第十三話 燐灰石

 いったいどこに行ってしまったのだろう。

 五歳になる息子の姿を探していた。近所の人に声をかけられて、ほんの少し目を離しただけ。それなのに、気づいたときにはもう、見える範囲のどこにもいなくなっていた。

 最近は、いつもこうだ。こちらの言うことなど、おかまいなし。近頃はただでさえ物騒なのだから、勝手な行動は謹んで欲しいものだが、遊び盛りの子どもがそんなことを聞き分けてくれるはずもなかった。

 とはいえ、ついさっきまでそこいたのだから、さすがに何かの事件に巻き込まれたというわけではないだろう。そんな心配をするには、まだ早過ぎる。それでも不安は拭えない。

 そうこうしているうちに、ふいに息子の姿を見つけた。遠目に見ただけなので顔ははっきりと見えないが、体格や服装からしても間違いはないだろう。

 通りを外れた――マンションかビルか――とにかく建物に挟まれた路地の奥まったところ。息子はそこで、暗がりに向かってしゃがみ込んでいる。

 入っても大丈夫だろうか。不安になりつつも足を踏み入れた。

 近づくにつれ、それが自分の息子であることを確信していく。ほっとすると同時に、今度は軽い苛立ちが頭をもたげた。

 息子のうしろに立ち、その背に声をかける。

「こんなところにいたの。黙っていなくなっちゃダメでしょう」

 叱るというより、思わず責めるような口調になってしまった。それでも息子は何かに――また、妙な生きものでも見つけたのか――夢中になっていて、こちらを振り向きもしない。

 大きくため息をついて、どうにか、かんしゃくを吐き出す。そのときふと、この場所のことが気になった。

 ぽっかりと空いた土地――いや、取り残されたと言うべきか――の中心に、ひと抱えもあるほどの岩が置かれている。その岩にはしめ縄がかけられていて、傍らには幹を曲げた細い木が、寄りかかるように生えていた。周囲には石碑や祠のようなものがあり、なぜか小さな賽銭箱まである。

 ここは――何だろう。

 どこかの家の裏庭にでも入り込んでいるなら、早々に立ち去らなければ、と思っていたのだが、何かただならぬ空気を感じて思わず身がすくんだ。動く様子のない息子の肩に手を置いて、その場から引き剥がすようにこう促す。

「早く帰りましょ。ね」

 しかし、息子から返ってきたのは、こんな言葉だった。

「ねこ」

 そう言って、息子はしゃがみ込んだまま、右手を伸ばしている。まるで猫とじゃれ合うかのように。

 いぶかしく思いつつも、こう問いかけた。

「……ねこさんがいたの?」

 息子の視線の先には猫などいない。少なくとも、自分の目には見えなかった。

 ふいに、りん、と鈴の鳴る音がする。姿は見えないが、本当にいるのだろうか。だとすれば飼い猫か。

 しかし、猫にご執心の割には、息子はその音に反応するわけでもない。どこかに隠れている猫を誘い出している、というわけでもなさそうだ。息子が見つめる先にあるのは、何もないただの暗がりだけ。

 その異様な雰囲気に、思わず顔をしかめた。それだけではない。どこからか妙な匂いがする。かすかだが、何かが腐ったような異臭が。

 たまらなくなって、強引に子どもの手を取った。息子は不満げな声を上げるが、取り合わない。

 そのまま逃げるようにして、その場を去った。


 後日のこと。やはりどうしても気になったので、あの場所のことを近所の人にそれとなくたずねてみることにした。

「あら。知らないの?」

「越してきて、まだそんなに経ってないものねえ」

 返ってきたのは、そんな反応だ。

 確かに、この土地に住み始めて、まだそれほど経っていなかった。生活に必要な施設ならばともかく、あのような奇妙な場所のことなど知るはずもない。

 それにしても、たずねた二人がそろってそんな反応を返すということは――

班女塚はんにょづかのことでしょう」

 どうやら、有名な場所だったらしい。異様な空間にでもまぎれ込んだのかと、半ば本気で思っていたので、とりあえずは、ほっとする。

「近くに小さな神社があるの、知らない? 繁昌神社はんじょうじんじゃって言うんだけど、あの神社はもともと班女神社だかで、班女から繁昌になったんだとか」

 どうやら、あの岩は神社に縁のあるものだったらしい。だとすれば、賽銭箱があったとしてもおかしくはないだろう。

 とはいえ、場所が少し離れているし、関係ない建物に囲まれているようだった。跡地か、飛び地のようなものだろうか。

 何にせよ、その人が言うには、その神社は繁昌の名の通り商売繁盛がご利益なのだという。そのため、その岩――班女塚にも良縁成就のご利益があるのだとか。

 しかし、その場にいたもうひとりは、全く違う話をした。

「私は、班女塚に未婚の人が近づくと、ご縁がなくなるって聞いた気がするけど」

 縁を結ぶという話と、縁を切ってしまうという話。まるで正反対だ。どちらが本当なのだろう。

 そのとき、ふいに聞き覚えのある音がした。何だろう、と思ったのも束の間、それが何なのかを思い出した途端、息をのむ。

 それは、あの場合で――班女塚で聞いた音だった。しかし、その音を発しているはずの、それ自身の姿はやはり見えない。

 縁を結ぶ。まさかとは思うが、何か――猫の霊だろうか――にでも憑かれたのだろうか。班女塚に対して、うら寂しい印象を抱いていたこともあって、思わずぞっとする。気のせいであればいいのだが。

 そのとき、その疑念に応えるように、またあの音が聞こえた。りん、と――小さな澄んだ鈴の音が。


     *   *   *


 この日、店には珍しい客が訪れた。

「兄さま。黄玉を貸してちょうだい!」

 来て早々、そう言って槐に詰め寄ったのは、なずなだ。桜は槐とともに表の倉庫――ではなく、店の整理をしているところだった。

 なずなの唐突な申し出に対して、槐は虚をつかれたように、ぽかんと口を開けている。仕方がないので、それに代わって桜が応じた。

「どうしたんです。なずなさん」

 そうたずねると、なずなは槐に迫った勢いのまま、桜の方へと向き直る。

「一大事なのよ。桜くん。私で力になれるかはわからないけど、居ても立ってもいられなくって」

「はあ。一大事。何ですか? その一大事って」

 桜の気のない返事に、少々むっとしながらも、なずなはこう答える。

「知り合いのうちの猫ちゃんがね。帰って来ないらしいの」

 桜は思わず槐と顔を見合わせた。何を言うかと思えば、猫。しかも、知り合いの。

 その反応を見て、なずなはじれったそうに、こう続ける。

「一大事でしょう! うちの子がいなくなったらと思うと……他人事じゃないわ」

「ああ……なずなさんのところ、猫を飼ってましたね。そういえば」

 店の片づけを再開しながら、桜は上の空で呟く。

 片づけ、といっても、たいしたことはしていない。積み上げられた箱の中を確かめては、より分けて、また積み上げていく、という不毛な作業をしていただけだ。ここにある箱の中身は、ほとんどが石。捨てるわけにもいかないし、他にしまう場所など、この家のどこにもありはしない。

 それでも、もはや足の踏み場もないこの空間をどうにかしようと、今日は朝から二人で四苦八苦していた。

 それにしても、なずなは他所の猫のことで、どうしてそこまで必死になっているのだろう。桜にはよくわからない。猫というものは、とぼけているように見えて案外したたかなものだ。そのうち戻ってくるのではないだろうか。

 なずなの大げさな取り乱しように桜はただ呆れていたが、槐の方はその言い分でいろいろと納得したようだ。頬を膨らませているなずなに、苦笑しながらこう言った。

「その猫を探しに行くんだね? かまわないよ。黄玉を連れていくといい」

 なずなはそれを聞くと、例の部屋へとすっ飛んで行く。ほどなくして、黄玉を持ち出したなずなが戻って来た。

「さあ、行くわよ。黄玉」

 息巻くなずなのうしろには、なぜか椿の姿がある。桜たちの視線に気づくと、ばつが悪そうな表情でこう行った。

「……行ってくる」

 どうやらなずなについて行くようだ。槐は特に意外に思う様子もなく、行ってらっしゃい、と声をかけた。

 椿も案外、面倒見がいい方だ――と桜は思う。なずなの面倒を椿が見るというのも、おかしな話だが。

 椿はどうやら、たまになずなのところへ遊びに行っているらしい。石たちのほとんどは眠っているようなものだとはいえ、この家では気の休まらないこともあるのだろう。

 音羽家の外から来ている者同士ということもある。そんな事情もあってか、あの二人は割りと仲がいい。

 なずなと椿を見送ったあと、ふいに槐が呟いた。

「何か、いいきっかけでもあったかな」

 その言葉で桜は、はっとする。

 そういえば――なずなは長らく、この家を――というより槐と黄玉のことを――避けていたのだった。沙羅がいるときにはよく顔を出していたが、あんな風にひとりで気軽に訪れることはしばらくなかったことだ。

 あまりにあっさりと現れるものだから、桜はつい普通の対応をしてしまった。しかし、事情を知らない槐にしてみれば、突然のことを奇妙に思ったかもしれない。なずなへの反応が遅れていたのも、そのせいだろう。

 それにしても、鬼とのことがあったとはいえ、こうも変わって――いや、本来に戻ったというべきか――しまうとは。桜が声をかけても、なかなか遊びに来てくれなかったのに。桜としては少々複雑な心境だ。

 とはいえ、槐の方も多少は驚いたようだが、呆気なくその事実を受け止めてもいる。そんなものなのかもしれない。どう話したものかと思っていた桜は、内心でほっとしていた。

 槐は嬉しそうに、こう続ける。

「それならばよかったよ。なずなは、あれでけっこう頑固というか、意地を張る方だろう? でも、わだかまりがとけたのなら……安心した」

 桜は思わず、槐の顔をじっと見つめた。

 そのわだかまりの原因を――あのときのことを、槐はどう考えているのだろう。そんなことを、ふと思ったからだ。

 しかし、桜は今、それをたずねる気にはなれなかった。たずねてしまえば、答えを聞くことになる。万が一、望まない答えが返ってきたら――きっと、どんな顔をしていいかわからない。

「どうかしたのかい?」

 物思いに沈んでいると、槐がいぶかしげにそう言った。桜の視線に気づいたからだろう。

「いいえ。何も」

 そう言って、桜は首を横に振った。軽く苦笑を浮かべながら、去って行ったなずなたちの影を追うように視線を逸らす。

「まあ、人というものは時間とともに変わっていくものですからね。僕たち石とは違って。それでいいんだと思いますよ。僕は」

「――何を言ってるんだか。変わったという意味では、石の中で一番変わったのは、間違いなく君だと、僕は思うけどね。桜石」

 唐突に会話に割り込んできたのは石英だった。目の前に姿を現した彼は、さらにこう続ける。

「昔に比べれば、ずいぶんと丸くなったものだよ。本当に」

 しみじみとそんなことを言う石英に、桜はあからさまに顔をしかめた。

「そういう、昔の話とかやめてもらえませんか。何しに出てきたんです。石英さん」

 槐のいるところで、昔の話など――桜は本気でやめて欲しかった。槐はおそらく過去の桜を知らない――茅が変に書き残していなければ、だが。

 そうでなくとも、桜にとって過去は鬼門だ。できればあまり、思い出したくない。

 それがわかっているからだろう。石英はやけに楽しそうに、こう言った。

「僕が意味もなく出てきてはいけないのかい。まあ、今はそう――きかん坊の桜石の話をしに来たのではないのだよ」

 桜は、ぐう、と押し黙る。これ以上、下手に何かを言えば、逆にからかわれるだけだろう。だとすれば、沈黙するよりほかない。

 そう思って桜が口を閉ざすと、石英は思いのほか真面目な表情になって、槐の方へと向き直った。

「それで、槐。例の件だが――」


     *   *   *


 椿はなずなの背中を追っていた。

 どこへ行くつもりなのかは知らないが、なずなは黄玉を手に迷うことなく歩いて行く。椿はなずなの力のことも知っていたので、もう猫を探し始めているのかと思ったのだが――なずなはふいに立ち止まると、振り返りながらこう言った。

「さて、どうしましょうか。家の近所は探し尽くしたという話だから、どこを探せばいいのか見当もつかないわね」

 自信満々に歩いていたように見えたので、なずなのまさかのひとことに、椿は言葉を失った。しかし、こういうところがあるから放ってはおけないのかもしれない、と椿はあらためて思う。

 少しの呆れをにじませながら、椿はこう問いかける。

「それで、その猫はどんな猫なの」

 なずなは、あら、と呟いて、驚いたように軽く目を見開いた。それすら話していなかったことに、今さら気づいたものらしい。

「三毛猫よ。鈴のついた首輪をした。賢い子で、今まで家に帰って来ないなんてことはなかったらしいの。でも、かなりのお年寄りなのよね。心配だわ」

 なずながそう答えると、どこからともなく声が聞こえてくる。

「命あるものは時とともにうつろう。私の力では、捉えることは難しいかもしれないが――やってみよう」

 そう言ったのは黄玉だ。

 黄玉の力は、求めるものを探す力だという。しかし、動き回るもの、遠方にあるものを探すことは難しいらしい。そうでなくとも、修繕を経てからは以前より力を失っているともいう。

 とはいえ、この状況で頼れるのはこの石だけのようだ。過去を見る、というなずなの力は、行方不明の猫を宛もなく探すのには不向きなのだろう。

 椿たちの見守る中で、なずなが手にしている黄玉の結晶が淡くかすかな火を灯した。その光の照らす先に、探し求めるものがあるのだろうか。導かれるままに、椿たちは歩き出す。

 しばらくして、なずながふいにこう言った。

「ありがとう。椿ちゃん。探すのを手伝ってくれて」

 椿はその言葉にどう応えるべきかを迷う。

 この行動に何の意味があるのか、自分でもよくわかっていなかった。もしも、どうしてついて来たのか、と問われたとしたら――問われることはなかったのだが――何となく、としか言いようがなかっただろう。

 だから椿は、ふと思いついたことを口にする。

「ずっと、ひとりで店に来ることを嫌がっていたのに、どういう心境の変化があったの」

 なずなの表情が変わったのを目にして、椿はそのときようやく気づいた。もしかして自分は、このことをたずねたかったから――だから、ここまでついて来たのかもしれない、と。

 なずなの顔に暗い影がさす。しかし、それもほんのわずかな間だった。

「嫌がっていたわけではないのだけれど。何て言うのかしら。ずっと、兄さま――槐さんに、顔向けできないと思っていたから。でも、いつまでも、そんなことじゃあダメだと思ったのよ。本当は今でも……少し怖いわ」

 ――怖い?

 思いがけない言葉だったので、椿はとっさにこう問いかける。

「黄玉を壊してしまったことが?」

 なずなは、すぐには反応しない。しかし――おそらく何か考えた上で――そうね、と小さく呟く。

 そのためらいの意味を問うより先に、なずなはふいに視線を逸らした。いや、視線を逸らしたわけではなく、何かをその目で捉えたようだ――が、その目で追っているものが、椿にはわからない。

 ――何を見ているの?

 過去を見ているのだろうか。黄玉の導きに従って、歩き始めてからも、それなりの時が経っている。もしも探すべき猫に近づいているのなら、なずなの見る過去の中で、その猫の姿を見つけることができたのかもしれない。

 なずなはふらふらと、どこかの路地へ入り込んで行った。危ういなずなの代わりに、椿は周囲を気にしながらついて行く。

 道の先にはぽっかりと空いた土地。その中心に、ひと抱えもあるほどの岩が置かれている。その岩にはしめ縄がかけられていて、傍らには幹を曲げた細い木が、寄りかかるように生えていた。

 そして、その近くには――幼い子供がひとりしゃがみ込んでいる。

 椿たちがその場所に足を踏み入れた瞬間、背後の方から苛立ったような女の声が上がった。

「またここにいたの!」

 椿は思わず体を強張らせる。

 しかし、声の主は椿たちには目もくれず、子どもの方へかけ寄った。母親だろうか。

「さあ。帰りましょう」

 母親らしき女はその子どもの手を取り、そう言った。しかし、子どもは動く気配もない。

「帰りたくない」

 と、ぐずる声が、椿たちのところまで届く。

「いいかげんにしなさい!」

「だって……!」

 感情的な言葉に対して、子どもは涙まじりの声で言い返す。

「だって、お母さん、ぼくのこと、うそつきだって――」

「猫なんていないって言ってるでしょう!」

 その発言にはっとして、なずなは親子の元へそろそろと近づいた。

「あの――」

 なずなは臆することなく、そう声をかける。

 この状況で物怖じしないのは、肝が据わっているのか、何も考えていないのか。何にせよ、なずなの大胆な行動には、たまに椿もぎょっとさせられる。

 なずなはあくまでも空とぼけたように、こう言った。

「すみません。私たち、行方不明の猫を探しているんです。差し支えなければ、その猫のこと、教えていただけないでしょうか」

 母親の方は、突然の問いかけに面食らっているようだ。その隙に、なずなは子どもと同じ目線までしゃがみ込み、さらにこうたずねた。

「どうかしら。ぼく。その猫の毛の色は何色だった?」

「耳が黒。顔は白くて、でも背中のところは黒と茶色がまざったねこだよ」

 子どもは素直にそう答える。

「まあ。三毛猫かしら。私が探してる猫と同じだわ。どこで見たのか教えてくれる?」

「ほら。そこにいる!」

 子どもはそう言って、石の向こうにある祠の方を指さした。その先には何もいない。しかし――

 ふいに、りんと鈴の音が鳴った。その音は、りん、りん、と徐々に近づいて来たかと思うと、なずなのすぐ側で、りん、と鳴ったのを最後に――鳴り止んだ。音のする場所には、何もいない。

 しんとする中で、子どもは得意げに振り返った。

「ほらね」

 すぐ側で佇んでいた母親は、青い顔をして呆然としている。そして、何かに観念したように、こう呟いた。

「見えないんです。この子にしか。鈴の音は聞こえるんですが……」

 椿はなずなの表情をうかがい見る。なずなは――考え込むように難しい顔をしていた。

 しばらくして、ふいになずなが口を開く。

「黄玉。私たちだけで見つけられるかしら」

「ここは力ある場のようだ。そう簡単にはいかないだろう」

「そうね。ここは班女塚だものね」

 黄玉と言葉を交わすなずなに、椿はこうたずねる。

「どの石の力が必要なの? なずな」

「――燐灰石りんかいせきを」

 なずなは悲しげな表情を浮かべながら、そう言った。



「燐灰石、か――」

 槐はその名を呟くと、なずなと同じように悲しげな表情を浮かべた。

 親子のことはなずなに任せて、ひとり店に戻った椿が、槐に状況を伝えたあとのことだ。その反応の既視感をいぶかしんで、椿は槐にこうたずねる。

「なずなも同じような顔をしていたけど。何なの、いったい」

 槐はどこか困ったような表情で苦笑する。

 椿は槐とともに例の部屋にいた。壁の棚に並んだ石のひとつに手を伸ばしながら、槐はこう話し始める。

「燐灰石は、正確には鉱物の名前ではなく、カルシウムの燐酸塩りんさんえん鉱物のグループに対する名称なんだ。化学組成の違いによっていくつかの種類がある。ただ、単に燐灰石といった場合はフッ素燐灰石――フルオロアパタイトを指すことが多い。ここの燐灰石も、フッ素燐灰石だね」

 槐が手にしている石――燐灰石は、六角柱の形をした透明な黄緑色の石だった。

「英語名のアパタイトはギリシャ語で、ごまかす、を意味する。燐灰石は他の鉱物と見た目が似ていることもあって――例えば、電気石でんきいし――トルマリンや緑柱石りょくちゅうせき――ベリルなどに間違えられることが多かった。だから、その名がつけられた」

 椿はそもそも、石の見分け方などわからないが――確かに槐の手にした燐灰石の結晶は、この部屋にある他の石とも少し似ていて、もしも槐に、このふたつは同じ石だ、とでも言われれば、椿はおそらく納得しただろう。例えば桜石を、これは水晶だ、なんて言われれば、さすがにそれは違うと判断できるだろうが。

「その燐灰石グループのひとつ、水酸すいさん燐灰石――ハイドロキシアパタイトの微細結晶は……哺乳動物の骨や歯の硬組織でもある。だから、人工骨や人工歯の素材としても使われているんだよ」

「――骨?」

 椿は思わず、そう問い返す。槐は椿に向かって黙ってうなずいてから、手のひらの石に呼びかけた。

「燐灰石。君の力を貸してもらえるかな?」

「いいよ、槐。僕の力が役に立つというのなら。でも――」

 燐灰石はすぐに応じたが、その先を少し言い淀んだ。椿たちが待ちかまえる中で、燐灰石はこう続ける。

「僕にできるのは過去からの声に、ほんの少し耳を傾けることだけ。過去は変えられない。こちらの思いを過去へ伝えることもできない。そこのところを、君たちは少し勘違いしているのではないかと、僕は思っていてね」

 どういうことだろう。

 椿はこの石のことをよく知らない。言葉を交わしたこともない。だから、この石の持つ力のことも知らなかった。

 どこか茫洋とした、捉えどころのない声は、こう続ける。

「りんごを誰かに食べられてしまったあとで、そのりんごが甘かったのか、そうでなかったのか、たとえそれを知れたとしても、もう、そのりんごはないんだよ。そういうことさ」

 燐灰石はそう言った。しかし、その意味がよく飲み込めない。槐すら困ったように黙り込んでいる。

 今の話は、例え――のつもりだろうか。

 そもそも、石たちは食べもしないのに、なぜそんな例えを出したのか。椿が首をかしげていると、様子を見に来た桜が、その場の空気を察してこう言った。

「燐灰石さん、たまに何言ってるのかわかんないんですよね……」

 どうやらいつものことらしい。椿は深く考えることはやめて、燐灰石を受け取ると、待っているなずなの元へと急いだ。



 班女塚へと続く路地に入ると、燐灰石は人の姿を現した。

 淡い黄緑色の髪と瞳の、独特な雰囲気を持った青年だ。表情はぼんやりとしているが、それでいて目線は鋭く前を見据えているので、どうにもつかみどころがない。

 道の先にある班女塚の近くでは、なずなたちが待っていた。

 なずなからどう説明されたものか知らないが、親子もその場に残っている。この怪異がどのような結末を迎えるのか、見守るつもりなのだろうか。

 燐灰石はそこにいる人々には目もくれず、班女塚の前に立つと、しげしげとそれをながめ出す。そのとき、ふいに近くで、りん、と鈴の音が鳴った。

 母親に寄り添われた子どもが、あ、と声を上げる。

 燐灰石は音のした方へ視線を向けると、おもむろにしゃがみ込んだ。そして、ふむふむとうなずき始める。

 しばらくしてから、燐灰石は椿たちに向かってこう言った。

「帰りたくないんだって」

 何が――と問うのは、無意味だろうか。それはおそらく、ここにいるであろう、目には見えない猫の意思なのだろう。

 燐灰石はさらにこう続ける。

「帰りたくないなら、帰らなくてもいいと、僕は思うけど」

「ダメに決まってるでしょう。飼い主が待っているのよ。燐灰石。ちゃんと説得して」

 なずなが慌てて物申すと、燐灰石はあからさまに顔をしかめた。

「だから、説得とは違うんだけどなあ……」

 燐灰石はそうぼやくと、渋々といった様子で何もない空間へと問いかけた。

「それじゃあ、なぜ君は帰りたくないの?」

 答えはない。燐灰石は問い続ける。

「悲しませたくないから? なぜ、悲しむのかな」

 りん、と澄んだ鈴の音が響いた。燐灰石は、ああ――とため息のような声を上げて、目を閉じる。

「君は、自分が死ぬことが、わかっていたんだね」

 燐灰石はそう言った。

「君は一緒にいた人を悲しませたくなかったんだ。だから、帰りたくない。でも、それは君の本当の望みなのかな?」

 燐灰石は語りかける。燐灰石はそうではない、というようなことを言っていたが、少なくとも椿の目にはそう見えた。

「君の中では、その人と一緒にいたいという気持ちの方が強かっただろう? ならば、君はやはり帰るべきだよ。たとえ、その人を悲しませてしまったとしても、ね。誰かとともにあるということは、喜びもあれば悲しみもあるものだ。少しくらい悲しませたって、どうということはないさ。いたい場所にいることができないことの方が、悲しいじゃないか」

 ねえ――と言って、燐灰石は班女塚の方へ視線を向けた。

「自分の居場所を見失ってはいけないよ」

 燐灰石はそう言い終えると、立ち上がり、なずなたちの方へと向き直った。鈴の音は――しない。辺りに、しんとした静寂が訪れる。

 そのとき声を上げたのは、黄玉だった。

「なずな。今なら見つけられるかもしれない」

 その言葉に応じて、なずなはきょろきょろと周囲を見回した。やがて、その目で何かを捉えたのか、それを追うようにして、なずなはある場所へと歩き出す。

 柵で囲われた石碑がある辺りの、暗がりになっているところ。何かがある。しかし、さっきまでは誰もその存在に気づいてはいなかった。あるいは、見えていなかったのか。

 近づいていくと、それが何なのかがわかった。そこにあったのは、黒と茶色と白の毛色を持つ猫の亡骸。その猫は、金の鈴がついた黒い首輪をしていた。

「ねこ」

 子どもがかけ寄ろうとするのを、母親が押しとどめる。なずなはためらうことなくそれの傍らにしゃがみ込むと、そっと亡骸を撫でながら深いため息をついた。

 それにしても、この猫はいつの間に姿を現したのだろう。そうでなくとも亡骸には汚れもなく、まるで眠っているかのようでもあった。

 椿のけげんな顔を見たからか、なずなは静かにこう呟く。

「ここは班女塚だもの」

 なずなは持っていた風呂敷で亡骸をくるむと、優しく抱きかかえた。そうして立ち上がり、見守っていた親子の方へと向き直る。

 子どもは何かを考え込んでいるかのように、神妙な顔をしていた。幼い子どもの目に、小さな命の死はどのように写ったのだろう。

 母親の方は先ほどの取り乱しようを思えば、だいぶ落ち着いたようだ。あるいは、この結末を予想していたのかもしれない。

 子どもがふと問いかける。

「ねこ、おうちに帰れる?」

「ええ。私たちが帰しましょう」

 それを聞いた子どもは、ほっとしたようにうなずいた。そして、母親の表情をうかがいながら、おそるおそるこう続ける。

「ぼくも、本当は、おうちに帰りたかったけど、でも、お母さんが、怒るから……」

 この子どもにも、燐灰石の言葉に思うところがあったのだろうか。それを聞いた母親は、はっとして子どもの手を取った。

 そんな母親に向かって、なずなは取り成すように、声をかける。

「奇妙なことが起こって、気が立っていらしたんですよね。でも、大丈夫。この猫は、ちゃんと飼い主のところへ送りますから」

 母親はその言葉にうなずくと、我が子を抱きしめた。

「ごめんね。うそつきなんて言って。ちゃんとねこさんはいたのにね」

 母親がそう言うと、子どもは黙ってうなずいた。この親子は、もうきっと大丈夫だろう。

 親子と別れて、なずなと椿は猫の飼い主の元へと向かった。しばらく無言で歩いていると、ふいに――すぐそこよ、となずなが告げる。

 道に花が散っていた。濃いピンク色の、ちぢれた花弁を持つ小さな花だ。その場所に近づくにつれて、その数は徐々に多くなっていく。

 やがて着いた一軒家の玄関先には、その花を満開に咲かせた木があった。木は風が吹くたびに、はらはらとその花を散らしていく。

 なずなはその木を見上げると、静かにこう呟いた。

「サルスベリ……ずいぶんと長く咲いていると思っていたけれど」

 その木は、風がやんでもまだ花を落とし続けている。まるで、散るべき時が来たことを悟ったかのように。

「きっと、帰ってくるのを待っていたのね」

 なずなはそう言うと、猫の飼い主へと訪いを告げた。

「ごめんください――」


     *   *   *


「それで、班女塚って結局何なの」

 なずなとともに店に帰ってきた椿は、座敷の定位置におさまったあと、珍しく槐にそうたずねた。

 ことの顛末については、桜たちもすでに二人から聞いている。何だかんだいってなずなもこの場になじんでいて、今は桜の淹れたお茶を飲みくつろいでいた。座卓の上にあるのは、二人が帰り道で買って来た栗まんじゅうだ。

 椿の問いに答えて、槐はおもむろに語り始める。

「『宇治拾遺物語うじしゅういものがたり』にこんな話がある。独り身の女性が若くして亡くなってしまったので、鳥辺野に葬送しようとしたところ、棺がいつの間にかからになっているということがあった。不思議に思って家に帰ると亡骸はそこにあり、再び葬送しようとするが、そのうち亡骸を動かすことすらできなくなってしまう。それほどここを離れたくないならば、と亡骸をその場に埋めて塚を築き――」

「それが班女塚?」

 椿の言葉に、槐はうなずいた。

「そう言われているね。ただ、これだとなぜ班女塚という名になったのかはわからない。とはいえ、班女塚の名の由来は、あまりはっきりとはしていないのだけれど――」

 槐は少しだけ考える素振りを見せてから、こう続ける。

「亡骸を埋めたその塚にはいつしか神社が造られ、牛頭天王ごずてんのうの妃である針才女はりさいにょが祀られていたらしい。それがやがて、音が似ている班女になったというんだ」

「無理やりじゃない?」

 いつになく槐の話に聞き入っていた椿も、そこは鋭く指摘する。槐は苦笑した。

「班女塚に直接関係があるわけではないけれど、世阿弥ぜあみ作の能に『班女』と題されたものがあってね。これは中国――前漢の皇帝、成帝せいていに寵愛された班倢伃はんしょうよという女性が、やがて寵を失い皇帝の許を去った悲哀を題材にしたものだ。独り身で若くして亡くなった女性と、寵を失ったことで独りとなった女性――もしかしたら、その辺りが似ていると思われたのかもしれない」

 椿は、ふうん、と気のない返事をした。そろそろ興味を失ってきた頃かもしれない。

 槐は続ける。

「その影響か、班女塚に未婚の女性が近づくと破談になる、と言われていたこともあったようだ。ただ――『宇治拾遺物語』の話も、能の『班女』であっても、私には班女塚が他人への妬みによって怪異を為すようには思えなくてね。確かに『宇治拾遺物語』の場合は、塚の近くでは気味の悪いことがある、と記されているのだけれど……」

 栗まんじゅうを食べ終えたなずなが、口を挟む。

「でも、今ではそれも、班女が繁昌になって、人を呼ぶと言われているのでしょう。そちらの方が、寂しい鳥辺野ではなく、ずっと暮らしていた場所を居場所に望んだ人らしい気がするわね」

「亡くなった人の本当の思いが、わかるわけではないけどね」

 槐はそう言うと、座卓の上に置かれた燐灰石に目をとめた。

「やはり、彼女は今もそこにいるのかな? 燐灰石」

「僕は死んだものと言葉を交わしているわけではないよ。槐。そこのところが、皆わかってない」

 呆れたような声で、燐灰石はそう答える。

「過去にあったものは、たとえ今はなくなったとしても、今この時にまで、その存在を伝えてくることがある。僕は生きものが最後まで形を残すもの――骨を媒介にその残された思いを読み取っているに過ぎない。本の一ページにだけ犬が描き込まれていたとしても、その犬は次のページには行けないけれど、僕は次のページにいながら犬の姿を見つけ出すのさ。そんな力だよ」

 わかるようなわからないような例えだ。

 なずなも顔をしかめている――かと思えば、不服そうにこんなことを呟いた。

「どうして犬なの……」

「犬もかわいいよ」

 何だか、ずれているような。しかし、それを指摘する者はいない。椿はすでに自分の好奇心を満たしてしまったのか、いつの間にか本を読み始めていた。自由なことだ。

「そういえば、あの場にいた子どもには猫の姿が見えていたでしょう。だったらやっぱり、猫の魂はあそこにいたのかしら」

 話しているうちにふと思い出したのか、なずなは燐灰石にそうたずねた。燐灰石は――けものはそういうものだよ、と言って軽くあしらう。あるいは、はぐらかしたのかもしれない。

 燐灰石はさらにこう続けた。

「そもそも、僕の力が役に立つということは、あまりいいことではないのだろう。君たち命あるものにとってはね。僕の力が必要になる前に――今このときに、君たちはちゃんと言葉を交わしておくべきだ。それだけは、どうか忘れずに」

 燐灰石はそう言い終えると、沈黙してしまった。普段はほとんど姿を現わさない方なので、もう眠って――これはあくまでもたとえで、実際にそうしているというわけではないが――しまったのだろう。

「そうだ。なずな」

 話が一段落したところで、槐がそう声を上げる。軽く首をかしげるなずなに、槐はこう続けた。

「鷹山花梨さんのことを伝えたのを覚えているかい? 彼女に呪いの噂のことをたずねられていてね。学校での噂なら、小松こまつくんが何か知っていないかと思って。たずねてみてはくれないかな」

「小松さんに?」

 田上たがみ小松こまつはなずなの夫だ。大学で講師をしている。

 なずなは軽く顔をしかめながら、考え込んだ。

「呪いの噂……それが、鷹山さんのお姉さまの行方不明に関係しているかもしれないのね? そうねえ。どうかしら。聞くだけ聞いてみるわ」

 なずなの答えに、槐は、お願いするよ、とうなずいた。


     *   *   *


 空木の実家は寺だった。

 名の知れた寺ではない。どこにでもある、いわゆる檀那寺だんなでらだ。田舎にある小さな寺で、住職の地位は、空木の曾祖父、祖父、父へと――代々世襲されている。

 しかし、だからといって空木がいずれ僧侶になる、というわけではない。兄が立派に継いでいるので、なる必要もない。今の空木は実家の手伝いをしながら生活している――というだけの、そんな中途半端な身分だった。

 自分のことを知る人にこれを言ってもなかなか信じてはもらえないのだが、空木は実家であるこの寺のことを決して嫌ってはいない。兄のことは苦手だが、両親は温和だし、寺の手伝いだって別にたいした苦ではなかった。

 ただ、かつて空木が、実家から出たい、と周囲にこぼしていたことも確かだ。それが端から見れば、嫌っているように見えたのだろう。

 しかし、それは単に空木が――ここは自分の居場所ではない、と思っていたからに過ぎない。

 大学への進学をきっかけに、空木は家を出て、東京でひとり暮らしを始めた。そうした学生生活の傍ら、空木は小さな出版社で働くことになる。

 その会社は、あまり名の知られていない専門雑誌などを細々と扱っているようなところだった。空木は筆が早い方だし、兄にこき使われることに慣れていたので案外重宝されていた――と思う。大学を卒業するときには、正式に社員にならないかと声をかけられたほどだ。

 しかし、空木はこの場所に対しても、自分の居場所ではないという思いを抱く。

 仲の良かった社員が故郷で新しく会社を始めるというので、声をかけられた空木はそれに便乗し、大学卒業と同時に古巣の京都へと戻って来た。実家で暮らし始めたのは、空いている部屋を使わないのも馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。そうして、空木は心を入れ替えて、新しい会社で働き始めた――かと言えば、そうでもない。

 結局、空木がその会社に入ることはなかった。

 会社にさそってくれたその人には、今でも仕事を斡旋してもらっている。それだけでなく、働きたかったらいつでも声をかけてくれ、とまで言ってくれていた。見限られても仕方がないことをしていることを考えれば、それは本当にありがたい話なのだろう。

 何にせよ、こんな若造がふらふらとしながらフリーランスを名乗れるのは、そんな事情があった。兄など、いまだに顔を見るたび、働け働けと言ってくる。一応、働いてはいるのだが――

 結局のところ、これは居場所がどうの、という問題ではなかったのだろう。

 おそらく空木は、自分は特別な何かになれると思っていた。あるいは、ここではないどこかなら、本当の自分になれるのだと。

 しかし、実際にいろいろと経験して、空木はそれが、それほど単純な話ではないと思い知る。

 まず、空木には人よりすぐれたところなどなかった。筆が早いといってもそれだけで、空木には無難な文章しか書けない。何か人に興味を持ってもらえるような、おもしろい知識があるわけでもない。そんな状態で、特別になどなれるはずもなかったのだ。

 ここは自分の居場所ではないと感じていたのも、結局のところ、場所が悪かったわけではなく、空木にたいした才能がなかったというだけの話だった。今にして思えば、その感情は単に自分への失望だったのだろう。

 なまじ、ある程度は器用にできてしまうのが仇となったとも思う。挫折することもなく、中途半端にくすぶっていたせいで、勘違いをしてしまった。しかし、それもまた、空木という人間のごうだ。

 自分探し――などという馬鹿げた言葉は使いたくないが、おそらく空木はそれに失敗していた。そうして、何者にもなれずに、空木はいまだに自分の居場所を探し続けている――

 境内の掃きそうじを終えた空木は、ほうきに寄りかかりながら、実家である寺を無言で見渡した。無心で落ち葉を掃いていると、どうしても余計なことを――自分の来し方行く末を考えてしまう。そのことに、空木は深くため息をつく。

 ふいに、からからと風に吹かれた落ち葉が飛んでいった。一瞬、先日に見た妙な生きものがまた現れたのでは――と思ったが、そんなはずもない。

 空木は寺の息子だが、今まで生きてきた中で怪奇現象とはほぼ無縁だった。当然、幽霊も見えないし、気配を感じることもない。しかし、寺の息子だからと、そういうことを期待されることはあった。だからこそ、空木はそういう話――怪談やら、怪奇現象やらの相談が大嫌いだ。

 ただ、何の因果か、今はそれらしきことに関わっているのだが――

 ふと向けた視線の先。そこに見慣れないものを見つけて、空木は思わず顔をしかめた。

 御堂の裏手には墓場があって、さらにその奥は山中の雑木林になっている。寺の土地ではあるのだが、人が往来するようなところではない。木々の世話はしているが、そんなに簡単に見た目が変わるはずもないだろう。

 しかし、空木が毎日ながめているはずのその風景に、今日は明らかな変化が見えた。

 変化、というか――その場所に、あるはずのない一本の木が見えたのだ。一枚の葉もなく、まるで枯れているようにも見えるが、それでいて周囲の木々を圧倒するほどの高さを誇る大木だった。

 あんな木が、あんなところに生えていただろうか。いったい何の木だろう。いや、そもそもあの場所には――

「この気配……いったい、何が起こっているのか――」

 ふいにどこからか、声が聞こえた気がした。周囲には誰もいない。

 何かの音を聞き間違えただけか。それとも――

 混乱のあまり、以前のできごと――百鬼夜行だったか――あの経験から、何か妙な霊能力でも覚醒したのでは、という妄想が頭をよぎった。しかし、空木は馬鹿馬鹿しい、とすぐにそれを一蹴する。

 幻ではないことを確かめるように、その木をにらみつけると、空木はあらためて考え込んだ。このどうしようもない男の人生に、いったい何が起ころうとしているのだろうか、と。

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