかな。その話は初めて聞いたよ。近所でそういう噂があるのかい?」

 少女は何も答えない。あるいは、空木には答えることをためらったかのようにも見えた。

 何にせよ、幽霊が出る、なんて話は初耳だ。しかし、それが事実であるならば、この件にはやはり何かあるのか――と思わずにはいられない。

 これはくわしく話を聞いてみた方がいいだろう。そう考えはするのだが、当の少女は幽霊のひとことを口にしたきり、かたくなに口をつぐんでいる。そうでなくとも、この年頃の子はどうにも苦手なのだが――そういったことは別にしても、彼女の反応はやはり奇妙に思われた。

 空木はひとまず、こう話す。

「俺はその件を取材に来たわけじゃないよ。でも、もしもそんな噂があるなら、ぜひ教えて欲しいな。センシティブな話だし。あらかじめ知っておきたいからね」

 話しているうちに、空木の中にはいろいろと疑問がもたげてきた。

 そもそも、この少女は何のために空木に声をかけたのだろう。おもしろ半分に噂のことを確かめたかった、というわけではなさそうだ。

 あるいは、空木が噂について調べていると思い込んで、そのことを怒っているのだろうか。事実、周辺でうろうろしていたのだから、それに対して不快に思うのは当然かもしれない。

 ただ、少女のこわばった表情は、怒りのためというよりは、やはり恐怖のためではないか、という気もした。この少女、その幽霊のことを本気で恐れているのだろうか。しかし、なぜ――

 無言の少女に戸惑いを覚えつつも、空木はさらにこう話す。

「幽霊についてはよくわからないけどさ。そんなに怖がる必要はないんじゃないかな。もちろん、事件のことは知ってるよ。だからこそ、亡くなった子のことを怖がったりするのは、かわいそうに思えてね。その子は、ただ不幸があっただけで、何かをしたわけじゃないんだから。そうでなくとも、そんなことを噂するのもどうかと思うし……ってなんか、説教くさいな。別にそんなつもりはないんだけど――」

「ただ不幸があっただけ? 何かをしたわけじゃない?」

 ふいに話をさえぎられて、空木は思わず目を見開いた。震える声でそう問い返した少女の瞳は、何かに怯えているかのように揺れている。

 黙り込んだ空木に向かって、彼女はようやく、その心の内を明かすために重い口を開けた。

「だったらどうして……どうして、あの子は私の妹を迎えに来るの?」


     *   *   *


 春休みの大学は閑散としていた。

 構内を行き交う人の姿は疎らで、普段は学生たちが集う教室もしんとして静かだ。しかし、そうした状況であれば、待ち合わせの相手を見つけるのは容易だった。

 談話室で端末をながめていたらしい茴香は、花梨が近寄ると、すぐに気づいて顔を上げる。花梨、と名を呼びながら手にしていたものを鞄にしまうと、茴香は意気揚々と立ち上がった。

「よし。行こうか。って言っても、あたしもそんなにくわしくないんだけどね。あんまり行ったことないし」

 向かったのは、大学構内にある部室棟だ。部活にもサークルにも所属していない花梨には、あまりなじみのない場所だった。そうでなくとも建物は敷地の外れにあったので、用がなければ近づくこともない。

 ただ、花梨も一度だけ、姉が所属していたらしいサークルの部室を訪ねようとしたことがある。しかし、そのときは叶わず、そのあとにもあらためて訪れることはなかった。周囲で妙な噂が広がったこともあって、大学内での行動をしばらく控えていたからだ。

 そうして後回しになってはいたが、行方がわからなくなる前の姉がどのように過ごしていたのか――そのことはやはり知っておかなければならないだろう、と花梨は思い直していた。昨年の夏に茴香が姉の知り合いと引き合わせてくれてはいるが、あの頃の花梨は深泥池のことを知っていたわけではない。しかし、今なら噂との関わりについても確かめられるかもしれない、と思っていた。

 そんなことを話したところ、一緒に部室まで行く、と言い出したのは茴香の方だ。大学での花梨は孤立気味なこともあって、彼女にはどうも心配をかけてしまっているらしい。深泥池の件ではついて来てもらうことはできなかったが、大学内なら危険なこともないだろう。そう考えて、予定の合う日にひとまず行ってみよう、ということになった。

 教室の静けさに比べれば、部室棟の周辺は思いのほか活気がある。音楽系の部活だろうか、どこからか楽器の演奏が流れていたり、運動系の部活だろうユニホーム姿の学生もいて、そこかしこで楽しそうな話し声が聞こえていた。

「春休みだけど、けっこうにぎやかだね」

 花梨がそんなことを口にすると、茴香は同意するようにうなずいた。

「今は新入生勧誘の準備とかもあるんじゃないかな。そのあたりは、部にもよるらしいけど。まあ、あたしも部活とかには入ってないから、友だちから聞いた話だけどね」

 部室棟の入り口に立つと、花梨はそこに掲げられていた案内板を見上げた。それぞれの階にどこが割り当てられているか記されているようだが、管理する人がいないのか、あまりに古くなりすぎたのか、ところどころ文字が欠けてしまっている。

 部室棟自体も、大学にある他の棟とは違って少し古いか、あるいは安普請のような気はした。とはいえ、見た目は至って普通の建物だ。変わったところなど何もない。しかし。

 その場に立った花梨はふと――初めて訪れたときに、なぜか嫌な感じがしたことを思い出した。

 いつもの漠然とした直感だ。そう感じたそのときには、また日をあらためればこの空気も変わるかもしれないと思って、部室を訪れることを取り止めている。

 今にして思えば、姉の手がかりを前にして、ずいぶんあっさりと手を引いてしまったものだ、とも思う。しかし、そのときはそれだけ、この場所に言い知れぬ違和感を覚えたのだろう。

 とはいえ、今はその嫌な感じもしない。

 花梨は内心でほっとした。ただでさえ、姉の知り合いから話を聞いたときのことを思うと、自分が喜んで迎えられるとは思えなかったからだ。たとえそれが漠然としたものでも、そうした不安は少ない方がいいだろう。

 ともかく花梨は歩き出した。案内板ではその名を見つけられなかったが、一度は訪れようとしただけあって、向かうべきおよその場所はわかっている。近くにあった階段を上り二階まで来ると、花梨たちは廊下を進んでいった。

 並んでいる扉のいくつかには、その部屋を使用しているらしい部活かサークルの名前や、その活動内容を紹介する張り紙が貼ってある。勧誘に熱心なところなのだろう。

「そういえば、前に気になるサークルがあるって話してなかった?」

 長い廊下を進んでいるうちに、ふと思い出して、花梨は茴香にたずねてみた。

「友だちに誘われたとこね。おもしろそうだから、少し迷ったんだけど……あたしはアルバイトの方に専念したかったし、いくつもかけ持ちしてるから。三月は特にかき入れどきらしいから、稼ぐぞって感じ」

 茴香はそんなことを言いながら、力強くこぶしを握っている。

 暖かくなれば、京都ではやはり観光客が増えるらしい。茴香は観光地にある店でアルバイトしているようなので、そろそろ忙しくなる時期なのかもしれない。

「それで、実家には帰らなかったの?」

 花梨がそうたずねると、茴香は肩をすくめてこう答えた。

「正月には顔出してるし。帰っても弟たちがうるさいから、いいかなって。家にいてもやることないし」

 花梨は少しだけ苦笑する。そんな花梨の反応をうかがいつつも、茴香は遠慮がちにこう話した。

「あのね。笑わないで聞いてね」

 花梨が首をかしげると、茴香はこう続ける。

「あたしはね、日本一周……ううん。いずれは世界一周するのが夢なの。世界中のいろんな景色を見たいんだ。広大な自然とか、そういうのが。だから、今のうちにお金を貯めておきたいなって」

 自分の夢をふいに語った茴香は、照れたように、へへへ、と笑っている。

 思いがけない話ではあったが、花梨は茴香らしい夢だとも思った。自分には、そういう将来への展望はあるだろうか――そんなことを考えているうちに、となりを歩いていた茴香が急にその場で立ち止まる。

 危うく通り過ぎそうになったところで、花梨もあわてて足を止めた。いつの間にか目的の場所まで来ていたらしい。

 古都文化研究会。目の前にある扉の横には、そう書かれた看板が下げられている。貼られている張り紙は古いものなのか、だいぶ色あせてしまっていた。

「茴香も場所、知ってたんだね」

 目当ての部屋であることを確認すると、花梨は茴香に向かってそう言った。茴香は花梨の方へ振り向くと、なぜか少しだけばつが悪そうな顔をする。

「あー……ほら。変な噂を聞いちゃったときに、あたしも少しだけ調べてたから。そういえば、花梨に会わせた先輩たち、いたでしょ。あの人には、ここで声をかけられたんだっけ――」

「どうして」

 ふいに割り込んできた声に驚き振り向くと、廊下の先に誰かがいることに気づいた。

 見覚えのある顔だ。それでいて、彼女はなぜか、花梨に険しい顔を向けている。

 そのうち、花梨も相手のことを思い出した。今しがた、茴香も話したばかりの人物――姉のことを話してくれた先輩のうちのひとりだ。

 突然のことに花梨が呆気にとられていると、彼女は思い詰めたような表情で、こう問いかけた。

「どうして、深泥池に行ったの?」

 花梨は思わず茴香と顔を見合わせた。彼女はどうして、花梨が深泥池に行ったことを知っているのだろう。そうでなくとも、なぜ咎めるようにそれをたずねるのか。

 どう返すべきなのかわからずに、花梨がただ戸惑っていると、そのときふいに、廊下のどこかで扉の開く音がした。

 思わず振り向くと、目的の部屋とは違う、すぐとなりの部屋の扉が少しだけ開かれているのが目に入る。扉の影からは、ぼさぼさ頭で眠たげな目をした青年が廊下をのぞき込んでいた。

「もしかして、何か揉めてる?」

 その言葉に、花梨はあわててこう返す。

「いえ。大丈夫です。すみません。さわがしかったでしょうか?」

 口にしてから、花梨は少し妙だなと思った。それほどさわがしくした覚えはないのだが――

 青年の方も特にこだわるつもりはないのか、ならいいけど、と呟くと、さっさと扉を閉じてしまった。その扉の付近は他の多くとは違って、何の部屋なのかを示すようなものは、何ひとつ見当たらない。

 ともかく、先輩にくわしい話を聞かなければと、花梨がようやく思い至ったところで、振り返った先では相手が踵を返した後だった。

 ただでさえ、姉のことを調べようとすれば何か反発が起きるのでは、と危惧していたのだが――思いがけないできごとに、花梨は何か苦いものを飲み込んだような気分でその場に立ち尽くす。茴香の方も、きょとんとした顔で、しきりに首をかしげていた。

 たとえ噂が下火になったとしても、かつて姉の周囲で起こったできごとは、まだどこかで尾を引いているらしい。おそらく、それを知ることも容易ではないだろう。

 そうでなくとも、目当ての部室は扉に鍵がかけられていて、その日は結局、入ることは叶わなかった。


     *   *   *


 少女は空木にこう話した。

「噂がある、とかじゃないんです。いつだったかな。夜中に、家の外から呼びかける声がして――それも、妹の名前を。でも、あとから聞いてみても、妹は知らないって言うし、そのときは私、夢でも見たのかと思ったんです。ただ、それからしばらくして、また夜中に同じことがあって。それで――」

 少女はそのとき見たものを、淡々とこう語る。

「近所に公園があるんですけど……妹が家を抜け出すのが見えたので、私、その後を追ったんです。そうやってたどり着いたのが、その公園で。妹はそこでひとり――いえ、姿は見えなかったんですけど、まるで誰かと遊んでいるみたいでした。私、何だか怖くなって、そのまま家に引き返したんです」

 誰もいない公園で、ひとり遊ぶ少女。そんな光景を見てしまえば、戸惑うのも無理はないだろう。

 そのときのことを思い出したからだろうか。震える声を抑えるように、少女はそっと息をはく。

「幽霊とか、私は見たことがないので……本当はそこに何かがいたのかもしれません。そうでなくとも、妹の名前を呼ぶ声は聞いてるし。亡くなった子と妹は友だちだったので、その声には聞き覚えがあって」

 だとすれば、やはり神隠しの少女が化けて出たということだろうか。寂しくて、遊び相手が欲しくて。しかし――

「妹はそのこと、全然覚えてないんです。ちゃんと家には帰ってくるし、私、どうしていいかわからなくて、このことを誰にも話しませんでした。でも最近、妹がどうもやつれてきているみたいで……その幽霊にとり憑かれているんじゃないかって思って。だけど、こんなこと誰に話していいかわからないから――」

 それが、あのとき少女が語った幽霊についての話だった。彼女の言葉を思い返しながらも、空木は難しい顔で腕を組む。

 場所は例の石の部屋。深泥池周辺を調べに行ったときから日をあらためて、空木はまた店を訪れていた。そうして、石英には事の次第を報告し終えたところだ。

 幽霊のことを話してくれた少女とは、この件は必ず解決すると言って別れている。何かあれば、すぐに連絡をもらう手はずだった。

 とはいえ、これからどうしたものか。神隠しについて調べていたはずが、なぜか幽霊さわぎに首を突っ込む羽目なってしまった。このことが解かなければならない呪いに関連しているとも思えないが――かと言って、このまま放っておくわけにもいかないだろう。

 しかし、石英は空木の話を聞いたきり、何を考えているのか黙り込んでしまっている。沈黙に耐えかねて、空木は思わずこう呟いた。

「幽霊、か。幽霊ねえ」

 いよいよ死者の声を聞くという行為が現実味を帯びてきた気がして、空木の心境は複雑だった。

 今までにも取材という名目で心霊スポットに行かされたり、知り合いに協力して化けものに憑かれた家だかにかり出されたことはあったが、それでも空木は、幽霊なんてものにはまだお目にかかったことはなかった。そうした過去を思い返すと、ようやくそれらしい事象に相対することになるのか、と思われて妙に感慨深くもある。感慨にふけるようなことでもないが。

 ちなみに、似たような存在である話す石とそれを取り巻くできごとについては、あまりにも身近になってしまったがために、空木の中ではすでにそういう認識からは外れている。その矛盾にはあえて目を逸らしながら、空木は誰にともなくこうたずねた。

「基本的なことを聞くんだけどさ。幽霊っていうのはいるのかね」

 答えたのは燐灰石だ。

「人は体と心がそろってこそ人だ。体を失ってしまえば、心はない。心だけのものがあるとすれば――それはもはや人ではないよ」

 空木は思わず顔をしかめた。

「人ではない、って……だから、それが幽霊だろう?」

 燐灰石は呆れたようにため息をつく。

「でも、君たちはそれを死んだ者の延長線上の存在だと認識している。死んだら、その心が残るのだと思っている」

「それが違うって?」

「生きているものたちは、死んだらそれで終わりだよ。でも、生き残ったものたちがそれを許さなければ、別の形で生かされることもある。ただ、それはあくまでも別の誰かの思惑によって形を変えたものであって、そのものではないんだよ。人はそこに、恨みや心残りを勝手に見いだしたりするからね」

 空木は思わず、うめきに似た声を上げた。

 燐灰石の言う幽霊についての理屈は、正直言って空木にはよくわからない。このことはひとまず棚に上げておいて、空木は現実に起こったとされる事象について考えることにした。

「とにかく、あの子が言うには、幽霊が家に迎えに来るって話だったよな。それが本当に幽霊かどうかはともかくとして、害があるとなると、それはそれで問題なんじゃないか? 何かしら対処できるといいんだろうけど」

「死者が訪れるというなら――」

 と、ふいに声を上げたのは石英だった。

「お札を貼るか……いや、連れて行かれるなら、お経を書くのがいいかな」

「お札? お経?」

 唐突にそんなことを言うものだから、空木は困惑しながらそう返した。そんな空木にちらりと視線を向けつつも、石英はにやりと笑っている。

「『牡丹灯籠ぼたんどうろう』も『耳なし芳一ほういち』も知らないのかい。君は」

 どちらも有名な怪談だ。あらすじくらいは知っているが、とっさに出てくるほどくわしくはない。

 確か、『牡丹灯籠』は懇意にしていた女が実は幽霊で、それから逃れるために家に閉じこもる話だったような。『耳なし芳一』の方は、全身にお経を書くことで、琵琶の弾き語りを乞う平家の亡霊から姿を隠す話だったか。何にせよ、お札やお経をそんな幽霊よけの便利道具みたいに持ち出されるのは、空木としてはどうかと思うのだが。

 そうでなくとも、『牡丹灯籠』はその幽霊にとり殺されるオチだった気がするし、『耳なし芳一』だって、お経を書き損ねた耳を取られる話だったはず。

「それって、どちらもバッドエンドじゃないか。結局のところ、迎えに来る方に諦めてもらわない限り、どうしようもないってことだろ。問題は、その幽霊の望みが何かってことだけど……それを知るには、やっぱり亡くなった子のお墓に行くか、あるいは、その幽霊に直接会うしかないか」

 空木は真面目な話をしたつもりだが、石英はどこか楽しそうにこう言った。

「幽霊に会いに行くつもりなら、君もお経を書いてもらうといいよ。僕が石墨に頼んであげようか。耳だろうがどこだろうが、彼なら書き損ねるなんてヘマはしないだろう」

 石墨――はおそらく石のことだろう。どんな石かは知らないが。

 空木は全身にお経を書かれた自分の姿を思い浮かべて、顔をしかめた。幽霊には強いのかもしれないが、どう見ても変な人だ。うっかり外も歩けない。

「姿を消すなら、忍石の力でいいのでは?」

 と、口出しをしたのは式だ。どうやら、石英にはからかわれていただけらしい。

 そうしたやりとりに空木がため息をついたところで、ふいに扉をノックする音が響いた。空木はとっさに、どうぞ、と応じる。

「空木さん」

 という呼びかけに振り返ると、開いた扉の向こうから槐が顔をのぞかせたところだった。

「大将。何かありましたか」

「……大将?」

 槐は首をかしげたが、すぐに気を取り直してこう告げる。

「空木さん宛にお電話が。幽霊の件で何かあれば、こちらに連絡するように、と――」

 呆れたような声を上げたのは石英だ。

「何でうちの連絡先を教えてるんだい」

「幽霊だの何だの言われても、俺にはよくわからないだろ。何かあったときは、大将に聞いてもらった方が手っ取り早いかと思って」

 空木がそう答えると、石英は肩をすくめてこう返す。

「あとで碧玉に怒られても知らないよ」

 そんな言葉を軽く受け流しながらも、とにかく電話を、ということで連れていかれた先にあったのは、まさかの黒電話だった。空木の実家も幼い頃はこれだった気がするが、今でもまだ現役で使われているところがあるとは。

 どうでもいいことで驚きつつも空木がその電話に出ると、受話器の向こうからすぐに少女の声が聞こえてくる。

「あの……朝になったら妹がいなくて。昨日の夜にはいたから、また夜中に家を抜け出して、帰って来てないんだと思うんです。どうしよう。どうしたらいいですか。私――」

 混乱からか、その声はかすかに震えている。落ち着かせるように、すぐにそちらへ向かう、と答えてから、空木は急いで石の部屋へと戻った。

 待ちかまえていた石英に電話の内容を伝えると、返ってきたのはこんな言葉だ。

「調査が行き詰まったようなら、亡くなった子のお墓を黄玉に探させてもよかったんだけどね。どうやら、そんな必要もないようだ。これは、その幽霊とやらが引き起こしたことではない」

「何か見えたのかい。石英」

 とたずねたのは式だった。しかし、それには答えずに、石英はある石の名を呼ぶ。

十字石じゅうじせき

 むう、と――重々しく、それでいてわずかに戸惑ったようなうなり声が上がる。石英は棚に並んだ石のひとつに目を向けていたが、その声を発したのがどの石なのか、空木にはよくわからなかった。

 空木の知らない石の声は、続けてこうたずねる。

「よろしいのですか。碧玉」

「石英とて、何の根拠もなしにお前の名を出したりはしないだろう。かまわん。行け」

 何だかよくわからないが、お許しが出たらしい。そうしたやりとりを経たところで、石英は空木に向かって棚の一か所を指差した。

「空木。君には、走る車を止めてもらおう」

 石英は空木にそう告げる。

 そこにあったのは、白い石に埋まった、長細く角ばった形が交差している褐色の石だった。十字という名のようだが、交わる角度は直角ではない。

 空木がその石をそっと手に取ると、石英はこう話し出す。

「十字石。英語名はスタウロライト。二つの結晶が九十度、あるいは六十度で交わる特徴的な双晶を成すことから、その名がある」

「ん? おまえも双晶なのか。でも双子じゃない――よな」

 手のひらの上の十字石に向かって空木は思わずそう言ったが、苦笑しながら答えたのは式だった。

「それについては私が特殊なんだよ。空木」

 ふうん、と何のこだわりもなく納得した空木は、目の前の十字石にこう話しかける。

「よくわからないが、よろしく頼む」

「致し方あるまい」

 十字石はいかにも不服そうに、そう言った。そんな答え方をするあたり、力を貸すことについてはあまり気が進まないのかもしれない。大丈夫だろうか。

 ともかく、石英が示したからには、この石は何らかの糸口になるということだろう。今度はその十字石と――念のために燐灰石も伴って――空木はさっそく幽霊さわぎの現場へと向かう。

 そうして石の部屋をあとにしたところ、空木は廊下で桜という名の石と行き合った。いや――少なくとも今は青年の姿をしているから――というより、空木は青年の姿しか見たことがないから――その実感はいまだにないのだが。

 とはいえ、彼も石であるからには、その本体もやはりあの部屋に並んでいたのだろう。だとすれば、彼も空木たちの会話も聞いていたのかもしれない――と思ったが、この状況であらためてたずねる気にはなれなかった。

 そうでなくとも、空木には特別な反応を示さなかったくせに、桜は十字石を見た途端、なぜかさっと顔色を変える。

「あ。十字石さん――その、お出かけですか? 珍しいですね……」

 そうたずねるからには、空木たちのやりとりを把握しているわけではないらしい。しかも、空木に接するときと違って、妙にへりくだっている気がする。

 そんなことを思っていると、空木の持つ十字石から、怒りを押し殺したような呟きがもれてきた。

「桜石……」

 ふたり――いや、この二石の間にある険悪な空気を察して、空木は誰にともなくこう呟いた。

「何だ。こいつら、仲が悪いのか?」

「いろいろあったんだよ。空木」

 そう答えたのは式だ。

 空木と式がそんな言葉を交わしているうちにも、桜と十字石はしばしにらみ合っていたが――いや、一方は石なのでよくわかないのだが――そのうち、桜の方がどこか居たたまれなさそうに、すごすごと引き下がっていく。何だったのだろう。

 店を出る前に槐の姿を見つけたので、空木はひとまず事情を説明しておくことにした。新たに石を借りることを伝えると、十字石がかしこまった調子の声でこう告げる。

「行ってまいります。槐」

 さっきと態度が違わないだろうか、と思いはしたが、空木はそれをいちいち指摘したりはしなかった。槐の方はその言葉にうなずくと、十字石から空木へと、順に目を向けながらこう話す。

「そうかい。行っておいで、十字石。空木さん。どうぞ、よろしくお願いします」

 その言葉にうなずき返しながらも、空木は急ぎ助けを求める少女のもとへと向かった。

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