第十五話 頑火輝石 前編
家の近くに小さな稲荷の社があって、幼い頃はよく祖母と一緒にお参りした。
住宅街の一角に埋もれるようにしてある神社だ。敷地は狭いが、つつましい社殿の前には赤い鳥居がずらりと並んでいて、わりと目を引く。無人ではあるが、知らない間に誰かが世話をしているのか、荒れているところを見たことはない。
祖母もよく、この神社の周辺を掃除していた。家の周りをきれいにするついでだから、と言って。
みんなにやさしくすれば、きっとそれは自分に返ってくる。それが祖母の口癖だ。おばあちゃん子だったこともあって、くり返し聞かされたその言葉を、自分は素直に受け取っていた。
みんなにやさしく。幼いときのそれは、何かの見返りを求めるものでもあったかもしれない。しかし、それはいつしか自分の喜びともなっていた。
みんなにやさしくして、喜んでもらえれば自分も嬉しい。
そして今――やさしかった祖母は亡くなり、自分はもう大人になっていた。それでも、あのときの言葉は今でも心の中にある。
「店長」
仕事中、ふいに呼ばれて振り返った。
観光地の大通りにある雑貨店。そろそろ店じまいの時間で、閉店の準備をしているところだった。
視線の先にいたのはアルバイトの女の子。今年から故郷を離れて京都の大学に通っている子だ。真面目でしっかりしているので、いつも頼りにしていた。
「どうしたんだい。鷹山さん」
「表に出してあった傘立てに、傘が一本残ったままで」
そう言った彼女の手には、和傘だろうか――ずいぶんと古風な赤い傘が握られている。
店内を見渡してみたが、人影はない。雨は午前中には上がっていて、午後からは晴れていた。ならば、誰かが置き忘れたのだろう。
「お客さんが忘れて行っちゃったのかな。もしかしたら取りに来るかもしれないから、貼り紙でも作っておくよ。とりあえず、裏に片づけておいてくれるかい?」
わかりました、の返事と共に、アルバイトの子は傘立てと忘れられた傘を運んでいく。
それを確かめてから、作業に戻った。表に出していた立て看板を片づけようとしていたのだ。しかし、そのときまた、今度は通りの方から声をかけられる。
「あの。まだ開いてますでしょうか」
女の人だった。
そうたずねるということは客なのだろうが、閉店までは、ほとんど時間がない。とはいえ、今はまだ営業時間内だ。愛想のよい笑みを浮かべ、彼女に向かってうなずいた。
「ええ。大丈夫ですよ」
そういえば――と、ふと思い出す。目の前の女性は以前も何度か来店してくれていた気がする。そう思って、何の気なしにこう声をかけた。
「お久しぶりです。また、来てくださったんですね」
「私のこと――覚えて、くださっていたんですね」
その人は軽く目を見開くと、ほっとしたように、嬉しそうに笑う。どうやら、喜んでもらえたようだ。途端に自分も嬉しくなった。
その人はこう言う。
「最近、仕事で忙しくて……それで、なかなか来られなかったんです」
わざわざ仕事帰りに寄ってくれたのだろうか。
観光客向けの雑貨店ということもあって、そういうことはあまりない。しかし、店の内装やら品ぞろえやら、それなりに力を入れている身としては、何度も訪れてくれる客は、やはり嬉しいものだった。
「そうだったんですね。ゆっくり見ていってください、とは言えないんですが――まだ少し、時間がありますので、どうぞご覧になってください」
「ありがとうございます」
そう言って、その人は店内に入って行く。かと思えば、彼女は何かに驚いたように、唐突に立ち止まった。
どうやら片づけ損ねていた立て看板にぶつかってしまったらしい。そのことに気づき、すぐに慌ててかけ寄った。
「すみません。片づけの途中だったもので」
「こちらこそ見えてなくて……すみません」
その人はそう言って、申し訳なさそうに頭を下げる。
こちらの不手際なのだから、彼女が謝る必要はない。立て看板を端に寄せて、どうぞお気になさらず、とその人を中に通した。
そのまま一緒に店内に入り、わずかな時間だったが、軽く話をしながら見て回る。看板のことで気を使わせてしまったこともあったが、わざわざ来てくれた嬉しさもあったからだ。
閉店の間際までいたその人は、最後にバラのお香をひとつ買って、帰って行った。
* * *
「お待たせしたでしょうか」
その人は、空木のもとに来るなりそう言った。
雑誌でも紹介されているおしゃれな喫茶店。その二人がけのテーブル席で、空木は注文を済ませて彼女のことを待っていた。
例の店の前で会った女性だ。そのときは軽く言葉を交わしただけだったが、くわしい話を聞きたいということで、あらためて会う日を申し合わせていた。
「全然待ってませんよ。時間ぴったりです」
本当のところは、約束の時間より十分は遅い。しかし、それくらいは誤差だろう。とはいえ、そんなことを言えば嫌みにも思われそうだが、このときの空木はそこまで考えていなかった。
いつもの軽い調子で、空木はこう続ける。
「場所、わかりにくかったですかね」
「いいえ。ただ――人が多くて……」
そう言うと、彼女はその苦々しい表情を客であふれた店内へと向けた。
人気の店はお気に召さなかったか。次があるなら――あるといいが――もっと静かなところを探すとしよう。空木は密かにそう思う。
女性が向かいの席に座ったのを確認して、店員が注文を取りに来る。彼女が選んだのは、熱いほうじ茶と干菓子のセットだ。
この場面でその選択はちょっと変わっている。そう思いつつも、空木は相手が落ち着いた頃合いを見計らって、あらためてこう切り出した。
「えーと。それで……あの店のことについて、お教えいただける、とのことでしたが――」
「その前に」
さっそく本題に入ろうと思ったのだが、早々にさえぎられてしまった。空木が虚をつかれているうちに、女は続けてこう問いかける。
「あなたはなぜ、あの家に?」
空木は肩をすくめながらも、素直にこう答えた。
「知り合いが呪われているようなので、どうにかならないものかと――」
「その人はなぜ、呪われたのです?」
矢継ぎ早の問いかけに、空木は相手の真意をはかる余裕もない。
わずかばかり考えた末、空木はあの話から始めることにした。遠回りではあるが――おそらく事の発端だろう例の噂から。
「知ってます? こんな話。とある場所で、呪いを依頼できるってやつです。二年ほど前になるのかな、学生を中心に広まっていたそうで、ネットでも一時期、話題になったんですけど」
女は問いかけに答えるでもなく、表情を変えることもなく、ただこう問い返した。
「その方は、それによって呪われた、と?」
「まあ、おそらくは」
空木は答えを濁す。しかし、この流れでこんな話題を出したのだから、無関係ではないことくらい、相手にもわかるだろう。とはいえ、空木の方にも確証があるわけではないが――
女は探るような目を向けてくる。空木からも何かたずねようかと思ったが、そうするより先に、彼女はゆっくりとその口を開いた。
「その呪い――あの家によるものかもしれない、と言ったら、信じますか?」
空木は思わず、妙なうなり声を上げた。とっさに否定も肯定もできなかったからだ。
あの店を知ったのは最近のことで、それも偶然のこと。目の前の女性もまた、知り合ってからは日が浅い。彼女の言い分を信じるも退けるも、判断する材料が少なすぎた。
しかし、彼女は追い討ちをかけるようにこう続ける。
「あの家は、そういう力を持っている」
店主が妙な力を持っていることは、空木も知っているし、目の当たりにもしている。とはいえ、空木はその事実だけで、例の噂とあの店につながりがある、と断定するつもりはなかった。
こちらの出方を待っているらしい女に、空木こう切り出す。
「あー……念のため、確認しますが。あの店がその噂と関わりがあるという証拠――とまではいかなくとも、そう思うだけの根拠はあるんですか?」
「信じてはいただけない、と?」
女は澄ました顔で首をかしげている。答えをはぐらかされたな、と思いつつも、空木もまた、とぼけたように、こんな話を始めた。
「呪いを引き受けてくれるっていう噂については、俺も少し調べたんです。ネット上での情報だけですけど。しかし、その呪いとやら、少なくともわかる範囲で実害はない」
「……どういうことでしょう」
女は表情を変えなかったが、お互いの間にぴりっとした空気が走った――気がした。空木はそれには気づかぬ振りをして、場の空気を和らげるように愛想笑いを浮かべてみせる。
「覚えていらっしゃいますかね? これも二年くらい前――かな。五条の辺りで起きた殺人事件。ひとり暮らしの若い娘さんが殺されたやつですけど」
当時、各所で報道されていたので、それなりに有名な事件だ。しかし、彼女の方は知っているのか、いないのか、何の反応も示さなかった。
とはいえ、その事件のことを知らなくとも、先を話すことに支障はない。空木は続けた。
「いわゆるストーカー殺人ってやつで。勘違い男に殺されるっていう痛ましい事件だったんですけど。その男、事を起こす前にネット上で予告――というか、書き込みをしてたんですよね。そのこと」
「そのこと、というのは?」
「呪ってくれるように頼んだのに、何もしてくれなかった。だから自分が殺してやるって」
女は無表情のまま黙り込む。空木は肩をすくめた。
「どうも、ネット上で噂が広まったのは、それがきっかけみたいで。そもそもの発端である学生の噂までは、俺もあまり知らないんですが。何にせよ、それをおもしろがった連中が、いろいろと調べてまとめたようなのが残ってました。どうもこの呪い、誰かのいたずらとか、その程度のものだったらしい。それで――そういう話が広まった辺りで、その噂自体もぱたりと止んでる」
空木が探るような視線を向けると、彼女はあらためてこう問いかけた。
「だとしたら……あなたのどうにかしたいという呪いとは――何なのです?」
空木は思わず苦笑いを浮かべた。
「まあ、そうなりますよね。しかし、こちらの事情はちょっと特殊なんです。ただ――だからこそ、あなたがその呪いを、あの店が原因だと断言されるのは奇妙に思われまして」
空木がそう言うと、相手はあからさまに顔をしかめた。
この女性があの店に敵意を持っていることくらい、空木にもわかっている。それでいて、今のところ空木自身はどちらの味方をするつもりもなかった。できることなら、これについては双方の主張をうかがいたいところだが――だとすれば、ひとまずは目の前の彼女からだろう。
さて相手はどう出るか――と空木が身がまえたところで、それでも彼女はこう主張した。
「何であろうと、呪いの石があの家にあることに間違いないはありません」
呪いの石。空木が知っているそれは、蛭石とかいう、干からびたミミズのような石だ。それも、店主は自分を狙ったものだろうと言っていた。いったい何がどうなっているのやら。
呪い石とやらを扱える者は、ひとりではないのかもしれない。だとすれば――
空木があれこれ思案していると、女はふいに、こう提案した。
「わかりました。では、こうしましょう。今は信じていただけなくてもかまいません。その代わり、あなたがもし、またあの家に行くというなら、そのときのことを私に教えていただけないでしょうか」
「それは――」
間者にでもなれ、ということだろうか。簡単なお願いを装ってはいるが、これは少しきな臭い――と考えるのは、空木が少し穿った見方をしているだけかもしれないが。
彼女はさらにこう言いつのる。
「話せることを、話していただけるだけでけっこうです。ご協力いただけませんか?」
とりあえず、乗ってみるか。空木はそう思った。
現状、どちらのことを信用するべきなのか、空木はまだ決めかねている。それを決めるのは、双方に通じてお互いの腹の内を知ってからでもいいだろう。そういうことをして心を痛めるような繊細さを、空木は持ち合わせていなかった。
そのとき。
ふと――何気なく彼女の方へと向けた空木の目が、視界の端で何かを捉えた。細い糸のようなもの。日に照らされて、一筋の光になっている。
――蜘蛛の糸?
それは彼女の首元に巻きついて、まるで――どこかにつながれているかのようにも見えた。
視界の端で引き結ばれていた口が、ふいに開く。
「――どうかしましたか?」
「いや」
空木はそこでようやく、物思いから覚めた。
じっと無言で見つめていたせいか、相手はけげんな顔をしている。しかも、軽く言葉を交わしている間に、その糸のようなものも見失っていた。あるいは、ただの見間違いだろうか。
最近たまに、妙なものを見る――
空木はぼんやりとした不安を振り切るように、彼女に向かってこう答えた。
「わかりました。とりあえず、情報を交換し合う、ということなら。それで、その――ご協力にあたって、あなたのお名前だけでも、お教えいただきたいんですが……」
空木はまだ、彼女の名前すら聞いていなかった。いろいろ事情があるのだろうと思って遠慮していたが、この展開なら、いいかげんたずねてしまってもかまわないだろう。
彼女はわずかなためらいのあと、こう名乗った。
「私の名は――クズノハ、です」
* * *
たくさんの本や紙束が、机の上はもちろん床にまで雑然と積まれている狭い室内。それらの資料に埋もれながら、花梨は縮こまるようにパイプ椅子に座っていた。
いつも通っている大学ではない、別の大学の研究室だ。部屋の主は田上小松。花梨がここを訪れたのは、例のレポートを書いた学生と引き合わせてもらうためだった。
待ち合わせの相手はまだ来ていない。この日に初めて顔を合わせることになった小松は、眼鏡をかけたやさしそうな男性だった。彼はやはり、なずなの連れ合いで、槐とも昔からの知り合いらしい。
「コーヒーがいいかな。それとも紅茶? 緑茶もあるよ」
のんびりとした口調で、小松は唐突にそうたずねた。
「いえ。おかまいなく」
花梨はそう答えたのだが、小松は勝手にコーヒーを淹れ始めたようだ。その香りが、部屋中に広がっていく。
そのときふいに、ノックの音が響いた。どうぞ、と小松が応えると、ひとりの青年が部屋に入ってくる。
「すみません。遅くなりました」
おそらく、彼が例のレポートを書いたという学生だろう。花梨はその場で立ち上がった。
相手と挨拶を交わし、お互いに名乗り合う。そのうちに、小松がどこからか、もうひとつパイプ椅子を持ってきた。
向き合って座ると、小松からコーヒーの淹れられたマグカップを渡される。それにお礼を言ってから、花梨はあらためて目の前の青年に頭を下げた。
「今日はお時間をいただき、ありがとうございます。レポートも、読ませていただきました」
「いやいや。レポートというか、調査途中のまとめだけどね。あれ。結局使わなかったし。役に立ったならいいんだけど」
同じように小松からコーヒーを受け取りながら、彼は軽い調子でそう言った。その言葉に、花梨は首をかしげる。
「使わなかった……どうしてですか? 研究のために調査されたんですよね?」
青年はうなずいた。
「そうそう。都市伝説とか、そういうのを調べてるよ。それも、噂が広がる過程とか、そっちに興味があって。そうだな……例えば、口裂け女みたいなのとか。知ってる? あれ、本当におもしろいんだよね。こう――話が徐々に変化していって、いろんな設定がつけ加えられて。それで――」
「口裂け女って一九七九年だよ。君、産まれてもないでしょ」
話があらぬ方向へ進んでいたところに、小松がそう水を差した。しかし、学生の方もすぐに言い返す。
「いや。先生だって産まれてないでしょ。あれ昭和ですよ」
まあねえ、と呟きながら、小松は自分で淹れたコーヒーを飲んでいる。脱線していた話の方向が、ここで元に戻された。
「とにかく。そういうわけで、それを知ったときは、リアルタイムで噂が伝っていくところを調べられるかもって思ったんだけどね。でもまあ、そう簡単にはいかなかったな」
「どうして調査をやめてしまったんですか?」
花梨がそう問いかけると、彼は困ったような表情を浮かべる。そして、言いにくそうに、声の調子を落とした。
「ちょっと漠然としていて、説明が難しいんだけど……何者かの意図を感じた、というか」
そう言うと、彼は黙って考え込んでしまう。しかし、言葉を選んでいるだけで、話したくないというわけではないようだ。
しばらくして、彼が発したのはこんな問いかけだった。
「そもそも君、噂については、どれくらい知ってるの?」
花梨はどう答えたものかと迷う。知っているといえば知っているが、それもつい最近、人から聞いたことばかりだ。花梨はひとまず、わかっていることを話すことにした。
「とある場所に行ってお願いすると、自分が憎く思う相手を呪ってくれる――くらいでしょうか。そして、その場所というのが――
花梨がそう言うと、彼は驚いたように目を見開いた。
「場所のこと知ってたの。レポートでは伏せてたけど」
花梨が受け取ったレポートは呪いに関しての証言をまとめたものだった。噂の存在を知っている、という簡単な話から、知り合いが実践して――と、比較的具体的なものもあったが、不明瞭な部分や矛盾もあって、確かな事実のみが書かれていたわけではない。その中では、場所に限らず固有名詞だと思われる部分はすべて伏せてあった。
深泥池のことを知ったのは、玄能石を持った女性からだ。花梨はこう続ける。
「あとは、細かな注意点があると聞いています。手順については、聞いた人によってまちまちで」
実際にそれを行ったらしいその女性からは、あの場でくわしいことを問い詰めることはできなかった。あの教師はあれ以来、休職して学校には姿を現していないらしい。
概要を教えてくれたのは葵だ。彼は以前に聞いたことがあるという噂以外にも、友人から話を聞いてくれたらしい。しかし、彼の語った話はそれこそ漠然としたもので、少なくとも彼の周りにそれを実践したり体験した者はいなかったようだった。
青年は花梨の話を聞いて、しきりにうなずいている。
「まあ、この手の話って、だいたいそんな感じだよね。君の言うとおり、この噂は深泥池のどこかに隠された、あるはずのない祠を見つけるってところから始まる。それから、呪って欲しい相手の名前とその理由を書いて、お供えと一緒に置いておくと、そこにいる何かがそれを叶えてくれる。それが基本かな。で、そこに行くときは必ずひとりでなければならないとか、お供えはいくらくらいが相場だとか、いろいろとルールがあるんだよね」
「ん? 相場ってお金なの? それはまた、俗っぽいというか、何というか」
口を挟んだのは、小松だった。
「そうなんですよ。フィクションとかでありそうですよね。そういうの。呪い請け負います、みたいな」
青年は楽しげにそう返したが、そんな軽口も長くは続かなかった。彼はふと、何かを思い出したように表情を陰らせる。
「それで、お金のこともそうなんだけど、どうもその呪いの依頼、明らかに選別されてるみたいなんだよね」
「選別?」
花梨がそう問い返すと、青年は苦々しげな表情でうなずいた。
「実際に呪いの依頼が成功したっていう人物と何人か話をしたんだけど、どうやら、何かが起こるかどうかは必ずってわけでも、気まぐれってわけでもなく、基準があるみたいで」
その話を聞いて、花梨もまた、顔をしかめた。
「基準、ですか。そもそも、その呪われたって人には、どんな害があったんでしょう」
玄能石は――茜の友人に、そして呪いを返した相手に、打撲の怪我を負わせていた。だからこそ、その噂の中でもそういった話があるのかと思ったのだが――
「俺が聞いた限りでは、変な黒い影につきまとわれたとか、追いかけられたとか。そんな感じかな。それ以上の酷い目に合った、とかは――全く聞かなかったわけじゃないけど、これは噂を元に怖い話を創作しちゃったパターンかな、と」
黒い影。何だろう。その言葉が、記憶の中の何かに引っかかった。
「それで、そういう影に追いかけられるようなやつらっていうのが――ようするに、呪われるようなやつらだけどさ。言っちゃあれだけど、どうも因果応報というか何というか。話を聞くだけでも、呪われても仕方がないやつらばかりだったりするんだよね。逆に、依頼したのに何もなかったって場合は、依頼者の方がちょっと自分本位に思える、というか――」
青年はそこまで言うと、花梨たちの視線に気づいて、はっとしたように口を閉じた。そして、慌てたように、こう続ける。
「いやいや。そういう予断は、調査する側が持っちゃいけないってわかってますよ。まあ、これについては断念したんだし、単に俺の感想です」
そんな言い訳を聞いて、苦笑したのは小松だ。彼はこう問いかける。
「でも、それじゃあ、気に入らない依頼のお金はそのまま? それとも持ち逃げかい?」
たぶん持ち逃げじゃないですかね、と青年は答えた。小松は特に顔をしかめるでもなく、こう呟く。
「それって事件にはならないのかなあ。何の罪かわからないけど。窃盗? 詐欺?」
「まあ、仮にそれが犯罪だとしても、お金を取られた側は、誰それを呪うように依頼しました、なんて言えなくないですか? 警察がそんな話、取り合いますかね」
青年はそう言って、軽く肩をすくめている。事件の可能性については、そこまで深刻には考えていないようだ。
「まあ、そういうわけで、たとえ犯罪にはならなくとも、どうもきな臭い。実際にそんないたずらをしてたやつがいて、おおごとになって手を引いたんじゃないかと――そう思ったわけで」
青年はそう言うと、軽くため息をついた。
「だからまあ、研究対象としては取り扱いが難しくてね。噂としては、おもしろいところもあったんだけど……」
「おもしろいところ?」
小松がすかさず、そう問い返した。
「伝わっていく途中で、それこそ妙な設定が加わったみたいなんですよ。呪いを依頼できる祠には本来なら誰もいないはずなんだけど、千回に一回はそこで鬼に会える、とか。レアキャラみたいな」
――鬼。花梨はその言葉に引っかかりを覚えた。実際にそう名乗る存在と会ったことを、思い出したからだ。しかし、この話に関連があるかどうかは、花梨にはわからない。
小松の方は何か別のことが気になったのか、あからさまにけげんな顔をしている。青年は軽く笑った。
「ようするに、ゲームとかでなかなか会えない珍しいキャラクターのことですよ。低確率とかで。先生、そういうのには疎いですよね」
小松はその言葉に納得しつつも、首をかしげて、うーんとうなる。
「しかし、鬼ねえ。深泥池なら貴船と通じているからかな」
それを聞いて、青年は途端に目を輝かせた。
「豆塚ですよね。やっぱり、祠ってそれのことでしょうか。あるいは、それと混同して、設定が追加されたのだとしたら――」
青年は早口でそう捲し立てたが、花梨が呆然としていることに気づいて、ふいにこほんと咳払いをした。
「すみません。つい夢中になって」
そう言って、彼は照れたように笑う。
「まあ、都市伝説ならともかく、誰かの意図によって流された噂なら、自分の領分じゃないかな、と。だから俺は、この件からは手を引いたわけです」
花梨は納得してうなずいた。そして、あらためてこう問いかける。
「誰かが広めた噂なら――逆に、その呪いを依頼するための正式な手順があるということでしょうか」
それを聞いて、今度は青年の方がぽかんと口を開ける。
「まさか君、実践しようってわけじゃないよね? それについてのまとめを教えてもいいんだけど……教えたことで、危ない目に会われてもなあ」
困ったようにそう言う青年に、小松が笑いながら返したのは、こんな言葉だった。
「大丈夫だよ。彼女には、守ってくれる存在がいるから」
黒曜石のことを言っているのだろうか。花梨は少しだけ、どきりとする。しかし、彼がなずなの夫なら、知っていてもおかしくはない。
青年の方は、何ですそれ、とけげんな顔をしている。そして、彼はいぶかしげな表情のまま、こうも続けた。
「それに、最近どうもまた、同じような噂が広まっているみたいで。しかも、今度は金さえ積めばどんな呪いも請け負ってくれる、って感じに変わってるんですよね」
「おや。それはまた。設定が、がらりと変わったねえ」
小松の言葉に、青年は苦笑する。そして、こう続けた。
「だからまあ、気をつけた方がいいかも。この件を調べるつもりなら。誰かが関わっているとして、そいつが何を考えているか、わからないからね」
そう言いつつも、青年は噂についてのレポートをすべてコピーし、渡してくれた。噂が再び広まっていることを知っていたりと、手を引いたと言うわりには、彼はまだこの話に未練があるらしい。もしも何か新しいことがわかったら連絡する、ということを約束して、花梨は彼と別れた。
青年が去った後、小松は花梨にこう問いかける。
「さて、何かつかめたかな?」
うなずく花梨に、彼はこう続けた。
「ひとりで行動せずに、槐くんに相談するんだよ。槐くんもなずなも、君のことを心配しているからね」
小松は青年が残していった空のマグカップを回収しながら、話を続ける。
「槐くんもあれで結構、無謀なとこがあるからねえ。そういう意味では、ちゃんと理解してくれると思うけど」
首をかしげる花梨を見て、小松は笑う。
「彼とは、子どもの頃からのつき合いだから」
小松は自分のマグカップからコーヒーを飲みつつ、花梨に向かって、さらにこう言った。
「それに、君には黒曜石がいるか。でもまあ、黒曜石は……少し頼りないとこあるからなあ」
黒曜石が無言だったのは、おそらく――その言葉が不服だったからだろう。黒曜石はそういうところがある。それは小松もわかっているのか、それ以上は何も言わなかった。
その日は朝からアルバイトで、花梨が歩いていた大通りには、まだシャッターが下りたままの店が並んでいた。
開店に間に合わせるため先を急いでいた花梨は、バイト先の雑貨店に近づくにつれ、どことなくいつもと違う空気を感じとる。それをいぶかしむ間もなく店の前まで来ると、人だかり――というほどではないが、店長と数人の見知らぬ誰かが話をしているところに行き合った。どうやら、何かさわぎがあったらしい。
そのうちの一人は警察官の制服を着ている。近くの交番から来たのだろうか。観光客はまだ少ないが、人通り自体はそれなりにあって、通り過ぎる人々も何ごとか、と店を一瞥していた。
花梨もまた、どうしたものかと迷ったが、そこに着く頃にはちょうど話が一段落したようだ。様子を見計らって、花梨は店長へと声をかける。
「どうしたんですか?」
「鷹山さん……」
店長は呆然とした様子で、情けない表情をこちらに向けた。
用は済んだのか、警察の人たちは店長に軽く声をかけただけで、その場を去って行く。花梨はそのまま、店長と共に従業員用の出入口へと向かった。
入ってすぐ、そこにあったものを見て、花梨は大きく目を見開く。
いつも表に出していた立て看板が、黒焦げに焼けていた。しかし、そのものは真っ黒だが、周囲に燃えたような形跡はない。
「何があったんですか?」
花梨はそうたずねたが、店長は首を横に振る。
「どうしてこうなったのか、僕にもさっぱり。朝来たらこうなってたんだよ」
店長は困惑の表情を浮かべて、大きくため息をついた。
「電気系統の故障かな? でも、片づけるときには、全部外してるはずだし……幸い、周りには燃え広がらなかったみたいだけど」
看板には小さな照明がついていたが、その部分は焼けていなかったので、それが原因だとは思えない。そうでなくとも、店長の言うとおり閉店の後は電源につなげることはない。店の中にあったのだから、いたずらでもないだろう。
店長は、何でかなあ、としきりに呟きながらも、いつものように開店の準備を始めた。警察とどんな話をしたのかわからないが、営業に関しては問題ないようだ。
花梨もまた、支度のため急いで更衣室に向かおうとした、そのとき――ふいに黒曜石の呼び止める声がした。
「花梨。あの焼け跡だが――」
その言葉に花梨は立ち止まり、振り返る。
視線の先にあるのは、燃えた痕跡だけが残る看板。閉店したあとにはいつもこの位置にあった。開店と同時に店の前に出していたものだが、もう使えないだろう。
それを見つめる花梨に、黒曜石はこう続ける。
「普通の火によるものではない」
どういうことだろう。問い返す前に、店長が顔を出した。
「ごめん。鷹山さん。僕、ちょっと出ないといけないから。あとを頼めるかな? 応援は呼んであるから」
「応援、ですか?」
花梨が問い返した、その答えが返る前に従業員用の扉が開く。そこに現れたのは――
「あ、花梨ちゃん。久しぶり。元気してた?」
「センパイ……」
西条浅沙。花梨と同じ時期にアルバイトとして入った青年だ。会うのは数か月振りにもかかわらず、まるで数日振りといった軽い調子で、彼は花梨に向かってそう声をかけた。
花梨が何かを言うより先に、気づいた店長が彼の元へかけ寄る。
「いやあ。来てくれてありがとう。恩に着るよ。浅沙くん」
「店長がどうしてもって言うんで」
今にも拝み出しそうな勢いで、店長は大げさにお礼の言葉を並べている。おそらく、急のことで他に来られる者がいなかったのだろう。
いくつか指示を出すと、店長は足早にどこかへ出かけていった。その後は開店の準備で忙しく、花梨も他のことを気にかけてはいられなくなる。休日の忙しい時期ということもあって、時間は瞬く間に過ぎていった。
そのうち店長も戻り、落ち着いた頃になって、花梨はふと、以前に考えていたことを思い出す。同じ大学に通っている、と言う彼に、聞きたいと思っていたこと――
「ん? 花梨ちゃん。どうかした?」
なかなか言い出せずに、じっと見ていたことに気づかれて、当の本人にそうたずねられる。花梨はとっさにこう問いかけた。
「センパイ。あなたは、呪いの噂について知っていたんですか?」
彼は一瞬だけ表情を失ったようにも見えたが、すぐに笑顔を浮かべると、こう答えた。
「花梨ちゃん。そんなことに興味があるの? 残念ながら俺は知らないけど。でも――」
そこで彼は、ふいに視線をどこかへ――おそらく、あの焼けた看板の方へと向けた。
「あんまり危ないことしちゃ、いけないよ?」
「どうかしましたか? 花梨さん。何だか浮かない顔ですね」
アルバイトが終わった後、花梨は槐の店を訪れていた。顔を合わせるなり桜にそう言われて、花梨は慌てて表情を取り繕う。
「大丈夫。ただ、バイト先で少し……」
いつもの座敷に行くと、槐が待っていた。花梨はそこで、レポートのことを聞くために小松に会ったこと、そして今日の午前中にアルバイト先であったことを話す。
最後に、燃えた看板について、黒曜石はこう言った。
「あれを燃やしたのは、普通の火ではない」
とはいえ、花梨たちは黒焦げの看板を見ただけで、実際に火が上がっているところを見たわけではない。店長にも話を聞いてみたが、どうして燃えたのかも、やはりわからないようだった。
「火、ですか」
槐はそれだけ言うと、少々お待ちください、と言って席を立った。しばらくしてから、彼はひとつの石を手に戻ってくる。
全体的に黒っぽいが、そこに黄色い放射線状の結晶が小さな菊の花のように散っている石だ。この石は、茜が訪れたときにも見た気がする――
「
槐はその石を花梨に差し出しながら、そう言った。
「輝石グループのうちの、マグネシウムを主成分とする斜方輝石です。灰色や褐色、黄緑色などの鉱物ですが、ここにあるのは放射状に結晶したものですね。英語名のエンスタタイトはギリシャ語で、対抗する、を意味する言葉から。融点が高く、耐火性が強いことからこの名がつけられました」
「まあ、火に対抗するなら俺に任せな。何。たとえ火中に放り込まれようと、あんたのことは守ってやろう」
槐に続いてそう言ったのは、おそらく頑火輝石だろう。
火中に放り込まれる状況には、できれば会いたくはないが――バイト先での不審な火のことを思えば、心強くもある。
「杞憂であればいいのですが……どうぞ、しばらくは彼のことも、お守りとしてお持ちください」
「ありがとうございます」
槐の言葉にそう答えて、花梨はその石を受け取った。
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