雨曜日、ひとりぼっち。
朝田さやか
水曜日
「一番好きな曜日は?」と聞かれたら、私は間違いなく「水曜日」と答えると思う。「なんで?」と聞かれても、本当の理由を答えることは誰に対してだってできないけれど。
*
雨が降っていた。天気予報外れの大雨だった。華道部の活動の最中に、雨粒が窓をノックする音が聞こえ始めて。雨だ、と認識したころには既に、相当な量の雨粒に世界が覆われていた。電気をつけても薄暗い教室に、剣山に刺さった
「芍薬の花ってこころちゃんみたいに綺麗だよね」と、花を選んでいたときに誰かが言った声が耳の奥で響く。作品の主役となる花と、主役を引き立てる花。生け花にはいつもその両者がいる。ざあざあざあ、という煩い雨音を、はさみが茎を切る音で断つ。ぱちん、と一際大きな音を立てて、耳に残る雑音を全部消し去ってしまいたかった。
水曜日はピアノのレッスンがあるから、いつもと帰る方向が逆だった。そして、華道部にこの方面へ帰る人はいない。「校門出るまで一緒に行こうよ」という友達の誘いを、「職員室に用事があるから」と言って断る。
ばいばい、と別れのあいさつを交わした後で、一人。もちろん職員室に用事なんてあるわけもない私は、玄関で立ち尽くすだけ。「ごめん、傘忘れちゃって」なんて言えないから。友達はたくさんいるはずなのに、その誰もに頼り切ることができなくて、心はいつもひとりぼっち。
かわいくなりたくて磨いたルックスを崩したくないから、雨に濡れることだってできない。あの雨音と冷たさに紛れられたら、もっと楽になれると思うのに。
空は、私の代わりに泣いてくれてるのかな。私が少しでも涙を見せたら周りが過剰に心配するから、もう長らく泣いてない。
このまま雨が上がらなかったら、レッスンも休んでしまおうかな。どうせみんな心配するだけで、誰も私を怒ってくれないんだろうけれど。
「荻原さん、傘持ってないの?」
それはちょうど、水滴で目の前がよく見えなくなり始めたときだった。声をかけられて振り返れば、そこにいたのは宮下くんだった。
最近、共通の知り合いを通じて仲良くなった男の子。真面目で頭が良くてよく気が利いて、スラッと背が高いからクラスでの人気も高い。
「えっと、あの、……実はそうなの」
傘を持っていないことが恥ずかしくて、視線を下に逸らす。宮下くんとの間に訪れたほんの一瞬の静寂が、雨音に支配されていた。
「ならこれ貸すよ、僕傘二個持ってるから」
そう言って、宮下くんは俯いた私の視界の前に黒い傘を差し出した。
「ごめんね」
謝りながら、冷たい指先で傘の柄を掴む。今の私はきっと、誰にも見せられないような寂しい表情になっているから、顔を上げられない。
「ごめんねじゃなくて、ありがとうでいいよ」
宮下くんが、ふっ、と笑ったのが分かった。雨と私の感情が混ざり合った陰湿な空気が、ふわり、と和らいだから。
「なんか、萩原さん大丈夫? 元気ないみたいだけど」
その瞬間は、ふいにやってくる。視線を下に向けたことを、今更後悔しても遅い。どうしたって、涙が今にもこぼれ落ちそうだ。
「大丈夫、じゃないかも」
顔を上げると同時に、涙が一滴頬を伝う。
「方向どっち?」
そう言いながら、宮下くんはティッシュを差し出した。その表情はいたって普通で、私が反射的に受け取れば、何も見なかったというように私の横をすり抜けていった。
「えっと、あ、校門の横断歩道渡ってすぐ右側の道の方向です」
「なら一緒じゃん、行こうよ」
慌てるわけでも、変に慰めようとするわけでも、必要以上に心配されることもない。いつも通りだった。休み時間に喋っているときと同じ。そういえばこの人はいつも、誰に対しても態度を変えない人だった。
「うん」
それがこんなに嬉しいなんて、知らなかった。
「結構降ってるね」
一足先に校舎を出た宮下くんが広げた傘は、真っ青な折り畳み傘だった。銀色の部分が少し錆び付いていて、サイズも小さい。その小さい傘が、頼りなく大雨をぱしゃぱしゃと弾く。
「あの、傘ごめん、私折り畳み傘で大丈夫だよ」
「だから、ありがとうでいいよ。黒い傘の方が、暗い気持ちに浸れる気がしない?」
私に何があったのかは聞かずに、優しく寄り添ってくれる。いつも真面目な宮下くんがそんなことを言うなんて、なんだかとてもおかしくて。
「うん」
堪えた笑い声を返事に乗せれば、陰鬱さに満ちた雨音が楽しそうに聞こえるんだから不思議だ。
「いつもこの方向だっけ、萩原さん」
「ううん、水曜日はピアノのレッスンで」
「へえ、ピアノ弾くんだ、なんか上手そうだね」
傘を差して歩き出せば、体の周りが雨の空気に包まれる。ペトリコールの匂い、傘を弾く轟音、足の周りを跳ねる冷たい雨。それでも、黒い傘にも塗り替えれないくらい、私の心は晴れやかだった。
「うん、得意だよ」
「すごいな、僕楽器は全然駄目だからさ」
そう言って苦笑する表情も、誰にでも優しいところも、濡れながら歩いてるはずなのに嫌そうにしないところも、雨の中でも響く爽やかな声も。
「奏多くん、なんでもできそうなのに意外だなあ」
雨の空気なんて忘れるほどに、私の世界を包み込んでいく。「奏多くん」と口をついて出た言葉に自分でも驚いて、それでもすぐにその理由に行きついて、一つの感情が胸の中にすとんと落ちた。
「まさか」
ふっ、と奏多くんが笑えば、私の心も揺らいで和らぐ。来週からも絶対に隣を歩こうと密かに心に決めた、ある四月の帰り道だった。
*
奏多くん、といつものように声をかけようとして、言いかけた言葉が雨音に消されていった。
「優、帰るの?」
「あ、奏多。うん、そうだよ」
奏多くんが呼び捨てる「優」の声に、心臓が歪んだ音を放つ。切なく鳴るこの胸の鼓動こそ、雨音に消して欲しいのに。
「帰ろうよ」
「いいけど」
幼なじみの二人。優ちゃんは身長が高くて手足が長くてショートカットでボーイッシュで、可愛い路線を歩む私とは全く反対のタイプだ。
「今日帰るの早いじゃん」
「俺、今日生徒会なかったんだ」
ああ、どうして今まで気づかなかったんだろう。奏多くんは優ちゃんの前でだけ「俺」と言うことに。
「なるほど」
どうしたら優ちゃんみたいに、コントラバスみたいに低くて重みのある、綺麗な声が出せるんだろう。高くて耳にこびりつくこの私の声なんて、いらないよ。
「奏多、あっ」
「ん?」
その時、奏多くんの方へ振り向いた優ちゃんの目が私を捉えた。気づかなくてよかったのに、私の存在なんて。そのまま二人で帰ってくれた方がよほど良かった。
「やっほー、二人今帰り?」
「あっ、……うん」
優ちゃんがあたふたと戸惑いながら、視線を斜め下に下げた。その動作で、ほんの僅かに俯いた優ちゃんの髪の毛に付いた薄桃色のヘアピンが、主張されてきらきらと光っていた。
それはちょうど一週間前、私も優ちゃんも同じ誕生日の日に、優ちゃんが奏多くんから貰ったヘアピンだった。対する私が貰ったのは、食べたら消えて無くなってしまうお菓子。唯一残せるラッピングの袋だけ机の引き出しにしまった私の惨めさは、ちゃんと分かってる。
「荻原さんも今日は帰るの早いんだね」
最初に傘を貸してくれた日から、毎週水曜日は一緒に帰っていたのに、奏多くんは私を下の名前で呼んでくれないまま。
「コンクール前だから、レッスン長くしてもらってるの」
奏多くんが今日早く帰ることを知っていたから、私も合わせたってことさえ、奏多くんは知らない。水曜日だけで良いから、奏多くんの横に立ちたかっただけなのに。
「萩原さん、もしかして傘、持ってない?」
どうして奏多くんは、気づいて欲しいことだけは気づいてくれないんだろう。
「……うん、そうなの。天気予報見るの忘れちゃってて」
「なら、はい」
あの日と同じように差し出された黒い傘。心は涙でいっぱいなのに、目は驚くほど乾燥していて、泣こうとしても泣けなかった。
「ありがとう」
「うん」
「ありがとう」を言えるようになったところで、奏多くんとの距離は変わらない。それどころかもっと遠くなった気さえする。
奏多くんはリュックから青い折り畳み傘を取り出して、それを隣で見ていた優ちゃんが目を丸くした。
「ええ、えっ、待ってそれ私があげたやつ、まだ使ってたの」
「うんまあ、壊れてないし」
ほんの数分の間に激しさを増した雨音が、世界の音をくぐもらせる。わざと傘を借りることで、どうしても奏多くんと繋がっていたかったなんて、馬鹿みたいだ。
「だってそれあげたの小学校とかじゃん」
「俺は物持ち良いから」
そっか。奏多くんはそんなに前からずっと。
「あっ、私職員室に用事があるの思い出しちゃった。傘ありがとう。ばいばい」
「ああ、うん」
そんなの、最初から無理じゃない。
奏多くんは誰にでも態度を変えないわけじゃなかったんだ。既に一人、特別な人がいるから。奏多くんの中で私の存在が、その他大勢と同じなだけだったんだって。
主役として決めた花を、生かせずに台無しにしちゃった作品みたい。全部が映えなくてぐちゃぐちゃだ。
廊下の窓の外から、二人が歩く後ろ姿が見えた。誰にも涙を見せられない私の代わりに泣くように、空からは大量の雨が降る。
握りしめた傘。今日ならこの黒い傘を差せば、雨と一緒に暗い気分に浸れるのかな。
また心はひとりぼっち。今はただ、心に空いた大きな空洞を煩い雨音で満たすことしかできなかった。
*
「一番嫌いな曜日は?」と聞かれたら、私は間違いなく「水曜日」と答えると思う。「なんで?」と聞かれても、本当の理由を答えることは誰に対してだってできないけれど。
雨曜日、ひとりぼっち。 朝田さやか @asada-sayaka
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