第十四話 赤鉄鉱

 単眼鏡を片手にしばらく手元に目を向けていた槐は、ふいに顔を上げると、目の前の花梨にこう告げた。

「これはおそらく黄水晶きすいしょう……英語名だと、シトリンですね――いや、バーントアメシストと言った方が、正しいでしょうか」

 槐の言葉に、花梨は首をかしげる。黄水晶にシトリンにバーントアメシスト。次々と発せられた単語に、理解が追いついていない。

 その反応に対し、槐は心得たようにこう続けた。

「色のついた水晶のうちでも、あざやかな黄水晶――シトリンは稀少です。天然のものだと茶色に近いものが多いので。ただ、一部の産地で採れるアメシスト――紫水晶むらさきすいしょうですね。これに、加熱すると色が変わるものがあって、シトリンとして宝飾品に使われているのです。それがバーントアメシスト。宝石としては、そちらの方が比較的安価です」

 そう言うと、槐は花梨の手に、その石があしらわれた装飾品を返した。

 細い金色のチェーンの先で揺れているのは、小ぶりのペンダントトップ。楕円にカットされた黄色い透明な石の周囲には、七宝しっぽう――エナメルで色づけされたピンクの花と緑の葉が添えられている。

「ありがとうございます。これは――以前こちらにも来られていた柚子さんから、誕生日プレゼントとして送られてきたんです。価格をたずねるのは失礼かとも思ったんですが、宝石の価値なんてわからなかったので……高価なものだったら大変ですし」

 花梨はペンダントをそっとしまいながら、槐にそう言った。

「そうでしたか。お誕生日だったのですね。おめでとうございます」

 槐がそう言うと、その場にいた桜からも続けて、おめでとうございます、と声をかけられる。さらには、定位置にいる椿まで。少しぶっきらぼうではあるが。

 場所はいつもの店の座敷。成り行きとはいえ、こうして祝いの言葉をもらえるのは嬉しいが、やはり少々照れてしまう。花梨は思わずはにかんだ。

「ありがとうございます。柚子さんには確かに十一月とは伝えていたんですが、プレゼントをいただけるとは思ってなくて」

 花梨はそう言って、しまい込んだペンダントの方に目を向ける。

 シトリンは十一月の誕生石のひとつ。当然それに合わせたのだろうから、柚子はわざわざ花梨のために、このアクセサリーを作ってくれたのだろう。

 とはいえ、花梨は彼女に対して特に何もしていないし、誕生石の話はしていたが、何日かまでは伝えていない。にもかかわらず、十一月に入ってすぐ、簡単なメッセージと共に突然このペンダントが送られてきたものだから、花梨は驚いたのだった。

 彼女には、あのときのできごとが、よほど印象に残ったのか。それとも――

 何にせよ、柚子はその後も活動を続けているらしい。彼女には近いうちに直接会って、プレゼントのお礼を伝えなくてはならないだろう。

 花梨がそんなことを考えていると、黙って様子をながめていた椿が、ふいにこう言った。

「……まさかと思うけど、それ、私のときにも来るの?」

 椿は嫌がっている、というより、困惑しているように呟いた。花梨はその場にはいなかったが、椿もまた、柚子に誕生石の話をしたのだろうか。

「椿ちゃんは何月生まれ?」

「一月」

 ならば、もし誕生日プレゼントが届くとすれば、あと二か月ほど先になる。そして、おそらく椿の元にも、それは贈られるのだろう――そんな気がした。

 一月の誕生石はガーネット。すぐに思い浮かんだのは深い赤色の石。その色は、何となく椿に似合っているようにも思う。

 そのとき、ふと思い出したように槐がこう言った。

「私も小耳に挟んだだけなのですが、彼女にこの店のことを教えた知り合いの――アンティークショップで、場所を借りて作品を販売していらっしゃるそうですよ。一度行ってみてはいかがでしょうか」

 柚子にお礼を伝えなければならないと思っていたところだったので、その話は花梨にとっても渡りに船だった。

 期間限定のショップが中止になったこともあって、花梨は結局、彼女の作品を見せてもらえてはいない。そのあとも、いろいろと忙しく疎遠になってしまっていた。これをきっかけに会いに行くのもいいだろう。

 そう思案していた花梨に、槐はさらに続ける。

「そのアンティークショップも、おもしろいお店ですよ。店主の方が博識で。よければ、場所と連絡先もお教えしましょう」

 槐とも知り合いらしい、アンティークショップの店主。この店のことを知っているらしい人物となると、そちらの方も少し気になる。

 花梨は槐のその提案にうなずいた。

「ありがとうございます。うかがってみます」

 そのときふいに、桜がはっとしたように立ち上がった。視線を玄関の方に向けてから、槐の方を振り返ってこう告げる。

「誰か来ましたよ。槐さん」

 それだけ言うと、桜は返事を待たずに部屋を出て行った。


 桜が連れてきたのは、高校生くらいの少女だった。

「こんにちは。お久しぶりです」

 彼女は槐と顔を合わせるなり、そう言って頭を下げる。少女を出迎えた槐は、おや、と驚きの表情を浮かべながらも、こう返した。

「宮古さんのところの――お久しぶりですね。いらっしゃい。今日は……おじいさんは一緒ではないようですが……」

 槐はそう言いながら、少女の背後に目を向ける。それに合わせて――どうも、と少女とは違う声の、素っ気ない挨拶の言葉が聞こえた。花梨にはその姿は見えなかったが、この声はもしかして――

「ええ。用があるのは私なんです。お時間よろしいでしょうか」

 少女がそうたずねると、槐は招き入れるように座敷の中を示した。

「かまいませんよ。ただ、先客の方が――ご同席いただいても?」

 少女はそこで初めて、花梨のことに気づいたらしい。にこりと笑って、こう名乗った。

「こんにちは。初めまして。宮古みやこあかねと申します。こっちは弟の葵――って、ご存知みたいですね」

 茜の後ろから顔をのぞかせて、葵が会釈した。花梨は軽くうなずいてから、あらためて少女に――茜に向き直り、名乗り返す。

 茜は花梨をじっと見つめると、ふいに――ああ、と呟くと、何かに思い至ったように、こう話した。

「もしかして、例の――問題があったとき、話を聞いてもらったっていう方ですか? その節はお世話になりました。うちの愚弟がご迷惑おかけして……申し訳ありません」

「愚弟って」

 茜の言葉に、葵は呆れたようにため息をつく。花梨は苦笑した。

 葵とは以前、水石の収集家である宮古老人と一緒だったときに、この店で初めて会っている。そのあとも、とある少女と菊花石の騒動のときに話をしたが、どうやら、そのとき話題になった双子の姉が目の前にいる彼女のようだ。

 花梨は茜とは初対面だが、彼女の方はこの店のことをよく知っているらしい。とはいえ、槐の口振りからすると、いつもは宮古老人とともに来ていたようだが――

 花梨が茜に席を譲ったので、彼女はすすめられるままに槐と向き合う位置へ座った。葵は何だか渋々といった様子で、茜の少し後ろに腰を下ろす。

 この日に店を訪れた目的は終えていたので、花梨はその場を辞そうとした――が、その前に槐に呼び止められる。何でも、渡したいものがあるのだとか。給仕に行ってしまった桜が持っているというので、それならば、と部屋の端で待たせてもらうことになった。

 割り込んでしまってすみません、と茜にひとこと声をかけられる。座敷に五人も集まるとさすがに少し手狭だからか、椿は入れ替わりでさっさと出ていってしまっていた。抜け目がない。

 ひとまず落ち着いてから、茜は槐にこう切り出した。

「今日は、折り入ってお願いしたいことがありまして、こちらにうかがいました」

 先をうながす槐に、茜はこう続ける。

「どうか、この店にある不思議な力で、友人を助けていただきたいんです」

 槐は虚をつかれたような表情で固まった。彼にとって、それは思がけない頼みごとだったようだ。

 不思議な力――というのは、あの石たちのことを言っているのだろう。しかし、槐の反応からすると、それは本来、彼女の知るはずのないことらしい。

 茜の後ろで小さくなりながら、葵がぼそりとこう言った。

「……すみません。この前のこと――その、吐かされました」

 葵が茜に、吐かされた、と言っているのは、もしかして煙水晶のことだろうか。夢をのぞき見る力――葵自身がそれを体験したわけではないが、確かにあのとき、葵はその場に居合わせていた。

 言葉選びが不服だったのか、茜はむっとした表情で振り返る。

「何て言い方してんの。私が無理やり聞き出したみたいでしょ」

「無理やり聞き出したんだろ」

 かしこまっていた茜の態度が少し崩れる。もしかしたら、これが素なのかもしれない。

 しばらくは黙って様子をうかがっていた槐だが、ふいに苦笑を浮かべると、観念したように口を開いた。

「不思議な力、ですか。確かにうちには、そういった力を持つ石があります。しかし、万能なわけではありませんよ。おじいさんからは、どのようなことをお聞きになったのですか?」

 宮古老人は、特別な力を持つ石のことをある程度知っているらしい。槐の問いかけに答えたのは、葵だった。

「たいしたことは聞けてません。はぐらかされたんで。まあ、今にして思うと、ここに来るときは、たまにおかしなこと言ってた気がしますね。うちのじいさん。正直、取り合ってなかったんですけど」

 その言葉に、茜はけげんな顔をした。

「そんなこと言ってたっけ?」

 葵は肩をすくめて、こう答える。

「この店の石みたいに、うちのもしゃべらんかなあ、とか。もしも、うちの菊花石が人の姿になるなら、さぞ美人だろうなあ、とか……」

 その言葉に、茜は顔をしかめた。

「何言ってるの。うちの菊花石は、人になんてならなくたって美人でしょ」

「おまえこそ何言ってんの……」

 茜はそこで、自分がいる場所がどこであるかを思い出したらしい。気まずそうに咳払いすると、あらためて槐に向き直った。

「えーと、それで――私はその、不思議な力のことを知って、こちらに来たんです。とにかく、話だけでも聞いてもらえないでしょうか」

 槐はあっさりとうなずく。

「わかりました。おうかがいします。できる限りのことはしましょう」

 茜は、ほっとしたように胸を撫で下ろした。葵にそのことを聞いているとはいえ、情報としては不確かなものだ。槐の言葉で彼女も安心したのだろう。

「ありがとうございます。それで、さっそくなのですが、ここでは呪いに対抗することは可能でしょうか」

「――呪い?」

 耳にした途端、花梨は思わずその言葉を口にしてしまった。一同の視線が花梨に集まる。

「あ。すみません……」

 そう言って、慌てて口をつぐんでから、花梨はそれでも呪いという言葉が気になると思い直した。折しも、お茶を持った桜が座敷に戻ってきたところで、槐の言う渡したいものとやらを受け取れば、花梨はもはや、ここに用はないということになるが――

「その、私も――茜さんの話を聞かせてもらっても、いいでしょうか」

 花梨がそうたずねると、茜はけげんな顔をしつつもこう答えた。

「ええ。かまいませんが……」

 ただ、槐は少し気がかりがあるような表情をしている。しかし、花梨はどうしてもこの場に残りたかったので、あえてそれには気づかない振りをした。

 話の流れがわからない桜は、いぶかしげにしながらも茜と葵のふたりに淹れたお茶を差し出している。それでひと息つくと、茜は続きを話し始めた。

「えっと……その、呪い、なんですが。何から話せばいいか――そうですね。始まりは、練習試合でのできごとです」

「練習試合、ですか?」

 その言葉に槐が軽く首をかしけると、茜は目をしばたたかせた。

「あれ? 練習試合でよかったかな。とにかく、その……友人は、そう――剣道部でして。その日、一対一で戦う場があったんです。私はくわしくはないんですが、誘われて見に行っていて」

 始めこそたどたどしく要領を得ない話ではあったが、徐々に慣れてきたのか、茜の言葉は淀みなくなっていく。

「変なことがあったのは、その試合の最中でした。どう説明すればいいのか……それが、ですね。相手が何もしてないうちに、友人が――怪我をしてしまったんです」

「何もしていない、というと?」

 槐が合いの手を入れる。茜はそれを聞いて、剣道の竹刀を握る格好の真似をした。

「こう――剣道って、戦う相手と向き合うでしょう。それで、しばらくにらみ合って。でも、相手が何もしないうちに大きな音がしたと思ったら、友人の姿勢が少し崩れて……」

 茜は手振りをやめると、槐の方へと身を乗り出した。

「音は、何かを叩くような鈍い音です。それで、何だ、ってことになって、確認してみたら、友人の腕が青くなって腫れてたんです。何かに打たれたみたいに。当然、防具もつけてたんですけど、そんなことはおかまいなしに」

 それを聞いて、槐は顔をしかめた。花梨もまた、その様子を思い浮かべてしまう。想像するだけでも痛ましい。

「試合の相手をしていた子は、何もしていないのにこんな状況になってしまったわけですから、怯えちゃって。それ以来、部活は休んでいるらしいです。他校の子だったんですけど。だから、その子が呪ったというわけではないと思います」

「たまたま、その子との試合のときに起こっただけ、ということですね」

 槐の言葉に、茜はうなずく。

「はい。そのときの相手は、友人と試合をするのはもちろん、会うのも初めてだったみたいですから。だから、その呪いとは無関係だと思います。友人のことを、呪ったっていう噂があるのは友人の――いわゆるライバルだとか言われている子で……」

 そこまで言って、茜はその先を言い淀んだ。軽く首を横に振って、話を切り替える。

「まあ、誰が呪ったとかは、どうでもいいんです。私はただ、これ以上、友人に怪我して欲しくないだけで」

 茜は槐にそう言った。彼女は、仮にそれが何者かによる呪いだとして、その犯人を暴くつもりはないようだ。

 槐はしばし考えたあと、茜にこう問いかけた。

「それで、茜さんは、なぜそれが呪いだと?」

 茜は虚をつかれたように、軽く目を見開いた。それを問われるとは思っていなかったようだ。

「それは――やっぱり、あり得ない状況でしたし。それに、私は知らなかったんですけど、二年ほど前……かな。流行ってたらしいんですよね。呪い」

 茜は遠慮がちにそう答えた。それに口を挟んだのは葵だ。

「まあ、流行ったっていうか。一時期、学校で話題になった怪談みたいなもので。俺も聞いたことはあったけど、くわしくは知らないです。興味なかったし」

 葵の言葉にうなずいて、茜が再び口を開く。

「とにかく、それに関連して部内で噂が広まってしまったらしいんです。私は剣道部ではないので、出所はよくわからないんですが……大勢の前で起こったことですから――だったら、ライバルを蹴落とすために呪ったんじゃないかって、誰からともなく言い出したって流れで」

「なるほど……」

 槐はそう呟くと、再び考え込んだ。その顔に表れたのは、いつになく浮かない表情だ。

 押し黙った槐を見て、茜はその先の言葉を待たずに、重ねてこう言いつのる。

「今回は幸い、それほど重い怪我じゃなかったので、友人も大丈夫だって言うんですけど。でも、また今度、同じような練習試合があるらしくて。もう一度あんなことがないとも限らないし……本当は不安だと思うんです。大事な試合が控えてることもあって――とにかく私は、彼女に無事でいて欲しいんです」

 茜はそこで、深々と頭を下げた。

「どうか、彼女を呪いから守ってください」

 茜の行動を前に、槐は笑みを浮かべながら、やさしく声をかけた。

「顔を上げてください。あなたのお気持ちはわかりました。少々お待ちいただけますか? あるいは――」

 槐は立ち上がりかけて――おそらく、石たちの眠るあの部屋に行くつもりなのだろう――その途中で、思い直したように、茜の方へ振り向いた。

「あの部屋の石をご覧いただいてもかまいませんが」

 そう提案する。始めはきょとんとしていた茜も、その意味に気づいて、すぐに目を輝かせた。

「はい。ぜひ、見たいです」

 すぐさま立ち上がる茜。それに対して、葵は座ったまま、どこか呆れた表情を浮かべている。

 ともあれ、そうして槐は、茜を連れてあの部屋へと向かった。


 石たちの眠る部屋は少し狭い。

 槐と茜と桜と――三人もいれば、身動きできないというほどではないがやはり窮屈に感じる。花梨は遠慮して、廊下の開いた扉の影から中の様子を見守っていた。葵は興味がないらしく、座敷で待っていると言う。

 茜は部屋に入ると、嬉しそうに室内を見て回り始めた。葵と違って、彼女は石のことなら何でも興味があるようだ。葵が確か、宮古老人の水石を引き継ぐつもりだとも言っていただろうか。

 そうして茜が熱心に石を見ているその傍らで、槐はふいに、その中のひとつを手に取った。

 花梨と――そして、茜の視線がその石に吸い寄せられる。

赤鉄鉱せきてっこうという石です。赤い鉄鉱、と書きます。英語名はヘマタイト。ギリシャ語で血を意味する言葉から名づけられました」

「赤? でも、黒色というか、銀色というか、金属みたいな見た目ですね」

 茜の言うとおり、それは黒に近い銀色の石だった。板状で、かすかな光を鈍く反射している。

 槐はうなずいた。

「赤鉄鉱は酸化鉄の鉱物です。さまざまな形状を持つのが特徴ですね。形が腎臓に似ているキドニーヘマタイト、雲母状の雲母鉄鉱、花弁のように重なった鉄の薔薇――アイアンローズなど、それぞれに呼び名があります。ちなみに、ここのものは板状で、これは――」

「あ。菊寿石きくじゅせきがある」

 茜は槐の言葉をさえぎって、そう小さく呟く。しかし、きょとんとしている槐の顔を見返して、すぐにはっとしたような表情になった。

「すみません。つい……」

 双子の弟であるという葵は、ぶっきらぼうではあるが芯の部分でしっかりした印象の少年だった。それに対して、茜はしっかりしているようで――少し抜けているようだ。

 槐は手元の赤鉄鉱から、棚に置かれた別の石へと視線を向けた。黒っぽい石に、黄色い放射線状の結晶が散っていて、小さな菊の花が集まっているように見える石だ。

頑火輝石がんかきせきですね。水石としては、菊寿石の名前のある」

 槐の言葉に、茜は照れたように笑う。

「私の好きな石で……うちのは、おじいちゃんの好みで大きめな石が多いんですけど、こういう小ぶりなのもいいですよね」

 彼女は本当に石が好きらしい。ただ、好きなものを前にすると、周りが見えなくなるようだ。

 槐は苦笑した。

「よろしければ、他にもおもしろいものをお見せしましょう――桜くん」

「何ですか。槐さん」

 呼びかけに答えて近づいていった桜に、槐はそっと耳打ちした。桜はうなずく。

「それでは、どうぞ店の方へ――」

 店、というのは――あの、倉庫と見まごうほどに混沌としている、あの場所のことだろう。槐は赤鉄鉱を持ったまま、その――表の店の方を指し示した。

 桜は花梨の横を足早に通り過ぎ、先行してそちらへと向かう。茜は遅れてそれについて行った。

 途中、話が終わったと思ったのか、葵が座敷から顔を出す。しかし、すぐにそうではないと気づいたようだ。

 茜は楽しそうに呟く。

「あそこって、確か水石とかが置いてあるところだよね。やった。神居古潭石かむいこたんせき、見られるかな?」

 そんな風に目を輝かせている茜に、葵はうろんげな視線を向けている。

「お前なあ……何しに来たんだよ。ここに」

 結局、葵もついて行くことにしたらしい。茜と連れ立って、何か言い合いをしながら先を歩いていく。

 花梨はふと、槐が立ち止まっていることに気づき振り返った。何かを迷っているような顔で、手にした赤鉄鉱を見つめている。

「赤鉄鉱。これが呪いだとして、どれほどの力を持つかは、私にはわからない。さすがに、黄玉のときのようにはならないと思うのだけれど……」

 槐はそう言った。手にした赤鉄鉱に話しかけているのだろう。

 黒曜石のような守り石とされている石たちほどには、あの部屋の棚に並ぶ石たちの力は強くない、という話は聞いている。茜の話したそれが本当に呪いなら、それに対抗できない恐れもあるということだろうか。

 槐の言葉に応えて、どこからか声がした。

「それはかまわない。覚悟はしている。それより――」

 これがおそらく、赤鉄鉱の声。

「いいんだな。槐」

 何かの意志を確かめるように、赤鉄鉱は強くそう言った。


 向かった先では、茜がさっそく、そこにある石をいろいろと見て回っていた。葵に指図しながら、あの箱の石が見たい、などと話をしている。

 桜の方は別の何かを探しているようだった。そのうちに、遅れていた槐もこの場に現れる。

 ほどなくして、桜は目当てのものを見つけ出したらしい。わずかばかり空いている床にその箱を下ろすと、茜と葵、そして花梨と槐も――皆がその場所に引き寄せられていった。

 箱の中にあったのは、いくつかの銀色の石。それを確認してから、槐が口を開く。

「これらも赤鉄鉱です。特別な力はありませんが」

 槐はあの部屋にあった赤鉄鉱を桜に預けると、箱の中にある赤鉄鉱のひとつを手にした。そして、桜が差し出した白い板――素焼きの磁製の板のようだ――に、線を書くようにこすりつける。現れた色は――

「赤い」

 茜が思わず、そう声を上げた。その反応に、槐は笑みを浮かべながらうなずく。

「赤鉄鉱の本来の色は赤。粉状になると赤く見えるのです。その粉は――いわゆる弁柄べんがらなど、顔料としても利用されています」

 白い板に引かれた赤い線。銀色の鉱物に見えるのに、粉になると赤くなる。まるで石が血を流したようだ。

条痕じょうこんの色は鉱物を識別する際の、ひとつの手がかりとなるのです。例えば――そうですね……」

 槐は周囲を見回すと、近くの箱から別の鉱物を取り出した。手にしたのは、淡い色のころんとした八面体の石。槐は桜から、今度は黒い板を受け取る。

「蛍石はさまざまな色を持ちますが、どんな色であっても、条痕は白です」

 箱の中には、紫や緑や青や――さまざまな色の蛍石があったが、黒い板にそれらをこすると、どれも白い線となった。

 次に槐は、金色の立方体を手にする。

「黄鉄鉱は――これは見てのとおり金色の鉱物ですが、条痕は黒」

 槐は再び白い板を手に取った。赤鉄鉱が書いた線のとなりに、黄鉄鉱によって黒い線が引かれる。

「おもしろいですね。でも、そうか……だから赤鉄鉱」

 茜の言葉に、槐はうなずいた。

「この特性から、血を連想するのでしょう。赤鉄鉱は戦いのお守りとしても用いられたそうです」

 槐はそう言うと、他の石は箱にしまって、桜に預けていた石を――あの部屋の赤鉄鉱を手にした。そして、それを茜へと差し出す。

「赤鉄鉱の力は、持ち主が血を流すことのないように守ること。原因が何であれ、ご友人の怪我を防いでくれるでしょう」

 槐が差し出した赤鉄鉱を前に、茜は、はっとした表情を浮かべた。

 怪我から守ってくれる。それが赤鉄鉱の力。

 自らの望んだ、不思議な力を持つ石を前に、茜はそれを見つめ続けている。ためらいがあるのだろうか。しかし、それも仕方がないだろう。

 確かに、彼女がこの店に訪れたのは石の力を借りるためだ。とはいえ、彼女はまだ、その力を目の当たりにしてはいなかった。槐の言葉だけでは、まだ信じきれないこともあるのかもしれない。

 それでも、彼女は普通ではあり得ない現象に立ち向かおうとしていた。友人のために。

 茜がようやく、それに手を伸ばそうとした、そのとき――槐がふいに、こう言った。

「ただ、ひとつだけ、確認したいことが」

 茜がきょとんとした顔で見返すと、槐はこう続ける。

「あなたは、呪いのことをどうお考えですか。呪った相手に――恨みはありますか」

 その問いかけには、茜はすぐさま首を横に振った。

「先ほども言いましたが、私は誰が呪っているとか、そんなことはどうでもいいんです。友人も――噂になってるその子は、呪ったりはしないって言ってますし。私はその子のことよく知らないけど、友だちの言葉は信じたい。それに――」

 茜はその先を言い淀むと、悲しそうにうつむいた。

「その、呪ったって言われている子も、噂のせいで孤立しているみたいなんです。だから、そんなことしたって、誰も得なんてしていない。呪いなんてやっぱりないのかもしれません。でも、その方がいいんです。友人が怪我さえしなければ、私は……」

 それを聞くと、槐は安心したようにうなずいた。

「そうですか。でしたら、どうかその気持ちをお忘れなく」

 槐の言葉に、茜はいぶかしげな表情を浮かべる。

「あの――?」

 茜は問いかけるような視線を槐に向けた。しかし、彼女がそれ以上何かを言う前に、槐は再び口を開く。

「あなたの望みはご友人を守ること。この先、それ以上の何が起こっても、それはこちらの責任です。そのことをご理解いただければ、この石をお貸しいたしましょう」

 茜はその言葉にけげんな顔をする。

 どういうことだろう。花梨も内心で首をかしげた。

 とはいえ、この石が友人を怪我から守ってくれるというのなら、茜にはそれを拒否する理由はないだろう。茜はうなずくと、神妙な顔でその赤鉄鉱を受け取った。

 石を手にした茜は、それを見つめたまま黙り込んでいる。花梨は思いきって声をかけた。

「茜さん。その練習試合、私が見学しても大丈夫かな?」

 花梨の唐突な申し出に、茜は虚をつかれたように目を見開いた。本当に突然のことだったので、その反応も無理はない。

 花梨は安心させるように、こう言い添えた。

「興味本位とかじゃないの。少し気になることがあって……無理にとは言わないよ」

 茜は花梨のことをじっと見つめ返してくる。

 彼女とはまだ出会ったばかりだ。無関係な者が首を突っ込むことに、いい顔はしないかもしれない、とも思ったが――

 茜は特に不審に思う様子もなく、あっさりとうなずいた。

「わかりました。場所と日程をお教えします。私が大丈夫だったんだから、まあ、部外者でも見学くらい問題ないかと」

 そうして花梨は茜と連絡先を交換した。当日に待ち合わせて、一緒に行くことになる。

 赤鉄鉱を借り受けた茜は、あらためて槐にお礼を言うと、そのまま葵と共に帰っていった。


 二人を見送ってから、花梨は槐と共に座敷へと戻る。引き延ばしになっていたこと――槐の言う渡したいものについての話を聞くためだ。

 花梨は座卓を挟んで、槐と再び向き合った。桜はその――渡したいものを探していたのか、しばらくしてから、それを手に遅れて戻って来る。

 槐の手を経て、あらためて花梨はそれを受け取った。渡されたのは、大きな分厚い茶封筒。

 促されて、その場で中身を確認する。そこにあったのは、文章の書かれた数枚の紙束と一枚の名刺だ。

 槐はそれについて、こう話した。

「知り合いが大学で講師をしています。彼に呪いの噂について聞いてみたのですが、どうも、二年ほど前――茜さんの言っていた呪いと同じですね――その頃に流行っていた呪いに関して、噂を収集していた学生がいると言うのです。レポートはその一部をコピーしたもの、とのことです」

 槐はそこで、ほんの少し苦笑する。

「まさか、茜さんたちから、その話を聞くとは思いませんでしたが」

 槐はそう言うと、名刺の方を指し示した。

「くわしいことを聞きたいなら、その――講師の小松くんに連絡を取っていただけますか。レポートを書かれた学生と会わせてくれるそうです」

 花梨は名刺に目を向ける。大学は――花梨が通っている大学とは別の大学だ。講師の名は田上小松。では、この人は――

 多くの人に助けられていることを思って、花梨は自然と頭が下がった。

「ありがとうございます」

 そう言ってから顔を上げると、槐と目が合う。しかし、そこにあったのは、いつもの穏やかなそれとは違う――何か気がかりなことがあるような――そんな渋い表情だ。

 花梨は思わず、その理由をたずねようとした。しかし、その前に槐が口を開く。

「心配することはないのかもしれませんが、どうかお気をつけて」

 このレポートが行方不明の姉のことや、今まであったことに関わっているのかどうかは、まだわからない。ただ、槐はそこに何らかのつながりがあることを危惧しているのだろう。花梨はうなずく。

 何にせよ、思いがけず長居をしてしまった。そろそろ――と切り出して、花梨は槐にいとまを告げる。槐と桜に見送られて、花梨は座敷を辞した。

 見送りは不要とその場で別れて、通り庭を進んだ先。そこから表へ出る直前――戸の前に現れた姿に、花梨は行く手を阻まれた。

 石英だ。

「はいはい。いいよ、黒曜石くんは。いちいち出て来なくても」

 おそらく黒曜石が姿を現そうとしたのだろう。その前に、石英はそんな風に先を制した。

 石英はいつもの斜に構えた表情とは違う、真っ直ぐな視線を花梨に向けている。

「ひとつだけ、君に忠告しておこう」

 花梨は彼の言葉に身構えた。その反応にも、石英は表情を変えることなく、こう続ける。

「君は少し危うい橋を渡ろうとしている。しかし、この先のことを思うなら、軽はずみな行動は慎むことだ」

 その言葉は、今の花梨には身に覚えのないことだ。しかし、彼の力のひとつは、未来を見ること。彼に何かが見えたというのなら――

 それを問いただす前に、石英は花梨の目の前から姿を消した。




 剣道では、錬成会れんせいかいと称される稽古を行う場がよく催されているらしい。花梨が訪れたのもそれだった。

 いろいろな形式があるようだが、地元の体育館で行われた今回のそれは、学校の部活はもちろん、道場の門下生や個人での参加もあって、その場でいくつかの組に分けられ、ひたすら練習試合を行っていくものだ。

 茜からひととおりの説明を受けながら、花梨は共にその錬成会へと向かった。意外――ではないかもしれないが、葵もついて来ている。

 まだ始まる時間ではないらしいが、体育館にはすでに多くの人が集まっていた。茜はその中から友人の姿を見つけて、真っ先にかけ寄っていく。

 そのうち茜は友人とともにその場の集まり――高校の剣道部だろうか――から抜け出し、花梨の元へとやって来た。葵はなぜかずっと、少し離れたところで佇んでいる。

 茜の友人は、快活な印象の少女だった。

「こんにちは。新しい人が興味持ってくれるの、大歓迎です」

 そう言って、彼女はにこりと笑う。

 茜は花梨のことをどう説明したのだろう。花梨は剣道に興味を持ったわけではなかったので、何となく心苦しく思ったが――こうなったら、この錬成会だけでもちゃんと見学することにしようと、花梨は密かに思う。

 少女はそのうち葵のことにも気づいたらしく、茜に向かってこう言った。

「あ。弟くんもいる。珍しいね」

「――そんなことより。怪我、大丈夫?」

 茜はそれには取り合わず、不安げな表情でそう言った。たずねられた少女はきょとんとした顔で見返してから、苦笑を浮かべて左手をひらひらさせる。そちらが怪我をした腕なのだろうか。

「ん? 問題ない。問題ない。私、骨は丈夫なんだ。ところで――」

 少女は探るような視線を花梨へ向ける。

「どういうお知り合いか聞いても?」

 茜は虚をつかれたように目を見開くと、うーんとうなりながら考え込んだ。考えた末に出た答えは――

「……石、関係?」

 茜が口にした言葉に、少女は突然吹き出した。

「え。何。何で笑うの?」

「ごめんごめん」

 花梨もまた、けげんな顔をしていることに気づいたのだろう。彼女は言い訳をするように、こんなことを話し始めた。

「そうですね……うちのおじいちゃん、刀が好きなんです。それで、刀剣を集めてて。私もその影響を受けちゃったんですよね。本当は居合いをやろうと思ってたんだけど。まあ、いろいろあって、今は剣道部に」

 花梨はその話を聞いて、水石を集めている宮古老人と――そして、その孫であり石好きの茜のことを思い浮かべた。

 少女は続けてこう言う。

「だから、茜とは変わり者仲間。しかも、同じおじいちゃん子で」

「か、変わり者……?」

「自覚ないのかよ」

 愕然とする茜に、葵が遠くでぼそりと呟く。

 そのときふと、その場の空気が変わった。茜とその友人の視線が、ある一点に集まったからだ。葵もまたそれに気づいて、そちらに目を向ける。

 視線の先にいたのは茜と同年代の少女だった。話に聞いていたライバルの子だろうか。

「大丈夫かな。呪い……」

 茜はそう呟いてから、慌ててその口をつぐんだ。思わず口に出てしまったのだろう。それを見た少女は、茜の反応に苦笑する。

「呪い、ねえ。私は違うと思うけど。あったとしても、集団ヒステリーみたいやつかなって。あの頃ちょっと、部内で揉めててね……」

 茜が首をかしげると、彼女はこう続けた。

「ほら。前に、部の方針のことでいろいろあったって話してたでしょ」

 ああ、と思い出したように、茜はうなずく。

「私は部活に入ってないから……よくわかんないけど」

 茜はそう言って、言葉を濁した。当事者ではないからか、何とも言いがたいらしい。それに対して少女の方は、もう過ぎたこと――という風に、何でもないことのように笑っている。

「もう、大揉めだったよ。私が先陣切って、先生に訴えて。それで何時間も議論して。でもさ、当然、部内にはそれに反発する人もいたわけ。それで、私のライバルだってことで、その人たちに反対派として担ぎ上げられちゃったんだよね――彼女。それまでは、わりと中立というか、超然としている感じだったんだけど」

 そこまで言うと、少女は少し声の調子を落とした。

「まあ、そんなわけで、変なことが起こったから、みんな理由が欲しかっただけでさ。それがたまたま、彼女に矛先が向いちゃったんじゃないかな。それに――」

 彼女はその目をライバルの少女へと向ける。視線の先の少女は集団からは外れて、明らかに孤立していた。ただひとり女性が――顧問の先生だろうか―――ずっとつき添っているようだ。

 そのことを苦々しく思っているかのように、少女は顔をしかめている。

「彼女はそんなことするタイプじゃないよ。私も、あんまり親しくはないけどさ」

 それに同意したのは、意外にも葵だった。

「俺も同じクラスだから知ってるけど。確かに妙にプライド高い感じ。呪いとか、陰湿なことはしない気がする」

「擁護だか何なんだか。弟くんは手厳しいね」

 そう返されて、葵はむっとした。

「あのさ。さっきから、弟弟って……同じ学年だろ」

 その言葉に、だよね、と少女は笑う。

「ごめんごめん――つい。クラスも違うし、茜がそう呼ぶから」

 話し込んでいる二人の側で、茜はずっと黙り込んでいた。葵がそれに気づいたとき、茜は浮かない顔でぽつりと呟く。

「でもじゃあ、あれは――何だったんだろう」

 前回の試合のときにあったという、奇妙なできごと。その場にいた誰もが答えをためらった。

 しばらくして、どうにかそれを口にしたのは、茜の友人だ。

「うーん。ほら、あれだよ。かまいたちみたいなものじゃない?」

 突然の発言に茜は目を見開いて、葵はあからさまに顔をしかめた。茜は呆然として呟く。

「か、かまいたち……妖怪のしわざ?」

 少女は双子の反応をどこかおもしろがりながら、首を横に振る。

「そうじゃなくて。かまいたちって、知らないうちに傷ができて、ってやつだけど……確か、風の中にある真空のせいでそうなる、とかじゃなかったっけ。まあ、とにかく不思議ではあるけど、何か理由があるんだよ」

 その説明を聞いて、花梨は思う。この少女はもしかして、怪異のたぐいを全く信じていないのかもしれない。だとすれば――

 茜は赤鉄鉱をどうしたのだろうか。怪我を防ぐお守り。しかし、この様子では、不思議な力がある、とは説明しにくいだろう。

 花梨は茜の様子をうかがった。茜は案の定、友人に何かを切り出そうとしながらも、それをためらっているようだ。

 そのときふと、声を上げたのは葵だった。

「まあ、原因は何でもいいんだけど。その怪我のことでこいつ、今日のために、お守りだかを用意したんだと」

 ちょっと――と言いながら、茜は慌てて葵に詰め寄った。葵は舌を出しながら、素知らぬ振りをする。

 友人にけげんな顔で見つめられて、茜は観念したように鞄から何かを取り出した。茜が手にしたのは紐を通した――首から下げられるようにするためだろうか――小さな巾着袋。中にあるのは、おそらく赤鉄鉱だろう。

「あの……これ。その――また変なことが起こって、怪我しないようにって」

 茜が差し出したそれに、少女は驚いたように目をしばたたかせている。怪異を信じないだろう彼女の目に、それがどう映ったかはわからないが――それでも少女はそれを受け取った。

「わかった。ありがたく身につけとく」

 少女はそう言うと、茜を安心させるように笑う。

「まあ、見てて。大丈夫だよ。もう何も起こらないから」

 そろそろ時間なのだろう。彼女はそう言い残して、その場を去って行く。茜はそれをじっと見守っていた。

 アナウンスに従って、花梨たちは見学をする人たちの集まりの方へと移動した。その場所で見知った人物を見つけて、花梨は驚き声をかける。

「槐さん?」

 その呼びかけに応じて振り返ったのは、やはり槐だった。花梨たちの姿を認めると、彼は珍しくばつの悪そうな笑みを浮かべる。

「私も……少し気がかりでしてね」

 どうやら槐もまた、茜の友人の――あるいは赤鉄鉱の――様子を見に来たらしい。

 槐の姿を目した茜は、はっとしてこう問い詰めた。

「あの。お借りしたお守りの石――呪いじゃなくて、かまいたちにも効くでしょうか」

「いやいや。何でそうなる……」

 呆れたように、葵が呟く。槐はいぶかしげな表情を浮かべながらも、こう話し始めた。

「かまいたち、ですか。刃物で切られたような傷ができる現象ですね。しかし、その傷は痛みもなく出血もない。怪異とも結びつけられることも多く、現在では鎌を持ったイタチに似た姿の妖怪として方が有名でしょうか。しかし、その原因はあかぎれか、あるいは風に飛ばされた石や砂によって傷ができた、という説が有力なようです」

「真空がどうのっていうのは?」

 たずねたのは葵だ。槐は苦笑する。

「真空説は――確かに一時期そう説明されたようですが……私は、科学的なことはあまりくわしくはないので断言はできませんが、今ではそれほど現実的でないと見なされているようです」

 へえ、と感心した様子の葵に対して、茜はどうにもやきもきしている。彼女が心配しているのは、かまいたちの原因ではなく、友人が怪我をしないかどうか、だからだろう。

 槐はそんな茜の心中を察したのか、安心させるように、こう請け負った。

「何にせよ、赤鉄鉱ならそういった怪我なら防いでくれますよ。それに、原因はどうあれ、それが悪意のない何かであるならば、それが一番いいのでしょうが――」

 そろそろ始まる時間だろうか。竹刀を持ち、剣道の防具を身につけた人たちが集まってくる。

 もしも、茜の話したできごとが本当に呪いによるものならば――

 花梨はそれを確かめようと思い、ここまで来た。しかし、茜の気持ちを考えると、何ごともなく無事に終わる方がいいとも思う。複雑な思いを抱きながら、花梨は錬成会の行われる場へと向かった。


 体育館のあちこちで声が上がる。どうやら、試合が始まったらしい。

 試合は広い体育館の何か所かで行われていた。竹刀を打ち合う音が響き、気合いのかけ声が発せられている。観衆からは声援も飛んでいた。ずいぶんとにぎやかだ。

 花梨は茜の話から、もっと静かな場を思い描いていたのだが――それとは対照的な激しさに、花梨は呆気にとられながら、こうたずねる。

「茜さん。この前話してくれたことが起こったのも、こんな感じだったの?」

 茜はそのときのことを思い出しながら、こう答える。

「あのときは、最後に稽古の成果を確かめる、とかで勝ち抜き戦? ってのをやったんです。それが起こったのはそのときで。ここまでうるさくはなかったかな」

 茜の話では――おそらく怪我を負ったときの――鈍い音が聞こえたという話だった。今の状況とは違ったのだろう。

 茜はさらにこう話す。

「この前に私も初めて見学して驚いたんですけど、ずっと戦ってるんですよね。終わる頃にはみんなへとへとで。でも、いろんな人と戦うから強くなれるんだって言ってました」

 花梨はひとまず納得してうなずいた。自分の知らない世界に、軽い驚きを感じてもいる。

 しばらくその光景をながめていると、ふと――同じようにそれを見ていた槐の姿が目に入った。そこでたまたま槐が振り返って、思いがけず視線が合う。

 槐は花梨にこう言った。

「おそらく、茜さんのご友人が怪我を負うことはないでしょう」

 その言葉に、花梨は安心するよりも別の心配を抱いた。

「何か他に、気がかりなことがあるんですか?」

 槐は複雑な表情で花梨のことを見返す。彼は視線を転じると、しばし無言のまま目の前の試合をながめていた。しかし、しばらくすると、花梨だけに聞こえるほどの声でこう話し始める。

「赤鉄鉱が、形状によってさまざまな名前を持つことはお話しましたね。その中でも彼の形は――」

 そのとき茜が、あ、と声を上げた。何だろうと思って見てみると――どうやら茜の友人と、そして――例のライバルの少女が試合をするところらしい。

 防具で身を固めた少女がふたり、向き合い礼をしてから、竹刀を交えて腰を落とした姿勢になる。そうして――

 どこからか、声が聞こえた。

「私の力は持ち主が血を流さぬよう守ること。そして――」

 審判がはじめの合図をする――その直前。

 花梨は赤鉄鉱を持つ少女の傍らに、人の姿を見た気がした。鈍色に赤が混じった髪の青年は、胸元に何かを抱えている。他の人には――見えていないらしい。

 次の瞬間、その青年が口を開く。

「私のもうひとつの名は鏡鉄鉱きょうてっこう。害意あるものにはそれを……はね返す」

 その言葉と共に、どこからか声が――耳をつんざくような悲鳴が上がった。

 明らかに異質なそれに、周囲には今までとは違うざわめきが広がっていく。何が起こったのだろう。あのふたりの少女は――試合の合図がいつまでもされないことで、ようやく異変に気づいたらしい――不思議そうにただ辺りを見回している。少なくとも、怪我は負っていないようだ。

 多くの人が不審がる中、槐はその悲鳴の元にいち早く気づいていた。一か所だけ、視線がとある人物に集まっている――

 槐が呟いた。

「彼女が呪者か。いや――」

 その人のことは、花梨も試合が始まる前に確かに姿を見ていた。呪っているのだと噂されたあの子に、ずっとつき添っていた女性。

 彼女は今、苦しげに呻きながら、自分の右腕を押さえている。

「先生……?」

 茜がいぶかしげに呟いた。彼女はやはり、顧問の先生だったらしい。

 槐は彼女の様子を見て、こう続ける。

「呪い返しを防ぐこともしていない。ならば、依頼者か……」

 花梨は槐の言葉の意味を考えた。あの先生は呪術を行う者ではないようだ。しかし、それを依頼した。つまり、茜の友人が怪我を負うことを願ったのは、顧問の先生だということになる。

「どうして? だって、先生でしょ?」

 呆然とする茜に対して、葵は冷ややかに言う。

「先生だって、聖人じゃないだろうよ」

「でも――」

 詰め寄る茜に、葵は肩をすくめている。

「お前は授業違うから知らないだろうけど、あの先生、一部ではひいきの生徒にだけ甘いので有名」

 葵はそう言った。もしかしたら、彼はこうなることを予想していたのかもしれない。

「部の方針だかで揉めてたって言ってたじゃないか。あいつが先陣切って、楯突いたんだろ。それで、つまりは――そういうことだ」

 茜は悲しげに顔を歪めた。誰が呪ったのかを暴くつもりはない。そう言っていた彼女。確かに友人は守ることができた。しかし、思わぬ展開に動揺してしまったらしい。

 葵はそんな茜の様子を見て、大きくため息をつく。

「そんな顔するくらいなら、最初から関わるなよ」

 大きくなっていく騒ぎの中で、槐は真っ直ぐにその先生の元へと進んで行った。悲鳴を上げた彼女は、やはり呪いが返っていたらしく、服の袖からのぞく腕には赤黒い打撲の跡が生々しく見える。

 槐は彼女の傍らに立ち、静かにその様子を見下ろした。その彼女が落としたらしい何か――石のように見える――を拾い上げて、槐はこう呟く。

玄能石げんのういし

 それは不思議な形の石だった。両端が尖った形をしている石で、さらに持ち手のような突起もある。これは、まるで――

「イカせき仮晶。イカ石が方解石へと変化したもの。その形状のため、かつては石器とも考えられていた。玄能とは槌のこと。あなたはこれを、どこで――」

 これもまた、呪いのための石なのか。しかし、彼女がそれを成したわけではない。ならば――

 花梨は自分でも無意識のうちに、その人の――呪いの石を手にした彼女の前に立っていた。

「鷹山さん――?」

 槐が戸惑ったような声を上げる。花梨はその声を聞きながらも、自らの腕を押さえながら怯えた表情をする女性に、強くこう問いかけた。

「教えてください。あなたはどんな方法で、この呪いを手に入れたんです」


     *   *   *


 空木が例の店の前まで来たとき、そこにはすでに先客がいた。

 年の頃は二十の後半くらいだろうか――女だ。ただ、先客といっても妙な様子で、彼女は店の戸をじっと見つめたまま中に入ろうともしない――ちょっと変わった客だった。

 明らかに不機嫌そうな表情に、初めこそ近寄りがたいと思ったのだが、よく見てみるとその顔立ちが自分好みだったので、空木は勝手に気分をよくする。その流れのまま、空木は女に軽く声をかけた。

「あなたも、ここのお客で?」

 そこでようやく、女は自分以外の存在に気づいたらしい。はっとして空木の方を見ると、少しだけたじろいだ。

 驚かせてしまっただろうか。女からの返事はない。

 しかし、この状況で彼女が、店とは無関係です、なんてことはないだろう。空木はめげずに、さも常連ですという風を装って、格子戸を開けようとした。が――

「閉まってるな……」

 店の戸は開かなかった。ばつが悪いことをごまかすように、空木は大げさにため息をつく。

「閉店みたいですね。休業日は聞いてなかったけどなあ。まあ、いつも営業してるようで、してないようなもんか。ここは」

 知った風なことを呟くと、空木は気を取り直して女に向き直った。

 実際のところ、思いがけず店が閉まっていたことは、こちらとしても痛いところではあるのだが――事実、閉まっているのだからどうしようもない。そう切り替えてしまえば、空木の興味はすでに店の客らしき女の方にあった。

「えーと、どういったご用件でしょう。ここがどういう店か知ってます? やはり、石の店としてでしょうか――」

 それとも、怪異の方だろか。

 言い淀んだ空木に代わって、女が口を開く。そうして発せられたのは、今にも消え入りそうな声だった。

「あなたこそ」

 空木の問いかけのほとんどを無視して、女はこう問い返した。

「この家の、何を知っていると言うの? 何も知らないなら、関わらない方がいい。ここには――人に害を為す呪いの石があるのだから」

 どういうことだろう。空木は内心でうろたえた。呪いの石。この店が――?

 では、あのときの――百鬼夜行のときのことは何だったのだろう。しかし、ここの店主が奇妙な力を持っていることは、空木もすでに知っている――

「その話、くわしく聞かせちゃもらえませんかね」

 珍しく真剣な顔になって、空木は女にそう言った。

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