Case.12


 去っていく足音を扉越しに聞きながら、あの子の近くから漂ってきた匂いに思わず目を瞑る。ごくわずかに感じた程度だから気のせいかもしれない。それでも、久しぶりに思い出したその香りは、どこにも吐き出すことのできない息苦しさを感じさせた。


(でもなんでだ……? あいつは身寄りもなかったのに)


 蓮川燈護と名乗った彼も、思い当たる節はなさそうだった。

 新人らしく短く刈りあげられた栗色の髪に、キリっと整えらえた眉毛。丸みを帯びて優しそうな眼が印象的だった。だから余計に混乱する。完全に別人であればここまで引っかかることもないだろうに、燈護の容姿や雰囲気は、記憶の中の"彼"を思い起こさせるものがあった。だからなのだろうか、そのせいで、匂いまで思い出したのかもしれない。

 ため息をつき、扉にもたれたその瞬間。


 ——ガタンッ


「っいってぇ!この馬鹿ッ!」


 出入りする方ではない扉がスライドし、その扉が思い切り左腕に直撃した。しかも、無駄に勢いよく開けられたせいで、一度跳ね返った扉がまた戻ってきて、壁と扉の間に挟まれるようなかたちになってしまう。


 この一連の事件を起こした犯人が立っているであろう場所を見れば、予想通り、とがった耳をもつ大男が立っていた。


「ヴァッシ? お前、こんなとこで何してるんだ」


 よく響く低音だ。俺が痛みに悶えている元凶だというのに、謝りもせず我介さずの顔をしているもんだから腹が立つ。


「てっめぇ、開ける場所が反対だっていつも言ってんだろ馬鹿野郎!」


 質問を無視して怒鳴りつけると、そいつは鼻を鳴らして笑った。


「俺は犬だ」

「じゃあ馬鹿犬だなぁ!?」


 俺の言葉にまた鼻を鳴らし、扉も開けっ放しのままだらだらとした歩き方で医務室に入っていく。その背中にありとあらゆる罵詈雑言を投げつけたいのを、二人の体調不良者に配慮して堪え、追いかける。

 まだジンジンとする腕をさすりながら室内に戻ると、そいつはソファにふてぶてしく寝転がっていた。


「おい、レニー。何しに来た」

「んー? ロブスト教官から頼まれて仔犬の散歩代行サービス」

「仔犬って……」


 口には出さず、ベッドを向く目線だけで聞けば、レニーはメタルカラーのツーポイントサングラスを軽く押し上げながら、さりげなく頷いた。獣人用に改良されていても横になるとずれてしまうのは共通らしい……っていうのはどうでもよくて。


 ちょうどいいところに来た。さっき感じたあの匂いについて聞いてみよう。そう思った俺は、ソファーの上に伸ばされていた無駄に長い脚を雑に叩き落として、そこに座る。


「なぁ、レニー。何か匂わなかったか」


 こいつも感じていたら、もしかしたら。

 そこで俺は、自分の失言に気が付く。


 隣りで寝転ぶレニーは、表情ひとつ変えやしない。


「悪か「何の匂いもしない、感じない、」……だよな」


 咄嗟に口から出た謝罪の言葉を遮るように言って、退屈そうにあくびをひとつ。そして、天井を見上げる。


「何の匂いもしないし、何も感じない。おまけに耳も並みだし、目も悪い。雑用係にはうってつけだな」


 自嘲気味に笑ったレニーは、目を閉じた。


「……コーヒー、入れてくる」

「ブルーマウンテン、ブラックな」

「インスタントしかねぇよ、調子乗んな」

「ハハッ、厳し~」


 そう言って、寝転がったまま持参してきていたらしい新聞を広げるレニー。3人座っても余裕があるソファーなのに、今はこいつ一人だけで窮屈そうに見えてしまう。現場に出なくなってからもうずいぶんと経つのに、未だに体を鍛え続けているのか。聞きたくても聞けないし、聞いたところでまともに答えやしないだろう。

 悔しさとやるせなさに唇を噛みながら、レニーに背を向けるようにして、コーヒーを出す準備をする。


(お前の時間はまだ、止まったままなのか?)

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