海中銭湯殺人事件

畑中雷造の小説畑

海中銭湯殺人事件

 株式会社湯田リゾートの専務である千林は、同社の社長(湯田)、副社長(福実)、常務(常谷)、秘書(書口)、塗装屋の二人(塗木、鍵橋)、給仕、シェフらと共に、先日完成したばかりである海中銭湯(温泉は地中から湧き出るものであるため、銭湯という名がつく)に向かっていた。海中銭湯があるのは、沖縄の海上にある人工浮き島のなかである。文字通り海の中にある銭湯は、海面から数十メートル下がった位置に建設されている。


 社長の湯田は温泉界の首領と呼ばれる大物で、現在、全国の九割以上の温泉業を取り仕切っている。湯田は今回、設計から施工計画までを一人で行い、半年かけて海中銭湯を造りあげた。


 船に乗って三十分、人工浮き島が見えてきた。社員たちは、計画書や設計図は見たことがあるが、実際に行くのは初めてだ。到着すると、船から荷物と、二日分の食料を社員たちで運び出した。今日の夕方から、明日の昼まで一泊する予定だ。名目は銭湯や施設に不備がないかの確認だが、実際には社員旅行のようなものだ。


 完成したのは内部の海中銭湯だけであり、人工浮き島の外観は、まだまだかかりそうだ。鉄色の床が一キロほど続いており、上から見たら、正方形の鉄板のように見える。


 早速施設の中に入っていく。エレベーターで下に移動する。


「ところで社長、なぜ塗装屋の方が一緒なんですか」


「説明がまだだったな。銭湯は昨日完成したんだが、塗装と、監視カメラの設置、それから外観に関してはまだ着手していないんだ。この人工浮き島のオープンはまだまだ先になる」


 エレベーターから降りると、秘書の書口がスケジュール表を配り始めた。


 スケジュール表には、一日目は施設案内、入浴、夕食、就寝と書かれていた。二日目は朝食、(入浴)、昼前に帰宅、と書かれている。そして米印で小さく、『設備点検が目的のため、社員以外の方は銭湯を使用できません』と書かれていた。それを見たのか、塗装屋の若い鍵橋という男が、肩を落としていた。ベテランの塗木に、残念だったな、と慰められていた。


 それぞれの部屋に荷物を置いた後、社員たちは施設案内してもらうため、社長の部屋の前に集まった。シェフと給仕、塗装屋たちは、どうやら早速仕事に取り掛かるようだ。慌しく廊下を進んでいった。すると、


「へっ、とぅしょーん」


 廊下の奥から、変なくしゃみが聞こえた。千林たちが振り向くと、塗装屋の鍵橋が鼻をかんでいた。風邪をひいているのだろうか。社員たちは少し笑った。


 やがて社長が部屋から出てきた。社員たちは社長の後ろに続いて歩き出した。


 食堂、トイレ、マッサージルーム、銭湯と回り、最後に温度管理室に寄った。社員証をかざし、扉を開く。ここだけは関係者以外立ち入り禁止のエリアだ。


「ここは、災害時や点検時に、万一停電、あるいは故障があったときに、従業員が手動で温度を調整する場所だ。この海中銭湯では、周りが冷たい海に囲まれているため、湯温が冷めやすいという特徴を持っている。だから、湯温を自動で調整してくれるAIシステムによって、温度が一定に保たれるようになっている。まあ、滅多に手動にして操作することはないだろうが、一応覚えておいてくれ」


 施設案内が一通り終わった後、夕食まで時間があるので、社員全員で銭湯に入ることになった。各自部屋に戻り、備え付けの浴衣を持って銭湯に向かった。


 今日来ている社員は、秘書も含め全員が男である。青い暖簾をくぐり、脱衣所に入った。すると、もう既に銭湯のガラス戸越しに、青緑の海が広がっているのが見えた。ワクワクしながら引き戸を開けると、そこには神秘的な海の景色が広がっていた。海といっても、普段なかなか見ることのない、『海中』の景色である。社員たちは驚いた。壁だけではなく、床までもが透明なガラスでできていたからだ。まるで海の中に立っているような錯覚を覚えた。


 銭湯ですっきりした後は、一流シェフが作った豪華なディナーが待っていた。臨時に雇われた給仕によって、食堂のテーブルに美味しそうな料理が次々と運ばれてくる。


「海中銭湯完成を祝して、乾杯!」




 七時から始まった夕食は九時ごろに社長が抜けたことでお開きになった。社長は食後に薬を何錠も飲み、酒もあまり飲まずに部屋に帰っていった。


「社長は最近、健康に気をつけてるらしいんです」


 常谷が言った。


「なにかあったんですか?」


 千林が訊くと、秘書の書口が答えてくれた。


「社長は今年の人間ドックでかなり悪い診断を受けたそうで、医者からも生活習慣を見直すように言われたそうです」


「薬の量、物凄かったですもんね」


「持病の糖尿病に加え、高血圧の薬も増えたそうですから」


「おまけにあのお腹ですもんね」


 酒が回ってきたのと、社長がいない場だからか、段々と悪口めいた言葉が飛び交ってきた。


「社長は人使いが荒いんですよ」と秘書の書口がいいだすと、そうそう、と常務の常谷も同調する。千林も混ざって文句を言った。副社長の福実は、あまり発言しなかった。


「福実さん、ここぐらいでしかガス抜きできませんよ。鬱憤がたまってるなら、ぶちまけちゃいましょうよ」


 千林が軽い調子で促すと、福実は首を横に振った。


「いえ。別に、遠慮してるわけではないんです。社長には感謝していることの方が多いので」


 福実の顔が少し曇ったかのように見えたが、すぐに、「さあ、どんどん行きましょう」と、全員に酒をついでいった。福実自身はあまり飲んでいない様子だった。


 十二時を少し過ぎた頃、社長抜きの酒宴は終わりを迎えた。給仕が食堂に来て、そろそろ片づけたいのですが、と言ってきたからだ。すっかり片付けのことを忘れて酔っぱらっていた社員たちは、すみません、と平謝りした。全員で食器を片付け、食堂を後にした。


 自室にもトイレはあるが、すぐにでも用を足したかった千林は、ロビー近くにあるトイレに向かった。トイレに入って用を足していると、塗装屋の鍵橋が仕事着で入ってきた。隣に立った彼に話しかけられた。


「宴会今終わったんですか」


「はい」


「いいっすね。こっちはまだ仕事ですよ」


 鍵橋は風邪気味なのか、鼻声だ。


「大変ですね、こんな遅くまで」


「そうなんすよ。これから最後の部屋に取り掛かってから寝るんですけど、もうクタクタです」


 千林が腕時計を見ると、十二時半だった。これからまだ仕事なのか、塗装屋も大変だな、と思った。




 翌朝八時半ごろ、千林は雨の音で目を覚ました。窓の外に目を向けた。風も吹いている。あくびをして立ち上がると、少しふらついた。昨夜の酒がまだ残っているらしい。


 千林が食堂に着くと、ほかの社員たちと、雇い人たちも全員揃っていた。どうやら自分が一番最後だったらしい。


 ふと、上座に座っているはずの社長がいないことに気づいた。社長は、と社員たちに聞いたが、誰も知らないようだった。寝ているか、朝風呂にでも入ってるのではないか、という結論になった。


 とりあえず社長抜きで朝食を取り始めた。福実以外はぼけっとしている。おそらく二日酔いだろう。隣のテーブル席では、塗装屋の鍵橋が眠そうに目を擦っていた。


 朝食を終えてもまだ社長は姿を現さなかった。心配になり、全員で手分けして探すことになった。だが、風呂場、社長の部屋はもちろん、他の部屋、厨房、トイレまで探したが、社長は見つからなかった。悪い予感がした。窓の外を見ると、雨風が強くなってきていた。海が荒れてきた。


 あと探していない場所は、と千林は考えた。やがて、まさか、と思い、駆け出した。


 女風呂に入り、引き戸をガラガラと勢いよく開ける。湯気の中、目を凝らす。奥の浴槽に何かが浮いているのが見えた。急いで近づいていくと、それは社長だった。


 千林は声をかけた。しかし返事はない。息をしていないのは明らかだった。


 まもなく他の社員たちもやってきたので、何人かで社長の遺体を引き上げた。社員たちは、皆悲しんでいる。


 秘書の書口が警察に電話した。その横で、千林は社長の遺体を眺めた。なぜ死んでしまったのだろう。頭を打って気絶して溺れたのか。千林は疑問に思った。


 社員たちに断ってから、社長の頭を確認してみた。だが、傷は見当たらなかった。しかし、社長は今年で六十八歳と高齢だ。いつ何が起きるかはわからない。長湯して、のぼせてしまったのかもしれない。


 千林は他の社員たちと話し合った。とりあえずあまり動かさないようにして、警察を待つことにした。


 警察との電話を終えた書口は、目をつぶり首を横に振っている。今朝からの大荒れが夕方まで続くそうで、今は船を出せないと言われたそうだ。警察が来るのは早くても夕方になる。社長をそのまま風呂場に寝かしておくわけにもいかないので、社員全員で脱衣所に運んだ。その後、ひとまず解散し、各自部屋に戻った。


 ベッドに腰掛けて事故のことを思い返していると、ふと、赤い暖簾をくぐったのは初めてだということに千林は気づいた。


「なんで女風呂にいたんだ?」


 ただの事故なら、社長が女風呂にいたのは不自然だ。ということは、これはもしや事件なのか。そんな考えが千林の頭をよぎった。


 しかし、社長が女風呂にいたのは偶然かもしれない。ただの事故である可能性も大いにある。――だがもしもこれが殺人事件だとして、自分がこのまま何もしなかったら、死んだ社長に顔向けできないのではないだろうか。


 少し考えた後、千林は結論を出した。殺人事件の可能性が少しでもあるのなら、やらなきゃだめだ。自分に出来ることをやりつくして、それで殺人事件ではないと分かったなら、それでいい。何年も世話になった社長の為にも、事故なのか事件なのか、はっきりさせる義務が自分にはある。


 千林は推理し始めた。


 まず、社長が女風呂にいた点。社長が寝ぼけて間違って入った、又は自分の意志で入った。この考えは、ひとまず後回しにする。これはまず事件ではなく事故が起きたという前提の考えだからだ。


 間違って入ったのではないと仮定すると、他には、唯一の女性である給仕と待ち合わせをした、という考えもできなくはない。だが、社員以外は銭湯に入れないというルールを設けたのは社長であり、社長が不倫を、よりにもよって社員がいるこの場でやる可能性は、低いと考えていいだろう。ましてや今日あったばかりの給仕が社長を殺す動機があるとは思えない。女風呂で女性と待ち合わせ、あるいは女性を待ち伏せ、という線は消した。


 千林は頭を捻った。社長の意志で女風呂に入ったのではないと仮定すれば、第三者が社長を女風呂に入れたということだ。となると、真っ先に思いついたのが、男女の暖簾を入れ替えるという方法だ。


 女風呂に社長を入れたのは犯人で、方法は男女の暖簾を入れ替えた。仮定の上の仮定だが、それで進めていくことにした。ではなぜ犯人は女風呂に社長を入れる必要があったのか。まず考えられるのは、給仕を除いたこの銭湯にいる人物が男性だけで、殺しの瞬間を見られないためだ、ということ。朝風呂に入りにくる人がいた場合、タイミング悪く溺死させている現場を見られる可能性がある。それを防ぐために女風呂での殺害が必須だった。


 他には、女風呂にしかない設備が殺害に必要だった、など。だがこれはない。男風呂と女風呂のつくりは丸々同じに設計されている。とりあえずは殺害現場をうっかり見られるのを防ぐ、この考えでいいだろう。


 なかなか自分の推理が的を得ているような気がしてきた千林は、次に、殺害方法について考え始めた。


 人為的に溺死させる方法を考えてみた。まず思いついたのが、頭を殴り、気絶させ、浴槽に沈める、というものだった。しかし、社長の遺体には外傷は見当たらなかった。これは違うだろう。


 気絶させなくても、首を掴んで水中に頭を沈めることもできそうだ。この場合は、首に指の跡がついたり、犯人の手や腕に抵抗した社長の爪痕があっても不思議ではない。後で全員の体をチェックすることにした。社長に抵抗されても傷を負わない方法は、長い棒などの道具を使う、なども思いついた。


 睡眠薬を飲ませて、自然に溺死させる、という方法も思いついた。これは一番簡単そうだ。社長に睡眠薬入りの飲み物を渡し、眠るのを隣で待つだけ。しかも、飲み物や睡眠薬は、窓から海に捨てるだけで証拠隠滅できる。立証するのは難しそうだ。この方法なら、お手上げだ。


 今考え付いた中で唯一自分ができそうなことは、社長が抵抗した爪痕、このあるかわからない証拠を念のために探すことだ。そう考え、千林は部屋を出た。


 福実、常谷、書口の順に部屋を回った。全員が浴衣から私服に着替えていた。千林は、自分だけ浴衣のままだったことに気づいた。社長のことや、これからの会社のことを話しながら、さりげなく手や腕を観察した。だが引っかき傷がある人物はいなかった。


 社長に恨みを持っていたとは考えられないが、一応雇い人たちの部屋にも行った。給仕、シェフ、塗装屋の塗木と回った。最後に、塗装屋の鍵橋の部屋に行った。


 雇い人の手や腕にも、引っかき傷は見当たらなかった。やはり単なる事故で、社長が女風呂に入っていたのも何かの偶然だったのか。そう思って諦めかけていたときだった。


「ひーっ、としょーん」


 鍵橋が変なくしゃみをした。千林は、笑えない状況なのに少し笑ってしまった。は行のなにから始まるかは個人差があるが、としょーんはわざとじゃないと出ないだろう。


「すいません、昨日から風邪ひいてて」


 鍵橋が鼻の下をこすりながら謝った。えへへ、と頭を掻いている。面白いやつだ、と千林は思った。


 礼を言い、ドアを閉めて数歩歩くと、またも鍵橋の変なくしゃみが聞こえてきた。「ひーっ、としょーん」


「ひーとしょーんって」


 ぷっと噴き出した千林が、もう一度口の中で「ひーと、しょーん」と呟いた。


 途端、千林の脳内に、雷が落ちた。


 ――ヒートショックか!


 この件はもう諦めようと思っていた千林だったが、ヒートショックという言葉を思い出し、もう一度推理をしてみようという気になった。


 自室に戻り、千林は思案する。ヒートショックの原因は、気温の急激な変化だ。それにより、血圧が急に上がったり下がったりすると、心筋梗塞や脳梗塞を引き起こし、死に至ることがある。実際、交通事故で死ぬ確率よりも高いという。


 ヒートショックは風呂場で起こりやすい症状だ。寒い脱衣所から熱い湯船に入ることで起こることが多い。今回もそのケースで考えてみる。


 故意にヒートショックを引き起こそうとすると、犯人は脱衣所と浴槽の湯の温度を変える必要がある。脱衣所を寒くし、湯温を熱くする、といったように。この銭湯でそれが可能な場所は、温度管理室しかない。犯人は暖簾を入れ替えて温度管理室に行き、ヒートショックが起きやすい状況を作った。千林は腕を組み、首を縦に振った。


 そう考えると、女風呂に社長を入れたのにも、説明がつく。男女の暖簾を入れ替えなかった場合に社員が銭湯に入ってくると、妙に脱衣所が寒く、お湯の温度も昨日よりも熱いことがバレてしまう。そのことを警察に報告されてしまうと、誰かが意図的に温度を操作したのでは、と疑われる危険性が出てくる。犯人は事件性があると思われるのが嫌だったのだ。


「まあ、あくまで素人の推測に過ぎないが」


 千林はベッドに腰掛けたまま、両手の指同士をくっつけ、人差し指だけをくるくると回した。ヒートショックは、確かお年寄りがなりやすかったな、と思いだした。スマホで、『ヒートショック』と検索してみた。


 記事の一つに、ヒートショックを起こしやすい人、という見出しがあった。見てみると、六十五歳以上、高血圧、糖尿病、肥満などの特徴が書かれている。千林は驚いた。ぴったりだったのだ。社長の特徴と全て一致している。犯人はこれを知っていて犯行に及んだのだろうか。


 自分の推理が的外れではない気がしてきた千林は、次に証拠となりそうなものについて考えてみた。


 ヒートショックを引き起こしたという決定的な証拠となるものは何か。一つは、社長が銭湯に入る前に犯人が温度を変えたという事実。もう一つは、社長が銭湯に入る前に犯人が温度管理室に入ったこと。この二つくらいだろうか。温度を変えたことを証明するためには、温度管理AIシステムの会社に頼んで、データを見せてもらう必要がある。だが、これは千林の予想だ。そんなデータがあるのかは不明である。


 今自分ができることは、社長が銭湯に入る前――つまり夜中から朝にかけて――に温度管理室に入った人物を見つけること。これを証明し、犯人を追い詰め、自白に至らせることだ。社長が入浴する前に温度管理室に入ったことが証明できれば、そこで何をしてたんだ、と追及することができる。だが、どうやって証明する。例えば、犯人が所持品を現場に落とした、とか。そんな間の抜けた証拠があるとは思えないが、とりあえず温度管理室に行って、手がかりがないか確認することにした。


 温度管理室についた。社員証をかざし、中に入ると、何か違和感があることに気づいた。昨日、施設案内の時に入ったときとは、何かが違う。


 奇妙な違和感に戸惑いながらも、千林は落とし物や何らかの証拠が無いか隈なくチェックした。数分後、彼は何も証拠らしきものが落ちていないことを確認し、肩を落とした。


 温度管理室を出ようとした時だった。ふいに、千林は部屋の違和感の正体に気づいた。


「これは決定的な証拠になるんじゃないか」


 廊下に出た千林は、急いで塗装屋の鍵橋の部屋に向かった。とある確認のためだ。




 千林は犯人を追及するため、社員たちをロビーに呼び出した。未だに浴衣姿の千林に、私服の社員三人は訝しげな視線を向けた。


「すみません、突然呼び出して」


「どうしたんですか、まだ着替えもせずに」


 常谷が首を傾げた。


 その質問に答えることなく、千林は話し出した。


「僕は社長の件を、事故ではなく、事件だと思っています」


「え?」


 社員たちは困惑している。


「もちろん理由は後で話そうと思います。ですが、まずはアリバイを聞かせてほしいんです。昨夜の酒宴の後から、今日の朝食の時間まで、何をしていたか」


「アリバイ?」「どういうこと?」という意見が出たが、とにかく教えてほしい、となんとか説得した。仕方無く納得した三人は、自身のアリバイを話し始めた。


 結局、福実、常谷、書口は全員とも、部屋から一歩も出ていないと答えた。


「それは本当ですね。今言ったことは、それぞれ他の三人が聞いていました。後で取り消すことはできません。嘘を言ったのなら、今すぐに取り消したほうがいいですよ」


 三人は脅しにも屈せず、言ったことを引っ込めなかった。


「それじゃあ、推理を始める前に、まずは今朝まで着ていた、各部屋に備え付きの浴衣に着替えてきてください。五分以内にお願いします」


「なんで着替える必要があるんですか。それに、五分以内というのは?」


 眉間に皺を寄せながら福実が言った。


「まあ、考えがあるんですよ。……それに、五分以内に浴衣に着替えて戻ってこれなかった人がいたら、その人が犯人で間違いありません」




 五分後、ロビーには、浴衣を着た社員たちが全員そろって戻ってきていた。


 注意深く社員たちを観察して、千林は驚いた。


 ……犯人はこの人だったのか。


「全員五分以内に戻ってきてるじゃないですか。事故だったんですよ、やっぱり」


 書口が不服そうに言ったが、千林は気にせずに話し始めた。


「準備が整ったところで、推理を始めましょう。まず、社長の死が事故ではなく事件だと疑った理由からですね。僕が気になったのは、社長が女風呂で死んでいたという点です。これについて考えた結果、誰かが意図的に社長を女風呂に入れた、つまり、社長を狙う犯人がいたと仮定することにしました。そして女風呂に社長を入れた理由としては、犯行の現場、あるいは犯行に使った仕掛けの証拠が誰にも見られないようにするためでしょう。その為に、犯人は男女の暖簾を入れ替えました。たとえ昨晩遅くまで飲酒していたとはいえ、誰かが早起きして朝風呂に向かったら困りますから。次に、溺死させる方法について考えてみました。これは、一緒に入って頭を沈めたり、睡眠薬入りの飲みものを飲ませたりすれば、誰でも簡単に溺死させることができると推理できます」


 社員たちは黙って聞いている。


「その後、僕は証拠について考えました。証拠がないと犯人を突き止められないですからね。証拠隠滅できないような証拠があるとしたら、それは犯人の手や腕に社長がつけたかもしれない爪痕だ、と僕は思いました。しかし、結局そんなものはありませんでした。今思えば、もし傷跡があったとしても、それが決定的な証拠にはならなかったでしょうけど」


 千林は苦笑した。


「ですが塗装屋の鍵橋さんのところに行った時、ある閃きから、これは溺死ではなくて、ヒートショックで死んだのではないかと思うようになりました。風呂場での死因の多くを占めるのは実際、ヒートショックです。よって僕は、ヒートショックを狙った犯行だと仮定して推理し直すことにしました。僕の推理では、犯人は、温度管理室に行って、脱衣所を寒く、浴槽の湯温を熱くしました。犯行はこれだけです。こうすれば、証拠を残す心配もありません。あとは、社長が入って数十分後に温度を元に戻すだけで済みます。確実な方法とはいえませんが、もっとも事故に見せかけることができる犯行だと思います。いわゆる、未必の故意というやつです。今までにももしかしたら社長は犯人から狙われていたかもしれません」


 書口が言った。


「まあ、言っている意味はわかりますが、今のところ千林さんの推測でしかないですよね?」


「そうです。素人の考えなので、穴もたくさんあると思います。ですが、何か証拠となるものを探そうと思って温度管理室に行った時に、僕は犯人の決定的な証拠を発見してしまったんです。それが、さっき聞いたアリバイと関係してくるんです」


「決定的な証拠? 落としものとか?」


 常谷が聞いた。


「いえ、違います」千林は胸の前で襟をつかむジェスチャーをした。「ここで、先程皆さんに着ていただいた浴衣が登場するんです」


 千林は続けた。


「僕が見つけたのは、壁に塗られた塗料の一部が剥げていた、という事実です。塗装屋の二人に確認したところ、昨夜は午前二時すぎまで、温度管理室の壁を塗装していたそうです。塗料は、大体四時間で乾くと言っていました。しかも、そこにしか使わない色の塗料でした」


 困惑した顔で千林を見る社員たち。しかし一人だけ、反応が違った。


「塗装屋が完璧に仕事をしたはずの壁に、明らかに誰かが服を擦った跡が見て取れました。その時着ていた浴衣についてしまったのでしょう。つまり、午前二時すぎから午前六時すぎまでの間に、誰かが温度管理室に入ったという証拠です。そしてその人物の浴衣にはまだ塗料がついています。気づかなかったのかもしれませんし、洗っても落ちなかったのかもしれません。完全に乾ききった塗料は、なかなか取れないですからね」


 社員たちがお互いの浴衣を確認した。やがて、一人の人物に視線が集中する。


「アリバイ確認の際、部屋から一歩も出ていないと証言していましたが、その浴衣についた塗料はどう説明しますか、福実副社長」


 常谷、書口が呆気にとられた表情をした。対照的に、福実は穏やかな顔つきをしていた。ため息をつき、ゆっくりと口を開いた。


「……そうです。私がやりました」


「どうしてですか」


「最悪のパワハラです。社長は、私の両親が経営している温泉旅館のことを知っていました。おそらく副社長に任命する前から、弱みとなるものを探していたんでしょう。そして、何かにつけて、できなかったら潰すぞ、と脅してきました。社長がこの海中銭湯にかかりきりになっている間、私は自分の仕事と、社長の仕事の両方をやらなければなりませんでした。それだけではありません。夜中に叩き起こされて迎えに来いと言われたり、陰で殴られたりしていました。社長には、誰かに言ったり、誰かに疑われたと判断しただけでも、実家の温泉旅館を潰す、と言ってきました。そのうちに、温泉旅館に悪い噂が流れるようになったりして、客足が遠のき始めました。これは明らかに社長の仕業でした。もう我慢の限界でした。解決方法は、社長を殺すしかない、と考えました。私は社長に『朝六時に日の出の瞬間が見れる』と嘘をつき、朝風呂に行くよう仕向けました」




 夕方になり、海も落ち着きを取り戻したころ、警察が船に乗ってやってきた。千林は事情を話し、福実は連行された。


 千林は塗装屋の鍵橋の顔を思い浮かべ、少し笑った。


「あの塗装屋の兄ちゃんがこの島に来てなかったら、解決できなかっただろうな。今度飯でも奢ろうかな」




 おわり

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海中銭湯殺人事件 畑中雷造の小説畑 @mimichero

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